第11話 イゾンガ導ク共鳴
あの匂いが、まだ鼻にこびりついている。
焼け焦げた鉄と血の混じった不快な匂いは、いくら顔を洗っても消えなかった。それだけじゃない。耳には、名も知らぬ敵の叫び声がいつまでも残っている気がする。
「スピリチュアルにでも目覚めたか?」
ライオネルのそんな声が聞こえた気がして、ふと辺りを見回す。
視線先では、軽症の人達が開けてくれたホームの一角で数人の重傷者が寝ている。その中には、ダリルの姿もあった。
顔半分は包帯に覆われ、右目にはまだ医療用の保護シールドが貼られていた。頬には火傷の赤い痕も残っている。呼吸は荒く、時折痙攣するように体がわずかに震える。
その横ではアリスとミアがダリルを挟んで寝息を立てていた。レナはダリルの手を握ったまま、その様子をずっと見守っていた。
向かいのホームに座る人々は、重症者たちを見ても、もう驚かない。ただ、沈んだ目で、静かに現実を受け入れているようだった。
その時、頬に冷たい感触が当たる。
「ほらよ。飲め」
目を向ければ、ビール瓶を持ったカイの姿があった。
「……ビールなんてよく残ってたな」
「ライオネルのだよ。ウイスキーまであったぜ」
そう呟きながら、カイはビールを一気に呷る。その姿は予想以上に冷静だった。ライオネルとの付き合いはカイが一番長いはずなのに。
俺は、ライオネルが酒を好きだなんて知らなかった。
「止めたんだぜ。あのバカを、TAW動かすのなんて久々なんだからやめとけって」
フッと笑うようにカイは呟く。
「だから、しばらくは一人で反省させてやろう。俺らの説教はもう少し先でいい」
カイの言葉に目から何かが零れそうになる。それを抑えるようにビールを体に流し込む。
「いい飲みっぷりだ」
「……あいつが残したもの全部飲み散らかしてやる」
考え事ばかりしていた頭がぼんやりしてくる。不思議と、それが嫌ではなかった。
「量だけはあるからな、皆で飲もう!」
カイは立ち上がり、酒瓶をいくつも抱えて歩き出した。一人、また一人とそれを受け取る人々の手は、どれも少し震えている。
やがて、ビールを掲げてカイは叫ぶ。
「……今日という日に!!」
それに応えたのは、誰かの泣き笑い混じりの声だった。
響いたのは乾杯の音ではない。生き残った者たちの、命の音だった。
その頃外では、風が冷たくなっていた。廃駅跡の鉄骨にもたれ、エリックは煙草をふかす。朱く光る火種が夜の闇に点を打つ。吐いた煙はすぐ風にさらわれ、跡形もなく消えた。
視線の先、ヴィオラがいた。
壊れた案内板の傍で、膝にライフルを乗せて空を見上げている。声も動きもない。ただ、そうして静かにしているだけだった。
「……寝ないのかよ、おまえも」
思わず声をかけた。煙草の端がちり、と音を立てる。
「目、冴えてる」
返ってきた声は素っ気なかったが、それでも、心の奥では彼女も何かをかみしめているのが分かった。ああいう目は、もう何度も見てきた。
「……そっか」
それ以上、言葉はなかった。言わなくても、伝わると信じていたわけじゃない。ただ、言葉というのはときに薄っぺらくなる。そういう時間だった。
やがて、誰かの足音が近づいてくる。
「夜の空気が冷えるな」
振り返らずとも分かった。爺さんだ。彼が持ってきたのは古い水筒と缶。
「……来ると思った」
ヴィオラの声に、少しだけ緩みが混じった。
「今日くらい休んだって、誰も文句言わんぞ」
爺さんが缶をひとつ、俺に投げる。
「ありがとよ」
片手で受け取ると、冷たい缶の感触が掌を刺す。
「中身は?」
「……あいつのロッカーから。保存酒だ」
誰のことか、聞かなくても分かる。
俺はわずかに眉をひそめ、静かに缶を開ける。鼻にツンとくる、強い酒の匂い。ヴィオラもまた、水筒を受け取っていた。ただ、それを手の中で握っているだけ。
