第30話 花びらは渇いた過去に

 下水溝の中は酷く薄暗い。日差しに差し込むのは入口付近くらいで、あとは小さな電灯が、あちこちに見かけるくらいだ。


 その電灯も、地上の喧騒で振り子のように揺れていた。



「なぁリンタロー。道は分かってんだよな?」



 ロッソは左手にライト、右手に拳銃を構えながら、そう言った。フランクな口調に反して、警戒する仕草は機敏だった。練度の高さが窺える。



「道なら任せて。でも急がないと。陽動がいつまでもつか分からないし」



 すると、遠くから聞こえた雄叫びが、下水道に響き渡った。



「ハッハァーー! そんな弾効かねぇし、そもそも当たってねぇし! この下手くそどもがよぉ!」



 射撃音と、手榴弾の破裂する音が聞こえる。そこにパイソンの煽る声も混じっていた。



「しばらくは大丈夫そうだぜ」


「そのようだね」



 暗闇で見通しは悪いが、道を見失うほどじゃない。コの字の道を何度か曲がり、おぼろげな記憶を頼りに歩いていく。


 そのまま接敵することもなく、しかし光景が変わる。通路の右手から、光の架け橋が降りていた。あまりにも眩しくて、キラメキの中で踊る埃でさえ、神聖なもののように見えた。



「ここだ。向こうはもう壁の内側だよ」


「わかった」



 ロッソは頷くなり、口を挟むのをやめた。僕も息を殺しながら、はしごを登ってゆく。光が大きくなったところで行き止まり。マンホールの蓋が頭上を塞いでるのだ。


 耳を澄まして気配を探り、無人だと確かめてから、蓋を押し開けた。ズリ、ズリと鳴るたびに肝が冷える。


 しかし蓋の向こうに関しては、異変を感じられなかった。



(この様子だと、おそらくは……)



 僕ははしごを滑り落ちて、ロッソの隣に降りた。



「どうだ?」


「辺りは掘っ立て小屋が多い。たぶん南区の裏通り」


「貧民窟か、悪くねぇ。場所にもよるが、警備の手薄なエリアだぞ」



 ふたたびはしごを登っていくと、今度はロッソも続いていた。マンホールをさらに横にずらした。


 外の喧騒が大きく聞こえる。ただし、ここから遠いとは思った。



「ここは南区の、壁よりかな……」



 僕たちは下水溝から這い出ると、速やかに路地裏に隠れた。しかしその必要は無かったかも知れない。


 掘っ立て小屋の並ぶ道の先には、大きな中央通りがある。そこでは、我先に逃げようとする住民でごった返していた。



「助けてくれ! ゾンビが! ゾンビが攻めてきたーー!」



 急激に押しかけた住民で、中央区はパニックを起こしていた。そこをアームズ部隊が進軍しようとして立ち往生。野太い怒声を響かせた。



「道を開けろ、バカどもが! さもないと轢き殺すぞ!」



 さすがに装甲車は徐行を強いられていたが、すがりつく住民に冷たかった。何人かが車から降りて、空に向けて乱射した。


 威嚇は効果的で、装甲車付近の市民が怯んだ。しかし後方の避難民は事情を理解できず、アームズにすがろうとし、人垣を強く押し込んだしかし前列は追い立てられている。軍民のどちらも大混乱を起こしていた。



