第35話 亜持さん


ようやく正気に戻った私は、一瞬だけ頭から消えかけていた勉強会のことを思い出して慌てて玄関へと走る。



踏み外しかけながらも階段を駆け降り、靴箱にある自分のローファーの踵に指をかけたところで、あることに気づいた。



私、稜汰君の家を知らない!!



委員会が終わったら行くとか言っておいて、肝心の場所が分からないなんて馬鹿にも程がある!


どうしよう。勉強を教えてもらう約束をしたんだから帰るわけにはいかないよね。



カバンからスマホを取り出して、緊張のあまり冷たくなってる指で握り締める。



……電話するしかないのかな。稜汰君に。



で、電話か。嫌だな。面と向かって話すよりも緊張するんだもの。私には難易度が高すぎる。




「あれ、姫後さん?」

「は、はっ!」



突然背後から声をかけられ、飛び上がった私はドキドキしながら見つめていたスマホを落としてしまった。



カシャーン、という乾いた音と共に床に激突したスマホに手を伸ばす前に、彼女が屈んで拾い上げてくれた。



「はい、どうぞー」

「亜持さん!ありがとう、ございます」



差し出してくれたスマホを頭を下げつつ両手で受け取ると、驚いたように目を丸くされた。



「私の名前、覚えててくれたんだー」

「えっ!?そ、それはもちろん!!ちゃんとクラスの人は全員フルネーム漢字込みで覚えてるよ!」



こちらこそ名前を覚えていていただいて!



ばくばく鳴ってる心臓を抑えるように胸に手を当て、笑顔をつくる。



亜持さんは「何それすご。やばー」と、けたけた笑った。



「姫後さんも今帰り?私、放送委員会でさー。もう話長くて」



彼女は靴箱からスニーカーを出して地面に落としながら「いやー、あの時チョキ出せばよかった」と溜め息を吐いた。



「わ、私もっ、図書委員会だったんだ!一緒だね!お疲れ様っ!!」

「そーだそーだ。立候補してたもんね。本好きなの?」

「!?うん!!好き!!」

「へー」



スニーカーを履く彼女を瞬きもせず見つめながら、頭を全力で働かせる。



き、聞かれたら聞き返す!!!



「亜持さんはっ、本は好き!?」



勢いがよすぎたかもしれないけど、言えた。



振り返った亜持さんが、きょとんとした顔で私を見るものだから血の気が引いていく。



何か気に障った!!?



けれど彼女は、ショートヘアをふわりとなびかせてまた笑った。



「好き好き。マンガも小説も読むよ。紙派〜」



ああ、どうしようもなく泣きそうだ。



「わ、私も、どっちも好き。今度おすすめ教えてもらってもいいかな!?」



彼女に飛びつきたくなる衝動を抑えながら、絞り出すように尋ねた。亜持さんはまたもや少しだけ驚いたように眉を上げてから、頷いた。



「もちろん。姫後さんのおすすめも教えてくれるならね」



神様、ありがとうございます。こんな素敵な人をクラスメートにしてくださって、本当に感謝します。というか亜持さんが神様。



「なんか姫後さんて、思ってた感じと違うかも」



ひゅ、と一瞬息が止まった。



どういう意味だろう?

私何か嫌な思いさせたかな!?



「あ、ごめん違う!良い意味でね!」

「えっ」



自分でもわかるくらい顔面蒼白になった私を見て、亜持さんは慌てた様子で顔の前で手をぶんぶん振る。そして、はにかみながら首元のネクタイを少し緩めた。



「また話そうね」

「ええ!?いいの!?」

「当たり前じゃん。じゃ、また明日ね」



嬉しくて泣きそう!!


感激のあまりスマホをストラップごと握り締めていると、扉に手をかけた亜持さんが何やら外を見て小首を傾げた。



「彼、姫後さんを待ってるんじゃない?」



え?


会う約束なんて誰ともしてないし、そもそも私を待っていてくれるような人に心当たりは無い。


「ほらほら」と手招きされて亜持さんの後ろから外を覗く。


あっ。



「私は全く話したことないけど、姫後さんは仲良いよね」



そこには、生徒玄関前の段差に腰掛け、何やら怖い顔でスマホを弄っている保君がいた。



な、なんでいるの!?



「かっこいいけど近寄りがたいんだよねー。なんか威嚇されてるっていうかさ」



それは分かります。すごい分かる。でも目つきが悪いだけで、話してみれば少ししか怖くないことも分かるよ。



じっと保君を見つめていた彼女は、不意に振り返って「あ、やば、机の中にポーチ忘れてきた。このまま帰ったら明日どすっぴんで来る羽目になるから取ってくる!じゃあ、ごゆっくりー」とスニーカーを脱ぎ捨てて校内へ走っていった。上靴も履かずに。


手を振り返す暇もない。



というかたぶん、いや絶対、亜持さん何か誤解してる。最後の言葉もやたら説明的だったし。



そんなことを考えながら私もローファーに履き替え、上靴を靴箱に押し込んでから外へと向き直った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る