欠けた椅子

欠けた椅子

 はるか。


 呼ばれて、足を止めた。

 三時頃から降りはじめた雨で、地面も椅子もしっとりぬれていた。プラタナスの茶色い葉がべったりとはりついた、古いデスクチェアは背もたれが破れていた。中の黄色いスポンジが覗いている。

 だが足はキャスターがそろっており、傾いておらず、椅子はまっすぐに遥を向いている。


 はるか。


 遥は思わず顔をしかめた。声は確かに響いた、遥の頭蓋のなかで。低く柔らかく、うんうんと残響をひき、遥は耳を覆う。

 風が吹いて、プラタナスの葉が椅子からはがれ、飛ばされていった。


 駅前の路地にある喫茶店の前に、青い椅子はあった。灰色の金網でできたごみ集積場のとなりに、さも私も回収されますという顔で並んでいた。しかし、粗大ごみのシールは貼られていない。

 椅子をここに置いた人には欠けていた。知識か社会性のいずれかが。


 遥は歩み寄り、差しているビニール傘をかたむけた。椅子が傘に覆われ、遥の首筋にしずくが落ちる。

 確かにこの椅子に呼ばれた。

 ぼうぜんと見下ろしていると、喫茶店の主人らしき白髪まじりの男の人が出てくる。


「それ、おたくの?」

「いえ……」

「不法投棄だよね。困っちゃうよ」

「あの」

 遥は自分でも何が何だかわからないうちに声を上げていた。

「これ、私が持って帰ります」


 怪訝なようすだったが、とくに引き留めることもなく喫茶店の主人は椅子を明け渡した。

 遥はガラガラ音を立てて椅子を引きずった。石畳の上でキャスターは細かく跳ね、思ったより大きな音を立てる。

 通行人がちらちら見るので、遥は耳の先が赤くなった。

 なんであんなことを言ってしまったのだろうと思った。誰が使ったかもわからないぼろぼろの椅子を引き取るなんて。


 遥の兄はいつも自室で青いデスクチェアに座っていた。

 兄は病院に行き、適応障害と言われ、仕事を辞めてからかなりの時間をあの椅子ですごした。

 遥は部屋にいる兄に食事を届ける役目を負っていた。

 ノックして、ドアの内側の小さな丸テーブルにトレイを乗せる。

 たいてい兄は何をするわけでもなく、ただぼうっとスマホの白い光を顔に受けて、だらんと椅子に寄りかかっていた。

 まるで彼の領土はその椅子だけと定められたかのように、いつ見ても椅子にいた。


 一時期、兄はベッドから出てこなくなったことがあり、そのころ病名は適応障害からうつに変わった。

 ベッドから出てきてもやはり兄は、遥が見るときほとんど青い椅子の上でしなびていた。

 青灰色に沈んだ狭い領土のなかでだけ、兄はかろうじて存在することを許可されており、そこを一歩出るとまるで難民だった。


 はるか。お前、おれのこと捨てんのか。


 遥は兄の病気のことで複雑に絡み合った家族を切りはなすように、郊外に安アパートを借りた。職場からも近く、スーパーも徒歩圏内で、家賃もなんとか払える額だった。


 兄は正確にはそう言わなかった。

 はるか、行くのか、とかなんとか言ったのだ。


 けれど最後に食事を届けて、出ていく、と言ったときの、兄の切ないような目を見たとき、ああ私は兄を捨てるんだなと遥は思った。


 引越しは無事終わった。

 遥はカーテンも下げていない、段ボール箱を積み上げた部屋で、ひさしぶりに平穏と孤独を感じた。

 静かな部屋は、日当たりが悪く、観葉植物がなかなか育たなかった。


 壊れた椅子は湿って重く感じる。

 ビニール傘を開いたまま地面に置き、椅子を抱えてアパートの階段を一段一段のぼった。

 部屋のドアを開ける。玄関のたたきに椅子を置き、雑巾を持ってきてキャスターをふく。

 ドアを閉じると雨音が遠くなり、我に返った遥は自分の行為を少し距離を置いて見ることができた。

 突飛な行動だった。けれどそうせざるを得なかった。

 ずっと忘れようとしていた、気にしないようにしていた。なのに兄はなぜ呼んだのか。


 窓際に元気のないポトスの鉢があった。

 もともと観葉植物の他は必要最小限のものしか置かないすっきりした部屋だ。壁にカレンダーすら貼らず、真ん中に低いテーブルがあるくらい。

