後編 妖魔の一本釣り

 いったいどのように帰り着いたのか。


 清子きよこの館をあとにして幽玄の森へと踏み入ると、制多せいたは再び白闇しろやみの霧に包まれた。


 そうして一歩二歩と歩くうちに童子は、気づけば恵満けいまんの館の戸口にでたのだ。


 すでに月も傾き、一刻いっときてば夜が明けるころである。制多は急ぎ床に就くと、短い眠りを得て目覚めたのち、昨夜の不可思議な出来事を道登どうとうに語り聞かせた。


「お前が施しをした娘に、そんな身の上があったとはねえ」

「御師さんは、知っていたんじゃあないの?」

「あの娘がすでに現世うつしよの者でないとは、分かっていましたよ」


 指先で顎を撫でながら、道登は目を閉じ思案気にした。


「しかし、まさか退治を依頼された妖魔の姉であったとは……」

「なんだか御師さんずいぶん冷たくしてたけど、どうしてなんだい?」


 一瞥したのみの師の様子を思い返したのだ。弟子のなじりに、道登は端正な唇を、薄くへの字に曲げた。


「冷たいって、お前ね――」


ひとつ咳を払って、道登は居住まいを正す。


「お前は旅の途中気づいていないようでしたが、あのように未練を残して路地に立つ者は、それこそ無数にいるのですよ。それをいちいち相手にしていては……」


 祓うだけなら簡単なのだ。しかし未練を解きほぐし、一人一人を成仏させるとなれば、これはなかなかに厄介で骨の折れる仕事なのである。


「とはいえ」と、道登は片目を開けてにやりとした。


「これからは、弟子を見習って少しは憐れな魂に気を止めることと致しましょう」


 そして二つ目の咳払いをした。


「そういえば――」


 なにかを思い出して、道登が話を継いだ。


宇治橋うじばしにも似たような、嫉妬深い女の鬼がいましたね」


 遠い昔に友と二人で宇治橋のたもとに封じた橋姫はしひめのことを、想ったのである。


「さて」と道登は立ち上がり、弟子に告げた。


「男に対して執着の深い妖魔であるのなら、釣り出しようもありますね」

「どうするんだい?」


 返事の代わりに悪戯っぽく笑んで、道登は制多の頭を撫でるのだった。



    §


 再び道登と制多が大橋のたもとに現れたのは、既に日が天頂に昇るころ。


 しかし、天は厚く鈍色にびいろの雲に覆われて、杳々ようようとして高みは知れず。


 昨夜は夜半に、遠く川上にて激しき雨があったのか、大橋を断つ淀川の流れは泥を溶かして濁っていた。


 景色に彩りはなく、なおさらに寒い。


 薄墨一色で描かれた八幡やわたの地に、独り道登のみが春をまとったように佇んでいる。


「見ていなさい」と声をかけ、制多を橋のたもとに残し、大橋の途切れるところまで歩んでゆく。


 なにをするのかと、制多はただ見守るのみだ。


 弟子となってまだ一年余り。とはいえ、妖魔の夢に囚われた世界で出会ったときから、尋常ならざる術を見せてきた師である。


 仙人の力を察し恐れをなして身を潜めるであろう妖魔を、どのように釣り出すのか――ただならぬことが起きるという予感だけが、童子の胸の内にはあった。


 制多に背を向けたまま、道登は落ちた路面の際に立つ。


 ふいに、手が腹のあたりをまさぐるように見えた。なにかを取り出すのか? たとえば、大魚を釣り上げるように妖魔を釣る不可思議な竿であるとか――


 違った。


 道登は、裳付もつけ石帯せきたいを解いたのである。


 裳付衣もつけごろもを脱ぎ、袈裟けさを取り払い、小袖を脛巾はばきを捨て――ついに、姿となったのだ。


 もし、ここに女人にょにんがいれば、大変な騒ぎとなることだろう。


 ただでさえ、道登のおもてを見て肌を赤らめぬ女子おなごなどいないという美男なのだ。


 目を絡めてしまい、心を蕩かし腰を崩した女は数知れず。そんな男が――淀川を前に一糸まとわず立っている。


 細身であるが引き締まった逞しい体つきを見て、誰が法師と思うであろうか。


 仄かな薄桜に染まる肌は瑞々みずみずしく、天女が我が身を恥じるほどに悩ましい。


 川風になびく黒々とした長髪は、自らかがやくようにつややかである。


 童子の制多が見惚れるほどの、美丈夫びじょうふであった。


 ほうけた制多の目の先で、道登の姿が発条ばねのようにはじけた。空高く跳ね上がり、宙で身を捻ると頭を下にして真っ直ぐに身を伸ばした道登は、淀川の水底へと飛び込んだ。


 水面を打つ音が響いてのち、残るは橋脚が割る川面の水音のみ……。


 静寂が制多を包む。


 師はどこへ行ったのか――橋のたもとより駆け出し、欄干から身を乗り出す制多の足元で、小さな震えが起きた。


 びりびりとした小刻みな揺れが川底から沸き上がり、水面に小さな泡を無数に立てる。流れに沿って現れる泡の帯は次第に長く伸び、二町を越えて――地の底そのものが唸るが如き地響きが轟いた。


 ごおっと欄干の下で淀川が渦を巻く。


 だしぬけに、巨木のような水柱が屹立した。天つく柱と見えたのは、巨大な蛇の胴である。大蛇おおへびの胴からは、おびただしい濁り水が幾筋もの滝となって流れ落ちた。


 制多が見上げる遥か先には、般若の如き女の顔が付いている。


 べっとりと油にまみれた女の髪は、海底に茂る海藻の群れの如くで、ぬめりを伴うつやをまとい、頭の先から無数に生え伸びていた。


 人頭蛇体の妖魔、濡女ぬれおんなの姿である。


 雄牛ほどの大きさをした濡女の頭上に、白く光る男の陰が見えた。


 裸身を晒した道登法師が、馬の手綱よろしく濡女の髪を掴み上げ、大蛇の体を操り妖魔を水底から引き摺り出したのである。


「あれってつまり……御師さんが自分で釣り餌になった……てこと?」


 我が師の美貌にさすがの妖女も抗えないのかと、弟子はすっかり呆れるやら感心するやらで――


 濡女は身をよじり、のたくり、髪を振り乱していましめから逃れようとした。そのたびに道登は握った髪を引き絞り、足を踏みしめ、自在に蛇体を操り動きを封じてしまう。息も上がりいよいよ観念したのか、やがて濡女の動きが静かになった。


 妖女の頭上に立つ道登が、優し気に語りかける。


「おとなしくこの地から去りなさい。二度と人を襲わぬと誓うのなら、命までは取りません」と、最後の慈悲を口にする。


「お前ほどの美丈夫を捨てて逃げろだと? そんなこと、できる女がいると思うか? いいやいいや、おりはしまいてっ!」


 からからと濡女は大口を裂くようにして笑い、舌なめずりをした。だらりとぬめったよだれが口の端からこぼれ、制多の足元に落ちてくる。


 あわてて制多は飛び退いた。


 そのときである。


 濡女が身を震わせた――いや、身悶えたと言うべきか。


 大蛇の総身から、くぐもった声が響く。妖魔の唱えるしゅである。


 やがて呪の響きが大きくなると、濡女の長髪に異変が起きた。


 無数の髪が逆立ち、蛇の群れ――いや、大蛸おおだこの触手のようにうごめきはじめた。


 うねうねと宙をかき乱すうち、突然鞭となってしなり、一斉に道登の身体へ振り下ろされた。ぬっとりと張りつき、男の裸身を絡めとりながら、ぬめぬめと這いまわって、荒縄を用いたように緊縛してしまう。


