第2話
「────臠痂」
走り始めた時と同じく、彼女は突如としてその足を止めた。
そして
それは先程と同じく、複数の言語が同時に再生されたもの。故に彼女がソレを何と呼んでいるかを知る術はない。
霜に覆われたソレへと、彼女は臆することなく手を伸ばす。白魚を思わせる指が触れ、霜を溶かし軌跡を遺した。それから程なくして、彼女は装束の袖を使い霜を優しく拭き取り始める。その手は化石を掘り出すように優しく、時に大胆に使われた。
朧気だった輪郭は消え去り、後に遺ったのは彼女とよく似た一人の乙女。その芯まで冷え切った肢体を前に、彼女は膝をつく。
色を失った髪と、生気を喪失した肌。埋葬される事なく其処に在り続けた、自分によく似た誰かの遺体。
触れる程に熱を奪うソレを、彼女は優しく抱きしめる────
────直後、彼女の鼓膜を震わせる声があった。
それは彼女の知らぬ言の葉。情報のカタチ。声にも文字にも成らぬソレを、彼女はただ聴き続けた。
『望んでこうなった訳じゃない! けど、けど……!』
荒くもありながら濡れた声が、脳内に響く。荒げた息が暫し続き──何か硬質な物を噛み砕く音が響いた。
『貴女に使われるくらいなら……!』
彼女は振りかえる。しかし、そこには誰もいない。視界に映るのは、凍てついた彼女。
「───私はここで死ぬわ」
─────瞬間、彼女が激しく咳き込んだ。
数度目かの咳で、赤い物が混じった。彼女の掌を染めた椿色のソレは、瞬く間に流動性を失い氷結していく。ソレは掌を握るとパキパキと音を立て、細かな欠片となって零れ落ちた。
「……?」
状況を理解しきれていないのだろう。彼女は両の掌を握り、開きを何度か繰り返す。咳が収まった事に気付くと、ゆっくりと立ち上がり周囲を見渡した。
されど景色は変わらず。動くものは彼女を置いて他になく、目前の遺体が動いた形跡もない。鼓膜を喰む静寂の中、聴こえるのは微かな吐息と布擦れの音。
「使われ、る……誰、に?」
先程よりもはっきりとした日本語で彼女が問うも、答えはない。それから暫しの間を挟み、彼女は日が傾き始めている事に気付いた。加えて、目前の遺体にも薄っすらと雪が積もり始めている。
今度はその雪を払う事もせず「さよなら」と、短い別れを告げて彼女は歩き始めた。彼女が何を指針に進路を決めているのかは謎だが、その足取りに迷いは見られない。
だが──その足取りからは、先程のような軽やかさは失われていた。
──岬に在った遺体は、水平線に向かって祈りを捧げていた。
──半壊した図書館で見つけた遺体は、一冊の本を胸に眠っていた。
──焼け落ちた廃村では、自らの胸に短刀を突き立てた遺体が在った。
そうして彼女は、新たに三つの遺体に出逢った。埋葬される事もなく、辱められる事もなく其処にあり続けたそれらと。自らの容姿と瓜二つのそれらに触れる度、彼女は激しく咳き込み血を吐いた。
その度に彼女は記憶に触れ、遺体から何かを得ていったのである。
雪原で出会った彼女からは、春の記憶を。
岬にて祈りを捧ぐ彼女からは夏の記憶を。
図書館で見つけた彼女からは秋の記憶を。
廃村で出逢った彼女からは、θλ∅∃εδ∝≫γλκの記憶を。
──────だが廃村で出逢ったそれは、どうにもよくないモノだったらしい。
それに触れてからというものの、彼女はしばしば血を吐くようになった。それは歩む最中であったり、休息中であったり。時と場所を選ばずに彼女を襲った。
吐血には決まった前兆などない。酷く咳き込んで吐血する日もあれば、えづくような形で口の端から溢した日もある。身体に異常があることは彼女も理解している。けれどその原因を解決しようとは思っていない様子だった。
また身体の異常は他にも見られた。
時に、眠った場所と目覚めた場所が異なっている。
時に、拾った手帳に書いた記憶のない文章が追加される。
時に、濃密な鉄の香りで目を覚ます。
──といった症状がみられていた。
これらは気の所為だと言われればそれまでかもしれない。
『症状』と呼ぶ程のものではないのかもしれない。だが、明らかな痕跡は残されている。彼女が眠っている間。彼女の知らない所で、彼女の身体は活動した痕跡が。
「また、これ」
赤黒い塗料で書き殴られた文字。ここ数日は似たようなフレーズが書かれていることが多い。どうにも、この真銀の世界を作り上げた誰かがいるようだ。
──もしかすると、彼女に酷似した遺体達も誰かの手で凍結させられたのだろうか?
だが、答えは何処にもない。故に彼女はそれらの落書きを記録するだけに留めていた。旅の最中に取得した記録装置──過去にデジカメと呼ばれていたそれ──を用いて。
また今の彼女は、彼女らが抱えていた想いに応えようとしている。アレらが何故あのような場所で最期を迎えたのかを知り、その生まれを知ったが故に。
旅の途中、彼女は気付いていた。彼女らとは違い、自分には何もないことを。彼女は自身が石棺に納められた経緯さえ記憶にない。何もない彼女だったからこそ、興味を抱いた。
始まりは些細なもの。純粋で無垢な興味。遺体に出会う度、強くなる興味に従っただけの選択だった。けれどそれで良い。彼女にはそれで良かった。
歩く中、彼女は沢山のものに出逢っている。それらがなんなのかを知る為の知識は、遺体の記憶から学んだ。そしてそれらを伝える声と、文字を理解したのは図書館に辿り着いた時である。
多種多様な言語で綴られ、遺された書物を読み解くにはかなりの時間と労力を費やした。しかし彼女にとってそれらは大した問題ではない。
元より期限のない旅であり、好奇心旺盛な彼女の事だ。新たな書物に触れる度、新たな学びを得られる図書館は、彼女にとってとても良い環境だった。
惜しむらくば、彼女を教え導く者が居ない事くらいだろう。しかしそれが叶うことはない。
──少なくともこの地上に、彼女を置いて他に知的生命体は生存していないのだから。
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