「……ありがとう」
爺さんはそれに頷くだけで、ヴィオラの隣に腰を下ろす。
「爺より先に行くなんてな……。次に会った時は、強めに叱ってやらんと」
火の揺れだけが、返事のように揺れていた。
しばらくして、背後にまた気配。
「……随分静かだな」
Jだった。あいつの足音は、他の誰より静かだけど妙に重い。
「休んでていい。警戒は代わる」
「……いや。もう少し、ここにいる」
特に理由が無いがそう呟く。
なぜか、度数のきつい酒を飲んだはずなのに、頭だけが妙に冴えていた。
「あいつは最後、何考えてたんだろうな」
問いというより、ただ口をついて出た独り言だった。
Jは、火を見つめたまま、しばらく沈黙していた。
「……さぁな。俺の部下も最後は何を思ったんだろうな」
感情のない声だった。でも、それが余計に重かった。
「名前も、癖も、全部覚えてる。……それでも、死ぬときは呆気ない」
「……同じだな」
煙草をくわえ直し、短く吐き出す。
それでも、とヴィオラが口を開いた。
「でも、後悔してないと思う」
小さな声。でも、確信のこもった声だった。
彼女の水筒がようやく傾き、液体の音がわずかに響いた。
「ま、あいつらしいよな」
俺はそれ以上何も言えず、ただ目の前の火を見つめていた。
Jがそっと頷く。
「……覚えておこう。あんたらの仲間も、俺の部下も。忘れられたら、それがほんとの終わりだ」
「……そうだな」
爺さんの呟きに、ヴィオラが小さく肩を寄せた。
温もりなんて、とうに諦めたはずなのに。
それでも、不思議と少しだけ心がほどけていた。
同じ頃、駅の中では酒盛りが熱を帯び始める。灯りと笑い声が集まるその場所から、少女は少しだけ離れていた。
輪の中に加わることもできず、ただ、その光を見ていた。
人の輪の中に、ジークの姿が見えた。
生きて帰ってきた。
それだけで、胸の奥が痛むほどに嬉しかった。
けれど、近づくことはできなかった。
──パパは、いない。
自分のせいで、みんなが傷ついた。
ライオネルが、帰ってこなかった。
目線の先では、強い人々が大事な記憶と折り合いを付けようと語らい合っている。あの中に踏み込んだ瞬間、誰かが自分を許してしまう気がした。
自分自身まで、それを許してしまいそうで怖かった。
「……ごめんなさい」
特定の誰かに向けて言ったわけではない。
ただ、言わなければいけない気がした。
私は目を背けると、静かに踵を返す。振り向かないまま、その場を離れる。
人目を忍ぶ様に、駅の外に出る。夜空の下、ドラム缶を囲うグレゴールさん達の姿が見えた。地上にある警備区画の隅っこへ向かうと寂れたコンクリートを背に膝を抱えた。
「……私って何なんだろう」
本心からの問いだった。パパの声を思い出すより、誰かの悲鳴や銃声。そんなものの方がずっと身近にある。そして、何もできない私が原因で私を救ってくれた人たちが傷ついて倒れていく。
私は、その原因すら思い出せない。分かるのはパパが原生生物であること、ママは人であること。ママの顔は思い出せない。
そんな私を誰も責めなかった。傷ついて一番にかけてくれた言葉は「ごめん……」だった。謝られるような立場じゃないのに。
空を見上げると、鈍い輝きを放つ星が一つだけ見えた。
「……私とおんなじだね」
そう呟いたとき、どこか遠くからパパの声が聞こえた。
──サヨナラ。私ノリリィ。愛シテイルヨ
「パパ?」
辺りを見回しても、当たり前のように何も姿が無い。続くパパの言葉はもうなかった。そして、それが意味することを理解した。
「……パパ。分かったよ」
服の胸元をギュッと握りしめる。涙が、我慢しても溢れた。ここは外、大声を出せば危険を呼ぶ可能性もある。
だから必死に声を押し殺す。
