第4話

 ──帰ることは、容易くない。


 真銀ましろの世界は、あらゆる痕跡を呑み込む怪物だった。津波のように荒々しく砕き、呑み込み、緩やかに侵すものではない。ソレは音もなく降り積もり、全てを等しく飲み込んでいくモノだ。成す術もなく緩やかに、確実に飲まれていく。

 曰く、雪が何かを育むことは無い。命の揺り籠たり得ぬソレは、触れる物全ての熱を奪い去り、何物をも飲み込む無辺の白痴。取り込んだそれらを消化し還元するでもなく、そこで留めてしまう白き朱羅アスラの蛇。

 人の手に金剛杵は無く、討つ為の時間も失われた。このままではいずれ白羅アスラが全てを飲むだろう。かたちなき白羅アスラが星の循環を堰き止めきってしまう。


 そんな世界で独り、彼女は走り続けている。昼も夜もなく、血を吐きながらもその足を止めなかった。真銀ましろの世界で唯一色を遺す命が、あの暗く閉ざされた揺り籠へ向かって走り続けている。

 また走り続けているせいか、夢遊病の症状は全く現れていなかった。だがそれは、彼女が不眠不休で走り続けている証左でもある。故に──感情の見えない能面めいた顔にも、徐々に疲労の色が現れ始めていた。


 ────走り続けてどれ程の時間が経ったのか。

 文明の利器はおろか、文明さえ凍てついた世界でそれを知る事は難しい。不可能だと言っても過言ではないだろう。ただわかるのは、途方もない距離を彼女が走っている事くらいだ。

 そうして──あの雪原に帰る頃には、彼女は疲れ切ったていた。髪は乱れ、白装束もかなりはだけている。その襟元は道中吐いた血に汚れ、疎らなシミとなっていた。


「…………入口、見つけない、と」


 初めて会った日からどれ程の時間が経っていたのか。初めて触れた彼女はすっかりと雪に飲まれ、その下半身は既に見えなくなっている。

 彼女自身の疲労も限界に達していたのか、今までに無いほど足取りは重い。そうして一歩、二歩と足を踏み出して────そのまま、前のめりに倒れ伏した。

 立ち上がる体力もないのか。酷く緩慢な動作で仰向けになると、そのまま深く息を吐き、ゆっくりと息を吸い込んだ。そうしている間にも、雪は降り続き彼女と遺体を飲み込んでいく。



 薄っすらと全身を白く染められたあたりで、彼女が重い身体を起こす。それに伴い積もった雪の幾らかは落ちたが、大部分は衣服や髪に留ったままだった。彼女はそれを払う事もせず、重い足取りで入口があったであろう場所へと進んでいく。そうして歩き廻り、時に雪を掻き出し──漸く入口を見つけた時にはもう、かの遺体は降雪に埋もれてしまっていた。

 

 あの日、彼女が通った道にも薄っすらと霜が降りていた。それ以外、目立った変化は見られない。彼女は壁伝いに歩みを進め、目的地へと向かう。

 いつしか布擦れの音よりも、彼女の息遣いは大きくなっていた。また時折咽る用になり、その度微量の血を吐いた。外よりも幾分暖かい為か、それはすぐに凍らず──口元を僅かに濡らし、地面に新たなシミを遺すばかり。


 そうして辿り着いた先で、彼女は立ち尽くしてしまった。


 別に目的地を違えた訳では無い。ただ、最後の石棺──天華と刻まれた最後の棺が、開いていたのだ。新たに開いた棺の前には、人影が一つ立っている。

 それは立ち尽くす彼女と寸分違わぬ容姿をしていた。無論、今の彼女のように口や襟元を血で汚してはいないし、毛髪の乱れも見られない。


「────お帰り无名むめい。きっと帰ってくると思ったわ」


 彼女に気づいたのか、視線だけを彼女へ移し──仮称『天華』は柔和な笑みを向ける。


「いい具合に満たされているのね。嬉しい」


 仮称『天華』は軽やかな足取りで彼女の傍に来ると、その白魚のような指先で喉を軽くなぞった。これに対して彼女は軽く身を引くばかりで、言葉を返そうとはしない。

 その反応に何を思ったのか、仮称『天華』はくすりと嗤い抱き寄せる。


「可愛いところ、あるのね」


 悪戯な笑みを浮かべ耳元で囁いた直後。仮称『天華』は彼女の首筋をんだ。これには流石の彼女も逃れようとしたが、それは叶わない。仮称『天華』は、見た目からは想像も出来ない力で彼女を抱き締めていたのだ。


「駄目よ、逃がす訳ないでしょ?」


 艶のある唇が、今度は喉笛へと優しく喰らいつく。接吻と見間違う程に、ゆっくりとねぶり始めたかと思われた瞬間──突き立てられた犬歯が首の皮を破り、生々しい傷をつけた。傷から溢れたソレを──仮称『天華』はじっくりと味わうように、音も立てずに啜る。

 ……傍目からすれば首への接吻にも見えなくはないが、彼女の表情がソレを否定していた。身動ぎすら許さない程の拘束。それはまるで、蛇に締め付けられる獲物のようでもあった。

 声を上げようにも喉笛をまれては難しい。絞扼による鈍痛と、傷口から生じる焦げつくような痛み。それらの中に交じる奇妙な虚脱感に、彼女の意識は混濁し始める。


 それから間もなく、仮称『天華』は口を離し──訝しんだ表情で彼女を睨む。その唇に残る雫を舐め取るも、仮称『天華』の表情に目立った変化は見られない。


「どうして────?」

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