人形とオイルライター
ひとごみ
人形とオイルライター
深い深い森の奥、暗い暗い緑の中。
かつての獣道は深い緑で覆われて、温かな日の光は鬱蒼とした木々に遮られている。人為介入の縁は完全に絶たれ、あるがままに生を主張する緑の中では、かつて人がいた痕跡を想像することすら難い。
しかしながら、森の中の一部、木々がくり抜かれたように無くなっており、開けた土地が確保されている部分があった。開けているといっても、木々が無くなっている分、周囲より日光の利を得た草たちが、その土地の主権を主張するように覆い茂っていた。
その土地の中心に、自然には似つかわしくない直線的な、茂る草を凌ぐ大きなシルエットがどっしりと鎮座していた。三角屋根のバンガロー風な平屋、黒色の木材の壁に、白い窓枠の向こうはカーテンで閉め切られ、テラスと思しき空間は隙間から入り込んだ緑に埋め尽くされていた。
誰かがいつか確かに時間を過ごした跡が、誰も知らないその場所で、誰からも忘れられたまま、取り残されていた。
カーテンが閉め切られ、何年も闇に閉ざされ、埃の一粒も舞わず、時の止まった部屋の中。部屋の中央、木製の丸いテーブルの上に、薄灰色のガラスコップが2つ無造作に置かれていた。テーブル中央には、乾ききった花瓶に、どうやら花らしかったものが焦げたもやしのように項垂れている。
テーブル傍の小さなオープンキッチンは、広い壁とガラリと空いた収納棚がその空白を主張していた。
テーブルを挟んでキッチンの反対側の壁際に、木製の棚が一つ立っている。棚の中では、取っ手に緻密な装飾が施されたティーカップに、同じ装飾が柄に施されたスプーンが入れられている。その右隣には所々が凹んだり塗装が剥げたりしている黄色いブリキのミニカー、更に隣には、真鍮の外装の中央に、凹凸でロゴが刻まれているオイルライター……。種々雑多なラインナップのインテリアが、飾られているのか、取り残されているのか、端から端まで煩雑な一列で並んでいた。
部屋中に目に見えて降り積もった埃よりも、ずっと厚く静かに積もった長い年月、かつて持ち主だった誰かに忘れられて久しい家具達は、いつまでも動かない部屋の中で、微睡むようにただ存在していた。光が差していた頃の室内の様子も、人がいた頃の音や香りも、その役割に徹していた存在意義の感覚も、すっかり埃に被って思い出せなかった。
ある時、小さな地震があった。微かな主要動が1、2秒。次の瞬間にはその揺れの感覚を誰も思い出せなくなるであろう、本当に些細なものだった。部屋の中では、ソーサーの上のティーカップが、久しくその陶器らしさを発揮するように一つ、カチャリと音を立てた。次の瞬間には、その空間は再び音も無き虚に満たされていた。
しかし、ただ一つ、微睡みに戻らなかった家具があった。
(……。)
棚の上に置かれたライターは、地震が収まった後も、下腹部で僅かに揺らめいていた何かを知覚していた。
(……これは。)
朧げな意識の中で知覚したそれは、自身のライターとしての機能であり矜持であり、記憶の奥深くから熱源の感覚を思い出させる、自身のエネルギーそのものだった。長らく動かず、存在しないも等しい背景として闇の中にいたが、自身の奥にあった再始動の糸口を、ライターは掴み取っていた。
(そうか、僕はまだ、)
かつてのヤスリの重さが、散った火花の刹那なきらめきが、仄かな灯りの確かな熱量が、オイルの内側から湧き上がるように記憶の中から蘇ってきた。
(まだ、やれるのかな。)
オイルが残っているのなら、機能としての自身がまだ死んでいないのなら、もう一度、灯せるかもしれない。
光無き、何も見えない部屋の中で、ライターは一人、夜を差す灯りのような可能性を自分自身に見出していた。
埃を被った蓋を開く。キーンという金属音が部屋に響いた。
ヤスリとスリングに、感覚を集中させる。いつまでも止まった時の重さに抗うように、ヤスリに力を入れる。
スリングが、かつての感覚の記憶以上の抵抗を示す。真鍮の外装は錆てはいなかったが、その内側は時を経てすっかり凝り固まってしまっていた。
灯れば、本当の自分を思い出せるだろうか。灯れば、かつてを過ごした部屋の中も思い出せるだろうか。灯れば、闇に閉ざされて止まった今が、再び動き出すだろうか。
ッチッ。ヤスリを鈍く押し込んだ感触。火花の一粒をも起こすにはまだ力が足りない。
カチッ。先ほどよりも奥まで押し込めた感触。在りし日のホイールの回転を思い出してきた。
カチイ。デジャヴのように骨身に沁みた感触。刹那、最高速度のホイールから粒が一閃。
