、君を待つ』

小鳥遊ちよび

白は空への手紙、一木だけの奇跡咲く。


 第一部――冬の彼方で、




 少年は、空を見上げるような静かな眼差しで、遠くを見つめていた。

 黒曜石のように澄んだその瞳は、時折、今ここにない何かを捉えていた。


 肩にかかるか、かからないかの黒髪は、どこか風に馴染むように柔らかい。

 髪の毛が風に揺れた。ほんのかすかな動き。

 触れたら壊れそうで、壊れない――

 そんな、誰かの記憶みたいな存在だった。


 この世界の人々のように、どこか穏やかで、そしてどこか違う。

 春の終わりの霞がかる日差しの中に、彼の輪郭は溶け込んでいるように見えた。


 無駄のない肢体、肩の力を抜いた歩き方。

 それなのに、ふとした瞬間に滲む影。


 はるかという名の通り、彼はいつも、何か遠くを見ていた。


 けれど、

 本当に遥か彼方を見つめていたのは、

 彼ではなく、千紗ちさだったのかもしれない。



 * * * * * * *



 はるかは、白いキャンバスを見つめ、筆を握る。


 けれど——やはり、何も描けない。

 筆先は、白の上をただ滑っていくだけだった。



 彼が愛した、千紗ちさ先輩が描き続けた「冬」。

 それが何だったのか、遥にはわからなかった。


 けれど、一つだけ確かなことがある。



「冬は......嫌いだ」



 何もない、真っ白で、

 それでも、人々が見惚れてしまう景色。


 そんな、美しい絵を、ついぞ、彼は描くことができなかった。



  *  *  *  *  *  *



 たった一年の恋

 はるか千紗ちさは、違う学校に通っていた。


 距離にすれば、電車で40分。会おうと思えば、すぐ会える。……でも、それでも遠かった。


 それでも、二人は休日のたびに会った。千紗と遥にとっては、それは一つの季節ぶんの距離だった。


 とある日、いつものように画材屋でスケッチブックや新しい画材を眺めたり、喫茶店で絵を描いたりして過ごした。


 喫茶店の片隅、二人並んで座りながら、千紗はスケッチブックを開いていた。

 指先が真っ白なページの上を滑る。



「私の彼氏君かれしくん



 千紗はいつも、少しからかうように遥をそう呼んだ。


 遥は、そんな彼女の無邪気な笑顔が好きだった。


 春の終わり……午後の風にほどける光のような少女だった。


 陽の光を受けてきらきらと揺れる長い黒髪。

 その一筋一筋が、夜の静寂を溶かす星のように儚い。


 漆黒の瞳は、遥よりも深く、

 しかしその奥には、どこか透明な何かが揺れていた。


 微笑むたびに、そこには何かが消えていくような、

 けれど、何かが生まれそうな——そんな曖昧さを持っていた。


 彼女は、絵を描くとき、ほんの少しだけ眉を寄せる癖があった。

 まるで、何かを思い出そうとしているように。


 千紗は、"冬"というものにとり憑かれていた。



「冬って、どんな匂いがするんだろうね」



 千紗は、何かを懐かしむようにそう言った。



 ——でも、遥にはわからなかった。



 彼女の言葉の奥にあるものが。


 ただ、その瞬間、


 彼女の目に映る景色は、


 この世界のどこにもないものなのかもしれないと、


 そんな予感がした。


 千紗は遠くを見つめるように、静かにこう言った。



「ねぇ、はるか君」


「はい?」


「もし、この世界が"違う形"だったら、私たち、どうなってたと思う?」


「違う形、ですか?」


「うん。もし、この世界に"冬"があったら」



 その言葉の意味を、遥はその時、深く考えなかった。



「そしたら、僕も、千紗先輩と一緒に雪を見に行ってみたいかな」



 千紗は、それを聞いて静かに笑った。

 そして、真っ白なスケッチブックを閉じる。



「そっか。それはとても……いいなぁ」



 遥は、そのとき深く考えなかった。



 ――はるかくん、と呼ぶときは、彼女と彼にとって大切な時だと分かっていたのに。



 けれど、それが千紗と交わした最後の言葉だった。


 二人で未来を描いたはずだった

 彼女にとって高校最後の秋。


 千紗は大学受験を控えていた。

 彼女が目指すのは、この町より北にある、美術大学。



「受かったら、はるか君の町の近くに引っ越すから」


「そしたら、今よりもっと会えるね」



 そう言って微笑んだ千紗の瞳は、どこか遠くを見つめているようだった。


 遥もまた、千紗との未来を信じて疑わなかった。


 けれど——。


 千紗は、受験を前にして突然、姿を消した。


 電話も、メッセージも、何も返ってこない。


 遥は千紗の学校を訪ねた。

 しかし、そこで聞かされたのは——



「千紗先輩?



