第32話 研究所へ至る道
北嶺区に、ゾンビの群れが侵入した。それは住民からすれば恐怖そのものだろうが、僕にしたら頼もしい援軍だった。
渇きと怒りに塗れたゾンビたちは、手当たり次第に人を襲った。こうなると紳士も淑女もない。品性も手荷物も投げ捨てて、一目散に逃げていく。
地面に転がるシルクハットや日傘は、いくつもの足で踏みにじられた。
「うはっ、見てみろよリンタロー! あそこのジジイ、女を身代わりにして逃げやがった! 孫くらい年下なのに!」
ロッソが豪邸の方を指さして言う。確かに若い女は地面にうずくまっていた。階段から突き落とされたらしい。庭先に倒れた女は悲鳴を上げる前に、ゾンビにのしかかられていた。
そうまでして逃げようとした年寄りは、自家用車に乗り込んでいた。傍らの女は囮のつもりか。フロントガラスにゾンビがしがみついたので、車を急発進させて振り払おうとしたところ、フェンスに激突。割れたガラスからゾンビの侵入を許し、食われた。絶命の声はしわがれた響きだった。
「ロッソ、よそ見してないで。先を急ごう。研究所は?」
「オレも滅多に踏み込まねぇ場所だが、奥だろうな」
「登り坂の先ってこと?」北嶺区は大きな丘に建てられたので、斜面ばかりだった。
「それであってる」
ロッソの言葉は今ひとつ信憑性に欠けるが、信じるしかなかった。彼の言が正しいこと、そしてゾンビ薬が存在すること――今ばかりは疑いたくない。
時々、人間からの反撃はあった。いち市民がハンマーを振り回すこともあれば、保安官が銃撃を浴びせるなどと、ケースバイケースだ。
もっとも、僕らの進撃を阻むほどではない。いきおいを僅かに殺す効果はあっても、全ては大量のゾンビに食われてしまった。彼らもゾンビ化するかは、食われ方次第だろうと思う。
「ハハッ。庭付きの豪邸に、露天風呂に、広々ラウンジ。ここいらもゾンビで埋まってるわ。ざまぁみやがれ」
「なんだか楽しそうだけど、ロッソも北嶺区民でしょ? 何をそんなに」
「いんや。オレは西地区だ。オンボロの寮に住んでるのを、事あるごとにアームズどもから嗤われたもんだわ」
「だからか。どうりでね」
「つうかリンタロー。お前さんも見下されたクチだろ。溜飲がさがるんじゃないのか?」
「僕は、どうだろうね……」
後方で爆発が起きた。とあるビルで火災が起き、建物を紅蓮の炎が包み込む。
「あっ」と僕は声をあげた。そこには牢屋と裁判所があったビルだと思う。2階の窓から射撃音も聞こえるが、抵抗はあまりにもささやかで、猛然と暴れまわるゾンビたちには無意味だった。
「まぁね。あまり感じるものはないかな」
「そうかい。人間ができてるね。いや、オレよりゾンビに馴染んだと言うべきかい?」
「何だっていいよ。とにかく先へ」
それからも北嶺区を駆け抜けた。坂に段差を登り、パニックに陥る住宅街を走っていく。
何があっても立ち止まらない。そんな腹づもりで居たのに、僕は道半ばで立ち尽くしてしまった。とある豪邸から何者かが飛びだして来たからだ。
――死ね! ゾンビ野郎が!
僕はとっさにしゃがんだ。僕に避けられた鈍器は、隣のロッソの頬を打った。
バランスを崩して前のめりに倒れた。ロッソも頬を押さえて転んでしまう。
「いったい何だ……?」
視線を巡らせると、人の足が見えた。素足、細い。生地の薄いワンピース越しにはレースの下着が透けており、豊かな胸元が膨らみ、深い谷間を描く。
首から上を見て、僕は思わず言葉を失った。
「浦城……?」
僕が人間だった頃のように、上から見下されていた。しかし浦城の顔には、例の作られた笑みはない。かわりに鬼の形相が浮かんでいた。憎悪と殺意が入り混じる、邪悪なものだった。
浦城は僕だと気づいていない。それからは振り下ろした鈍器を、重たそうに肩に担いだ。
――フザけんなよ化物ども! せっかく金持ち暮らしを手に入れたと思ってたのによぉ!
浦城が手にするのは消化器だ。それを高らかに掲げて、叩きつけようとした。僕はロッソを抱えて横に転がった。
――避けんなよクソが! ゴミカスの腐乱死体どもめ、頭ぶっ潰してやる!
浦城はもう生存を諦めている。死ぬ前に一矢報いるつもりだろうか。逃げ道を探すでもなく、僕たちを執拗に狙いつづけた。
――次こそブチ当ててやる、覚悟しやがれ!
浦城が再び消化器を振り上げたところで、彼女は体当たりを食らった。新手のゾンビが登り坂を駆け上がり、大挙して押し寄せたのだ。
――放せ! 放せよクソども……ギャアアア!!
汚らしい断末魔の叫び、何かを掴もうと伸ばされた手。どちらも力を失い、蹂躙の波に押しつぶされた。
「なぁリンタロー。あの哀れな人間は知り合いか?」
「いや、うん。ただの顔見知りだよ」
僕か顔を伏せて走り出すと、ロッソも並走した。深く詮索されなかったことは素直に嬉しい。
「もうじき登り終わるぜ。研究所もそこに――」ロッソが言いかけた所で、不意に寒気を覚えた。
「伏せて!」
僕はロッソに体当りして転がる。頭上を弾丸が掠めていった。
すると背後にひしめくゾンビたちに命中したのだが、その威力には思わず戦慄した。1体の頭が弾け飛び、さらに貫通して、向こうのゾンビ数体に風穴を空けた。当たりどころの悪かった個体は、たったの一撃で動けなくなった。
「なんだよ今のは……」
射撃はまだまだ続く。僕たちはたまらず、道の端に逃れた。そして塀の陰から先を覗き込んだ。
丘の頂点に差し掛かる寸前をバリケードが塞いでいる。横並びにした装甲車。その車を盾に、アームズたちが隊列を組んでは、銃撃を浴びせていた。
そこにはアームズ隊長の目刺(アイザック)の姿もあった。
――まったくよぉ。爺様のころからコツコツと発展させた楽園(エデン)が、秒で崩壊とか。フザけんじゃねぇぞマジで。
アイザックは砲身の長い銃を携えていた。それを胴に構えて撃つ。
轟音が鳴り響くとともに、複数体のゾンビが吹き飛ばされる。身体を四散させた個体の肉が、坂道を朱に染めた。
「チッ。アームズどもめ、出し惜しみはしないって事か」ロッソが吐き捨てるように言った。
「研究所ってのは、この先に?」
「ああそうだ。ちなみに迂回路はない」
「だったら、バリケードを突破しなきゃならないね」
「まったくだよ。死の行進を強いられるかな」
敵には備えがあった。いや、これは、すんでの所で防がれたというべきか。あと数分早く到達していたら、バリケードも間に合わなかっただろう。
銃弾の雨はやまない。武装強化したアームズとどう戦うべきか。僕は戦慄を覚えるとともに、銃口が冷たく光る様を眺めていた。
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