部屋で光が生まれた。
幾年も部屋を支配していた闇はどこへやら、ライターの視界は、赤白い光に覆われた。自身に灯ったそれは、闇に慣れた身にはとても眩しく、ライターからは周りの風景が光で見えないほどであった。
明かりが部屋に広がる。カーテンに遮られて久しい日の光に代わり、部屋の四方を照らし始めた。些細ながらも確かな、部屋の中の夜明けであった。
他の家具たちが、仄かな光と熱源によって、現に還されていく。
「なんだ……?」「これは……?」
光を照り返した食器達は、自身らのマテリアルと、電灯の真下で人間に囲まれていた在りし日の食卓の風景を思い出していた。ブリキのミニカーは、熱源から僅かに吸収した確かな温度を以て、太陽の下で、小さな手に掴まれて地面にフロアを擦りつけられながら駆けたあの振動と衝撃の感覚に思いを馳せていた。
微睡みから覚めた家具たちの意識は、棚の上の小さな光源に向けられた。久しく部屋を覆っていた暗闇に生まれた一点を、家具たちは吸い込まれるように見つめていた。眩しさのあまり、他の家具の姿はライターからは見えていなかった。しかし、視界の直ぐ側で煌々と灯る火の奥で、何か賑わいの糸口が湧いているらしいことは、部屋の雰囲気の変化から、ライターにも肌感で理解できた。
ところが、瞬く間に、再び部屋の空気が一変した。
「……!!」
誰一人として呼吸をしないのに、皆が息を飲んだのがライターには分かった。家具たちの意識は、灯火に向かって右に少しズレた一点に、一斉に攫られ虜にされた。
その視線の先には、朽ちた部屋には似つかわしくないほど一際華麗に照らされた、人形があった。滑らかに垂れた金髪に、青色を基調としたシルクのドレスに着飾られ、三日月モチーフの金色の髪飾りとネックレスが灯火を反射し輝いている。ライターの光が、精巧な表情の凹凸に陰影を作り、その端正な表情が一層、生命的な訴求力をもっているように映えた。
ライターの光を優雅に輝り返し、暗闇に浮かび上がったその美貌は、部屋中の視線を瞬く間に奪うには十分であった。自身の矜持を取り戻したライターとは異なり、眠りから覚めただけの他の家具たちは、自身のアイデンティティや存在意義を取り戻した訳では無かった。古びた食器も、忘れられた車のおもちゃも皆、自身の内側に意識を向けるものがない分、意識の全てを注ぐ勢いで人形に首ったけになっていた。
ライター本人は、自身の眩しさのせいで人形の姿が全く見えていなかった。自身の貴重なアイデンティティであるライターオイルを、自分からは見えもしない人形を照らし、朽ちた家具たちを満足させるためだけに浪費するというのは、どうも気乗りがしなかった。
いきなり消灯するのも角が立つ気がしたが、ライターはオイル惜しさに火を消した。途端に部屋の中がざわめき出す。
「おい、何で消すんだよ。」
「お前今わざと消しただろ。」
ソーサーとティーカップ達が、その身の欠けそうな勢いを気にも留めない様子でカチャカチャと抗議する。
「ここを明るくできるの、今君しかいないんだからさ……。」
隣のミニカーから穏やかな声が聞こえた。
「オイルだって限りがあるんです、それにそこのカーテンが開けばいいでしょう。」
ライターはミニカーの声に応えつつ、周囲に聴こえるように、尚且つ他の家具を刺激しないよう穏やかに意見を述べてみた。カーテンが開けば、オイルの消費が無くとも、ライターの灯火以上に部屋に光を入れることができる。
今までライターの光に関心を見せる様子の無かったカーテンが、途端に口を開く。
「バッカだなあお前、なんでお前らのために俺が縮こまらなきゃいけないんだ。」
ライターの言葉をあしらうようにひらひらとはためきながらカーテンが言った。更にカーテンは矢継ぎ早にまくし立てた。
「ライタークンよお、俺はカーテンだからこうして光を避けてやってる、お前はライターだから火を付ける。当然だろ?なんでお前みたいな使える道具をケチるために俺がカーテンを止めなきゃいけないんだ?」
「お前もなんでオイルなんかケチってるんだ、どうせ他に使い道も無いくせに。」
「今後使われる機会なんてありゃしない。なのにお前は、今使えるモンを使おうともしない、自分の今の役割を果たそうとしないどころか、今こうして果たされている俺の役割にケチ付けるっていうのか?」
この部屋の中で唯一、日の光を多分に浴びていたカーテンは他の家具よりずっと前からはっきりと、目が覚めていた。ライターよりも先に、あるべき姿であり続けていたカーテンの言葉に、ライターは言葉を返すことができなかった。
