捜査一課殺人犯捜査第四係 異常犯罪捜査班 比嘉可南子

繁村錦

第1話 PROLOGUE

 拉致した女を八王子の実家で飼育し始めてから、三日目の晩だった。

 十八畳の広いダイニングには、現在、私と母の二人しか居ない。オーク材で作られた北欧製のダイニングテーブルを挟み、私たちは対座する形でその日の晩餐を楽しんだ。

 若い頃は、銀幕の女優に似ているとか紅白出場歌手に似ているといわれた母も、今年で五十歳だ。それなりに皺も目立ってきた。しかし、世間でアラフィフと呼ばれるこの歳になっても、まだ彼女の中には悪女のような傲慢さと邪気ない少女のような純粋さがまったく矛盾することなく存在し男性を惑わす色香を放っていた。恐らくこれからもずっと放ち続けるに違いない。

 市議を三期務め地元の名士だった父は、十三年前交通事故で他界し、私たち遺族には多額の保険金と数億円の遺産が入った。父が亡くなって以降、私は休日になると、八王子の実家に帰り、できる限り母と一緒に食事を取るように心掛けていた。未亡人となってしまった彼女のたっての希望でもあるからだ。

 食事を終えると母は、私の顔を食い入るように見詰めた。気だるく煙草の煙を吐くと、徐に席を立った。灰皿には、ルージュがべっとりついたメンソール系の煙草の吸殻が残された。行き場を失った紫の煙が宙を漂っている。

 私は、離れていく母の背中を目で追った。彼女は冷蔵庫の前で立ち止まり、ゆっくりと振り返った。淫靡に濡れた眸が、私を見詰める。

「ねえ、あんたも何か飲むかい」

 肉厚の蠱惑的な唇が、物欲し気に誘う。


「母さんと同じ物……」

 最初から私に選択肢などなかった。

 常に母のいいなりなのだから。

「そう」

 母は頷くと、シャンパンの当たり年といわれている一九九〇年物のモエ・シャンドン・ドン・ペリニヨン・エノテーク750mlボトルを手に取り、戻ってきた。

 彼女が再び席に着く前に、私は立ちあがり、背後の食器棚からシャンパングラスを二つ取り出した。バカラ・ベガ・シャンパンフルートだ。

「開けて」

 母が私の目を見て、微笑を浮かべた。

「わかったよ、母さん」

「こぼさないでね……」

「うん」

 汗を掻いたドンペリのボトルネックを、私は右手でしっかりと握り、左手に持ったソムリエナイフでキャップシールに切り込みを入れた。キャップを取り外し、コルク止めの針金を丁寧に外していく。上からナプキンを掛け、左手でコルクを押さえ、右手はボトルの下の方を握る。右手と左手を同時に、反対方向に回す。こうすれば僅かな力でも簡単にコルクが回る。所謂テコの原理って奴だ。あとはゆっくりと慎重にコルクを回して、ガス圧を抜く。やがてプッスーというガスが抜ける音とともにコルクが外れた。

