忘却のカフカ
蓑虫
第1話 ベルガモットの人
朝、目が覚めると泣いていた。
欠伸をしながら布団から出る。1月の冷たい空気が、私の肌を容赦なく襲った。瞼の周りについた水滴を拭い、洗面台で顔を洗う。
「貴方はいつも誰かに見てもらわないと駄目」
と母が軽自動車のトランクに中学生の弁当かと言いたくなるほどぎっしりと詰め込んで家に連れてきた観葉植物たちに水をやる。ひとつひとつに名前を付けていた事もあったが、茎が絡み合いどこまでがどの植物なのか見分けがつかなくなってから辞めた。
カーテンを開けると雲ひとつない青だった。窓の縁に蜘蛛の巣がかかってはいたが、暫くそこに住まわせてやることにした。
冬の晴天は心地が良い。こんな天気の日は無性に家の外に出たくなる。
「いい天気は、いい転機だからね。」
誰の言葉か忘れてしまった。
人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、あと1つは何だったか。信号機が赤だったのでブレーキをかけた。一体なにを整備するのかと問いかけたくなる程交通量の少ない田舎町ゆえ、最早ここの赤信号でいちいち停車をしてやるのは私1人である。私がこの信号機に意味を与えてやっていると言っても過言では無い。ぎぃ、と鈍い音を立てて自転車が止まる。ギアに油をさしてくればよかったと乗る度に思うが、未だにそれをする気は無い。口から吐き出した息が煙のように白い。
最近、思い出せないことが増えた。思い出したい事が少なくなっただけなのかもしれない。人の脳は、機械の容量で言うなら何GBなのだろう。なんて、こんな些細な考え事はきっと5分後には思い出せなくなっているに違いない。信号が青になる。ペダルに脚をかけた。
瞬間、自転車が何かに躓いて転んだ。ギアに油をさしてくればよかった。
ふわりと宙を舞った私の身体は道端の田畑の用水路に着水した。体操選手の如く華麗な着地を決めたおかげで、足先が水浸しになるだけで済んだのが唯一の救いであった。
店の方々には申し訳ないが、このまま何もせずに帰るのはあまりに癪なので喫茶店に寄った。
かなり年季が入っていたが、不思議と落ち着く店だった。絵本でしか見た事のない大きな振り子時計が、ゆっくりと1秒を刻んでいた。客は私以外ほとんどいなかったので、私は窓際の椅子に腰掛けた。
せめてもの償いに1番高い飲み物を注文することにした。珈琲か紅茶かその名前からは検討もつかない。珈琲だったらいいなと思いつつ、店主らしき眼鏡をかけた白髪の店員にその名前を伝えた。歳は70くらいだろうか。
鞄から小説を取り出す。いつ誰が買ったのか知らないが、家の本棚にひっそりと佇んでいるそれを、私は外出時いつも持ち歩いている。
「それ、カフカですか。」
「いや、『変身』ですね。」
「そうじゃなくて、名前。」
作者を見ると確かにカフカだった。
「実は持ち歩いてるだけで、ちゃんと読んだことなくて。」
自分で言いながらも思う、常日頃から持ち歩いている本の作者を知らないのは如何なものか。
「面白いですよ、それ。結構おすすめです。」
綺麗な人だった。いままで人の髪の毛を絹のようだなんて思ったことも無かったが、彼女の黒くて長いそれは、本当に絹によく似ていた。
「あ、すいません急に。お待たせしました。アールグレイです。」
紅茶であった。透き通った琥珀色のそれは、どこかで嗅いだことがあるような懐かしく暖かい香りを纏っていた。
店を出る時に彼女がそれはベルガモットの香りだと教えてくれた。成程、ベルガモットというのか。
忘れないでいようと思った翌朝、もうその名前を忘れていることに気がついた。仕方がないのでもう一度あの店に行った。今度はしっかり自転車に油をさしておいたが、その際にその油がペダルにかかってしまい、かえって運転しにくくなった。
昨日と同じ席で同じものを注文した。相変わらず客はほとんどいないようであった。
「あ、昨日の、足だけずぶ濡れの人」
「どうも」
第一印象とは非常に大切なものである。2回目に会う時、3回目に会う時、人はその人に初めて会った時の印象を元に言葉を紡ぎ、関係を構築していくからである。誠に遺憾だが、彼女にとっての私の第一印象は「カフカの人」ではなく「足だけずぶ濡れの人」であった。
「忘れちゃって、この匂いの名前。」
それでまた来てくれたんですね、と彼女はころころと笑った。
「ベルガモット、の香りです。」
そうだ、ベルガモットだ。1度聞いてしまうとどうしてこんな簡単なことを忘れていたのか疑問で仕方がない。もの忘れとはそういうものである。
「また忘れちゃったら、いつでも聞きに来てくださいね」
ベルガモット。布団の中で何度か呟いた。もう忘れることは無い、という確信と共に、私は夜に身を預けた。
翌朝、また忘れる。いつからそんなに覚える、という行為が下手になったのか。洗面台で顔を洗う。鏡の中の顔がいつもより阿呆らしく見えた。どんなに高級なカメラよりも自分の顔が美しく映るはずの自宅の鏡ですらこの有様とは、本当に救えない奴である。
いくらなんでも、3日連続で彼女に同じ質問をするのは如何なものか。これでは新手のナンパと捉えられても不思議は無い。美形でもなく、もの忘れの激しい「足先だけずぶ濡れの人」にナンパをされる彼女の気持ちを想像し、口の中に苦い何かが広がるのを感じた。
行くべきか、行かぬべきか。迷う。
名前を失くした観葉植物に水をやる。
私は常々思っているのだが、人は本当の意味で「迷う」ことなどないのではないか。悩んでいる、と思っている時にはもう既に心は決まっているのだ。
「ベルガモットです」
そうだった。こんなことすら覚えられない自分にかつてないほどの恥ずかしさを覚えた。穴があったら入りたい、無いとしたら自分で掘ってでも入りたい。
「いや、何度もすいません。少し経つとどうにもね、はは。」
老人か、ってね、と言おうとしたが白髪の店主のことが気になりその言葉が口を出ることを無かった。
「でも今回は長く覚えていられた方じゃないですか?」
「馬鹿にしてます?」
また彼女は鈴みたいに笑った。1日でも覚えていられたら長い方だと思われているなんてあんまりである。
でも私も忘れっぽくて、と彼女。
慰めないでください、より悲しくなるので、と私。
いえいえ、そういう訳じゃなくて、と彼女。
「私、記憶障害なんです。」
「えっ。」
「でも私、貴方の事が好きです。」
「えっ?」
人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂。
突如私の脳内にすごい速度で飛び込んできたそれは、長いこと思い出せずにいた、最後の坂であった。
人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂
…まさか。
忘却のカフカ 蓑虫 @yokaze00
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。忘却のカフカの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます