第11話 自由の代償



「規則とは、自由を守るためにある」


放課後の学院に、村松諒の声が響く。哲学部の部室で、彼は画面に映し出された校則改革案を見つめていた。


「本当にそうかな」真が静かに問いかける。「最近の校則改革運動を見ていると、むしろ規則そのものが目的化しているように見える」


部室の窓からは、夕暮れの光が差し込んでいた。その光は、村松のメガネに反射して不自然な輝きを放つ。


「ねぇ、これ見て」葵がスマートフォンの画面を見せる。「SNSで話題になってる投稿なんだけど...」


画面には、奇妙な写真が映っている。校則を記した校則手帳のページが、文字だけ消え去っているのだ。しかも、その現象は学院中で同時多発的に起きているという。


アレーテが眉をひそめる。「これは...イデア界からの干渉ですね。でも、今までとは少し違う」


その時、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。


「もう、制約なんていらない!」

「自由こそが、正義だ!」


窓の外を見ると、校庭に生徒たちが集まっている。校則改革推進派の集会のようだ。しかし、その様子は普段の生徒会活動とは明らかに違っていた。まるで、別の意志に動かされているかのような熱狂。


「ちょっと、待って」葵が立ち上がる。「あの中に...村松くんがいない?」


真たちが目を凝らすと、確かに群衆の中に村松の姿があった。しかし普段の冷静な彼とは違い、異様な昂揺を見せている。


「村松...」真が呟く。「何か、隠していたのか」


アレーテが突然、体を震わせる。「この感覚...イデア界が、大きく揺れています」


まるでその言葉に呼応するように、空が歪み始めた。夕焼けの赤が、不自然な色に変化していく。


「真さん」アレーテが真剣な表情で言う。「村松さんには、イデア界に関する何かがある。私には、確かにそう感じられます」


「分かった」真が頷く。「葵、君は他の生徒たちの様子を見ていて。僕とアレーテで村松を...」


その時、学院全体を揺るがすような振動が走った。


窓の外では、校則手帳を持った生徒たちの周りに、奇妙な光が渦巻き始めていた。それは「自由」という概念が実体化したかのような、制御不能な輝き。


「自由のイデア...」アレーテの声が震える。「でも、これは歪んでいます。本来の自由の形ではない」


真は、村松の姿を追って部室を飛び出した。廊下を走りながら、彼は考える。


なぜ村松がこれに関わっているのか。

そして、イデア界との関係は?

答えは、彼の過去にあるはずだ...。


真と村松との過去が、走る足音とともに脳裏をよぎる。


入学直後の生徒会選挙。当時、真と村松は共に生徒会長候補として戦った。村松は「規律ある自由」を、真は「対話による理解」を掲げた。結果は僅差で真の勝利。その後、村松は哲学部で真を支えることを選んだ。しかし今、その時の本当の意味が明らかになろうとしていた。