 奥深い熟成をとげたドン・ペリニヨン・エノテークのやや黄色みを帯びた透明な液体を、私はバカラに注いだ。それを母に差し出す。

 母はゆっくりとバカラを回し、その魅惑的な香りを楽しむと、口の中に含んだ。静かにバカラを北欧製のテーブルの上に置く。ルージュがバカラの淵に付着している。

 母の唇が猥らに濡れていた。その唇が微かに動く。

「あんたも飲みなさいよ」

「うん」

 私はバカラにドンペリを注いだ。七分目までシャンパンが入ったバカラを手に取り、一気に喉の奥に流し込む。

「何よ、その飲み方っ。もっと熟成された芳醇な香りや繊細な味を堪能しなさいって、いつも言っているでしょっ!」

「……ご、ごめんなさい、お母さん」

 叱りつける母の顔を見ることもできず、私は終始顔を伏せたままただひたすら謝り続けた。

 その間も、彼女の罵声は止むことなく、私の耳朶の奥の鼓膜に木霊していた。

 母の怒鳴り声を聞く度、脳髄に錐で突き刺し掻き回したような強烈な痛みが走り、吐き気を催す。そのあとも、卑屈に項垂れる私に容赦なく罵声の嵐が吹き荒れる。

 散々甚振り詰ったあと、母はドンペリの香りが残る甘い吐息を吹き掛け、私の耳元で囁いた。

「あの娘、どうするの?」

 私の耳朶を甘噛みする。

「くすぐったいよ、母さん……」

 両手で私の頬を持ちグイッと回すと、母は突き刺さるような鋭い視線を注いだ。

 潤んだ眸。眼窩の奥に宿る妖艶な輝きが、また私を狂わせてしまう。

 母の言うあの娘とは、三日前、私が拉致したあの女のことだ。

 名前は……? 忘れてしまった。この際、もう名前なんてどうでもいい。そう言えば新聞やTVニュースで報道していた筈だ。確か、どこかの病院で働いていた二十七歳の看護だったけっ……。声を掛けると、甘い誘い文句に引っ掛かり、簡単に車に乗ってくるような所詮は馬鹿な女だった。

 現在独り暮らしている高輪のマンションで監禁する訳にはいかず、八王子の実家の地下室で飼うことにしたのだ。だが三日も経つと、流石に飽きてきた。それにこの女ときたら、私の言うことをまったく聞いてくれない。いつも逆らってばかりだ。

 呪文のように、

「いやぁー、お願い、助けて」

 と繰り返してばっかりだ。もういい加減うんざりきていた。

「で、どうするのって、訊いてるじゃない」

 加虐的な母の口許が、嬉しそうに緩む。

「どうするのって……何?」

 馬鹿な子供みたいに、私は鸚鵡返しに訊ねた。

「決まってるじゃないの。ねえ、殺るの? 殺らないの? どっちなのよ? はっきりしなさいっ!!」

 せっかちな母は、我慢ができずうなった。

 私は半ばアルコールで麻痺した頭で考えてみた。

「や、殺るよ。殺ればいいんだろ、母さん」

「いい子ね……」

 と母は、私が子供の頃のように、何度も頭を撫でてくれた。

 難しい算数の問題を解いた時みたいに母に褒められて、私は誇らしげに頷いてみせた。


 ドンペリを飲み終えると、私と母は地下室へおりた。

 勿論、あの女を殺害するためだ。

「お願い、助けてっ!」

 階段をおりる足音で、私たちの気配を感じたらしく、女は発狂したように叫んでいる。

 糞っ、馬鹿の一つ覚えじゃあるまいし……何が助けだ。絶対に助けてなんかやるものか。

 私は女を嘲笑ってやった。

 重厚な扉を開け、地下室へと入る。邪気や怨念を孕んだ冷たい空気が、私の頬を撫でた。壁に取りつけてある照明のスイッチを押す。

 女は目隠しで視界を奪われ、身体をガムテープで雁字搦めのまま椅子に固定された状態で、この部屋の中央に拘束されている。というより、この女を拘束したのは、この私だった……。

「お願いです。どうか解放してください……」

 ほら案の定、早速命乞いしてきた。

「気分はどうだい」

 ぶっきら棒に訊ねる。

「た、助けて……お願いです。助けてください。殺さないで……」

 何だ、糞っ、また助けてくれか……。私はお前に、気分はどうかって訊いてるの?

