一膳飯屋「こはる」 大奥分店
黒中光
第1話 初日
夜明け前、ぱちりと目を覚ました小春は見慣れぬ天井に驚きながら、せんべい布団から這い出した。窓の外は曇っていて太陽は見えないが、今が七つ半にもなっていないことは分かっていた。
(あんなことがあっても、身体はいつも通りに動くのか)
まるで己が絡繰り人形にでもなった気がして、小春は苦笑する。
周囲の人間も起きて身支度を始める音がした。そこかしこから聞こえてくる声は、女、女、女ばかり。
俗世から切り離された女の園。絢爛たる花が集められ、腐り行くまで誰にも見られることなく閉じ込められる箱庭。
そこで生きてゆかなければならないことを思い出すと、小春は憂鬱さにため息を抑えることができなかった。
(何も言えずにここに来たけれど。お父ちゃんは心配しているだろうな。お店は大丈夫かな)
小春の人生が大きく変わったのは、今からちょうど丸一日前のことであった。
いつもと同じように、父親がやっている一膳飯屋の準備を手伝っていると、遠くから「揚げ~、揚げはいらんかね~」と振り売りの声が聞こえてきた。
振り売りは担いだ天秤棒の両端に木桶を吊して、そこに商品を入れて売り歩く商売だ。油揚げ・豆腐・野菜・魚と様々な食料も売られているし、シャボン液や金魚などの娯楽品だってある。中には「さおだけ~」と言って物干し竿を専門に売る者まで。
江戸の町にもなると振り売りが扱っている品物の種類も多く、それが家の近くまでやってくるのだから便利な物だ。町の皆が使っている。
「おう、小春。ちょいと揚げを十きれほど買ってきてくれ。焼いてつまみに出すにゃあちょうど良い」
父親の源一に金子を渡された小春は小走りに外へと出た。こういうお使いは小さい頃から毎日やっていることで、まるで夕飯に米を食べるみたいに当たり前のことだった。
しかし、見慣れた道で行き会ったのは三人の人さらいであった。
そうして売り飛ばされたのが、小春の新しい職場、大奥である。
大奥と言えば、豪華絢爛の代名詞みたいな場所で、質素倹約を叩き込まれた城下とは別世界。年頃の娘達には双六に描かれた大奥女中達の姿に憧れる者も多くない。
しかし、それは己の行く末に確たる夢も無い者の話。既に愛して止まない料理屋での生活を得ていた小春にとっては迷惑千万な話だ。大奥に一度入ってしまうと、自由に外へ出ることはできないのだ。数年の年季が明けるまでは、籠の鳥。
おそらく親馬鹿な士族が娘を大奥にやりたくないが為に、年格好の似た娘を用意させたのだろう。そうして、人さらいどもが酒手を手にしたかと思うとやりきれない。
この場所にだって文句はある。
かしましく語り合い、白粉と紅で美しさを競い合う。そんな優雅な装いの下では、こんな犯罪を見てみない振り。表に出そうとしないからこそ、内側が腐っているような嫌な臭気。
言ったところでどうにもできないのであるが。
同室の女中が起きてきたので、二人して着替えをした後、庭に出る。箒でもって落ち葉を掻き集めていく。大奥に来たばかりの小春の役職は
春が終わり夏が近付く季節ではあったが、陽が昇ったばかりの時分はまだ冷える。それを我慢して手を動かしていると、同室のお柳が近寄ってきた。昨日会ったばかりだが、随分とお喋りな性格らしく、床につくまで喋り通しだったくらいだ。今も口元をそわそわと動かしている。
「ねえ、ねえ。知ってる?」
「何を?」
彼女は噂話が大好きだった。将軍のお手つきである『汚れた方』や百余年続く城の怪談話まで。今回の話題は幽霊物であった。
「『瑞雲院の呪い』って、聞いたことある?」
「全く」
気乗りしない仕事を早く終わらせたくて、小春の方は生返事だ。同い年で立場も同じ。それにお柳の話にまともに付合っては時間がいくらあっても足りないことは昨日一日で十分知ったので、この位の扱いで十分なのだ。お柳の方も気にせず話し始める。
「瑞雲院っていうのは、前の将軍の御中臈の名前ね。この方が亡くなったときの話なんだけど、実はこの方、帯で首を吊って自殺しちゃったらしいの。原因は分からないんだけどね。気の病だろうって言われてる。ちょうど赤子を亡くした後のことだったらしいのよ」
御中臈とは、将軍の奥方候補のことだ。
この瑞雲院の騒動は十七年も前の話で、変化の多い江戸ではとっくの昔に昔話へと変わっていたというのが、お柳の話。しかし、この話の墓を掘り起こす出来事が起こった。
「去年に、御中臈の松の上様が懐妊されたの。それで、お子が健やかに産めるように、今までの部屋からもっと広い部屋に移られることになったんだ。そしてその部屋が――瑞雲院様の部屋」