「……っ、う、く……ぅ……っ、パパ……っ……」
私は、本当に世界に一人きりになってしまった。
喉の奥が痛い。息が詰まる、それでも誰にも気づかれたくなくて、声を押し殺して泣いた。
でも、抑えたはずの涙は止まらず、胸の奥で何かが壊れていく。
──その時だった。
視界の端が、にじんで揺れた。
世界がほんのわずか、軋んだ気がした。
空気が変わる。冷たい風に混じって、何か暖かいものが頬を撫でた。
……風じゃない。土の匂いだった。湿った緑の、深く優しい匂い。
「……え?」
顔を上げると、目の前に見慣れない光景を見た。
コンクリートに囲まれていたはずの足元に、小さな芽がひとつ、ひっそりと顔を出している。
──共鳴。
耳鳴りのような、波のような、けれどどこか懐かしい音が、頭の奥に広がっていく。それは、言葉ではなかった。だけど、理解だけが流れ込んでくる。
まるで何かと繋がったような、遠い声――
どうして自分が生まれたのか。
何のために存在するのか。
そして、これから何をすべきか。
知識でも記憶でもない。もっと原始的で、生々しく、逆らえない本能だった。
胸の奥で、“何か”が静かに開いていく。
優しかった。あたたかかった。
無数の命の重なり。草の声、木々のささやき、大地の息吹。
遠い昔からずっと、人間に踏みにじられてきた命の星の、痛みと祈りがそこにあった。
けれど――
その奥に、別の感情が潜んでいた。
悲しみ。怒り。憎しみ。
色も、形もないそれが、黒い濁流のように私の意識に流れ込んできた。
「っ……やだ、やめて……!」
怖い、と。言葉にしても、止まらなかった。
無数の目が、無数の声が、自分を通して人間という種を見ていた。
狩られ、焼かれ、汚され、使い捨てにされてきた命たち。
大地ごと引き裂かれ、何も言えずに朽ちていった“存在”たち。
その記憶が、感情が、この身を伝って流れ込んでくる。
「ごめん……ごめんなさい……!」
自分がその一部であることが、耐えられなかった。
人間として生まれたことが、怖くてたまらなかった。
不思議と理解してしまう。これは世界の本当の痛みだ。
抑えることができない震えに、崩れるように膝をついた。
涙とは別に、呼吸がうまくできない。吐き気すら込み上げる。
けれどその中で――たしかに、誰かの祈りにも似た声が残っていた。
「私のリリィ、愛しているよ」
――パパの声。それだけが、私の“人間としての心”を繋ぎとめようとする。
でも……足りなかった。
胸の奥で、もっと強く、もっと激しく、何かが蠢いていた。叫びたいほどの喪失感。身体の芯を焼くような不安。パパの声さえ、それを抑えるには弱すぎた。
怖い。寒い。誰もいない。ひとり。ひとり。
――ジーク。
その名が浮かんだ瞬間、視界の端が光を捉えた。
顔を上げると、そこに彼がいた。
「リリィ?」
優しい声だった。まるで全部を包んでくれるみたいな、嘘みたいに温かい声だった。
「おい、大丈夫か?」
ジークが近づく。その手が、そっと肩に触れる。
それだけで――何かが決壊した。
気づけば、私は彼にしがみついていた。涙も嗚咽も、止まらなかった。
「……ジーク……」
それだけ言うと、私は――
彼の唇に、自分の唇を押しつけていた。
考えるよりも先に、身体が動いていた。もう、止めようなんて思えなかった。
――誰かに、受け止めてほしかった。
「ごめん……っ」
謝る理由も分からないまま、私は彼の胸に顔を埋めた。全身が震えている。 感情が、抑えられない。それでもジークに触れていたかった。誰でもいいわけじゃない。彼じゃなきゃ、だめだった。
この衝動がどこから来たのか、分からない。でも、本能的に理解する。私はもう昔の私じゃない。
「ジーク……お願い……」