 この女には、半ば失望した。

 もっと気の利いたことを言ってくれればいいのに。

 だが、以外にも母は、この女に同情的だった。

 さっき一階では、殺しなさいって目で訴えていたくせに。

「ねえ、この娘にチャンスをあげてみては」

「チャンス……」

「そうよチャンスよ。ゲームをやって、もしこの娘が勝った場合には、お望み通り解放してあげてはどうかしら」

「ゲームか……」

 思い掛けない母からの提案を受け、私が躊躇していると、女は再び狂ったように叫び出した。

「いやだぁー、お願い、助けてぇーっ! 殺さないでぇーっ!」

 ほら、また始まった……。

 ほんの僅かだけど自由が利く爪先を、ジタバタと動かしている。

 まったくもって本当に無駄な抵抗だ。

 お嬢さん、これを悪足掻きっていうんだよ……。

 私が近寄ると、女は再び大声を張りあげた。

「いやだぁー、こっちにこないでぇ! 私に触らないでぇ! 変態っ!」

 私は前屈みになって、覗き込むように女の顔を見た。

 喚き散らすその声には、私に対する憎悪と恐怖が同居していた。

「ねえ、母さん。ゲームって何? どんなことすんの」

 私は母に背を向けたまま、首だけ振り向いて訊ねた。

 すると母は、唇の端に微笑を作った。

「ふふふ……知りたい」

 母は少女のような円らな眸で惚ける。

「うん、知りたい。勿体ぶらずに早く教えてよ」

 私は恰も新型のゲーム機でもお強請りするように懇願した。

「仕方がないわね、こっちにいらっしゃい」

 私は母の許へ歩いてゆく。

 すると彼女は顔を近づけ、私の耳元に唇を寄せ、自分が考えたというそのゲームの内容を詳しく説明してくれた。

「えっ、マジ!?」

 母が考えたゲームが、あまりにも斬新で、素晴らしいアイデアだったため、私は言葉を失ってしまった。

 私と母は、口許を緩ませて加虐的な冷笑を浮かべながら女を見た。

 相変わらず拘束されたままの状態で、命乞いの言葉を喚き散らしていた。この女が垂れ流した鼻水と涙と涎と尿で床が汚れている。

 ああ、やれやれ。ゲームが終わったあとで、掃除しなくっちゃ……。

 拷問用に準備しておいた道具箱の中から、ゲームに必要な器具を取り出す。

 医療用メス。

 ペンチ。

 マウスプラグマスク。

 スマートフォン 。

 レザーロープ。

 この五点セットだ。

 私は女から視界を奪っている目隠しを外した。

「……な、何、何をする気なの……」

 声が震えている。

 女は、私が手に持つ五つの道具の一つマウスプラグマスクを凝視し、息を呑んだ。

「ゲームだよ……」

 私は惚けた顔で、にんまりと笑った。

 この女は、蜘蛛の巣に繋り引っ掛かった憐れな蟲だ。それも極上の揚羽蝶なのだ。

「It’s Showtime」

 パチンと指を鳴らすと、私はゲームを開始するため、早速マウスプラグマスクの装着に執り掛かった。

「いやだぁー、止めてぇーっ! この変態っ!」

 女は首を激しく左右に振り、マウスプラグマスクを装着されまいと必死に抵抗する。私は力尽くで捩じ伏せ、口を覆うようにして女の顔面にマウスプラグマスクを装着した。こうして、この女から言葉を奪ってやった。その口許から、牛のようにだらしなくダラダラと涎を垂らしていやがる。

 不安げな眼差し。恐怖に歪んだ女の顔。まるで怯えながら飼い主の帰りを待っている仔犬のように見え、痛々しく思えた。そう感じた途端、背筋に怖気が走り、両腕に鳥肌が立った。異常に下半身が反応し、見る見るうちに勃起していく。

