愚恋

もも

愚恋(ぐれん)

 幼い頃、何が欲しいのかと訊かれてすぐに答えられる妹のことが、私は羨ましかった。それを『素直』と表現する人もいたけれど、妹の場合はそうではない。躊躇するということを知らなかっただけだ。相手の考えを推し測らず、脳から口へダイレクトに信号が発され、送出されただけ。


 だから、私の恋人のことを「好き」と言ったことにも他意はないと思っていた。

 思ったことが、呼吸と一緒に漏れただけなのだ。


「お姉ちゃん、いいよね」

「いいよ」


 私は断らない。妹もそれを知っている。知っているのに、敢えて確認を取る。

 あどけない表情、少しだけ左に傾けられた頭、左右均等に上げた口角。無邪気とは邪気が無いと書くけれど、よこしまな気持ちの無い人などいるのだろうか。


 偽りも悪気もない、無垢な存在。

 私はそんな人の方が恐ろしい。


 ひとつ違いの妹は、私と似ているとよく言われた。

 妹が

 少し癖毛の私に寄せるため、長いストレートの髪にはいつもヘアアイロンを当て、小説など三行も読めない癖に私と同じ文芸部に入り、苦手な青魚も私と一緒に血合いまで食べた。

 

 お姉ちゃんのことが大好きなのねと言われ、妹も笑顔で「そう、大好きなの」と答える。だけど私には分かっていた。


 妹は私のことが嫌いなのだ。嫌いで、憎くて、存在すら否定したいぐらい、疎ましいのだ。だからこそ妹は、周囲に振りまく。お姉ちゃんのことが世界で一番大好きなのだと。


 私を見る妹の目はとても冷たい。冷たく仄暗い。そしてそれは真冬の水溜まりに張った薄い氷の膜のように、少しの刺激でヒビが入りそうなぐらい脆く、美しかった。


 どれだけ外見を似せても、どれだけ嗜好を近付けても、妹は私ではない。

 そのことが私を安堵させた。


 愚かで愛おしい妹。


 深く底も見えないような暗闇ばかりが広がる心から目を逸らし、私は壁一枚隔てた部屋で眠る妹のことを想って毎夜眠りについた。


 妹は自分から特定の男を作ろうとしなかった。高校時代、私は妹が告白される場面に何度か出くわしたことがある。どの相手も悪くない印象だったが、妹は断った。そして夜になると私に話すのだった。


「今日、××くんに付き合ってって言われたんだけどさ、シャツに小さいシミみたいなのが付いてるのを見て何か嫌だなぁ……て思っちゃって。だから断ったんだ」


 妹が告白を断る理由は、いつも些細なものだった。


 靴紐の結び方が左右同じじゃないから。

 爪の形が丸いから。

 『ぬ』の字の書き方が変だから。


 私は聞かされる度に「そうなんだ」とだけ返事をした。それ以上口を開けば、私の中でとぐろを巻くドロリとした感情が閉じた唇の隙間から溢れそうで、何も言えなかった。


 妹が告白を断り続ける一方で、私は誰からの告白も受け入れた。


 相手に対する好悪は考えない。必要なのは男といる自分を作り、見せることだった。男を布のようにして自分の心に覆いを掛けたいだけなのに、その覆いを妹は剥がしに来た。


「お姉ちゃんの彼氏、好きになっちゃったんだぁ。だからいいよね」


 そうして妹は、私から男を取り、自分のものにする。男と歩く後ろ姿や部屋の扉越しに聞こえる妹の声が、剥き出しになった私の心に焼くような痛みを与え、ギリリと鋭い傷を作っていく。ミミズ腫れのように膨れた跡はいつまでも激しくんだ。妹に対するこの感情を捨て去るまでこの傷が治ることはないのであれば、きっとこの痛みは死ぬまで続くのだろう。


