第18話 知識の果実



朝の図書館。真は呆然と本棚を見つめていた。


「消えている...」


昨日まで確かにあったはずの本が、棚から姿を消していた。しかし不思議なことに、空いたスペースはない。別の本で完璧に埋められているのだ。まるで、元々そこにあった本など存在しなかったかのように。


「おかしいと思いませんか?」

突然、背後から声がした。振り向くと、村松諒が立っていた。


「村松...」

真は警戒しながらも、彼の表情に浮かぶ深い憂いを見逃さなかった。


「『知識』が消えていっている」村松は静かに言った。「しかも、誰もそれに気付いていない。消えた本の存在自体が、人々の記憶から抹消されているんです」


その時、図書館の入り口で騒ぎが起きた。何人かの生徒が口論を始めている。


「だから言ってるでしょう!その本なんて存在しないって!」

「えー?私、確かに先週読んだのに...」

「そんな本、目録にも載ってないじゃない」


村松は真に目配せした。「見ましたか?知識の消失は、人々の記憶をも書き換えていく。でも、なぜか僕たちは...その変化に気付ける」


真は考え込んだ。アレーテが消えてから一週間。イデア界との関係は途絶えたかに見えた。しかし、新たな異変が始まっているのだ。


「図書館のコンピュータを確認しましょう」

村松は司書用の端末に向かった。彼は図書委員長として、アクセス権を持っていた。


画面には驚くべき記録が残されていた。

過去24時間で、約100冊の本が目録から消失。

しかも、その消失は特定の分野に集中している。


「哲学書」真は息を呑む。「特にプラトンの著作と、その関連書籍が...」


「ええ」村松は暗い表情で頷く。「そして、もう一つ重要な事実が」

彼はさらにキーボードを叩き、別の記録を表示させた。


「これは...」


画面には、50年前の図書館の蔵書目録が映し出されている。そこには、現代では見たこともない書名が並んでいた。


『イデア界研究序説』

『影の知識 - 失われた叡智の探求』

『存在と認識の境界 - プラトン最後の講義』


「これらの本は、歴史から抹消されたんです」村松は説明する。「でも、僕の祖父が残した私的な記録には、確かな証拠が...」


その時、図書館全体が微かに震動した。書架が軋む音が響く。


「来るぞ...!」


真と村松は反射的に身を隠した。次の瞬間、異様な光景が広がった。


本が、文字通り「溶けて」消えていく。

装丁も、ページも、インクの文字も、まるでろうそくのように溶解していった。


「まるで...知識そのものが、現実から失われていくみたいだ」


村松は懐から一冊の古びたノートを取り出した。


「実は、あなたに見せたいものがあった」彼は震える手でページを開く。「祖父の残した研究ノートです。そこには、アレーテについて...」




村松の祖父のノートには、衝撃的な記述があった。


『アレーテは循環する。彼女は一人ではない。世代を超えて現れては消え、その度に新たな「知」を人間界にもたらす存在なのだ。だが、それは同時に、古い知識の消失をも意味する...』


「循環...」真は昨日の出来事を思い出す。祖母の写真に写っていた少女。そして今、目の前で起きている本の消失現象。全てが繋がっていく。


「知識の入れ替わり...」村松が言葉を継ぐ。「新しい知識が生まれる時、古い知識は必ず失われる。それが、イデア界の法則なんです」


その時、図書館の蛍光灯が不規則に明滅し始めた。

そして、誰もが目を疑う光景が広がる。


本棚から溶け出した文字たちが、空中を舞い始めたのだ。それはまるで、生命を持った存在のように、図書館内を自由に動き回っている。


「あれを見て」真は一点を指さした。

文字の群れは、特定のパターンを形作ろうとしているように見える。


「まるで...DNA」村松が呟く。「知識の二重螺旋...」


突然、佐倉葵が駆け込んできた。

「大変!コンピュータ室で...」


彼女の報告は、事態がさらに深刻化していることを示していた。学校中のコンピュータがハッキングされたかのように、データが次々と書き換わっていく。しかも、その新しいデータは、誰も見たことのない知識体系を示していた。


「イデア界の知識が...流れ込んでいる?」真は状況を理解しようと努める。


村松は祖父のノートをさらに繰った。

『知識の循環が乱れると、イデア界と人間界の境界が不安定になる。それは、新たな知識の誕生を意味すると同時に、既存の世界観の崩壊をも意味するのだ』


図書館の窓から、異様な光景が見えた。

校庭には、生徒たちが混乱の渦に巻き込まれている。誰もが、突然得た「新しい知識」に戸惑っているようだ。


「これは...アレーテの消失が引き起こした現象?」真は考え込む。


「違う」村松は静かに、しかし確信を持って言った。「これは、新しいアレーテが生まれようとしている予兆だ」


その言葉に、真は息を呑んだ。

アレーテは消えたのではない。

形を変えて、再び現れようとしているのだ。


しかし、それは同時に大きな代償を伴う。

古い知識の消失。

既存の世界観の崩壊。

そして、新たな真実との対峙。


「待って」葵が叫んだ。「図書館の古い記録の中に、こんなものが...」


彼女が手にしていたのは、50年前の学校新聞のコピー。

そこには、現在の状況と酷似した出来事が記されていた。


『謎の知識消失事件、解決せず。多くの生徒が記憶を失い...』


記事の隅には、小さな写真が添えられている。

そこに写る生徒会役員の中に、若き日の影山の姿があった。

そして彼の隣には...