その声は懇願というより、祈りだった。言葉は、もうこれ以上いらなかった。
言葉が出なかった。
ただ、彼女の唇が離れたあとも、自分の胸元に顔を埋める小さな体を、腕の中で感じていた。
肩にすがる手が熱い。震えている。
いや、違う――俺の方も、震えていた。
今にも壊れそうな声で、名を呼ばれて、何かが――引き裂かれた。
気づけば、腕が勝手に動いていた。
その体を抱き寄せる。骨ばってて、細くて、でも今、一番重いもの。
何も言えなかった。
口を開けば、弱音が出そうだった。
リリィの頬が俺の首筋に触れる。そのぬくもりが、あまりにも――
「……リリィ……」
彼女の名を呼ぶと、顔が上がった。
泣き腫らした瞳。熱に浮かされたみたいな視線。
そのまま、言葉もなく――彼女はもう一度、唇を重ねてきた。
抵抗はできなかった。
する理由が、もう残ってなかった。
ただ、生きていることを確かめるみたいに。
彼女の指先が、喉元に、胸に、腕に触れてくる。
優しさなんかじゃない。もっと衝動的で、もっと――怖いほど、純粋な依存。
「……大丈夫だ、ここにいる」
呟きながら、俺も応える。
無意識に、だが確かに。
彼女の背に回した手に、力がこもる。
(守らなきゃ)
心の奥がざわついた。
でも――それでもいい、と思った。
今はただ、彼女の「救い」になりたかった。
自分の価値を、意味を、そこに見つけ気がした。
服の隙間から指がすべりこむ。
リリィの肌が触れた瞬間、息が詰まる。
細い肩が、俺の手の中でかすかに震える。
その震えが、俺の中の何かを呼び起こした。
ずっと忘れていた感覚。
誰かに触れられること。
誰かを欲しがること。
そして――欲しがられること。
「……今度は奪わせない」
小さく呟く。火の消えた心に何かが灯った気がした。
やがて、彼女から伸びる蔦が、ゆっくりと俺の腰に、腕に、足に絡みついてくる。まるで触れたものすべてを離すまいとするかのように、蔦は優しく、けれど確かに俺を縛っていく。肌に当たるたび、微かな脈動が伝わってくる。まるでリリィの心音のようだった。
リリィが俺の名前を呼ぶたびに、生きているという実感がした。
彼女の身体が震えながらも俺を求めてくる。それに対して俺は求められるまま、彼女の熱に溶けていった。
その夜、二人の孤独が、交わり、溶け合い、ひとつの熱を生んだ。
共に求め合う。いや、依存しあっている二人を遠くから見ている影があった。やがて、影はその場を立ち去る。
歩を進めた先で、小さな影の姿が見えた。
「K。一人で出歩いたら危ないよ」
「夜風に当たってただけさ。Q」
Qはまるで信じていないように目線を飛ばし私の手を握る。
「リリィ君は、ジーク君を選んだみたいだね」
「……見てたの? あまりいい趣味とは言えないね」
繋がれた手を引かれるまま、敷地内の倉庫に向かう。
「彼女は、『開花』するのさ。少し、羨ましい」
「……K。君が望むならさ」
「……Q。この話は前もしただろ。もう決めたのさ」
倉庫の鍵を開けて、扉を開ける。そして、飛び込んできた匂いを吸い込んだとき、強い動悸に襲われる。
「……Q。すまないが、少しだけ頼むよ」
「安心して。誰も近づけないよ」
Qは寂しそうに微笑みながら、私を見つめてそう言った。その言葉に少しだけ安心すると、私は薄暗い倉庫の中に消えた。
やがて、ガシャリと鍵のかかった音が倉庫の中から聞こえてくる。
Qはしまった扉に背中を預けると、崩れるように座り込み、手に持ったライフルを握りしめる。
灯りのない狭い空間。Kは膝をつき、崩れるように座り込んでいた。
Jの私物が詰められた布袋を胸に抱く。その布の端を指でなぞり、唇を押し当てるようにして――言葉が零れる。
「……J……」
震えた声は、普段の理知的な彼女からは想像もできない、ただの少女のものだった。