 ――もう学校には来ていませんよ」



 その瞬間、遥の時間は止まった。



   *   *   *   *   *



 あれから数年が経ち、はるかは大学を卒業した。

 都会の生活に追われながらも、ふとした瞬間に千紗ちさのことを思い出す。


 久しぶりに地元へ帰ると、遥は無意識に昔よく訪れたモール へ足を向けていた。


 あの頃、千紗とよく一緒に行った場所。


 二人で通った雑貨屋の片隅にある画材コーナー。



「これ、いいなぁ」


「でも、お小遣いないんですよね?」


「むぅ。はるか君、買ってくれない?」


「僕もお金ないですよ」


「大人になったら、私、もっと大きなキャンバスに描くんだ」


「どんな絵ですか?」



「——冬の絵」



 そんな会話が、あまりにも鮮明に蘇る。


 けれど、大人になった今、遥は画材を買おうと思えば何でも買える。

 それなのに、手を伸ばす気になれなかった。



「受かったら、はるか君と一緒に過ごす時間がもっと増えるね」


「そしたら、もっとたくさん絵を描ける」


「……一緒に、冬を見に行こう」



 ——けれど、彼女は消えた。



    *    *    *    *



 はるかが千紗の学校を訪ねると、

 千紗ちさが消えたという話を聞かされた。



「消えたって……?」


「もう、いないってことだよ」


「……どこへですか?」


「わからない。でも、千紗のいた場所には枯葉が舞っていたって」



「だからきっと、次の命に繋いだんだよ」



 そう言った親友の瞳に、涙はなかった。

 千紗がこの世界から去ったことを、彼女なりの言葉で伝えてくれたのだと、遥は思った。





 誰にも告げずいなくなった人は、世界にける。


 この世に生まれた生命は、


 人は、


 "神様に選ばれ"、


 生を全うした後、


 枯葉となって風に乗り、次の命を繋ぐ。


 そして、その枯葉が積もった分だけ、

 次の春には桜が満開になり、緑が生い茂る。そして、三つの季節が循環し、世界が廻る。


 遥は、千紗が消えたことを聞いた時、

 悲しいとは思わなかった。


 けれど、寂しいとは感じた。



 神様は、


 いや、


 "冬"は、僕の大切なものを奪っていった。



 けれど——

 もし、千紗先輩が繋いだ先で"冬"を見つけていたのなら。


 もし、そこに彼女の“真実”があったのだとしたら。



 ……僕も、先輩と一緒に消えたかったなぁ。



     *     *     *



 遥は、白いキャンバスを見つめる。

 筆を握る。


 けれど、やはり、何も描けない。


 遥の記憶の中で、千紗の声が響く。



『冬って、まだ誰も見たことのない世界でしょう?』



 それもそのはずだ。


 だって、



『この世界には、冬なんて存在しない』


 言葉も。

 風景も。

 物も。

 季節も。


 千紗は、それを知っていた。

 それなのに、彼女は、冬を描き続けた。


 ——なぜ?


 遥は、その答えを知っている。


 千紗が求めた「冬」とは、

 この世界にないもうひとつの世界。


 千紗は言っていた。

 『この世界が“何かを失った後の世界”なんじゃないかなぁ』


 この世界の人々が持たない、

 失われた何か。


 それは、本当に白い”雪”というものが降る景色だったのか?

 それとも、彼女が心の奥に見た、まだ誰も知らない景色だったのか?