「真さん!」アレーテの声が廊下に響く。「待ってください!」


真が立ち止まると、アレーテが追いついた。銀髪が夕陽に輝いている。


「村松さんの過去...私、イデア界で見たんです」彼女の紫の瞳が真剣な光を帯びる。「彼は以前、イデア界に触れたことがある。しかも...」


その時、廊下の窓ガラスが大きく揺れ、異様な音を立てた。外では、生徒たちの騒ぎが更に大きくなっている。


「自由を!」

「規則からの解放を!」


しかしその声は、どこか人工的だった。まるで誰かに操られているかのよう。


「あれは」アレーテが窓の外を指さす。


校庭の中央で、村松が両手を広げて立っている。彼の周りには、金色の光の渦。それは「自由のイデア」が具現化したかのような輝きを放っていた。


「説明する時間はありません」アレーテが真の腕を掴む。「でも、これだけは。村松さんは三年前、イデア界で『絶対的自由』を見てしまったんです。そして...」


真の目が広がる。「待てよ。三年前といえば...」


あの事件の時期と重なる。学院で起きた連続的な校則違反事件。そして、突如として姿を消した規律委員長。当時、村松は規律委員会の一員だった。


「行きましょう」アレーテが言う。「でも、約束してください。イデア界に入ったら、私の指示を聞いてくれることを」


「分かった」真が頷く。「君を信じる」


その瞬間、世界が大きく歪んだ。廊下の壁が波打ち、床が傾く。まるで現実そのものが、液体のように揺れている。


「イデア界への干渉が強まっています」アレーテの体が淡い光を放ち始める。「私たちも、向こうへ...」


銀色の光が二人を包み込む。視界が一瞬、真っ白になる。


目が覚めると、そこはもう現実の学院ではなかった。


無限に続く廊下。壁には数え切れないほどの鎖が絡み合い、そしてその一つ一つが少しずつ砕けていく。床には規則や掟を記した羊皮紙が敷き詰められ、文字が消えては現れを繰り返している。


「これが...自由のイデア界?」


「ええ」アレーテが答える。その姿は現実世界より実体感を増していた。「でも、歪められています。本来の自由は、こんな形ではないはず」


遠くから、村松の声が響いてくる。


「完璧な自由を...全ての規則から解き放たれた世界を...」


真とアレーテは声を頼りに進む。廊下は不規則に曲がり、時には上下が逆転する。物理法則すら、ここでは「規則」として排除されようとしているかのよう。


「気をつけて」アレーテが真の袖を掴む。「この世界では、あなたの『常識』も『理性』も、規則として否定されようとします」


「それは、本当の自由とは違う」真が言う。「自由は、ただ規則がないことじゃない。むしろ...」


言葉が途切れる。目の前の空間が大きく開け、そこに村松の姿があった。


彼は巨大な黄金の球体の前に立っていた。それは「自由」の概念そのものが具現化したもののようだ。球体の表面では、無数の鎖が次々と砕け散っている。


「来たか」村松が振り向く。その瞳は、普段の冷静さを失い、黄金の光を宿していた。「なあ、真。覚えているか?三年前のことを」


「あの事件か」真が一歩前に出る。足元の羊皮紙が、その重みで軋む。


「そう」村松の声が反響する。「規律委員会での出来事。委員長が、イデア界の力で生徒たちを支配しようとした。絶対的な規律による管理を」


「だから君は...」


「そう、私は彼を止めた。そして、その時に見たんだ」村松が球体に手を触れる。「完璧な自由を。全ての規則から解放された究極の状態を」


球体が鮮やかに輝き、空間全体が振動する。


「でも、村松さん」アレーテが声を上げる。「それは本当の自由ではありません。規則の否定だけでは...」


村松の言葉が、イデア界の空間を震わせる。球体の輝きが増し、さらに多くの鎖が砕け散っていく。


「違う」真が静かに、しかし確かな声で言う。「アレーテは規則じゃない。彼女は、イデア界と現実の調和を求める存在だ」


「調和?」村松が嘲るように笑う。「どうして分からない?規則と自由は、本質的に相容れないんだ。だから私は、全ての規則を否定する。そうすれば...」


「それでは、カオスを生むだけです」アレーテが一歩前に出る。「本当の自由は、無秩序とは違う。それは...」


突然、球体が激しく脈動を始める。空間全体が歪み、床の羊皮紙が宙に舞い上がる。


「もう、遅い」村松の体が、徐々に黄金の光に包まれていく。「私は、完璧な自由を実現する。たとえ、この世界が崩壊しようとも...」


「村松!」真が叫ぶ。「君は間違っている。自由は、規則の対極にあるものじゃない」


「何...?」


「考えてみろ」真が続ける。「君が規律委員会で見たのは、確かに規則による支配の恐ろしさだった。でも、その時君が選んだ行動は、『正しい規則』を守るためだったはずだ」


村松の表情が、わずかに揺れる。


「規則は、時として人を縛る」アレーテが言う。「でも、それは同時に人を守り、そして導くもの。大切なのは、その在り方を常に問い続けること」


「問い続ける...?」村松の声が、少し本来の調子を取り戻す。


「そう」真が頷く。「だから僕たちには、哲学がある。物事の本質を探り、より良い形を求めていく。それこそが、本当の意味での自由じゃないのか?」


球体の輝きが、微かに変化する。純粋な黄金色から、より深みのある光へ。


「私も...同じ過ちを犯しそうになった」アレーテが静かに告白する。「イデア界の理想を、そのまま現実に持ち込もうとして。でも、真さんたちと出会って気付いたんです。大切なのは、理想と現実の対話なのだと」