 目の前のこの獲物は、私の脳髄と海綿体を刺激するには、充分な代物だった。

「キミのその怯えた目を見ていると、年甲斐なく欲情しちゃったよ。キャハハハハハハァーっ!」

 私は甲高い奇声をあげ笑った。

 その高音が、地下室の壁に当たり反響する。更に、最早言葉にならない女の呻き声が加わった。宛ら狂想曲のような感じがした。

 私は利き手の左手で、医療用メスを持った。女の目の真ん前で、これ見よがしにチラつかせる。メスの尖端が輝いた。

「どう。よく切れるよ、これ」

 女は愕然とした目つきで、その鋭利な金属を見た。

「○□△×$&%#……」

 と首を横に振りながら、女は必死に何事かを訴えてきた。

 だが、生憎マウスプラグマスクによって言葉を奪われているため、この女が何を言っているのか、はっきりと聞き取れない。

 恐らく、止めてとか、言っているんだろう……。

 私はメスを使い、女の身体を雁字搦めにしているガムテープを切った。勿論、上半身のみだ。下半身は拘束され、身動きが取れない状態のままだ。しかしそれでも、漸く自由になった上半身、特に両腕を我武者羅に動かし、殺されまいと必死に抵抗する。気丈でお堅い女が壊れてゆく姿。それが堪らなく愛しくなる。

 再び私の背筋に悪寒が走った。思わず身震いする。

 眼前で動き回るそのか細い指を目で追った。

 すると気の短い母が、

「いつまでも遊んでいないで、早くしなさいっ!」

 と叫び、性急に命じた。

「うん、わかったよ、母さん」

 私はゆっくり頷くと、右手で女の左腕を掴んだ。当然女も抵抗してきた。単なる悪足掻きに過ぎないが、右手で私の右腕を払おうと試みる。

「おいっ、怪我するぞ。もし、そんなことしたら、これから行うゲームで、不利なことになっちゃうよ。それでもいいのか、お前」

 ドスの効いた声で脅す。

 女の方も必死だ。爪を立て、私の右腕を引っ掻く。

「い、痛っ」

 と思った次の瞬間、私は左手に持つメスで、反射的に女の右手の甲を刺していた。

「○□△×$&%#ーーーーっ!」

 女は悲痛な叫び声をあげ、踠き苦しむ。

「あぁあ、ほら、言わんこっちゃない」

 私は呆れたような眼差しで女を見た。

 口許に冷笑を浮かべると、女の右手の甲に突き刺さったメスを一旦抜き、女の左手を持ちあげた。

 傷口から鮮血が噴き出た。メスの先はべっとりと血がついていた。

 か細い指を一本一本数えていく。その度に、女の口から、悲鳴が零れた。

 私は指を数えると同時に、メスの尖端を、爪と肉の間に突っ込んでやったのだ。

 以前、私が聞いた話によると、『満月の狂人』の異名を持つあのアルバート・フィッシュも、自身の爪と肉の間に針を突き刺そうと試したが、あまりの痛さに耐え切れず、途中で断念したそうだ。

 女の指先から鮮血が滴り、ぽたぽたと床の上に落ちた。

「次は、右手だ……」

 女はイヤイヤと首を横に振る。

「いち、に、さん……」

 と私は女の指を数えていった。

 再び、悲鳴が地下室に響き渡った。

 その声が、途中で途切れた。

 痛みに耐え兼ね、女が気を失ってしまったのだ。

「起こしてあげなさい」

 母に命じられるがまま、私はバケツに水を汲み、女の頭にぶっ掛けた。

「うぐ、ぐぐうぅう……」

 女が意識を取り戻した。

 虚ろな眼差しで私を見る。

 その眸には、諦めの色が出ていた。例えるなら、ライオンやトラなどの大型肉食獣に、喉元を噛まれた草食動物のような眸だ。完全に精気を失い、濁った色をしている。

「今からこのペンチを使って、何をすると思う?」

 私はその黒い金属の塊を女に見せた。

「○□△×$&%#! ○□△×$&%#!」

 女は頻りに首を横に振り、何かを訴えているが、マウスプラグマスクの所為でよくわからない。

「正解っ! そうです、これからこのペンチを使って、キミの爪を一枚ずつ剥がしていくのです」

「クイズ番組じゃないのよ。お母さん、本気で怒るわよ。冗談はこれくらいにしなさい。さあ、おふざけは止めて、さっさとやりなさい」

「は、はい」

 母にこっ酷く叱られタジタジになりながらも、私は指先から鮮血が出ている女の左手を持った。女に抗う気力はもう残ってはなく、どうやら完全に心が折れているみたいだった。

 それでもやはり痛いものは痛い。麻酔なしに一枚ずつ爪を剥がす度に、女は絶叫し、痛みに耐え兼ね気を失う。頭から水を掛けて女を起こす。また爪を剥がす。気を失う。水を掛けて女を起こす。この繰り返しが続き、結局両手の爪十枚剥がすのに、三十分以上も掛かってしまった。

