第8話 孤独というトモダチ

 ふと、記憶の奥底をのぞいていた顕在意識が浮上する。いつの間にやら目を瞑っていた事に気が付いて、瞼を開いた。目に飛び込んできたのは、寒々しいむき出しのコンクリートの部屋で何やら電子機器をいじっている、彼の姿だった。


 自分が先程まで何をしていたのか、すぐに思い出せずに当惑する。確かバンドマンの幽霊に無理やり音楽の素晴らしさを教えてやると言われて、幽霊リサイタルに付き合うはめになったはずだけれど――なんとも説明しがたい違和感が靄のように胸の中にあった。幽霊の彼に会ったのはついさっきのはずなのに、なんだか居眠りから覚めたような時間の経過を感じるのだ。


私は辺りを見渡して自分の荷物を探した。部屋の隅に置いてあるショルダーバッグを抱き寄せ、違和感から目を逸らすかのように、彼の様子を伺った。


彼は、スマートフォンとポータブルスピーカーを接続し、何やらアップテンポな音楽を再生し始めた。


音楽の素晴らしさを叩き込んでやると言われたからには、おすすめの曲を聴かせてくれるのだろうと思ってはいたけれど、まさか、幽霊が電化製品を器用に操作するとは思わなかった。よく漫画やアニメで見るように、ポルターガイストとか、霊力だとかを用いて、手を触れずに楽曲を再生するのを想像していた私は、なんだか肩透かしを食らったような気持ちだった。一体どこから取り出したのやら、電子機器を用いて自分たちのバンドの曲を再生する彼の姿は、この世ならざる者などではなく、普通の男の子にしか見えなかった。


 ――案外同年代だったりして――


 今や彼の姿は出会った頃と違って、普通の人間と全く変わりなく見えている。最もその姿も、時折ノイズが走って見える為、その度に、やはり自分とは異質な存在なのだと痛感するのだけれど。


 スピーカーから流れる二曲目の彼らの歌は、屋上で聴いた一曲目とはうってかわって、一人ひとりの音が好き勝手やっているような印象を受けた。まるで、大勢が集まる室内の中で、誰も手を取り合うことなく、それぞれが勝手にやりたいことをやっているかのように。


 この、肌が泡立つようなざわざわとした音の連なりが、一度、彼の力強い歌声によって打ち砕かれる。すると好き勝手やっていた音達が一つずつ、自分の持ち味を生かしながらも歌声を引き立てながら奏でられてゆく。そしてようやく、一つの歌にまとまっていった。


彼は、「後悔」を歌っていた。


「随分不思議な歌の始まり方なんだね」


 私が言うと、彼は少しだけ不服そうな顔をした。


「着目する所はそこかよ。――まあいいけど。この時は色々あって、メンバーがまとまらなかった時期でもあったんだ。それを乗り越えたくて、バラバラになった自分たちを音で表現してみたらどんな物が出来るのか、試した曲でもある」


 幽霊バンドのヴォーカルと作曲は、どうやら彼が担当しているらしい。私は彼の才能に感心してしまい、「プライベートのごたごた」については深く考えもしなかった。だからこそ、気軽に質問が口をついて出たのだろう。


「何か嫌な事でもあったの?」


「歌えなくなった。だから、この曲を作ったのは随分前だったんだけど、歌声付きで完成させたのはもっと後の事なんだ」


「ヴォーカルが歌えないなんて致命的じゃない。よく、克服出来たね」


「……待っていてくれた仲間のおかげなんだ」


 彼の表情がふと緩んだのを見て、私は一抹の寂しさを覚えた。彼は孤独ではないのだ――私と違って。そう考えると少しだけ、彼に意地悪をしてみたくなったけれど、結局実行する勇気なんて無い私は、ただ棒きれのように押し黙っていた。彼はそんな私に構うこと無く、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。


「妹が死んだんだ」


 一瞬、呼吸を忘れた。自分が知らぬうちに、彼の心を土足で踏み荒らしたような気分だった。


「……ごめん。知らなくて」


 つい先日出会ったばかりである、幽霊の背景事情など知りようも無いのだけれど、謝らずにはいられなかった。


 彼は二呼吸ほど黙った後に、柔らかい声音で続けた。


「どうすれば妹を助けられたのか、とか。もっとしてやれた事はあったんじゃないか、とか。


 妹が苦しんでいる事は知っていたのに、俺の頭ん中にあったのはバンドの事だけで、新曲をどうしようとかデビューするためにはどうすればいいとか、自分のことばっか考えてた。


 妹は俺と違って出来が良いから、例え調子の悪い時期があったとしても、逆境を切り抜けてうまくやれるだろうと勝手に決めつけていた。


だから、妹がそこまで思い詰めているなんて知らなくて」


「……思い詰めてたって……」


「――自殺だったんだ」


 長い前髪の奥で両目を伏せて、彼は言った。心なしかその声が少しだけ震えているように聞こえて、私はうまく息が出来なくなった。


「俺は、妹を見捨てた。そう気づいた時、声が出なくなった」


 ジジ、と音がしたかと思うと、瞬きをするかの如く蛍光灯が瞬いた。不自然に明るい照明に照らされたコンクリートの壁は、相変わらず寒々しい。


 彼にどんな事情があったのかはわからない。兄妹の居ない私には、その痛みを想像する事すら難しいのだけれども、彼の様子はまるで、自分一人だけが妹さんの死を背負っているかのようだった。いくら「兄」だからと言って、彼ひとりが全てを抱え込むのは酷なのではないだろうか。


 家族の一員として何も出来なかった、そう悔いるのならば、少しはわかる気がする。しかし、それが「妹を見捨てた」という言葉とうまく結びつかない。


 他の家族は何をしていたのだろうと思考が及んだ時、もしかしたら彼も、私と同じように親と折り合いが悪かったのかも知れないと思い至る。全ては想像に過ぎないが、事実を確認する気にはなれなかった。


 黙りこくっている私を見て彼はふわりと微笑み、


「うん、お前はそういう奴だ」


 と言った。どういう事か尋ねようとしたその刹那、ザザザと、テレビに砂嵐が走った時のような電子音と共に、彼の姿にノイズが走った。


「おっと、今日はここまでのようだな」


 彼の姿がぐにゃりと歪む。今にも消えてしまいそうなバンドマンの幽霊を前にして、私はいてもたってもいられなくなり立ち上がる。それを見た彼は困ったような顔をして、言った。


「どうやら面会には、時間制限があるみたいだ」


「どういう事?」


「そもそも、管理人のじーさんの目を掻い潜ってここまで来るのも一苦労なんだけどな、うまくここに来れても、お前の姿が見える時とそうでない時がある。いつでも話ができる訳でもなければ、長話も難しい」


 話す間にも、彼の姿は出力の怪しい立体映像のようにぐにゃぐにゃ歪んでいる。


 突然の事に私は、意に反して大切なお守りを取り上げられたような心細い気持ちになって、叫び出したくなった。もっと話したい事があったと叫ぶ自分と、幽霊相手に何を話すというのだと自らを突き放す自分が同居して、心の中がうるさくてしょうがない。驚くことに、私はこのバンドマンの幽霊がいなくなってしまうのを悲しんでいるのだった。あれだけ一人で居る時間に癒やされ、孤独を求めた私が、だ。


 彼は先程と同じ困った顔で何かを言おうと口を開き――結局、何も言わず目を閉じた。


「またな」


 彼の姿にひときわ大きなノイズが走り、そのまますうっと掻き消えてゆく。ジジ、という電子音と共鳴するかの如く、蛍光灯が瞬いた。




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