短編集

@atulus1014

遥かな時間

放課後の教室には、西日が斜めに差し込む。授業が終わるとほとんどの生徒はすぐに帰るか、部活へと向かう。だが、帰宅部の俺はいつも最後まで教室に残る。理由は一つ——窓際の席にいる、篠宮遥を眺めるためだった。


 彼女はクラスの中でも特に目立つタイプではない。でも、静かに本を読んでいる横顔が妙に絵になる。サラサラの黒髪が風になびいて頬にかかるたび、彼女はそっと指で払いのける。その仕草を見るたびに、胸の奥がざわついて彼女を忘れられなくなった。


 今日もまた、俺は教室の隅で誰にも気づかれないように、遥を眺めていた。


「ねえ」


 突然、遥が顔を上げてこちらを見る。


 俺の心臓が大きく跳ねる。まさか、バレていたのか? いやいや、そんなはずは——。


「いつも、見てるよね」


 ——バレてた。


 俺は慌てて目をそらした。頬が熱い。言い訳を考えようとしたが、頭が真っ白だ。


「別にいいけど」


 彼女は静かに言うと、本を閉じた。そして、俺の隣の席へと移動してきた。


「せっかくだから、話してみない?」


「……え?」


「ずっと見てるのに、話したことないなんて、なんか変じゃない?」


 たしかに、俺は彼女のことを見ていただけで、話しかけたことは一度もなかった。


 近くで見る遥は、思ったよりも表情が柔らかく、微かに微笑んでいた。


「何読んでたんだ?」


 俺はぎこちなく尋ねた。遥は本の表紙を見せる。


「村上春樹」


「……おしゃれだな」


 俺の言葉に、遥はクスッと笑った。


「じゃあ、君はどんな本が好き?」


「俺? うーん……ミステリーとか、かな」


「意外。恋愛小説とか読まないの?」


「そんなの、男が読むもんじゃないだろ」


 俺が肩をすくめると、遥は少しだけ不満そうな顔をした。


「そういうの、もったいないよ」


「そうなのか?」


「うん。恋愛小説にはね、人の気持ちがたくさん詰まってるから」


 彼女はそう言って、本のページをそっとめくる。


「例えば、この本にも、恋の話が出てくるよ。切なくて、でも温かい話」


「……篠宮って、恋愛とか興味あるの?」


 自分で聞いておきながら、心臓がドキドキする。


「あるよ。もちろん」


 彼女は迷いなく答えた。


「好きな人とか、いるのか?」


 なんとなく、聞いてしまった。聞いた瞬間、しまったと思ったけれど、もう遅い。


 遥は少し考え込んだ後、俺の目をまっすぐに見つめた。


「うん……いるよ」


 俺の心臓が跳ねた。


「……誰?」


 冗談めかして聞いたつもりだった。でも、声が震えていた。


 遥は、ふっと微笑む。


「ヒントはね……放課後、いつも私を見てる人」


 俺は一瞬、言葉を失った。


 窓の外では、春の風が桜の花びらを運んでいた。


 夕陽が、遥の頬を淡く染めていた。


 ——これはきっと、俺の人生でいちばん美しい放課後だった。

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