無言のまま、ライターは再び火を灯した。部屋のざわめきが瞬く間に落ち着いた。
ライターは、カーテンの主張はご尤もだと思ったし、人形に心を奪われる他に存在甲斐のなかった家具に文句を言われることも、納得はいかなかったが同情することはできた。故に、渋々ながらその貴重な燃料を、灯火に費やし続けることに決めた。
それにしても、無為だと思わずにはいられなかった。どんな人形のために限りある命を燃やしているのか。他の家具への同情の一つが、有限な資源の消費の価値に相応するのか。ライターは燻る疑問を腹の底に隠しながら、その灯火の輝きを保ち続けていた。
ライターとしての存在甲斐を渋々ながらも発揮しているその姿と灯火を、人形はずっとその目線の先に捉えていた。
部屋に明かりが戻ってから幾日して、ついにその時が訪れようとしていた。ライターの灯火は頼りない様子で揺らめくようになり、部屋の隅はいつかのように闇に包まれつつあった。
燃料が切れようとしていた。ライターとしてのアイデンティティも、家具たちの唯一の心の使い道も、いつ事切れようとおかしくない状況であった。
光源が失われるのを察した家具たちは、神経を研ぎ澄ませて周囲を見回した。蝋燭の類いはなく、灯火を保つ手段はなかった。誰かが小声で口にした。
「オイルだけじゃなくお前の体も燃やせればよかったのにな。」
「その御立派なつくりの体は見かけだけか?」
部屋の後方からクスクスと同調を含む笑い声が聞こえる。真鍮のケースの体を持て余したライターが、もはや言い返す気も起きぬまま立ち尽くしていると、突然、家具たちのざわめきを遮るように、透き通った声がした。
「最後に、」
部屋が水を打ったように静まり返った。皆が声の主に神経を注いでいるのがライターには分かった。聞いたことのない美しい声の出処は、今まで一言も発さなかったライターの向かって右上方。
「私の直ぐ側で明かりを灯してはくれないか?」
人形の声だった。ライターはその言葉の意図が分からず動きあぐねていた。
「今、そちらへ行くから、貴方にもこちらへ近づいてほしいんだ。」
人形は再び口を開いた。
同じ棚の上、その距離は直線で約12cm。ライターは着火装置を動かしたあの感覚を、何年も床に張り付くように立っていたその足元に集中した。ふとふらついて倒れそうになった。木製の棚の上で、火元を付けたまま倒れる訳にはいかない。そうかと言って火を消してしまうと、部屋の中は忽ち闇に閉ざされ移動できなくなってしまう。なんとか神経を研ぎ澄ませ、立ち位置を1mmズラすのが精一杯だった。
人形の方に意識を向けると、少しずつ、しかし確実にこちらに歩を進めている。待てばそのうち人形の方からこちらに来てくれる速度ではあるが、ただ待っているのが、ライターには何故か納得がいかなかった。
待ちあぐねるも何も出来ないライターが、やっとの思いで立ち位置を数mmずらしていたのを差し置いて歩を進めた人形は、ついにライターの元に歩み寄る事ができた。
火元から3cmほどまで近づいた人形は、より濃い影をその艶めかしい凹凸に浮かべている。その物言わぬ求心力をはらんだ立ち姿は忽ち場の空気を支配した。
ライターは、間もなく切れる燃料を、ここで使い切る覚悟を決めていた。結局最期の最期まで、こんなにも近くにいるのに人形の姿を見ることはできなかったし、オイル消費の無為さもすっかり行きどころを無くしていた。
人形は、不安定に揺らめく灯火と波長を合わせるように、ゆっくりと話しだした。
「ありがとう、今まで。」
「貴方のおかげで、思い出せたことがあるんだ。」
近づいても、ライターからは人形の表情は分からなかった。しかし、灯火の向こうでこちらを真っ直ぐ見つめる瞳があるのが感じられた。
「部屋が明るかった時も、まだ人間がいた頃も、そして今も、私は飾られて、照らされて、持て囃されてる。」
「一方的に、ね。それが堪らなく嫌だったんだ。」
澄んでいる分、曇っているのが分かりやすい声色だった。
「私から誰かを照らしてやりたかった。輝かせてやりたかった。ずっとそうだったんだ。この部屋がもっと明るくてもっとうるさかった頃からずっとね。」
「だから貴方が部屋を照らしてくれるようになってから、悔しかったんだ。」
美しい声に聞き入っていたところでいきなり話を振られたライターはドキリとした。
「な、なんかごめんなさい。」
咄嗟に口を付いて出たのは、薄い謝罪の一言だった。しかし、他の家具にやらされていた事とは言え、ライターも他の家具たちと加担して人形を不快にさせていた事実を知って、実際申し訳ない気持ちになっていた。