 無残に縛り上げられた道登の身体が、濡女の頭上に高々と逆さに吊られた。


「御師さんっっ!?」


 さすがに制多も慌てふためき、悲鳴のように師の名を叫ぶ。童子の声に、濡女の喉のあたりが上気してあけに染まった。


「動けまい……いい気味よ、いい眺めよ、なんとも哀れな姿よのう」


 法悦を孕んだ声を発しながら、濡女が大口を開く。堰き止めるものもなく、上向いた口からごぼごぼと涎が筋となってこぼれだす。


「あーぁぁぁんっ……」


 二股の舌をもたげて道登を絡めとり、濡女は仙人の身体を丸呑みにした。ごくりと美味そうに喉を鳴らし、男の体を嚥下えんげする。


「おおお、甘露甘露……なんと甘美な肉だろう。愉悦が総身に沁み渡る……」


 身を震わせ、陶然と宙を見つめる濡女の容貌は、淫蕩に溺れる女そのもの。自在に伸びる髪を手のようにして、身悶える己の胴を愛おし気にさするのだ。


 ――ところが。


 勝ち誇る濡女の首筋から、まばゆい光の筋が放たれた。


「……ぁがっ……っ!」


 こぼれる涎に血が混じる。


 喉から放たれた光の筋は、刃となって濡女の胴を駆けた。正中線から、妖女の頭蓋が左右に割れる。


 断末魔の叫びもなく、濡女は頭から尾の先まで二枚卸に切り裂かれてしまった。


 大蛇の身体が右に左と、地響き立てて淀川の河原に崩れ落ちる。


 むくろの狭間に、こともなげに立つ男の姿は――道登であった。裸身を血で染めた師の肩には、大蛇の生きぎもが担がれている。


「やれやれ……なんと欲の深い女であることか」


 独りちる道登の目の先には、河原に横たわる痩せ細った女の生身があった。


 妖力を失くした濡女が、無残な前世の姿を晒していたのである。


 確かに双子の姉妹であると清子の物乞い姿を思い出し、制多は目を見張った。


「男に狂った憐れな女ではありますが……あなたは人を、殺し過ぎた」


 言いながら道登は、呪を唱えて印を構えた腕を払う。


 一陣の風が河原を吹き抜ける。


 そうして幸子さちこの身体も大蛇の胴も、すべて塵となり霧散したのである。



    §


 辺りから重たい妖気が消え去った。


 天を覆った色のない雲は消え去り、晩秋の澄み切った空が広がっている。


 暖かい。小春日和だ。


 血まみれの異様な姿を晒していた道登が、指先を鳴らす。乾いた音が河原に響くと、血濡れた裸身はさっぱりと失せた。


 いつも通り、花咲く春の如き佇まい――裳付姿の道登法師となっている。


 肩にはそのまま、大蛇の生き胆が担がれていた。


 懐から古びた瓢箪ひょうたんを取り出すと、きもに注ぎ口を押し当て呪を唱える。見る間に、大きな胆が瓢箪の中へと吸われていく。


 瓢箪の口を閉じ、胴を軽く振ると、中からちゃぷちゃぷとなにやら水の跳ねる音がする。満足げにして、道登は瓢箪を懐にしまった。


 万事片付き安堵した制多が、不満げな顔をみせた。


「御師さんさあ……いったいどんな術で妖魔退治をするかと思えば――」


 いっそう鋭く、童子の口が尖る。


「色仕掛けと力任せって……なんかあ、ちがくない?」


 心底がっかりした様子の制多だが、道登はずいと胸を張る。


「なにを言っているのです。これならお前にも真似ができるだろうと考えた上での策なのですよ?」

「うーん……男の色気で誘うってのは、おいらさすがに自信がないや」

「まあ、そこまで今すぐ真似ろとは言いませんが……後学のため、ですよ」


 妖女退治にいちいち裸になる自分を思い描いて、制多はひとつ身震いをした。



    §


 妖魔の始末を終えて恵満の館へ戻った夜のこと。


 制多は昨夜と同じく早々に床に就き、昨夜と違ってよく眠った。


 しかし、夢の中では目覚めていたのである。微睡まどろみの世界で、制多は清子に再び招かれていた。


 昨夜と同じ、山崎の森にある貴人の館だ。


 清子は独りではなかった。傍らには狩衣かりぎぬをまとった貴人の男が立っていた。身の上話で聞いていた、入水して果てた清子の想い人。清らかな眼差しと、知的で典雅な佇まいの美男であった。