 遥にはわからない。

 けれど、千紗は「冬」を求めて旅立った。


 遥は、静かに目を閉じる。


 冬の彼方に、千紗先輩がいたことを、

 彼は決して忘れないだろう。



     *     *



 美術部の合同展で、遥(はるか) は一枚の絵に心を奪われた。


 壁にライトアップされ、白く輝くように展示されたその絵は、「存在しないはずの冬の風景」 だった。


 ”雪”というものに覆われた街並み。


 冷たく澄んだ空気。


 遠くに霞む、暖かな光。


 それは、遥が今まで見たことのない、美しくも幻想的な世界だった。


 思わず、遥は傍で作品の説明をしていた絵の作者である千紗ちさに話しかけた。



「千紗この景色は、本当にあるんですか?」



 彼女は、ふっと微笑んだ。



「あるよ。少なくとも、私は知ってるの」



「“冬”って、ほんとうにあったんだよ」



 千紗の瞳には、どこか遠くを見つめているような光 が宿っていた。


 遥は、その不思議な雰囲気に惹かれた。

 それが、二人で過ごす一年の......春の始まりだった。



     *



 遥が晩年になってようやく描き上げた一枚の絵。


 絵に描かれていたのは、あの日、千紗と喫茶店で過ごした、あの午後の続きだった。

 冬のないこの世界で、彼だけが“冬の記憶”を描けた理由。

 それは、彼女の存在が、永遠に“未完のまま”だったからだ。



『冬の彼方に、君がいた。』



 多くの注目と評価を得ることとなる。


 それは、この世界のどこにも存在しない、けれど、確かに彼の恋人が求め続けた「冬」だった。


 この世界の人々にとって、冬は「ないはずの景色」だった。

 でも、彼は知っている。


 彼女が見ていたもの。

 彼女が探していたもの。

 彼女が旅立っていった世界。


 それは、ただの季節ではなく、

「人が忘れかけた、もう一つの世界」。


 彼は、その世界の片隅に、

 そっと自分を描き込んだ。



 ——彼女の隣に、歩く自分の姿を。



 その絵に描かれていたのは、一人の少年と、少女が歩く「冬」だった。



 最後に、彼は冬を好きになれただろうか?


 それとも、やはり嫌いなままだったのだろうか?



 ――きっと、


 あの冬の景色の中で、


 彼は今もなお、彼女の手を取って歩いている。


 ……きっと、それは誰にも否定できない「真実」だ。






 ―――――――――――――――

 第二部――桜の下で、


 