 遥は椅子を部屋の隅に転がしていき、そこへ置いた。椅子の体積ぶん、部屋が圧迫される。

 だが、それだけだ。大丈夫、何も問題ない。椅子は何にも反せず、何も侵さない。何も脅かさず、何も不安にさせない。


 部屋着に着替えた遥は椅子と向き合った。

 押したり引いたりして、キャスターに問題がないことを確かめた。高さ調節もできるようだ。ただ、背もたれはかなり破れている。中身の黄色いスポンジが露出していて、痛々しかった。

 遥はスマホで検索し、デスクチェアの修繕方法を収録した動画を見、思い切って椅子の張替えセットを通販サイトで注文した。

 ドライバーを引っぱりだし、ねじと言うねじをはずしてデスクチェアを分解する。

 スポンジと布をはぎ取って、骨組みだけにした。ぬれたスポンジと布は燃えるごみ袋に押しこんだ。

 骨組みをアルコールで拭き上げる。


 あれから兄に会っていない。

 家には帰ったが、そこに兄はいない。


 桜の散るころ、兄は忽然と姿を消した。

 失踪した時の服装どころか、いつも使っていた靴、いつも使っていたバッグ、いつも来ていた服、それすら家族の誰も知らなかった。

 日中だれもいない時間に通院で外出する他、兄が外出することはなかったはずだ。その時の姿は誰も見ていなかった。

 両親の頭の中では兄は兄の部屋であり、私の頭の中ではジャージ姿で椅子にいる。兄はそう私たちの記憶の中に画鋲で四隅を固定されていた。


 確かに兄は椅子を離れて部屋を出、トイレに行き、風呂に入った。だがそれは例外の姿であり、私たちの記憶の中では兄はあらゆる名前をはぎ取られ、椅子に縛り付けられていた。兄はうす暗い部屋であり、青いデスクチェアだった。

 兄がいなくなった椅子はずっとからっぽだ。おそらく永遠に。


 仕事から帰ると、張替えセットが届いていた。

 遥はさっそく絨毯の上に中身を広げる。

 デスクチェア修理の動画を再確認しながら、ウレタンに座面の形をペンで写し取り、余白を取ってカッターで切り取る。同様に表面の布も切る。

 椅子の皮と肉に刃を入れているのだ。皮はデスクチェアにするには少しつやつやしていた。


 ワイヤレスイヤホンの、つやのある曲面に遥は心打たれていた。

 高校の入学祝に兄が買ってくれたのだ。そのためにバイトをしてくれたんだろうなと遥は感づく。真新しい制服に袖を通して、真新しいワイヤレスイヤホンをつけてみる。本当は白がよかったのだけど、この桜色もいいなと思いはじめる。

 春からは電車通学なので、必要になると考えてくれたようだった。

 遥は言葉少なで生真面目な兄がこんな粋な人間だとは思っていなかった。

 思わず満面の笑みで兄の背を叩く。兄の口もとが変な形に曲がっているのは照れているからだ。


 次の作業はうるさくなりそうなので、明日の休みに回すことにした。

 床にばらばらの椅子の部品をきれいに並べる。

 空腹だった。一人分のなべに冷凍しておいた食材を入れ、コンロで煮込んだ。スマホでは動画を流しておく。よく見ているYoutuberが新しい動画を出していた。

 彼は山に登っていた。機材と布と息の絡まる音。カメラが仰ぎ見れば山頂が青空に影絵のように浮いている。

 てっぺんを目指している。


 兄はベッドから出てこなかった。うす暗くて、地底のような部屋だと遥は思う。部屋には嫌なにおいがこもっていて、遥はカーテンと窓を勢いよく開けた。

 ベッドでもそりと動く音が聞こえる。

「たまには日を浴びないと、ほら」

 タオルケットのなかに頭がもぐっていく。

「あとで閉めに来るから」

 そう言っておいて、遥はそのことをすっかり忘れていた。

 夕立が通って、吹きこんだ雨で床もタオルケットもすっかり濡れた。じわりと罪悪感が胸の端を占める反面、兄が自分で閉めればよかったのに、と遥は思った。

 でも兄はそれすらできなかったのだ。腕を持ちあげて窓を閉めるというただそれだけのことが。

 それでタオルケットごと雨に打たれていた。

 ごめんと言おうかどうか迷って、遥は言わなかった。Tシャツを枕元に投げてやって、出窓を拭いて、タオルケットを替えた。脱いだものを触るのはいやだった、かもしれない。何日も着ていたから。

