流浪の賢人とその弟子、水郷の町にて娘を助け妖魔を覆滅す
まさつき
前編 物乞いの少女
今は昔のことである。
唐国より渡り来た
若くして仙道を得、不老不死の仙人となった男である。遥か昔に倭国を訪れてよりは、
道登には一人、童子の弟子がいた。名を
熊野の農村で暮らしていたが、
さて、ここで語るはそんな師弟の数奇な旅路における、逸話の一つだ。
§
制多が八歳を数えた、冬の近い晩秋のことである。
仙人の師弟は、水郷の町を訪れていた。
普段であれば道行く人々の往来は、都の大路に引けを取らず賑やかなはずなのに。今はまばらに行き交う人々に、陰鬱な気配が重くまとわりついている。
それでも初めて目にする広々とした町並みは、幼い制多を驚きと歓びに包んだ。故郷の村を出て一年余り――楽し気にする童子の姿に、師もまた目を細める。
三つの河川が交わるあたり、八幡と
道登が恵満に請われた理由もまた、八幡と山崎を結ぶ大橋が水害で流されたことによる。しかし、恵満が道登に求めたのは橋の
大橋の再建は、大がかりではあったが難しいものではない。晩秋の季節、年をまたがず終わるだろうとの見込みが――前触れもなく人足たちが一人また一人と消えてしまい、頓挫したのだ。
もしや大橋に巣食う
仕切りを任されていた恵満は、かつて大橋の架設に関わった道登の逸話を思い出し、父祖が残した古い典籍を納めた小箱を紐解いた。
すると中には伝え聞いた逸話の通り、白紙で小舟を
半信半疑、
町に着いた道登は制多を連れ、恵満の館へまっすぐには寄らず、町の北にある大橋のたもとへと
山崎へ訪れる者も、八幡を訪ねる者もない。間に合わせに渡し舟でも出ているかと思いきや、妖魔出現の噂を恐れてか小舟一艘浮かびはしなかった。
制多が目にする
ところが独り、奇妙な者が居ったのだ。
橋のたもとに物乞いをする娘がぽつりと、座っていたのである。
年の頃は十六、七ほど。引き裂かれたように破れた
そんな娘が、人の往来などないこの場所で、物乞いをしているのだ。
――それなのに。
ひとしきり大橋の様子を伺い終えた道登は、
これもまた、制多には奇妙に見えた。
娘の姿に道登は、一瞥をくれたのみだったのである。いつもであれば、声の一つもかけそうなものであるのだが――
次第に遠ざかる道登の背で、制多は娘に駆け寄った。
残していた旅の糧食である
「喉が詰まるからさ、これもやるよ」と、水の入った竹筒も押しつける。
娘は黙って制多の施しを受け取ると、居住まいを正して深々と頭を下げた。
それだけすると制多は急ぎ振り返り、道登の元へと駆けた。
そうしてまた、おかしなことが起きたのだ。
娘の様子が気になり橋のたもとを振り返った制多の目の先で、物乞いの姿が消えていたのである。
開けた場所だ。後ろ姿の一つも見えそうなものなのだが、無い。
「御師さん、なんだかおかしな姉ちゃんだったね」
不思議に思って、制多は道登の袖を引く。
「お前、あの娘を前にして、なにも分からなかったのですか?」
「かわいそうだなあって思った……けど?」
「……なるほど」
道登はそれ以上、一言も語らなかった。
§
釈然としないままの制多を連れて、道登は恵満の館を訪れた。簡素な構えの、武家造の屋敷である。
出迎えた下人の男に道登が来訪を伝えると、ほどなくして館の奥から小太りの男が、転げる
「ようこそ、よくぞよくぞおいで下さいました」
未だ信じられぬといった顔つきのまま、自ら道登と制多を館の中へと案内する。