 水面に浮かぶはすの花のように、少年は待っていた。

 卒業式を終えたばかりの校庭の喧騒から少し離れた、一本の古い桜の木の下で。


 少年――れんは、黒い筒を片手に、静かな眼差しで、薄紅色の花を見上げている。


 最後の一年間。

 暇さえあれば、この場所で。

 彼は、何かを静かに待ち続けていた。


 淡く色づきはじめた薄紅色の花びらが、風に吹かれ、揺れ、桜の影が彼の肩を優しく撫でていくよう、独りぼっちの彼を慰めているようだ。



   * * *



 蓮にとって紗衣さえは、一年違いの先輩だった。

 階段を二段飛ばしで駆け上がるのが似合う、背の高い先輩。

 白いヘアゴムで結んだ、淡い茶色のポニーテールが似合う先輩。

 吹き抜ける風の中で揺れるブレザーが似合う、よく微笑む先輩。

 その横顔を、蓮はいつも目で追っていた。


 蓮にとって紗衣は、そんな先輩。



「ね、蓮くん」


「はい?」


「桜ってさ、どうして“春”に咲くんだろうね」



 まだ少し背の足りない蓮を見下ろして、彼女は笑った。



「どうしてって……桜だから、じゃないんですか?」


「んー……」



 ポニーテールを指でつまんで、くるくると弄びながら、紗衣は校庭の隅に立つ一本の桜を見上げる。


 それは、校門の近くにある古くて、大きな桜の木だった。


 太い幹に触れると、ひんやりとした、でもざらざら、かさかさとして感触が伝わってくる。

 枝の先には、まだ咲ききらない薄紅色の蕾。


 ふつうの桜は、白色か若草色の花弁をつけるのに、

 世界でただ一本だけ――薄紅色の花を咲かす、古い古い桜。



「この木ね、昔から“約束の桜”って呼ばれてるんだって」


「約束、ですか?」


「そう。ここで交わした約束は、春になるとぜんぶ咲いちゃうの」


「……咲いちゃう、ですか?」


「つまり、叶うってこと!まったくもう男子は。だからね――」



 そう言って笑う顔は、桜の下から見上げる春の光に似ていた。



   * * *



 紗衣と蓮で過ごせる学校「最後の春」。

 先輩と後輩のまま。


 今年の卒業式の日も、あの桜はきちんと咲いていた。

 特別な、薄紅色の花弁を。


 式が終わり、校庭で写真を撮る人々の輪が、あちこちにできていく。

 笑い声と、涙を含んだ声が混ざり合う。


 その喧噪から少し離れた校門の桜の下で、蓮はぼんやりと空を見上げていた。


 そこへ——



「蓮くん」



 振り向いた先に、卒業証書が入った黒い筒で肩で叩く紗衣さえ先輩が立っていた。


 白いヘアゴムでポニーテールに結い上げられた髪が、風に揺れる。



「……先輩?卒業、おめでとうございます」


「ありがと。ね、ちょっといい?」



 紗衣は、喧騒から少しでも蓮を引き離すように、桜の木の裏へと手を引く。


 枝の上で、花びらが揺れる。

 咲き始めた薄紅色が、光を透かして震えている。



「蓮くん。第二ボタン、ちょうだい」



 あまりにも自然に、唐突に、彼女は言った。



「……え?」


「ほら、こういうのって、卒業の定番じゃん?」



 笑いながら、紗衣は蓮の胸元を指さす。


 制服の第二ボタン。

 そこに小さな人差し指が触れた瞬間、蓮の心臓がどくんと跳ねた。



「蓮くんとの想い出、欲しいなって」


「あの、その……」



 言葉が喉で絡まる。

 まだ一年、まだ何も伝えていない。

 ただ隣にいて、同じ景色を見ただけの時間。


 それでも——


 そのボタンを渡してしまったら、

 何かが決まってしまう気がして。


 自分も、彼女も、もう元には戻れないような気がして。


 蓮は、うまく息が吸えなかった。



「ごめん、先輩、僕……」


「だめ?」


「……」



 答えられない沈黙。

 その隙間を埋めるように、風が吹き抜ける。

 桜の枝が揺れ、蕾が小さく震えた。



「紗衣ー! 写真撮るよー!どこー?」



 遠くから呼ぶ声。

 振り向いた紗衣の横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。



「……そっか。ごめんね、変なこと言って」



 紗衣は、笑って首を振る。

 そして、ふと桜の幹に手を当てると、蓮を見上げた。



「じゃあさ——」


「……?」


「蓮くんが卒業するとき、もう一回、ここで頼んでもいい?」


「……」


「一年、待ってあげる。そのとき、ちゃんと答えてね」



 彼女は、そう言って笑った。



「約束ね」


「……はい」



 返事をした瞬間、桜の枝の上で小さく花びらがほどけた。


 薄く、淡い、春の約束のように。


 それが、蓮が紗衣さえと交わした最後の言葉だった。



   * * *



 その数日後。


 ある朝、蓮が目を覚ますと、何度かだけ会ったことがある紗衣先輩の友人からの連絡。


 電話口の声には、特別な悲しみも驚きもなかった。

 ただの事実を告げるだけの調子で、



『君には伝えておいたほうがいいかなって……』



 それだけ。



   * * *


 

 廊下の窓から見える中庭には、季節外れの枯葉が一枚、ゆっくりと舞っていた。


 誰にも告げずいなくなった人は、世界にける――


 それが、この世界の「終わり方」だ。


 けれどあ蓮にとって当たり前の“還る”という言葉では、どうしても埋まらない穴が、胸の奥に残った。


 学校からの帰り。

 校門の桜の木の下に立つと、そこだけ風が止まったように静かだった。


 紗衣先輩の真似をして幹に触れると、かすかに冷たい。

 枝先には、満開に薄紅色花をつけた桜。



「……約束、したのに」



 誰もいない校門で、蓮はぽつりと呟いた。


 返事は、春の風だけ。

 


