記憶の森で

@moemizu

第1話

『記憶の森で』


 老人は目を閉じ、静かに深呼吸をした。


 目の前には、AIが管理する 「記憶の森」 が広がっていた。そこには、人々が過去に残したすべての情報が記録され、AIが精密に整理していた。誰もがそこにアクセスすれば、歴史上の出来事から、個人の些細な思い出まで、すべてを取り出せる。


 「先生、今日も来られたんですね」


 若い研究者が声をかける。彼は老人のことを 「先生」 と呼んでいた。かつて老人は大学で哲学を教えていたのだ。


 「AIはすごいな。何でも覚えていて、何でも答えを出せる。しかしな……」


 老人は、そっと森の木々を見上げた。どこまでも続くデジタルの森。その中に、彼のかつての記憶も保存されているはずだった。


 「先生は、AIが信用できませんか?」


 「信用できないというよりな……AIは“答え”を持っているが、“感じる”ことはできないんだ」


 老人は、かつて愛した女性の面影を思い出した。彼女の笑顔、声、手のぬくもり。それらは、記憶の森のデータには残っている。しかし、それを見返したところで、彼の心を震わせる“何か”にはならなかった。


 「情報としては、そこにある。でも、人間が生きるというのは、情報だけじゃない。言葉にできないもの、理屈では説明できないもの、それが大切なんだ」


 研究者は少し考え込んでから、静かに言った。


 「確かに、AIは完璧な記憶を持っています。でも……人間は、時には忘れるからこそ、大切なものを見つけるのかもしれませんね」


 老人は微笑んだ。


 彼の目の前には、デジタルの記憶の森が広がっていた。しかし、彼の心の中には、AIには保存できない “感じる記憶” が確かに息づいていた。


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