既に夕刻、急ぎ食事を支度させ、道登師弟の長旅をねぎらう。食事のあとに恵満は、道登に大橋普請の仔細について、語り始めた。自分の苦境を吐き出して、ようやく落ち着きを取り戻した恵満だが、それでもなにやら早口にまくしたて、それを静かに道登が聞き、時になにがしかを尋ね――
そのうちに、大人同士の話に退屈した制多は、先に床に
師弟に用意された部屋には、すでに寝床の支度が整えられていたのだが。制多はしかし、昼間の娘が気になり眠れない。
仕方ねえや――と独り言ちると、庭に下りて身体を動かすことにした。
といっても、やるのは
雲ひとつない夜、月明かりに
半眼に開く目の前が、ふいに陰った。冷たい晩秋の風が身を吹き抜ける。
冬を感じた――しかし、制多は動じない。
そこへ、昼間の娘がやって来た。青白く淡い光をまとった、物乞いの少女。
さすがの制多も驚いて立禅を解き、
§
月は陰り、星明りも見えぬ中――
ただ娘の姿だけが、ぼんやりと灯りをともしていた。
娘が静かに差し出した手の内には、制多が渡した竹筒が握られている。
「お邪魔でした?」
竹筒を受け取りながら、制多は首を横に振る。
「姉ちゃん、ここがよくわかったね」
「大橋の様子を見に来ていたでしょう。橋の普請は、恵満さんのお役目だから……」
昼間と変らぬ荒んだ娘の有様が、制多の目を竹筒に落とした。
「……返さなくても、よかったのに」
短い沈黙の後に、娘が言葉を継いだ。
「違うの、私あなたにお礼が……お礼におもてなしを、したいの」
はっとしたように顔を上げ、制多は柔和に微笑んだ。
「礼なんて、いらないよ」
本心である。貧しい農村の育ちだ。飢えも乾きも、
娘の腕がゆるりと伸びて、制多の袖を引く。
「お願い……ついてきて」
歩み出す娘の足につられて、制多も一歩二歩と歩き出す。
館からは、未だに道登と恵満の話し声が漏れ聞こえた。
切実な目をして、娘は制多を振り返る。
館と娘を交互にしながら――制多は結局、頷いた。
しばらく歩くうちに、制多は娘が足を進める先が崩れた大橋であると知った。大橋のたもと辺りまでやってきて、制多はようやく娘に尋ねる。
「どこまで、行くんだい?」
「あっち――」と指さす先には、真っ暗な淀川の流れしか見当たらない。
大橋の路面は途中で落ち消え、遠い先まで川の
それなのに――娘は制多の袖を引いたまま、崩れた大橋を渡りだすのである。
一つ歩むごとに娘と制多の周りが白く陰った。霧が出始めたのだ。次第に霧は濃くなって、とうとう真っ白になり、娘のうしろ姿と我が身だけしか制多の目には映らなくなった。
そして、はたと気づけば――
破れ穴だらけだった娘の衣が、きらびやかな単衣に変っていたのである。
見れば、むくんでいたはずの娘の肌は
物乞いの娘は、
娘に見とれる制多の足元では、崩れ落ちて途切れたはずの大橋の路面がいつまでも続いていた。耳にはかすかに、流れる水面のささめきが届いている。
いつ終わるとも知れない白い闇の中、娘がふいに片頬を見せた。
「もう少しだから」
制多の前から、草木が風に揺れるざわめきが聞こえてきた。水の匂いは背に遠くなり、草いきれが鼻腔を撫でる。
次第に霧が晴れてきた。白い幕がしずしずと上がる。
現れたのは幽玄な佇まいで娘と制多を迎える、森の姿であった。二人の道行きを呑みこむように森の奥へと、半丈幅ほどの小道が続いている。
月明かりに青白く照らされる細道を、娘はほろほろと歩いてゆく。
やがて制多が目にしたのは、静謐に包まれた
「こちらへ――」
案内されるまま館へ上がる制多だが――貴人に変った娘の姿、不可思議な道行に玄妙な屋敷の佇まいと、戸惑うことしきりである。
幼く未熟な弟子とはいえ、さすがにこれは妖魔か鬼神の仕業でないかと疑った。