「さみしい……やだ……やなの……」
Jのシャツの端を口元に寄せ、子どものように擦り寄る。頬が濡れていた。もう、誰にも見せられる顔じゃない。
「ねえ……お願い……おねがい、わたしのこと……見て……見ててよ……ずっと、そばに……いてよ……」
泣きじゃくりながら、Jの匂いを必死に吸い込むようにして布を握る。
「わたし、いい子にするから……がんばるから……だから……J、どこにも、いかないで……」
その声は嗚咽に呑まれ、言葉にならなくなっていった。
何も聞こえないふりをしながら、Qは倉庫の前に座り込む。
Kが背負ったものの重さを、何もできずにただ見守るしかない自分が、どれだけ無力かを噛みしめながら。
そして、誰にも聞こえないように呟く。
「芽吹き。原生生物の集合意識へ……共鳴する。きっかけは、外部からの強い感情」
私――いや、僕だ。……僕は知っている。アカデメイアの研究者たちがどんな実験を繰り返してきたか。そして、どんな「結果」を期待していたかを。
「開花。条件は愛する人と交わること」
馬鹿げてる。
それで変わるとか、目覚めるとか――
口にすればするほど、命を弄ぶような条件にしか思えない。
本当は命も感情も、自分の物なのに。
「勝手に弄繰り回して。使命を押し付けやがってさ」
「……みんな。死んじゃえばいいのに」
そう呟いたあと、Qの頬を、ひとすじの雫が伝っていた。
吹き付ける夜風が、濡れた頬を直ぐに乾かしてゆく。
同じ頃、アカデメイアの前哨基地、タナトス・ポイントを冷たい風が吹き抜けた。
「……寒。こっちは特に冷えるな」
ヴォルフ配給の食事を受け取ると、基地内に設置された医療テントへ歩を進めた。
両手がトレイでふさがっているので、足でテントの幕を開けると、中から騒がしい声が飛び込んでくる。
「ヴォルフ! 遅いぞ! けが人の楽しみを奪うな!」
「……元気なら自分で取って来いよ」
アレクの声を皮切りに、テント内を負傷者たちのギャーギャーと騒ぐ声が鳴り響き始めた。
けが人と言ってもここは軽傷者のテントだ。
手に持ったトレイを渡すと、皆ガツガツと食事を始める。
「まぁ。大した怪我じゃなくてよかったな」
「お前なぁ。俺の視界の歪み具合しらないだろ? それなのに見たかよ、あのスーパーショット。敵も一撃だったぜ」
崩れ落ちる敵機と、空いた敵の陣形の穴に飛び込んだあの光景を思い出す。
あの戦闘で、パラゴン隊からは3名、センチネル隊は2名が殉職した。亡くなったのは殆どがベテランの尉官。
生き残ったパラゴン隊の隊員は重症。そしてクロスフォード少佐もいまだに意識が戻っていなかった。
「珍しくいい射撃だったな」
「珍しくは余計だろ!!」
そこで会話が止まってしまう。すると、食事をする食器の音に紛れて泣き声が聞こえてくる。
目を向ければそこにはセンチネル隊の生き残り、ラゼットとルークが居た。
「……ファイ中尉。俺の、俺のせいで。ユマも……」
「やめろよラゼット。飯が不味くなる」
拳を握りしめるラゼットを見もせずに、ルークは一定のテンポでスプーンを口に運ぶ。
その言葉と様子に、ラゼットが持っていたスプーン叩きつけて怒鳴る。
「リード! お前は何にも感じないのかよ! そもそもレーダーでお前が気づいてれば」
「あぁ。ユマは死ななかったかもな。それに、お前が冷静だったらファイ隊長も生きてたかもしれない」
リードの言葉にラゼットは俯くと悔しそうに涙をこぼす。
その様子に俺は思わず口を開いた。
「俺らも一緒さ。もっと強かったらルクレール中尉も救えたかもしれない」
「だから、強くなろうぜ。俺たちを助けてくれた人たちに、次は俺たちがなるんだ」