 それをいやがる自分もいやだったかもしれないし、いやだと思うこと自体がいやなのかもしれなかった。約束を破った自分が、兄をいたわりきれない自分がいやなのかもしれなかった。

 兄がつらいのはわかっていた。だから自分がいやだと言えないのもわかっていた。そういうふうに兄で自分の気持ちにふたをするのがいやなんだと気づくには、いろいろなことが連鎖しすぎていた。

 遥はもう何がいやなのかわからなくなっていた。


 低い日がわずかに窓から射しこんでいた。

 スマホを引き寄せる。もう昼が近かった。冬の朝はどうしてもうまく起きられない。

 遥は眠気を引きずりながら流しへ行き、あえて冷たい水で顔を洗った。

 観葉植物の土を指で触って湿り具合を確認してから、食パンと牛乳で朝食を摂る。

 兄は、兄の椅子は昨日のとおり床にばらばらのまま並んでいた。

 歯をみがき、髪を結ぶと、遥は金づちを握って椅子の前に腰を下ろした。

 タッカーを打つ機械がないので、金づちで打ち付けるしかない。

 遥は座面にウレタンを敷き、布をかけると裏返してタッカーの針を打つ位置を見定めた。

 金づちを上げて、叩く。

 数度打ち付けるとタッカーは布を張った、湾曲した木の座面の中に埋もれた。

 布は少し引っぱる手の具合を変えるだけで歪みそうだ。遥は慎重に針を置いた。


 おつかいを頼まれて、スーパーでサイフを出すのはいつも小学生の兄だった。そして店を出るまでに必ず兄は買い物袋を遥から取り上げた。

 遥の兄はいつもそうだった。宿題を見たときも、ゲームのボスを代わりに倒したときもそうだった。

 いいところを見せようとした気持ちが全くなかったとは言わない。

 けれど、本当の動機はそれではなかったと遥は思う。

 兄は頼りがいのある存在でありたかったのだ。

 もっと言えば、兄は鷹揚であろうとした。広く、大きく、落ちてきた妹を受け止めることのできる人。何かでつまづいて転び、落ちてきた遥を、ウレタンのように押し戻し、布のようにやわらかく座らせることのできる兄という存在であろうとしていた。


 現実の兄は真逆だった。

 打ちのめされ、ひしゃげ、崩れたのが兄だった。

 遥は自らの領土に引き篭もる兄の面倒を見、世話を焼いた。それがどれだけ兄の自尊心を責め、切り崩していったことか。


 誤って金づちで指を打った。

 痛みを分散させるつもりで手を振りたくる。兄の苦しみはこんなものではなかったという思いがふとよぎる。

 全て一人で引き受けないで、少しわけてくれてもよかったんじゃないかと思う。

 けれど心はケーキを分けるようにはわけられないのだ。


 何より、兄は私に分かとうとはしなかったろうな。


 針を打つ。

 なんでまじめな人ほど損をするんだろう。


 どうして私が妹なんだろう。姉ならよかったな。


 それでも兄さんは私に弱みを見せられなかったろうな。


 針を打ち終えて、座面をひっくり返す。どこかぼこぼこしていびつだったが、穴の開いていない座面ができた。

 背もたれの部分も同様に直していく。

 一度やっているのでコツがわかってきて、スムーズにいった。


「直してくれんのか、遥」


 完成した部品を組み立てていく。

 骨組みは壊れていなかったので、ドライバーでネジを締めあげると、元とは少し違うがデスクチェアの形をしたものが組みあがった。


 骨組みは壊れていなかった。

 少し部品を取り換えれば治ったんだ。


「遥、おれ、治ったのか」


 んぐ、と遥は頷いた。

 椅子の前にひざを折って、座面に額を乗せる。

 冬の低い日差しが窓から射しこんで、床が淡い金色に滲んでいった。

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欠けた椅子 @kmskh

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