だがしかし――腹の虫が呻いてしまう。もてなしに出された料理の膳を前にして、制多の腹は素直だ。うっかり手も伸びかけて――こらえた。
「乾飯と水の礼にしちゃ、返し過ぎじゃあないのかい?」
「良いのです、遠慮なさらず。それに――」
ならばと箸に制多の指がかかるのだが。
「あなたと、あなたのお師匠様を見込んで……お話があるのです」
そう聞いて、端座する膝の上に制多は両手を揃えた。
「どうか、聞いて下さいまし」と、娘は語り始めるのである――
§
――八幡の川向こう、大橋を超えた山崎の地に、双子の姉妹がいた。年の頃は十七、貴人の娘たちである。
名を、姉は
位階で言えば従五位下、高くはないが貴族の家である。
しかし、母は流行り病で既に他界し、父は病弱で出仕もままならない。美しい娘姉妹の容姿だけが、残された取り柄と言えた一家であった。
そんな双子の姉、清子のもとに通う男が現れた。
どこで清子を見染めたものか――裕福で位の高い貴族の男である。
出会ったころから清子も憎からず、男は毎晩のように忍んで通う。互いを愛おしく想いあうのにさほどの
父親も喜んだ。
男の歳はまだ清子より十ばかり上なだけ、才知に富み、出世も見込めそうだ――既に自分には力も立場もないところへ、財も身分もすべてを備えた者が現れた。
しかし幸子は、面白くない。
「声も姿も同じであるのに、なぜ姉ばかりをかわいがるのか」と、清子を
想いをこじらせた幸子は、とうとう事に及んでしまった。
姉妹して八幡の寺社へ物見遊山に出かけた帰り、姉の清子を川に沈めたのである。
そうして幸子は死んだ清子に成りすまし、清子として男に近づいた。
「幸子が川で死んでしまったの」と、男の前で泣いてもみせた――
しかし、声や姿は同じでも、卑しい心根を隠し通すことは叶わない。
結局、幸子の浅知恵の企みは、夫となるはずの男に露見した。嘆き怒った男に幸子もまた、川に沈められたのである。
そうして男も望みを無くし、入水して果てた。
父親は、悲しみの内に病をこじらせ亡くなって、とうとう誰も、いなくなり――
§
「橋の普請を妨げて人足たちを殺めているのは、私の妹。幸子なの……」
涙を見せて清子は告げた。
姉妹と父、男が消えてしばらくのこと――怨みを抱えた幸子の魂は、妖魔に変じた。橋姫にではない。〝
濡女は人頭蛇体、尻尾の先まで三町余りもあるという、大蛇の妖魔である。男に対する執着だけを心に残し、大橋の普請に従事する人足の男たちを襲い、喰らうようになったのだ。
清子の魂は、どうにかこのことを知らせたいと、一念の未練を残した。橋のたもとで自分の姿に気づいてくれる者が現れるのを、ひたすらに待っていた。
そこへようやく、道登と制多が現れたのである。
いつの間にやら空となった膳を前に腹を擦る制多は、ぽんとひとつ腹を打った。
「御馳走になった恩には報いなくちゃあな。そういうことなら、御師さんは大得意だ。ちゃあんとおいらが、話をしとくよ」
言葉は軽いが、制多は大真面目である。
制多の心根を察したのか、清子は手をつき深々と
「どうぞよろしく、お頼み申します――」
清子はそう告げると、見る間に姿は薄れて宵闇の中にかき消えてしまう。
気づけば、制多の前に膳はない。夜風吹き抜けるあばら家の中、ただ独り座っていたのである。
目に見える景色は、辺り一面うっそうとした草木が生い茂るばかり――
かつて貴人の館であった廃屋をあとにして、制多は道登の元へと帰った。
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