そう呟くと、テント内をしばらく静寂が支配した。皆、頭の中で誰かを思い浮かべている。きっと俺たちは、最後まで戦ったあの5人の背中と雄姿を忘れない。
でも、誰かが死んだから強くなるんじゃない。きっと、誰かを守れるようになるために強くならなくちゃいけないんだ。俺はあの戦いでそれを知った。
「……少尉、結構な決意だ。そうしたらこいつを基地の隅っこにある倉庫まで運んで来い」
低い声に振り替えると、そこにはニヤニヤとしたハルト中尉の姿があった。
「運ばなきゃいけないのがまだまだあってな。頑張れば日付が回る前には終わるぞ」
「……行ってきます!」
敬礼をすると、テントを足早に飛び出す。
その様子を見たアレクはぼそり呟いた。
「締まらねぇな……」
アレクはトレイに乗ったチューブに詰められたデザートを口に運ぶ。
「やっぱ甘すぎるわこれ……」
テントから飛び出したヴォルフの耳に、アレクの叫び声が微かに追いかけてきた――気がした。
一方その頃、倉庫ではニルスとエリスが黙々と物資の在庫確認を行っていた。
「……明日の朝食分が足りないな。こっちの棚に予備があるはず」
エリスの声はいつも通り冷静だった。けれど、それは“役”に徹しているように見えた。
無表情の奥に、何かを押し殺しているのが分かる。
重たい空気が倉庫に染みついていた。外より冷える室温、床に落ちた段ボールの角。乾いた埃の匂い。
「……少佐、平気かね」
言ってから、自分の声が思った以上に小さかったことに気づいた。
エリスは一瞬だけ手を止めた。が、すぐに視線を落とし、数を数える動作に戻る。やはり不安なのだろうか。いや――そうではない。これは、俺の問題だ。
「殺しても死なない人……お前がそう言ったんだろ」
「……まぁな」
少しの間、沈黙が落ちた。数の確認音さえ聞こえなくなる。
あの人が、目を開けなかった。
ただそれだけの事実に、肺がぎゅっと押し潰された。
今まで感じたことのない、不確かな恐怖。自分ではない誰かが倒れたというだけなのに、妙に現実味を帯びて迫ってくる。
「……歯切れが悪いな。らしくないぞ」
「笑うなよ……」
言葉に出してしまえば、もう誤魔化せない。
「俺は、目を開けない少佐を見た時、初めて“死”を感じたんだ」
口にした途端、胸の内側で何かが軋んだ。
信じていた。信じ切っていた。強さがあれば死なない。技術があれば倒れない。
だけどそれが嘘だったと突きつけられた。
「俺も……いつか、ああなるのかなって」
震えた指先で、手に持っていたリストを丸めた。エリスはそれを見て、何も言わずしゃがみ込み、俺の隣に並ぶ。
そして、無言で肩と肩が触れた。
「……怖いのか?」
低い声だった。けれど、その響きに、逃げ道を塞がれた。
否定しようとした。でも、喉が詰まって言葉にならない。
代わりに、エリスの手が伸びる。指先が、俺の手の甲にそっと触れた。
温かかった。人肌って、こんなに優しいものだったか。
「この前、私が震えてた時。お前は、なんて言った?」
問いかけというより、思い出させるような呟き。
「大丈夫だって。そう言った」
あの夜、そう言って彼女の手を握った。
あれは慰めじゃない。ただ、思ったことをそのまま伝えた。
「……なら、今度は私が言う番だな」
エリスは立ち上がることも、体を寄せることもしなかった。ただ、俺の顎にそっと手を添えた。
細くて、硬くて、冷たい指。それでも、真っ直ぐに触れてくるその仕草に、嘘はなかった。
「私の知っている、ニルス・エングストローム軍曹なら。その恐怖にも立ち向かえると、信じてる」
そう言って――エリスはゆっくりと、俺の唇に触れた。
柔らかくて、あたたかくて。
触れただけなのに、何かが壊れそうになった。
気づけば、涙がこみ上げていた。
みっともないと思った。でも止まらなかった。
誤魔化すように、エリスの身体を思いきり抱きしめる。