 晩秋であるのに春のような朗らかな景色に、三人は包まれていた。


 清子と貴人の男もまた、朗らかだ。


 二人とも未練が晴れ、常世とこよへ旅立つ別れの挨拶を制多と交わしていた。


「幸子を祓って頂いた法師様にお会いできないままなのは、心残りなのですが」


 そう清子がこぼしたときである。


「少々、お邪魔しますよ」と、道登が現れた。


 人の夢の中へでも自由自在な仙人である。清子は男と共に笑んだ。


「まあ、法師様。本当に、この度は本当にお世話になりました。これで思い残すことはありません――」


 道登は頷き、実はと切り出す。


「――常世へ向かおうというお二方に、お願いがあって参りました」


 頼み事など意外なことだというように、清子と男は顔を見合わせる。


「大橋の守り神に、なって頂きたいのです」

「…………」

「この川の付近はよく荒れる。近年は特に。天候のせいでもあるのですが、いつからか橋に宿った神が不在となったことも、理由のひとつなのです」


 清子の面が陰りを帯びた。


「妹の……せいなのでしょうか?」

「それは違うでしょう。恵満殿から訊いたところでは、濡女が現れる以前から川の氾濫は多かったそうですから」


 道登は娘の安堵を誘うように、静かに語った。


「水神が不在となったのを良いことに、濡女が居座ったのでしょうね」


 沈みかけた空気を持ちあげたのは、制多の言葉であった。


「じゃあ、姉ちゃんと兄ちゃんに、いわしの頭になってもらうってことかあ」


 渋い顔をする道登だが、弟子を見る目は柔和である。


「鬼を祓うという意味ではそうですが……お前ねえ」


 子供らしいたとえ話に、清子と狩衣の男はつられて笑む。


「しかし、良いのでしょうか? 私たちは、ただの人に過ぎません」

「大丈夫。人の魂を神として祀るたとえはいくつもあります。それに、橋のたもとに男女二神を祀るのは、古くからの水神信仰の一つですよ」


 清子の指が、想い人の指に絡んだ。そっと身を寄せ笑みをこぼした。


「承知しました。私たちでお役に立てるのであれば、喜んで」

「無理を言って申し訳ない。せめてお二人の宿る祠の中に、住み心地の良い仙境と屋敷を造って差し上げますので――」


 道登の申し出に、娘と男の顔がにわかに明るくなった。


「まあ、なんて素敵なお話でしょう。私この方と、二人静かに暮らせればそれで良かったというのに」

「そこまで言われては……ここはひとつ、力を入れて励まねばなりませんね」


 暖かく晴れやかな四人の笑い声が、春風に乗った。



    §


 明けて翌朝。


 道登は夢の中で清子と語り合ったいきさつを、恵満に話して聞かせた。二つ返事で、町の顔役は祠を建てると承知する。


「そうでした……いつの頃であったか、大水で水神様を祀った祠が流されて――そのまま再建もうやむやになり……」


 実にばつの悪いといった様子をして、恵満は頭を掻いた。


「では今度こそ、大切になさってくださいね――」


 苦く笑いながら、道登は柔らに言い含めるのだった。



 こうして無事に普請ふしんが進む中、大橋のたもとに新たな祠が建てられた。近隣から名のある彫物師を招き、男神と女神で一対の小さな神像も作らせる。


 依頼を受けた職人にどのような姿を所望するのかと尋ねられ、道登はこれこれしかじかと伝えたのであるが、話を聞いた彫物師は「もしや」とばかりに膝を打った。


 清子の一家と貴人の男に起きた不幸は、事の真相はともかくも悲恋の語りとして人々の噂となっていたのである。


 道登と制多はその年の暮れまで、恵満の館で世話になった。


 大橋の普請を見届けるのではなく、祠の中に造ると約束した仙境と館の造営に道登がことのほか心を砕き、文字通り腕によりをかけたからである。


 壮麗な出来栄えに、清子と貴人の男は「天人てんにんの住まいか」とばかりに驚いた。飄然として道登が隠した誇りようを知って、制多はにやりとした。


 大橋の普請の進みは、順調この上ない。始めは半信半疑、本当に何事も起こらないのかと不安げな人足たちであったが――携わる男たちを釣り出したのは、道登が用意した仙薬の如き酒の力である。


 濡女の生き胆を用いた、滋養深き薬用の霊酒だ。


 一口飲めば精力百人力とばかりに、人足たちは良く働いた。


 後世、八幡と山崎やまさきの地に伝わるところによれば、大橋の普請が終わった翌年の末までに、いつの年よりも多くの子宝に恵まれて不思議がられたということだ。


 制多も――忙しかった。


 賑わいの戻った町を大いに楽しんで過ごした。もちろん、修行は欠かさない。



 こうして年も暮れるころ、道登と制多は八幡の地をあとにした。


 行く先は、鞍馬くらまの山である。


「友人の大天狗から、最近面白い、やんちゃな童子の面倒を見ていると聞きましてね」と、道登は制多に旅の理由を語った。


 そうして制多は、とある童子との運命的な出会いを果し、その生涯に大きな関わりを持つのであるが――その話は、またの機会にて。


    <了>

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流浪の賢人とその弟子、水郷の町にて娘を助け妖魔を覆滅す まさつき @masatsuki

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