「いいね、自滅してらぁ。先に行こうぜリンタロー」


「う、うん」



 集団の背中を見ていると、そこからはじき出されたお婆さんが道端に倒れた。


 お婆さんは左胸をおさえて呻いているようだ。僕はとっさに駆け寄ろうとしたが、肩を掴まれて止められた。



「下手な同情は禁物じゃないか?」


「それはそうだけど……」


「割り切れよ。オレたちはエデンを襲ってるんだ。少なからず被害は出る。だがゾンビ村の奴らを救う方が優先だろ?」



 反論の余地はなかった。ロッソが「腹をくくれ」と言っては僕の胸を小突く。僕は逃げるようにして、南区の路地を駆け抜けた。



「ここいらの連中は皆逃げ出したらしいな。こいつを使わずに済むぜ」



 ロッソは自動小銃を握りながら言った。拳銃は腰に差している。


 しかし、順調だったのもそれまでだ。



「あぁ良かった! アームズさん、こっちこっち! 逃げ遅れた人が家の中に!」



 背後から呼び止められた。そうだ、ロッソは迷彩服を着ており、さらには地に染まった腕章をつけていた。


 確かに後ろ姿だけ見たなら、アームズの隊員に見えたろう。



「おおい、頼むって! 人手がいるんだよ!」



 呼び止める声はやまない。すると、路地裏から別の声がする。誰もが保護を求めて必死だった。



「マズったな……。この格好は目立ちすぎる」


「そういうことなら僕の家に寄っていこう。偽装できるものがあるはずだ」


「助かる。家は近いのか?」


「そこそこね。でも遠回りにはなるよ」



 左後方を指さしながら言った。貧民窟でも最安値の壁際。僕の家は今も健在だった。



「鍵は失くしたから、無理やり――!」



 傾いたドアを蹴破って中に駆け込んだ。僕が連れ去られた日のまま、全てが残されていた。


 狭くカビの臭いがするベッド、端っこに押し込んだ作業机。壁は穴だらけで照明要らず。



「あの時のままだ……。あっ」



 僕は流しを見て立ち止まった。コップにさした赤いバラは、既に花びらを散らしていた。茎もしおれて生気がない。


 そうだ。バラを持ち帰った日から、数日でも、立場は真逆だった。ゾンビとして人類をおびやかす側で、今は仲間のために働かねばならない。



「こんなものしかないけど、姿は隠せるよ」



 ベッドのシーツを剥ぎ取って、ロッソに手渡した。湿ったもう一枚のシーツを、僕も頭から被る。



「くっさ……。ようやく下水の臭いから解放されたと思ったら、カビと焼けたゴムの臭いで、鼻が曲がりそうだぜ」


「それくらい我慢して。下水溝よりマシでしょ」


「いい勝負だぞコレ」


「嘘だろ……。僕は毎晩、それで寝てたんだけど」 



 それからすぐに家から飛び出した。今度は声をかけられる事はなかった。ボロをまとっているので、同じ貧民だと見なされたようだ。

  

 そうして南区を抜けると、中央区は避けて西回りに進み、北嶺区の手前までやって来た。



「やっぱり守りが厳重だな……」



 北嶺区に侵入するには、内壁を突破しなくてはならない。こちらの抜け道は知らないし、そもそも存在しないかもしれない。



「こっちの方も混乱してるな。運が向いてるじゃねぇか」



 内壁付近にも避難者は押しかけていた。およそ100人はいるだろうか。彼らは門前に殺到したものの、威嚇射撃によって追い払われている。



「よし。僕が突撃するから、ロッソは援護を」



 そう言い残すと、すかさず飛び出した。ロッソは物陰から援護射撃に徹していた。壁の上のアームズが、1人2人と倒れていく。



――反乱だ! 銃撃を受けているぞ!



 どうやら敵は誤認したようだ。ゾンビが銃を撃つとは考えておらず、仲間割れだと認識したらしい。その方が好都合だ。確かに運が向いてる気がする。


 僕は飛んだ。足元には、内壁を囲む避難民の頭がある。すべてを一息で飛び越した。


 そうして壁の上に立った。



――クソッ! ゾンビまででやがった! 変異種だぞ!



 前後から激しい射撃が浴びせられた。胴体に打ち付けられた弾丸は全て弾いた。足も赤黒い肌で傷1つつかない。


 しかし、なぜか腕だけが貫かれた。両腕が赤黒い肌を散らしては、肌も肉も粉々になった。



「な、なんでだ……!?」



 僕は両腕をボロボロにしながら、その場で倒れた。なぜだ。どうして弱体化したのか。答えは分からない。分かるはずもない。


 揺れる視界の先で、アームズの誰かが嘲笑うのを見た。勝ち誇った顔だった。

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