第36話 平穏を取り戻せ
アイザックは自らの腹に注射針を突き刺した。するとたちまち、その目はグルリと白く剥いた。禍々しい唸り声が辺りに響き渡る。
「ふ、ふはは! これが、ゾンビ化の感覚かぁクソきもいな!」
何か吹っ切れたような声に、僕は思わず立ちすくんだ。しかし、無駄にためらってしまった事を、間もなく後悔する事になる。
「見ろよ見ろよ! 最強の兵士が、最強のゾンビになる様を!」
アイザックの身体はみるみるうちに巨大化して、天井にぶつかった。そこで留まる事もなく、背中を丸めてなおも膨らんでゆく。
パイソンすら凌駕するサイズだ。僕と比べたら大人と子供どころか、小人のように見えてしまう。
「まだだ、まだだ! 全てを踏み潰すには、まだ足りねぇ!」
「クソッ……! 化物め!」
「アーーッハッハ! 立場が逆転したな、今度はテメェが恐れる番だぜ!」
巨体が天井を突き破ろうとしてか、ひび割れたコンクリートから欠片が降ってきた。ミチミチという生々しい音も聞こえだす。
醜悪だ。見た目が――じゃない。存在そのものが邪悪だと思った。
いたずらにウィルスに感染して悪用した上に、怪物として君臨しようだなんて、もはや生命に対する冒涜だ。そこに慢心までも加わるので、もはや醜いとしか言いようがなかった。
「さぁて。新しい身体はどんなもんか。試させてもらうぜぇ!」
僕は背筋が凍る感覚から、とっさに伏せた。重たい音が頭上を過ぎていくと、背中に怖気が駆け巡った。一撃でも命取り。そう思わせるだけの圧迫感が、振り払いの動きから感じ取れた。
アイザックの払った腕は遠くの壁を砕いた。しかし気づく。不自然なほどに腕が長く伸びているのだ。
「いったいどうして……あっ!」
アイザックの脇が破けていた。裂け目からはとめどなく赤黒い鮮血が溢れている。
その異変は当の本人もすぐに気づいた。
「えっ、なんでだ。オレの無敵の身体が……!?」
その間も膨張を続ける身体から、ブツンという、ちぎれる音が繰り返し響いた。すると、アイザックの身体は姿勢を保てず、さながら獣皮の絨毯のように、その場で突っ伏した。
「何だよこれ! 一体何が起きてやがる!」
悲鳴はちぎれる音に埋もれていった。巨大化した筋肉の繊維が千切れて、あるいは骨が砕けているのだ。そんな様に鳴っても膨張は止まらず、全身が左右に引っ張られては伸びていく。
「も、もういい! 止まれ! これ以上デカくなるんじゃない!」
しかし細胞は反乱でも起こしたようだった。いや、これはゾンビウィルスのせいか。アイザックは重しで引っ張られたように伸びて、伸びて、終いには身体を崩壊させた。
「やめ、やめでぐれぇ……」
それが最後の言葉だった。全身は粉々に千切れて、おびただしい鮮血を撒き散らした。恨みのある相手とは言え、少しだけ同情させられる最期だった。
さすがに黙祷を捧げる気にはならないけど、静かに目礼だけ向けた。
「ええと……。これがゾンビ薬だよな」
小箱には、液体で満たされたガラス管が詰め込まれていた。蓋を閉じて小脇に抱える。
ようやく欲しいものが手に入ったことで、僕は脇目もふらずに戻っていった。階段を駆け上がって地上階に登り、避難民が立てこもる部屋を素通りして、出口から屋外へ飛び出した。