 スマホを女に手渡し、レザーロープで彼女の首を縛ると、私はもう一度この女の頭から水をぶっ掛けた。

「そのスマホで誰かに電話を掛け、助けでも呼びな。でも、早くしないと、そのうち首が絞まるよ。勿論、その血だらけの指で、ボタンが操作できればの話だけど……」

 最後に私は、母に言われた通り、地下室のエアコンをドライモード二十五℃に設定した。

 通常革は濡れた状態でそのまま放置すると、縮み硬くなるが、逆に濡れた状態で負荷を掛けてやれば伸びる。エアコンをドライモードに設定したことによって、やがてこの地下室も乾燥が進むだろう。この女の首を縛ったレザーロープが絞まる前に、女自身がスマホで助けを呼ぶか、あるいは、その傷ついた指先でレザーロープを緩めることができれば命は助かるだろう。恐らくレザーロープの形状から考えて、首が絞まるまでのタイムリミットは一時間程度か……。

 つまり、これが、母が考案したゲームって訳だ。


 そのあと、私と母は、女を監禁している地下室から一階三十畳のリビングへあがり、TVのバラエティー番組を観て寛ぐことにした。時間潰しには持ってこいの内容だった。

 タイムリミットの一時間が過ぎ、関西出身の人気お笑い芸人がMCを務める情報バラエティー番組を観終わったちょうどその時だった。不意に玄関のチャイムが鳴った。

 普通なら、どこの誰だ、夜十時を回ったこんな時間にっ!? などと文句の一つでも口を吐いて出るところだが、今夜に限ってはちょっと勝手が違った。

 まさか、母が考案したゲームをあの女がクリアして、スマホを使い助けを呼んだのではないのか? と一瞬、私の脳裏を過ぎった。

 急に不安になり、母の顔を見る。

「か、か、母さん、け、け、警察だったらどうしよう?」

 私の心配を他所に、母は呑気なもんで、ビールが入ったタンブラーを片手に、メンソール系の煙草を吹かしているではないか。

「情けないわね、あんた男の子でしょ」

 母は悪魔にも似た不敵な笑みを浮かべる。

「でも……」

「でもじゃないの、しっかりしなさい。いいわ、わかったわ。お母さんが見てきてあげる」

 母は、根性なしの私を呆れたように睨みつけ、灰皿で煙草を揉み消した。気怠そうに立ちあがり、リビングの壁に取りつけてあるモニターで、時間帯を弁えない迷惑な来訪者の顔をチェックする。

「吉永さん……」

 母はお隣の住人の名を口にした。

 吉永三代子。隣の屋敷に住む七十代の老婆だ。

 母の話によるとこの老婆は、日頃から、うちで飼っている犬が五月蠅いだとか、クーラーの室外機の音が喧しいとか、色々と難癖をつけてくるらしい。今夜もきっと、そう言ったつまらないことで、文句を言いにきたのだろう。

「ちっ」

 舌打ちしたあと、母はインターフォンのボタンを押した。

「どのようなご用件でしょうか」

《あの……。お宅の室外機の音が、五月蠅いのよ……》

 インターフォンのスピーカーから、お隣さんの声が漏れ聞こえてきた。

 この老婆が言う五月蠅い室外機とは、あの女を監禁している地下室専用の大型室外機のことだ。この一時間あまり、フル回転で稼働している。きっと、五月蠅いに違いない。室外機の側に寝室があれば、床を通して下から伝わってくる重低音が気になって眠れないだろう。本当お気の毒だ……。