「……苦しいぞ、ニルス」
「……うるせぇよ」
声が震えた。でも、それでもよかった。
誰かと震えを分け合えるなら、それはきっと、弱さじゃない。
――その様子を、ジェイク・サトザキは見てしまった。
物資の確認を終えた帰り道。手にしていたリストを折り畳もうとして、ふと倉庫の隙間から漏れた灯りに気づいた。
何気なく覗いた先で、ニルスが誰かを抱きしめる姿が目に入った。
最初は誰か分からなかった。けれど、エリスの整った金髪が揺れるのを見た瞬間、視界がにじんだ。
心臓が変な音を立てる。息が苦しい。手にしていたリストが床に落ちたことにすら気づかず、ジェイクは駆け出していた。
どこへ向かうつもりもなかった。ただ、あの光景から遠ざかりたかった。
走る靴音が、夜の廊下に乾いた響きを刻む。
けれど、角を曲がった先で――彼女は誰かとぶつかりそうになった。
「うわっ……あ、ごめ――」
見上げると、そこにいたのはヴォルフ少尉だった。
ジェイクの頬に涙の筋が残っていることに、ヴォルフはすぐ気づいた。
「……ジェイク?」
驚いたような声。その声を聞いてしまって、ジェイクの中の平静が完全に崩れた。
「……なにしてんだ、こんな時間に」
「……っ、うるさい……です!」
咄嗟に言葉がこぼれた。止められなかった。
ジェイクの肩が小さく震える。
「……私、馬鹿みたいですよね。ずっと、気づかれなくて」
いつもの敬語。それが、無理やり口から出たように聞こえた。
「戦場じゃあんなに息合ってたのに……。頼られてるって、勘違いしてた……」
その言葉は、徐々に早く、そして感情を孕んでいく。
「なのに……どうして……エリスなんだよ……。どうして私じゃ……駄目なんだよ……!」
とうとう、語尾が崩れる。
「こんなに……こんなに、ずっと、見てたのに……!」
叫ぶような声に、夜の風がそっと吹き抜けた。
ヴォルフは何も言わない。ただ、わずかに顔を伏せた。
「……あんた、何黙ってんの」
ジェイクの睨むような視線に、ヴォルフはゆっくりと顔を上げた。
「何か言ってよ……! 黙ってるくらいなら、何か、怒鳴ってでも……!」
けれど、ヴォルフは静かに、けれど真っ直ぐに目を見て言った。
「ジェイクが泣くとこ、見たくなかっただけだ」
その一言に、ジェイクの目が大きく開く。何かを返そうと口を開いたが、言葉が見つからなかった。
ヴォルフはそっと視線を逸らすと、夜空を見上げる。
鈍く光る星が、ひとつだけ瞬いていた。
「毎回、死にそうな戦いをしてるのに。たった一つ望んだ恋愛すら上手くいかない」
独白のような声だった。
「……嫌になっちまうよな」
その瞬間だった。ジェイクの瞳から、堪えていた涙が一気にあふれた。
「……っ、う、うわぁぁあ……っ!」
嗚咽と共に、彼女はヴォルフの胸に飛び込んだ。
咄嗟に腕が動いたが、ヴォルフは彼女の背に手を回すことができなかった。
ジェイクはヴォルフの胸に顔を埋めるようにして、ただ、声にならない声で泣きじゃくった。
肩が震えていた。唇が何かを呟いていたけれど、それはもう言葉ではなかった。
「なんで……なんで私じゃなかったの……っ」
「私だって、ずっと……あいつを見てたのに……」
その問いには、ヴォルフは答えなかった。
答えられなかった。何を言っても、きっと違ってしまう気がした。
震える彼女の頭に、手を置いてやりたかった。
けれど、その手はただ宙に浮いたまま、迷い、そしてゆっくりと下ろされた。
代わりに――ヴォルフは、もう一度、夜空を見上げた。
どこまでも遠い、救いのない空。
先ほど見えた鈍く光る星は、もう見えなくなっていた。
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