光の皿 影の匙

灰崎千尋

第1話

 その領域は、“ホーム”と呼ばれた。

 継ぎ目一つ無い金属塀に丸く囲われた中には庭が広がり、青い芝生と色とりどりの花が茂っている。その中心に建つ白い家に、子供たちは暮らしていた。


「“お父様”はあなた達が幸せに生きることを、いつも願っておられます。それこそが、“お父様”のかてになるのですから。さぁ、感謝の祈りを」


 家の中、食堂には長いテーブルが置かれ、その最奥に座る年嵩の女が祈りの言葉を唱える。テーブルを囲む子供たちは、それにならって目を閉じ、胸の前で手を組んだ。テーブルの上には既に、湯気を立てるスープとパン、黄身がぷっくりと膨らんだ目玉焼きに、こんがり焼かれたベーコンが並べられている。それらを前に誰かの腹が低く唸り、クスクスと笑いが漏れた。


「よろしい、召し上がれ」


 女が言うが早いか、子供たちは食事を掻き込みはじめた。ナイフやフォークが皿に当たる音に混じって聞こえる声は、舌っ足らずの少女から声変わりした少年のものまで様々だ。


「お行儀良くね、キオ」


 早くも飲み干されたミルクをミルク壺から注ぎ足しながら、エプロン姿の女が言う。


「へへへ、ごめんなさい、マリア」


 鼻の下をこすりながら、キオと呼ばれた少年が笑った。

 マリアは食事に手を付けることなく、子供たちに声をかけたり、口元を拭いてやったりなど世話を焼いていた。それがここでは当たり前で、今更疑問を持つ者はいない。

 しかしそれを、やたら不機嫌そうに見つめる少女がいた。

 少女の名はセラ。緑がかった薄茶色の髪を高めに結い、灰色の瞳がマリアを追って動いていた。セラは、皿の上をナイフでつつきまわしているが口には運ばない。


「どうしたのセラ。目玉焼きが大惨事よ」


 隣席の黒髪を編んだ少女、リンが囁いた。

 彼女の言う通り、セラの目玉焼きは白身がナイフの刺し跡だらけ、その上に黄身がどろりと飛び散って見るも無残な有様だった。

 その時、セラの視線に気づいたマリアが彼女と目を合わせてにっこりと微笑んだ。マリアの瞳は、いつだって慈愛に満ちている。何もかも見通して、何もかも包み込む。その眼差しは子供たち皆へ平等に注がれている。セラはそのことをよく知っていた。他の子供たちと同じように、物心ついたときからずっとこの“ホーム”で育ってきたのだから。

 しかし今のセラには、マリアの微笑みが無性に苛立たしく思われた。同時に、それがひどく子供っぽい八つ当たりだという自覚もあったので、ぷいと顔をそらして、自分の皿と向き合うことにした。目玉焼きの残骸とベーコンの切れ端を重ねてフォークに刺し、口の中へ放り込む。カリッと香ばしいベーコンの薫香と塩気のある旨味、それを玉子の黄身がまろやかに包み込み、ぷるりとした白身の食感が追いかけてくる。いつも通りに美味しい朝食。それすらもセラは気に食わなかったのだが、不思議そうに顔を覗き込んでくるリンには、「なんでもない」とだけ、ぼそりと答えた。




『今日もまた、美しく生きられますように。

 甘みを増し、酸味を深め、豊かな余韻を宿す一日でありますように』


 “ホーム”の子供たちは皆、そう祈り、祈られながら育っていく。ここには病も飢えも孤独も無く、望めば知識も芸術もあらゆることが与えられる。幸福こそが彼らを熟成させる。過度な不幸は味を損なう。