すると、馴染みのある声に呼び止められた。
「おい、リンタロー!」
「ロッソ! 見つけたよ、ゾンビ薬だ!」
坂の向こうから走り寄るロッソと合流した。しかし彼は、ゾンビ薬には大して興味を示さず、代わりに西の方を睨んだ。
「やべぇぞマジ。エデンはもう大パニックだぜ」
「それはゾンビのせいでしょ。彼らを落ち着かせないと――うわぁ!?」
地響きとともに、近くの家屋が弾けた。パイソンの仕業だ。彼は今も変わらず、岩石をエデン内に放り込んでいるのだ。
「パイソンのヤツ、もう終わったというのに!」
「なぁリンタロー。作戦の完了を、あのデカブツにどうやって伝えたら良い?」
「えっ。そこは何も決めてなくて……」
「それヤバくね?」
僕達が気まずい視線を重ねていると、またもや岩石が降り注いだ。やはり近くの豪邸がペシャンコに潰された。
「とにかくパイソンをとめよう。このままじゃエデンが再起不能になりかねない。そこまでやるつもりは――」
「まだあるぜ、リンタロー。向こうを見てみろ」
ロッソが親指を突き立てたほうで、悲鳴が上がった。その騒ぎは岩石による攻撃が理由でなく、ゾンビと対峙するがゆえだった。エデンで生まれたゾンビたちは、生き残りの人間と血みどろの戦闘を繰り広げていた。
「もうやべぇわ。完全に殺し合いになってる。下手すりゃエデンは壊滅するかもな?」
「まさか、ここまで騒ぎが大きくなるなんて……」
明らかに僕の采配ミスだ。発端であるあの時は、ただ単に哀れな親子を死なせたくない一心だった。それがまさか、エデンを揺るがす程にゾンビが勢力を伸ばすとは。想定を遥かに上回った形だった。
「ロッソ、これはマズイよ。僕達ゾンビは人間の血も必要としてる。絶滅でもされたらお終いだよ」
「じゃあ止めなきゃな、どうする?」
「ロッソはパイソンを頼む。どうにか止めてくれ。僕はゾンビたちを説得して回るよ」
「それも厳しいんじゃねぇか? ゾンビの群れは広範囲に広がっちまった。足で回るのはしんどいと思うぞ」
「でも、それ以外にどうやってゾンビを鎮めたら……」
街のあちこちから絶叫と、激しく争う物音が響く。規模は相当なものだと分かる。
次の瞬間には走り出していた。
「のんびりしてられない、街の方は僕がやる。ロッソも急いでくれ!」
「お、おい。1人で大丈夫か?」
問いかけに答えないまま、北嶺区の坂を駆け下りていく。その最中も建物は音をたてて崩れた。投石によるダメージは相当なものだった。
街なかでの戦闘も激しい。主に戦うのは一般人で、銃火器の使用は稀だった。なまじ火薬を使わない戦いは、より血生臭く、そして凄惨だった。
「早く止めないと!」
中央区に差し掛かったところで、大群衆と出くわした。左手方向から大量のゾンビが押し寄せ、それを押し返す人間の群れで満ちていた。
「みんな! 争うのはやめるんだ!」
僕の呼びかけでゾンビたちの動きが止まった。彼らは僕の異質な姿を見て驚き、戸惑っているようだった。
しかし人間たちは違う。彼らは果敢にも武器を振り上げては叫んだ。
――怯んだぞ、今のうちにやっちまえ!