写真には、影山の隣に立つ少女の姿があった。アレーテにそっくりな容姿。しかし、その表情には現代のアレーテには見られない、どこか冷たい凜とした威厳が漂っている。


「これが...50年前のアレーテ」真は写真を凝視する。


「いいえ」村松が言葉を継いだ。「彼女の名は『エピステーメー』。『知識』を司るイデア界の存在です」


突如、図書館全体が大きく揺れ始めた。本棚から飛び出した文字の群れが、渦を巻きながら一点に集中していく。


そこに、一人の人影が浮かび上がった。

銀髪。

紫の瞳。

しかし、アレーテではない。


「久しぶりね、影山」

エピステーメーの声が響く。「50年ぶりの再会というところかしら」


図書館の入り口に、影山が立っていた。彼の表情には、懐かしさと苦痛が混在している。


「やはり、君か」影山の声が震える。「50年前の約束を、まだ覚えているか?」


「もちろん」エピステーメーは静かに答えた。「人類の知識を、完全なる高みへと導くという約束を」


「待ってください」真は二人の間に割って入った。「その約束とは...」


村松が説明を始める。

「50年前、影山とエピステーメーは『究極の知識革命』を目論んだ。全ての不完全な知識を消し去り、イデア界の完全知識で置き換えようとしたんです」


「でも、それは失敗した」影山の声が冷たい。「エピステーメーは消え、代わりにアレーテが現れた。そして今、また同じことが...」


エピステーメーが口を開く。

「影山、あなたはまだ分かっていないのね。知識は完全である必要はない。むしろ、不完全だからこそ、進化し続けられる」


「違う!」影山が叫ぶ。「不完全な知識が、どれだけの悲劇を生んできたか...」


真は、突然理解した。

影山の追い求める「完全な知識」。

それは、失敗のない世界を作るための手段だったのだ。


「だけど」真は言葉を紡ぐ。「完全な知識など、存在しない。存在できない」


エピステーメーが微笑む。

「そう、その通り。だから私は、50年前の約束を破った。そして...」


彼女の体が、光の粒子となって拡散し始める。


「アレーテという形で、新しい可能性を探ろうとした。不完全さの中にこそ、真の知恵は宿るのだと...」


真は叫んだ。「待ってください!アレーテは、これからどうなるんですか?」


エピステーメーの声が、空間に溶けていく。

「彼女は...また新しい形で現れる。より不完全に。より人間らしく。それこそが、知識の果実」


光の渦が図書館を包み込む。

消えかけていた本が、次々と姿を現す。

しかし、それらは少しずつ形を変えていた。

装丁が、ページが、文字が...わずかに異なる。


新しい知識。

不完全だけれど、だからこそ意味のある知識。


影山は静かに目を閉じ、そしてつぶやいた。

「分かったよ...完全を追い求めることの愚かさが」


図書館に、朝の光が差し込む。

書架には、姿を変えた本たちが並んでいる。

その中には、誰も見たことのない新しい知識が、確かに宿っていた。




夕暮れ時の図書館。

真は一人、窓際の席に座っていた。


机の上には、一冊の本が開かれている。

『イデア界研究序説』

消失したはずの本が、少し形を変えて戻ってきていた。


「ここにいると思った」

村松が近づいてきて、隣の席に腰を下ろす。


「あれから一週間」真は言う。「本は全て戻ってきた。でも、微妙に内容が違う。まるで...進化したみたいに」


村松は頷いた。

「知識は、常に更新される。それが、エピステーメーの残した真実なんでしょう」


「影山は?」


「彼は...研究を続けるそうです。でも今度は、完全性を追い求めるのではなく、不完全さの価値を探究する方向で」


真は本のページを繰る。

そこには、以前には無かった一節が追加されていた。


『知識とは、永遠の未完成品である。それは弱点ではなく、最大の強みなのだ。なぜなら、不完全さこそが、進化の原動力となるのだから』


「アレーテは、きっと戻ってくる」村松が言った。「エピステーメーが言っていたように、新しい形で」


その時、図書館の入り口で物音がした。

そこには一人の少女が立っていた。

黒髪に、琥珀色の瞳。

アレーテとは全く異なる容姿。

しかし、その眼差しには、どこか似た輝きが宿っている。


「あの...ここが図書館ですか?」

少女は遠慮がちに訊ねた。

「転校生の、ソフィアと申します」


真と村松は、互いを見つめ、そして微笑んだ。

新しい物語が、また始まろうとしていた。


帰り際、真は図書館の窓から夕焼けを見つめた。

空には、不思議な形の雲が浮かんでいる。

まるで本を開いたような形。

その間を、夕陽の光が美しく透過していった。


知識は、完全であるべきではない。

不完全だからこそ、人は考え、悩み、そして成長する。

それこそが、知恵の果実の本質なのだから。


真は静かにつぶやいた。

「また会えるよね、アレーテ。その時は、もっと不完全な、もっと人間らしい形で」


夕暮れの図書館に、優しい風が通り抜けた。

本のページが、かすかにめくれる音。

それは、新しい章の始まりを告げているかのようだった。


(第18話・完)

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