 そんなことを考えながら同じことを何度も何度も繰り返した私は今、結婚式場の新婦控室にいる。


 清楚、清純、無垢。


 鏡に映る白いドレスを着た自分の姿は、どれにも当てはまらない。正面にある鏡の向こうから「恥知らず」と罵られているような気がした。


 結婚相手は同じ職場の三歳年上の人だった。

 いつものようにまた妹に譲ることになると思っていたが、妹は動かなかった。そのことは私を酷く動揺させた。

 

 恋人を奪うことに飽きたのか。

 あるいは、私自身をもうどうでもいいと思ったのか。

 私の心は今までとは異なる角度で、焦げるようなひりつきを覚えた。


 今日は手を繋いだ。

 今日はキスをした。

 今日は――。


 どれだけ赤裸々なことを告げても、妹は「そうなんだ」と言うだけだった。

 気が付けばここまで来てしまった。妹という存在が介入しなければ、物事はこうもスムーズに進むのかと愕然とする反面、「もう終わりに出来る」と思う自分がいた。


 結婚相手と新しい戸籍を作る。

 そこに妹の名前はない。

 これから住む場所にも妹の部屋はない。


 手を伸ばして、抱き締めて。


 誰のことも見ないように目隠しをして、誰にも触れないように両手を縛りあげて、空気さえも入らないよう口を塞いで、存在ごと閉じ込めてしまいたいなんて、もう思わないで済むのだ。


 妹の姿が見えない場所で暮らせば、私の中にある愛情なのか憎しみなのか分からない数多あまたの感情も、時折しこりがうずく程度になるのかもしれない。


「入るよ」


 ノックもせずに妹が控室に現れた。

 壁も扉も自分の行く手を阻めないのだと言わんばかりに。


「ドレス、白いね」


 ウェディングドレスの裾を、親指と人差し指でつまみ上げた。改まった姿の私と、淡いピンクのワンピースを着た妹。鏡に映る像を見比べると、私たち姉妹は他人が言うほど似ていなかった。


「似てるね、私たち」


 私の考えを塗り潰すように、妹が呟く。


「本当にそっくり」


 そう言って私に顔を寄せた妹が温度の感じない冷たい目で鏡の向こうから静かに私を見詰めるので、私はそっと視線をずらした。


「ねぇ、そう思わない?」

「全然似てない」

「似てるってば」

「似てないよ」

「似てる」


 何度否定しても、妹は言い切る。逸らした視線を戻すと、妹は鏡に映る私をじっと見て言った。


「私もお姉ちゃんと同じなんだよ」


 私の腰に妹の手が添えられ、もう片方の手が私の手に絡まる。


「こうして手を伸ばして、抱き締めて」


 頭が私の肩にもたれかかる。


「誰のことも見ないように目隠しをして」


 妹の目が私の両目を捉える。


「誰にも触れないように両手を縛りあげて」


 絡めた手がぎゅっと私の手の平を握る。


「空気も入らないよう口を塞いで」


 妹の視線が目から唇へ動く。


「存在ごと閉じ込めてしまいたいって、思ってたでしょ」


 私はハッとして、隣に立つ妹を見る。

 熱の宿った妹の瞳。

 いつもの冷たい膜はなく、そこには私が閉じ込められていた。


「いつもみたいに私がやらなくておろおろ困ってるお姉ちゃんは可愛かったけど、こうなってみたらやっぱりなんか違うなって思っちゃった」


 小説とか全然読めないからさ、想像力がなくてごめんねと言った妹は、言葉とは裏腹に静かな怒りをまとっていた。


 残酷で浅はかで、愚かな私の妹。


 妹は私の腰を更に強く掴むと言った。


「どれだけ遠くに行っても、絶対離さないから」


 私は何も言わず、妹の手に自分の手を添える。

 「地獄でなら姉妹でも幸せになれるだろうか」と思う自分の果てしない愚かさが、純白のウエディングドレスを灰色に染め上げていく。

 これから神の前で嘘を吐く私の手を、妹は「罰なら共に」と言わんばかりに強く強く握り続けた。



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愚恋 もも @momorita1467

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