瑞雲院が亡くなってから、「縁起が悪い」という理由で彼女の部屋はずっと閉ざされ続けていたらしく、自殺騒動の後にその部屋に入ったのは、松の上が最初であった。
松の上は部屋を移る際、単純に広くなることを喜ぶだけで、部屋を怖がる素振りはなかったという。そもそも、彼女が多くにやって来たのは二年前。噂そのものを知らなかったと思われる。
「部屋で幽霊を見たというような話はなかったの。母子ともに健康であらせられるって話だった」
妊娠の経過は順調で、赤子が無事に生まれるであろう事を誰も疑っていなかった。それが変わったのは、つい一月前のこと。
「朝、松の上さまの姿が見えないので、御年寄さまが部屋に行ってみると――松の上さまは亡くなっていたんですって。布団は跳ね散らかされていて、目をかっと見開いて。まるで何かに心底怯えたような姿だったそうよ。あの時は大奥中とんでもない騒ぎになったものよ」
「まさか、殺された?」
「それがね。松の上さまの身体には傷一つ無かったのよ。それに近くの部屋にいた人は誰も何も聞いていないの。あの神経質な御年寄さまでもよ」
そう言われて小春は御年寄の事を思い出す。彼女は大奥を取り仕切っている総大将みたいな女性で、白髪頭をきっちりと結った堅物そうな人だった。すでに初老を過ぎているが、彼女の近くにいいると息が詰まりそうなくらいに、相手をキッと目ねつけてくる視線から、何事も見逃しそうにない人だという印象を受けた。「じゃあ、何故?」
「それが分からないの。赤子がもうすぐ生まれるって言うのに自殺するわけないし、すこぶる健康そうな方だったから病死なわけもないしね。もうこれは瑞雲院さまの祟りじゃないかってもっぱらの噂よ。幸せそうにしている松の上さまが妬ましくて憑き殺しちゃったんじゃないかって」
普段怪談なんて平気な小春でも背筋に冷たい物が走る。どんなにおどろおどろしい話でも見知らぬ場所ならば怖くない。だが、すぐ側の場所に現れるとなれば話は別だ。
「近寄らないようにする」
「ん、それがね。実は終わってないのよ、この話」
お柳が更に話を続けようとしたが、どたどたと激しい足音に遮られた。城内では静かに歩くことを徹底されているのに、これはただ事ではない。
一人の女中が息を切らせて駆けてくるかと思うと、屋内掃除をしている御半下達の元へと障子をがらりと開けて飛び込んでいった。障子が開けっぱなしなので、外にも声が届く。
「どうしたんだい、騒々しい」
「まただよ、桃の方さまが。体調を崩されたんだよ。ゼーゼー息苦しいって。それに顔にもばらっと発疹が出て」
「またかい!」
「とにかくお医者を!」
周囲の女達の反応も変わる。それまでは賑やかなお喋りに興じていたのが嘘のように静まりかえり、細々と交わされる言葉にも恐怖と緊張が混ざっていた。
「これは……」
「松の方様に代って新しく来た方にもおかしなことが起こってるの。大奥に来るまでは健康そのものだったそうなのに、こっちに来た途端に体調を崩されて。咳とか頭痛だけじゃないの。食べ物は必ず吐いてしまわれて。随分と苦しがっているそうよ」
更に時折死装束のような真っ白な衣を着た女の姿が大奥の様々な場所で目撃されているのだという。現れるのは決まって夜。髪をばらりと垂らした女の霊で、誰も顔を見たことがないとのこと。追いかけようとした強者もいたようだが、決して追いつけず必ず見失ってしまうのだとか。
「たちが悪い話。飢え死にさせようとするなんて」
語られる亡霊に嫌悪感が募る小春。彼女は飯屋の娘として、人は美味しいご飯をお腹いっぱいに食べることが幸せだと思っている。それを踏みにじる亡霊が堪らなく気持ちが悪かった。
この時、小春は何もしなかった。新米女中が幽霊相手に何ができるのか、と。だが、忘れ去ることもできずに頭のかたすみに小さな居心地の悪さが残った。
これが後に小春の運命を変えていくきっかけになる。
小春の願いは、平々凡々に大奥での年季を勤め上げて、父親の店に戻り、父娘二人で仲良く暮らす。それだけであり、この程度ならば簡単に叶うであろうと思っていた。
これが間違っていたことが後に分かる。大体、世の中を普通に生きていける運命であるならば、人さらいに売り飛ばされたりなどはしない。
大奥で、小春はこれから一つの出会いをする。それはこれまでの小春の人生を大きく変える転換点。生涯を通じ、決して忘れられぬ人。
二人の出会いに惹かれるように厄介事もぞろぞろと現れ、やがてはこの大奥そのものを揺るがす大事件に発展してゆく。
好奇心と親切心。それを持ち合わせた小春が人々が困り果てる場所に居合わせるのは運命と言えるのかも知れない。
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