だめだ、止められない。致命的なのは言葉が通じない事か。ゾンビたちには通じても、人間には聞き取れない事は経験則から分かっていた。
「とにかく、争いをやめろーー!」
僕が叫ぶと大気が震えた。それで全ての者達が――人間もゾンビも分け隔てなく――震え上がる事になった。そして這々の体で建物内へと散らばっていった。
どうにか眼前の戦闘を止める事ができた、しかしその程度だ。悲鳴はエデンのあちこちから聞こえる。中央区だけじゃない。南も西も工場地帯でさえも、騒ぎは拡大していた。
一刻も早く悲劇を止めたい。しかし、その手段が全く見つからずにいた。
「どうしたらいい……。何か良い手段は。人間にもゾンビにも伝わるやり方で、手っ取り早く伝達できる方法は……!?」
その時、ふと東の空が目についた。工場地帯に伸びるアンテナはラジオ局のものだ。
「あそこだ!」
僕は前傾姿勢で駆け出した。東区の工場地帯は割と閑散としていた。たまにゾンビとすれ違うものの、人間は工場内に逃げ込んだのか、戦闘状態ではなかった。
ラジオ局は初めて向かう場所だ。空を貫くアンテナを目印にして、こじんまりとした2階建てのビルに辿り着いた。
「よかった。まだ荒らされてないな!」
入口から中に踏み込むと受付だ。館内スピーカーがまだ生きているのか、オンエアー中の放送が辺りに響いていた。
――こんな絶望的な日も最新情報をお届けする満腹満足なレディオ! お相手はこのオレ、アマトー坂下だ! みんな聞こえてるか、どうやらエデンもお終いらしいぜ? オレのトークをレクイエム代わりに聞いて、しっかり成仏してくれよな!
明瞭に聞き取れる声色だが、少し荒い。ヤケになっているのかもしれない。
館内に人の姿はない。おかげで何の障壁もなく、妨げる人もなく、ガラス張りの部屋に辿り着いた。オンエアスタジオには、マイクを片手に立ち尽くすアマトーさんの姿が見えた。
――まったくアームズのやつら、何やってんだよ! 最強だの人類全盛だの言われてたのに、舌の根も乾かねぇうちにこのザマだ。オレは最初から疑ってたけどね。なんつうか、偉そうで、女遊びばっかでよ。ストイックさに欠けるというか、軍人ってもっとこう気高くてよ……。
僕がガラス越しに眺めていると、アマトーさんが気づいた。そしてマイクを握りしめたままで、反対側の壁まで後ずさった。
――きぇぇぇ! 来たぁ! なんか強そうな奴がスタジオに足を運びやがってぇぇいらっしゃいませぇぇ!!!
彼の力が必要だ。彼の言葉なら、ゾンビにも生存者たちにも届く。ラジオを通して停戦を訴えたなら、必ず上手くいくはずだ。
しかし、肝心のアマトーさんは恐慌状態だ。
「あの、お願いがあるんですが……」
――ひえっ、こないで! オレなんて美味くないよ、そりゃもうドブみてぇな酷い味だ! 健康診断もだいたい引っかかるし!
「そのラジオで、みんなに呼びかけて欲しくて」
――あぁもう死ぬんだぁ! オレ死ぬんだぁ! こんな事なら新人のADちゃんに気持ちを伝えておくんだったよ! 世界で1番愛してるデカ尻ちゃん!
ダメだ、会話にならない。ボディーランゲージは通じるのか。僕は両手を挙げて「降参」のポーズをみせた。
――うわぁ! 飛びかかろうとしてるぅぅ! もう神も仏もねぇんだーー!
これもダメ、曲解されてしまう。
そこでふと、テーブルの端に目をむけると、1本のボールペンが転がっていた。これだ。ペンを手にして、そこらに散らばる紙に走り書きした。
それを僕の前で掲げてみせた。
「さぁ、これ。読んでみて」
――な、なんだぁ? ぼくらは、トモダチ……だって?
アマトーさんの驚愕しきった瞳が見つめてきた。僕は静かに頷いた。続けて用件を書き込んでいく。
――ええと、無駄な争いを終わらせたい、ラジオで皆に訴えかけてくれ……? あの、なんだ。アンタの言うことを聞いたら、オレを殺さないでくれるのか? 助けてくれるよな? な?
僕は何度も頷いた。するとアマトーさんは、マネキンに劣らないほど硬い動きで、マイクを口元に寄せた。
――お、おまえらぁ! 今すぐ戦うのをやめろぉ! 妙にフランクなゾンビが、戦いを止めろと仰ってるぞ!
ラジオは繰り返し訴えた。これで上手くいく保証はないが、最善の手であるのは間違いない。
放送を続ける間に、パイソンの投石も止んだ。街が静けさを取り戻すまでに、それほど時間はかからなかった。
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