雨の値段
東雲八雲
1
わたしの悲しみに置き場がないように、せんぱいの心がどこにもいけないように、わたしたちの関係はこれ以上続かないと思います。
ベッドの上で、下着だけ纏った少女は、まるで迷子になった子供のようなか細い声でそう呟いた。窓の外では雨がしとしとと、誰にも気づかれぬように降り続いていた。季節は梅雨。
「せんぱい、年上のほうが好きなんですよね」
「どうして」、僕は聞く。「どうしてそう思うの?」
「わたし、せんぱいのこと……好きでしたから。好きな人のことくらい分かりますよ」
僕たちは狭いベッドの中でゆっくり、丁寧に話し合った。どのように出会って、どんなことをして、どんな思いを持って、ここに辿り着いたのか。最初のほうこそ、汗をかきそうなほどの熱を持っていたが、それも時間が経つたびに冷めてきて、話の焦点が今に至る頃には、お互い毛布を被っていた。
すべて話し終えると、とても長い沈黙があった。僕は彼女に「雨の値段って知ってる?」と聞く。返事はなかった。お互い背を向けていたので、無視しているのか眠っているのかはわからなかった。
夜が明けると、お互い風呂に入り、朝食を食べ、身支度をしてから家をでる。外は相変わらず雨が降っていて、肌に吹き付ける風は湿っていて、少し不快だった。
僕たちは、まだ少し暗い空の下、ところどころ水たまりができた道を歩いていく。ふと彼女が「くつ、濡れちゃいますね」と困ったように笑った。僕は、その笑みにどう答えていいかわからなかった。
駅に着く前に、ロータリーそばのコンビニに寄る。僕も彼女も、清涼感のある飲料水を買った。財布を出そうとする彼女を制止して、会計を済ませる。
彼女は飲み物を受け取ったあと、僕の耳元で囁きながら、ポケットに何かを入れた。
駅に着くといつも通り彼女と別れ、別々のホームで電車を待つ。いつもと違うのは、彼女と会うのがこれで最後ということだけだった。
向かいに入線してきた電車をただ当てもなく眺めながら、先程彼女が入れてきた、冷たい百円硬貨、二枚を触りながら、飲み物を口に含み、彼女の言葉を思い出した。
「もう、そういうのじゃ、ないですから……さようなら、せんぱい」
◇
雨の値段って知ってる?
放課後、バス停のベンチに腰掛けた先輩が水たまりを蹴る。ちょうど、スカートから綺麗な脚が見える。ローファーが濡れようがおかまいなしに、水たまりを蹴る。
僕は首を振った。
すると先輩はスクールバッグから財布を取り出して小銭をあさった。手のひらに載せた小銭を僕に見せる。
「これだけ、ですか?」
「そう、これだけ」先輩は言う。
「雨が降ると、歩いて帰れなくなっちゃうから、バスを使わないといけないでしょ。だからこれが、雨の値段」
「たしかにそうですね」僕は、そうこたえた。
それからバスが来るまでの数十分間は、先輩の好きな人のことを話していた。それは僕も知っている人だった。
「諦めることにしたよ」彼女はどこか達観したように続ける。
「このままじゃ、どこにもいけないからね」
そう言うと、目を細めて少し恥ずかしげに笑みをこぼした。先輩が笑っているのを見たのは、それが最初で最後だった。やがてバスが来て、別れる時間も来た。
最後に、先輩は僕の頭を撫でてくれた。「君も、私のことを早く忘れなよ」と。
先輩が行ったあと、僕はひとりバス停に残り、降る雨を眺めていた。雨は鈍色の雲から、直線的に落ちている。
忘れるさ、そう思った。二百円のことなんかも、もう覚えていない。
僕は水たまりを蹴った。下ろし立てのスニーカーが汚れようがお構いなしに蹴る。
二百円を蹴った。
雨の値段 東雲八雲 @shinonome_yakumo
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