村松の周りの光が、揺らぎ始める。


「対話...」彼の声が震える。「そうか。私は、規則による支配を否定するあまり、逆の極端に走ろうとしていた」


真が、村松に手を差し伸べる。


「戻ろう、村松。君の求める自由は、こんな形じゃないはずだ」


「でも...」村松が自分の手を見つめる。「私がしようとしていたことは」


「責任を取ればいい」真が言う。「そして、共に考えていこう。本当の自由とは何か、適切な規則とは何か」


アレーテの体から、柔らかな銀色の光が放たれる。それはsphereの黄金の光と混ざり合い、新しい色を作り出していく。


「見て」アレーテが指さす。「これが、本来の姿」


「これが...本来の自由」村松の声が、徐々に本来の冷静さを取り戻していく。「規則と自由が、互いを否定するのではなく、支え合う形」


球体の光が完全に変化し、空間全体が安定を取り戻していく。床の羊皮紙は、もはや消えることなく、むしろ新しい意味を帯びて輝いているように見える。


「帰りましょう」アレーテが二人に向かって微笑む。「現実世界でも、きっと色々な問題が待っているはずです」


光に包まれ、三人は現実へと戻った。


***


学院の校庭では、混乱が収まりつつあった。生徒たちは、まるで夢から覚めたように、徐々に正気を取り戻している。


「大丈夫?」葵が駆け寄ってくる。「急に、みんなが普通に戻り始めたから...」


「ああ」真が頷く。「一番大切なことに気付いたんだ」


村松は静かに校則手帳を開く。ページには、再び文字が浮かび上がっていた。しかし、その文字は以前より柔らかな印象を与える。まるで、規則と自由の新しい関係を象徴するかのように。


「私から、みんなに説明します」村松が言う。その声には、久しぶりの確かな意志が感じられた。


***


数日後、哲学部の部室で。


「校則改革委員会か」真が、机の上の書類に目を通す。「村松が委員長に」


「そうなの」葵が嬉しそうに報告する。「しかも、アプローチが面白いのよ。規則の意味を一つ一つ考え直して、生徒と教師が対話しながら、より良い形を探っていくんですって」


窓の外では、村松を中心に生徒たちが輪になって話し合っている様子が見える。その光景は、強制でも放任でもない、新しい形の自由を表現しているようだった。


「規則と自由は、本来、対立するものではないんですね」アレーテが窓辺から言う。「むしろ、互いを活かし合うことで、より深い意味を持つ」


「ああ」真が頷く。「哲学的な対話こそが、その可能性を開く。だからこそ、僕たちはここにいる」


夕暮れの光が部室を照らす。その中で、机の上の校則手帳が静かに輝いていた。それは単なる規則の本ではなく、自由への道標のように見えた。


「でも」葵が不思議そうに首を傾げる。「どうして村松くんは、あんなに『自由のイデア』に影響されやすかったの?」


「それは...」アレーテが答える。「彼の中に、強い正義感があったから。規則を守ることと、自由を求めることの間で、誰よりも真剣に悩んでいた。だからこそ」


「イデア界の力に触れやすかった」真が言葉を継ぐ。「でも、それは同時に、本質を理解する可能性も持っていたということだ」


村松は今、その可能性を現実のものにしようとしている。規則と自由の新しい関係を、現代の学院に築こうとしている。


「私たちの探求は、まだ始まったばかり」アレーテが言う。「イデア界と現実世界の関係も、きっとまだ見ぬ可能性を秘めている」


真は黙って頷く。窓の外では、夕陽が沈みかけていた。その光は、規則と自由が織りなす新しい物語の始まりを、静かに照らしているようだった。


【第11話終】

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