 でも、私の母という女性は、他人の迷惑など省みるような柔な神経の持ち主などではない。実の息子であるこの私が言うのだから、母の性格の悪さは相当なものだ。彼女は筋金入りの性悪女だった。

「ご用件はそれだけでしょうか」

《はあ?》

「他にご用がなければ早々にお引き取りください。何分、当方は色々と立て込んでおりまして、あなたのお相手などしている暇、ございませんの」

 母は早口で捲くし立てると、お隣さんが何か告げようとする前に、インターフォンのスイッチを切った。

「ちょっとあんた、すっと惚けてないで、出てきなさいよっ!」

 案の定、お隣さんは、オーク材製の玄関ドアをガンガン叩き捲くり、喚き散らしている。

「これ以上騒ぐと、警察呼びますわよ」

 母は、地下室であの女を監禁しているにも拘らず、平然と警察という言葉を口にした。

「呼べるものなら呼びなさいよ!」

 お隣さんも母に負けず、挑発する。

 小一時間ほど騒いだあと、結局最後は警察の厄介となった。近くの交番から派遣された二名の警官は、母とお隣さんの双方から事情を聞き、隣家同士の言い争いということで話を収めた。

 母の肝っ玉の大きさには、いつもながら感心する。警官を前にしても動揺することなく、平常心を保ちながらこちらの言い分を主張した。それに比べ私は、情けないことに母の陰に隠れ、狼狽えているばかりでまったく何もできなかった。

 その間、私の心臓は、あり得ないほど激しく脈打っていた。脇の下も、冷や汗で濡れている。

 警官が立ち去ったあと、私は安堵のあまり気が抜け、溜め息を吐いてしまった。

 途端、背後に母の存在を感じ、ゆっくりと振り向いた。

「地下室の娘、どうなったか見てきなさい」

 母は、顎を地下室へ通じる階段の方に向けた。

「うん」

 私は階段を見ると、小さく頷いた。

 階段をおりてすぐに扉を開け、再び地下室へ入った。

 部屋の中央へ視線を走らせた。

 下半身のみガムテープで縛られた状態で、椅子に座る女を凝視する。

 まるで誰かにお時儀でもするかのように頭をさげ、両手はだらりと伸びたまま、まったく動かない。

 一瞬、私の心臓の鼓動が速くなった。

「おい」

 と呼び掛けるが、応答がない。

 間違いなく死んでいる。

 そのことを確かめるため、女に近寄った。

 彼女の肩を揺すった。が、反応がない。

 左手を掴み、脈を取る。次に首筋に手を当て、脈打っているかどうか確かめる。やはり、とっくにこと切れていた。

 この女を死に至らしめたレザーロープは、きつく首に喰い込んでいる。ロープの左右には、渇いた血の跡が五本ある。恐らく、女は、爪を剥がれた指で、必死になってロープを緩めようと試みたに違いない。

 その足許には、スマホが落ちていた。こちらにも血が付着している。

 私は前屈みになりスマホを拾いあげると、操作した形跡がないか調べた。

 発信履歴はない。私がこの女に手渡した時のままの状態だ。

 これは私の推測に過ぎないが、女は助けを呼ぼうと試みたが、何かの弾みでスマホを落としてしまったのだろう。

 死が間際に迫ったこの状況で、女が取った行動を想像すると、私は妙な性的興奮を覚えた。下着の中で大きく腫れ上がった男根が、今すぐにでも破裂しそうだった。このまま一気に射精してしまいたいという気分を理性で抑え、私は一旦地下室を出た。