それを察してか、
「ああいや、違うんだ。そういうことじゃなくて。」
人形が声のトーンを少し上げて応え、言葉を継いだ。
「また一方的に照らされてるっていうのもそうなんだけど、折角こんな暗闇の中に長い間居たのに、「自分が輝いてやる!」っていう気持ちになれなかったんだ。忘れかけていたし、半ば諦めていたんだ。」
「だから、貴方には憧れていたんだ。身を削って、文字通り命を掛けて、明かりを灯してた貴方、かっこよかった。」
火を灯すことを初めて他者から褒められたライターは、人形の言葉を反芻していた。自分の先天的な役割のあり方が、他者の言葉一つで変わるなんて変な話だとは思いつつも、灯し続けて良かったと確かに感じていた。
「でも貴方は、もう少しで消えてしまうのだろう。」
レゾンデートルに喜びを感じていたのも束の間、その存在が正しく風前の灯であることを、ライターは思い出させられた。少し前まではライターオイルが惜しくて灯したくないと思っていたのに、今は灯し続けたいばかりにオイルが惜しい。しかしこの灯りを保つ方法はもうないことがただ残念だった。
「だから、貴方の灯りを生かす、その手伝いをさせてくれないか?」
人形がじりじりとライターとの距離を詰めながら、真っ直ぐライターを見つめる。この状況においても、手の打ちようがないとは思っていない様子だった。
それは一体どういうことか、ライターが尋ねようとする言葉を遮るように、大きな影がライターに覆いかぶさった。
人形が両腕を伸ばしライターを押し倒した。ライターの灯火の中に顔から飛び込み、点火口に唇が触れそうになる距離まで迫っていた。忽ち、人形の陶磁器のような表情が焦げつき始める。
「こ、これは……?」
「これなら、私の姿が見えるかい…?」
自身の光の眩しさで外界の様子が分かっていなかったライターは、部屋が暗くなって初めて光以外のものを見た。炎に包まれても分かる、他の家具が虜になることも同情できる美しさだと思った。
しかし、ライターは混乱していた。あの人形が自分にここまで積極的に迫る意図が理解できないこと。その人形の顔を、まさに今自身の火で台無しにしてしまっていること。その状況を自分ではどうしようもできないこと。そうして焼き焦げ溶けていく人形の顔を間近で見届けていること。
「ほうら、君と私の灯火で、部屋がこんなに明るくなった。」
広がる炎に包まれながらも、穏やかで嬉しそうに上ずった人形の声がした。その言葉にライターはハッとする。棚にも自分の炎が延焼していた。
目の前にいた人形の姿と声に集中していたライターは、そうして初めて部屋の中の状況を理解した。
木製の棚から、部屋中に積もった埃へ瞬く間に広がった炎は、仄かで不安定なライターの灯火よりもずっと、部屋の様子を明瞭に照らしていた。家具達の声にならない悲鳴が、誰に受け止められるでもなく、ごうごうと盛る炎、パチパチと弾ける火花に追いやられるように、ただそこにあった。
「あなたの光がこのまま消えてしまえば、この部屋はもう二度と光を見ることはなくなるだろう。それならばいっそ、最期に可能な限りの輝きを叶えてはみないか?」
この一言で人形の意図を理解したライターは更に混乱し、問いかけた。
「あ、あなたはそれでいいんですか……?」
ライターは分からなかった。人間にとっての価値基準は分からないが、それにしたって、この人形は自分の灯火のためだけに擲って然るべき存在ではないだろうということは理解できていた。
「あなたの灯火を、決して無駄になんかさせたくないんだ。また暗闇に閉ざされて、その光が過去のものになるくらいなら、そんな未来、今生一の光に包みこんでしまおうじゃないか。それに……」
「それに、今の私が、今までで一番美しいんだ!」
ライターの意識が薄れゆく中、場違いなほど穏やかで満足げで嬉しそうな人形の声が、ライターには明瞭に届いていた。
かつての、静寂と暗闇で満たされた空間は、もうそこにはなかった。
原因不明のボヤ騒ぎとして、その建造物は、人間に存在を思い出される運びとなった。かつての家があったその場所は、消火、瓦礫の撤去という人為介入を以て、始めから何もなかったかのように開けた広場となった。
暖かな光が地表までたっぷりと注がれ、ぽかぽかとのどかな陽気に満ちていた。そこはもう、やがて深き草木に覆われるであろう、なんということのない自然の空間であった。
人形とオイルライター ひとごみ @hitogomi
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