 "春"に、僕の大切な人が消えた。



   * * *



 そして、もう一つの春が来る。


 蓮の卒業式の日。


 校庭には、去年と同じように笑い声があふれていた。

 涙をこぼす者。肩を叩き合う者。


 その喧騒を抜けて、蓮は校門へ向かう。


 ——古い桜の木の下に行くためだ。


 そこに、誰もいないことは分かっていた。


 紗衣は、もうこの世界にはいない。


 “還った”人が戻ってくることはない。


 それでも。


 あの日と同じ場所に立って、

 きちんと返事をしたかった。


 胸元の第二ボタンに触れる。


 固く、冷たい感触。

 彼の第二ボタンはずっと。


 ずっと。


 校門が見えてきたとき——


 蓮は、息を呑んだ。

 桜の木の下に、ひとりの少女が立っていた。


 制服のスカート。

 ちょっと高い背丈。

 ポニーテールの髪に目立つ白いヘアゴム。

 見慣れた横顔。



「……先輩?」



 思わず零れた呼びかけに、

 その人は、ゆっくりと振り返った。



「やぁ、蓮くん」



 最後にあったままの姿の、紗衣さえだった。



   * * *



 けれど、どこか違っていた。


 笑顔は、あの日のままなのに。


 瞳の色も、声の響きも、触れたら泣き出しそうになるくらい懐かしいのに。


 彼女の輪郭だけが、薄く揺れている。

 光の中に溶け出すように、輪郭が淡く霞んでいる。


 風が吹くたび、彼女の髪が揺れる。

 そして、薄紅色の花びらが散っていく。


 けれど、その揺れ方は、

 どこか「この世界の空気」と少しだけずれていた。


 足元には影がない。


 代わりに、桜の花びらが一枚、また一枚と、

 彼女の足跡に沿って静かに積もっていく。



「……どうして」


「約束したからね」



 紗衣は、いつもの調子で笑った。



「蓮くんが卒業するとき、ここに来るねって」


「……先輩は、“還った”んじゃ……」


「うん。そうみたい」


「じゃあ……」


「ちゃんと還って、どこかの土になって、どこかの芽を押し上げて。たぶん、誰かの一年を、命を、少しだけ明るくできたと思う」



 彼女の言葉に合わせるように、頭上で桜の枝が揺れた。



「――でもね」



 紗衣は、自分の胸元に視線を落とす。



「一つだけ、どうしても後悔があってね?」


「……後悔」


「うん、約束。君との」



 彼女は、蓮の胸元に視線を向けた。



「第二ボタン、もらいに来たよ」



 柔らかい声。

 けれど、その瞳の奥には、かすかな焦りのようなものが揺れている。

 薄紅色の花びらが、散っていく。



「一年越しの返事は?」



 蓮は息を呑む。

 握りしめていた両手が、じわりと汗ばむ。



「……どうして、僕なんですか?」


「蓮君が蓮君だから、かな」



 紗衣は、桜を見上げる。



「この世界ってさ、枯葉が積もった分だけ、次の春が濃くなるんだって」



 それは、誰もが知っている話だった。

 この星の命は、すべて枯葉を通して循環する。

 何かを失ったこの世界はただ春を濃くしていく。

 次の命の巡りを。



「でもね、たまに——」



 紗衣は、幹を軽く叩く。



「すごく強い“想い”を抱えたまま還っちゃった人がいるとね、その想いを叶えてくれることがあるんだって」


「……叶えてくれる?」


「うん。この桜が、私たちとの約束を守ってくれたのかもね。だからきっと……“約束の桜”。こういうことを、“かえばな”って言うんだって」


「かえりばな……?」


「還ったはずの想いが、春、夏、秋と一周廻ってもう一度、咲き還らせてくれること」



 紗衣は、自分の指先をじっと見つめる。

 桜の花びらが、静かに積もっていく、散っていく。

 約束の桜と同じように。彼女が。



「私ね、こことは少し違う、静かな場所。季節の名前も、風の匂いも、ちょっとだけ違う世界を漂ってたんだ。言葉以外に、何もかもが違う場所」



 それは——


 この世界のどこかで、誰かがあこがれ続けた、「失われた白い季節」の向こう側なのかもしれない。

 