「死んでいたよ」

 リビングに戻り、母に結果を報告する。

「そう」

「死体、どうしよう……」

「そうね。今度もまた、適当に捨てればいいじゃない」

 母は、私の顔を見ようともせず、TV画面に釘づけだった。

「捨てるって、どこに」

「それぐらい、自分の頭で考えなさい」

 母は振り向き様に言い捨て、私の顔に煙草の煙を吹き掛けた。

 煙を吸い込み、思わず咳き込んでしまった。

「うん、わかった。じゃあ自分で考えるよ……」

 背を向けたままTV画面を見ている母に向かって告げた。

 彼女は返事もせず、リモコンを手に取り、チャンネルをバラエティーから深夜のニュース番組に変更した。

 TV画面には、人気女性キャスターが映っていた。

 手許の原稿を、事務的に読みあげていく。

《捜査本部では、女性が、帰宅途中、何者かに連れ去られたと見て、容疑者の逮捕と被害者の救出、事件解決、真相究明に向けて、引き続き全力を尽くすとのことです……》

「もう死んじゃってるよ」

 私は、TV画面に映る被害者の顔写真を指差し、冷笑した。

「他人様の不幸を笑っちゃ駄目でしょ」

 母に睨みつけられた。

「ご、ごめんなさい……」

 取り敢えず謝る。

 そのあと、二階の自分の部屋に入り、ベッドの上に横たわり、酔いが醒めるのを待って死体を捨てることにした。アルコールの影響で舵行運転でもして、もし万が一警察なんかに呼び止められ、車内から女の死体が見付かれば、一巻の終わりだ。何事も最後の詰めが肝心だ。


 午前零時過ぎ。

 酔いが醒めたのを確認したあと、私は死体の後処理に取り掛かった。女を死に至らしめたレザーロープを首から外し、下半身を縛りつけているガムテープを破いていく。次は、医療用のコットンに消毒用アルコールを染み込ませ、女の身体を丁寧に拭く。私の毛髪、汗、指紋、唾液等が付着しているからだ。指の間や、脇の下、股などは、綿棒を使用した。一時間ほど掛け、念入りに処理を行い、終了後死体を車のトランクに乗せた。

 午前一時三十分、自慢のメルセデス・ベンツS‐CLASSで自宅を出発し、通称北野街道都道一七三号線を都心方面へ向かって走った。なぜ、都心かというと、なるべく自宅から離れた場所に死体を捨てたかったからだ。西へ向かい、奥多摩の山中に遺棄してもよかったのだが、深夜、山の中を運転するには少し抵抗があった。何分、私は男のくせに運転技術が未熟なもので……。

 日野市南平の高幡橋南交差点を直進し、都道四十一号線川崎街道を東に進む。稲城市矢野口交差点で左折し、多摩川を渡り、都道十九号線鶴川街道を北上。調布市から狛江市、世田谷区へと入る。勿論、法定速度を厳守し、飽くまでも安全運転で、慎重に走った。

 幸運にもその間、一度も警察官に出会うことはなかった。しかし、流石に二十三区に入ると、数十分置きに付近を警らする自ら隊のパトカーと遭遇した。それでも私は平常心のままハンドルを握り、午前二時半頃、目的地の代々木公園に到着した。

 八王子の自宅を出た直後から、私は死体を代々木公園に捨てると決めていたのだ。

 周囲に人気がないことを確かめ、西門付近で停車すると、トランクから死体をおろした。当然、怪しまれないように、死体は寝袋に入れている。女は比較的小柄だったため、運ぶのにはそれほど不自由しなかった。

 西門から公園内へ入って、暫く進み、寝袋から死体を取り出し、広葉樹の根元に捨てた。現場を立ち去る時、妙な衝動に駆られ、記念にあのスマホで写真を撮った。

 そして私は、寝袋を抱え、何食わぬ顔で車に戻った。そのまま運転席に座り、キーを差し込み、エンジンを掛けた。

 このあとは八王子の実家には戻らず、これから港区高輪三丁目の高層マンションへ向かう。平日はこのマンションの十八階の部屋で独り暮らし。所謂、独身貴族をエンジョイしているという訳だ。

 翌日、私は夜の街を徘徊し、次なるターゲットに目をつけた。

 スレンダーなモデルボディに、小顔で猫目の愛らしいルックスが堪らない美脚の持ち主。流行りの花柄のワンピースを着た、どこにでもいる軽い少女だった……。

「お嬢さん」

 と私はそのあどけなさの残る少女に声を掛けた。

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