【TS転生マタ・ハリ百合短編小説】歴史の裏で咲いた愛 ―踊り子と侍女の密やかな誓い―(約15,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
第1話:出会い
1905年4月のパリは、生命が芽吹く季節を迎えていた。モンマルトルの通りには、早咲きのすみれが風に揺れ、新緑の香りが漂う。
目覚めたばかりの原川は、見慣れない天蓋付きのベッドの中で、自分の置かれた状況を理解しようとしていた。壁には、アール・ヌーヴォー様式特有の曲線を描く壁紙。窓辺には、レースのカーテンが春風に揺れている。
「失礼いたします」
ノックの音と共に、一人の女性が部屋に入ってきた。
「マリー・エレーヌ・デュモンと申します。これからお付きのメイドを務めさせていただきます」
二十三歳。淡い金髪は、後ろで控えめにまとめられ、白いレースのキャップで覆われている。碧眼には知的な光が宿り、黒を基調としたメイド服は、パリの一流屋敷に仕える者としての品格を漂わせていた。
「よろしくお願いします、マリー」
原川は、思わず柔らかな微笑みを浮かべていた。声に出して話すと、自分の声の変化に戸惑いを覚える。艶のある女性の声。それは確かに、マタ・ハリのものだった。
「まずはお着替えのお手伝いを」
マリーは、大きなワードローブから、最新流行のモーニングドレスを取り出した。薄紫のシルクに、繊細な手刺繍が施されている。
「これを……着るのですか?」
原川の声が、少し震えた。歴史研究者として、この時代の女性衣装について詳しい知識は持っていた。しかし、実際に着用するとなると――。
着替えを手伝うマリーの指先が、かすかに震えているのが伝わってくる。
(男性だった私にとって、女性の下着を着けることも慣れないのに、さらに着付けを手伝ってもらうなんて……)
マリーは慣れた手つきで、原川に下着を着せていく。まず、柔らかな木綿のシュミーズを肌に纏わせる。その布地の感触が、これまで経験したことのない繊細な刺激を与えた。
「では、コルセットを」
マリーの声に、原川は小さく息を呑む。コルセットが背中に当てられ、紐が一本ずつ通されていく。最初の引き締めに、思わず息が詰まる。
「少し痛みますが、お忍びください」
紐が引き締められるたび、胴回りが徐々に細くなっていく感覚。肋骨が締め付けられ、呼吸が浅くなる。姿勢を正さざるを得ない拘束感に、原川は戸惑いを覚えた。
次に、レースのドロワーズ。繊細な布地が脚を包み込む。レースの模様が肌に触れる感覚は、これまでの人生で味わったことのないものだった。上質な布地が醸し出す、かすかな摩擦音。
そしてペチコート。一枚、また一枚と重ねられていく。スカートの重みが増すたびに、動作が制限されていく。レース、フリル、プリーツが織りなす布地の重なりが、まるで檻のように下半身を包み込んでいく。
「少し歩いてみましょう」
マリーに促され、原川は小さな一歩を踏み出す。ペチコートが揺れ、布地が擦れ合う音が響く。これまでの自由な歩き方は許されず、小さな、淑女らしい歩幅を強いられる。
「姿勢を正しく」
背筋を伸ばし、顎を引き、肩を後ろに。コルセットに強制される姿勢の中で、原川は徐々に「女性らしい」立ち居振る舞いを学んでいく。それは単なる衣装の着用ではなく、新たな身体性の獲得だった。
鏡に映る自分の姿は、もはや東京大学の男性教授のものではなかった。そこには、一人の優美な貴婦人が佇んでいる。その変容の過程に、原川は畏怖と驚きを覚えずにはいられなかった。
全ての着付けが終わり、原川は深いため息をつく。しかしコルセットが、その動作さえも制限した。
これが、これから自分が生きていかねばならない日常なのだと、原川は静かに受け入れていった。
原川の気持ちを察したのか、マリーが優しく微笑んだ。
「慣れていらっしゃらなくても、ご心配には及びません。わたくしに身を任せていただければ」
その声には、不思議な安心感があった。まるで、原川の秘密を知っているかのような。
ドレスを着終えると、マリーは鏡台の前に原川を座らせ、丁寧に髪を梳き始めた。ブラシが髪をすき通る心地よい感触。女性らしい仕草が、少しずつ自然なものとなっていく。
「マダムのお髪、とても美しいですわ」
マリーの言葉に、原川は鏡越しに微かに頬を染めた。
窓の外では、パリの街が朝の喧騒に包まれ始めている。馬車の車輪が石畳を軋む音。市場へと向かう人々の話し声。遠くに見えるエッフェル塔が、朝日に輝いていた。
この瞬間、原川は確信した。マリーは、自分にとって単なるメイド以上の、かけがえのない存在になるだろうと。
それは、歴史を変えようとする壮大な計画の中で、思いがけない形で見出した、小さな、しかし確かな希望の灯だった。
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