 全ては、“お父様”に美味しく食べてもらうために。

 それが“ホーム”でのルールだった。


「ねぇ、食べられるって、どんな風だろう」

「セラったら、またその話?」


 花冠を作る手を止めて、リンが呆れた声を出す。


「マリアにもきいてみたんでしょう? セラの方が知ってるんじゃないの」

「……“お父様”は、私たちの肉は食べないんだって。私たちの記憶や感情、魂みたいなものを食べるんだって」

「そうよね、だから私たちはとびきり幸せでなくちゃ」


 リンにそう言われて、セラはふるふると首を横に振った。


「どうして? 不味くなってもどうせ食べられるしかないのに」

「だからよ。どうせ食べられるなら、『美味しかった』って思ってもらいたいもの。それに、不味くなるってことは不幸せになるってことでしょう。セラはそれをわざわざ選ぶっていうの?」

「それは……」


 言い淀むセラに、リンは「ね?」と肩をすくめた。

 リンは編みかけの白い花をそっと指で撫でながら、静かに続ける。


「ねえ、セラ。私、どんな味でもいいから、“お父様”に覚えていてほしいな。この花の蜜みたいに、ほんの少しでも」


 花を弄ぶリンの手に、セラは手を伸ばしかけた。しかしその手が届くより前に、リンは再び花冠に取り掛かると、手早く仕上げてセラの頭に載せてやった。


「私、ちょっとマリアに呼ばれてたのを思い出したわ。良い子にしててよね、お姫様」

「もう、からかわないでよリン」


 あはは、と明るく笑って、リンは白い家に駆けて行った。セラはそれを一人見送ると、幼い子供らが輪になって歌うのが目に入った。


『苦いは涙 甘いは夢

 れよ 育てよ

 お父様の皿の上

 最後はひと匙 影の匙』


 セラも小さい頃には歌っていた遊び歌だった。その歌の意味を、あの子たちはどこまでわかっているのだろうか。そんな風に見ていたその時。


「今日はずっと浮かない顔だね」


 セラのそばに、背の高い少年がやってきて腰を下ろした。セラより一つ年上の、ヴィだ。


「また考えているの?」

「……ええ。考えるのをやめられないの」

「あんまり考え過ぎると、苦くなるよ」


 そう言う彼の顔を見つめ返したセラの頭に、ヴィはぽんと手を乗せた。


「でもそうやって考え続ける君は、偉いと思うよ」


 セラが急に気恥ずかしくなって頭の上の花冠を取ろうとしたのを、ヴィがそっと押しとどめる。


「似合っているから、そのままで」


 それから「おいで」とセラの手を取って立ち上がらせた。片方の手をヴィと繋ぎ、片方の手で花冠を落とさないように押さえながら、セラが連れてこられたのはオレンジの樹の下だった。濃い緑の葉が風に揺れ、つやつやと輝いている。

 長い腕を伸ばして、ヴィが果実を一つ取った。


「まだ青いわ」


 セラが言うのも構わず、まだ色づく前の果実の皮を、ヴィがナイフで剥いていく。そして止める間も無くかぶりついた。


「ヴィ!」

「……すごく、酸っぱい」

「そりゃそうよ。どうしてそんな……ふふ」


 いつも穏やかな顔をくしゃくしゃに歪めたヴィが珍しく、セラは思わず笑ってしまった。それを見たヴィも少し満足げに微笑み、しかし黙ってオレンジを差し出した。


「ちょっと、本気?」


 尋ねるセラに、ヴィは黙って頷いた。セラは戸惑いながらも、えいや、と小さく齧りつく。

 目がちかちかとするような、強烈な酸味。固い皮の苦味。辺り一面に漂う香りだけがやけに爽やかだった。セラは口を閉じたまま甲高い悲鳴をあげた。


「もう、やだ、酸っぱいどころじゃないっていうか、ううう」

「あはははは!」

「ヴィったら、どういうことなの……ふふふ、あははは!」


 そのまま二人は、青いオレンジの香りに包まれながら大笑いした。ひとしきり笑い、笑い疲れて樹の下へ仰向けに倒れこんだ、二人の手が自然と重なる。


「ねぇ、僕たち、まだこんなに青いんだから」


 ヴィの声が葉擦れの中に柔らかく響く。


「考える時間は、まだあるはずだよ」

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