「それにね、」



 紗衣は、蓮をまっすぐ見つめる。



「君に“さよなら”言えなかったなって」


「……」


「君との約束を、果たせなかったなって」


「それは、僕が」



 風が吹く。



「だから、お願い。蓮くん」


「……はい」



 桜の枝が大きく揺れ、花びらが一斉にほどける。



「今度こそ、ちゃんと答えを——」



 紗衣の輪郭が、その風に煽られたように、ふわりと揺らいだ。

 残り少ない、薄紅色の花びらが、散っていく。

 紗衣先輩が。



「っ……先輩!」



 蓮は、咄嗟に、ただそうしなければと慌てて胸元のボタンに手を伸ばす。


 指が震えて、うまく布を掴めない。

 それでも、必死に糸をちぎり、第二ボタンを外した。


 銀色のボタンが、彼の掌に握られる。

 それは、たった一年間の、ささやかな日々の重みだった。



「好きですっ。ずっと、一年前から、ずっと好きです。今もずっとっ!!僕が、僕がっ」



 差し出した手を、紗衣の指がそっと包み込む。

 温度はほとんどない。

 力も、重さも。



「ありがとう」



 紗衣は、ボタンを胸元に当てるように握りしめる。

 その指の隙間から、薄紅色の光がこぼれた。



「ねぇ、蓮くん」


「……はい」


「私ね、たぶん、あのまま“消えて”たら、こんなふうに還ってくることなかったと思うの」


「……」


「でも、蓮くんが、約束を覚えててくれたから」



 彼女の身体から、細かな光の粒が舞い上がる。

 花びらが、空へ、空へと昇っていく。

 温かい春風に乗って。



「一年間ずっと、待っててくれたから」


「……ずっと怖くて、言葉に、できなくて」


「ううん。怖かったのは、私のほうだよ。蓮くんに、本当のことを言って、もし笑われたらどうしようって」


「笑ったり、しません」


「知ってるよ。わかってた」



 花びらが、彼女の肩をすり抜けていく。

 輪郭が、ますます薄くなる。

 それでも——その瞳だけは、はっきりと蓮を見ていた。



「蓮くん」



 名前を呼ばれるたび、胸の奥が熱くなる。



「ずっと、私も好きだったよ」


「……僕も」



 喉が焼けるように熱い。



「僕も、ずっと、先輩が——」



 好きでした、と続けようとした瞬間、

 紗衣の姿が大きく揺らいだ。



「時間、みたい」



 紗衣は、自分の手を見下ろす。

 指先から、花弁がほどけていく。



「やっぱり、長くはいられないんだって、この“還り花”の姿は」


「……嫌です」


「わがまま言わないの」



 彼女は、桜の幹にそっと手を当てる。



「私の想いは、もうこの世界に預けてあるから」



「春が来るたびに、きっと、どこかで思い出してもらえるから」



「蓮くん。一人じゃないよ」



 最後に、紗衣は一歩だけ彼に近づく。

 顔の細部さえ霞んでいるのに、不思議と、表情がわかる。



「来てくれて、ありがとう」


「……はい」


「待っていてくれて、ありがとう」


「……ぅ、はい"」


「好きって言ってくれて、ありがとう」


「ぅう"……僕、のほうこそ、ありがとう、ございます」



 風が吹く。

 花びらが、渦を巻く。

 最後の、薄紅色の花びらが、散っていく。



「——さよなら」



 その言葉と共に、紗衣の姿は、桜吹雪の中へとほどけていった。



   * * *



 春の光が、静かに降り注ぐ。

 蓮は、空に向かって伸びる桜の枝を見上げた。


 掌の中には、もうボタンはない。

 代わりに、胸元の布越しに、指先へとかすかな温もりが伝わっていた。


 そう、確かに彼女はここにいた。

 巡り廻って、かえってきてくれた。



「……ずっと、好きです」



 もう、誰もいない校門の前で、蓮は空に向かって呟く。

 桜の枝が、応えるように風に揺れる。

 もう、古い桜の木には一枚も花弁が残っていなかった。


 だけれど、空に舞っていた花びらが、一枚、また一枚と彼の肩にかえってくる。

 それはまるで——


 紗衣の手が、「聞こえてるよ」とそっと背中を押してくれているようだった。




 枯葉になって還った想いが、

 春にもう一度だけ咲き還ることがある。


 約束は、消えない。

 別れのあとにも、三季は廻る。


 ――ごく一部の人だけが知る世界の真実と秘密。





 おしまい。

 ―――――――――――――――

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、君を待つ』 小鳥遊ちよび @Sakiri

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