夢幻の彼方

 よろよろとした足取りで、ビルから出てきた郁紀。今ごろになって、動き回っていた疲れが出て来た。体のあちこちが痛い。

 桑原徳馬は死んだ。これで、戦いは終わりである。にもかかわらず、心は晴れない。勝利の喜びはなく、人を殺してしまった罪悪感もない。代わりに、漠然とした寂しさを感じていた。


 明日から、何を探せばいい?


 そんな思いが、郁紀の裡に広がっていく。

 暗い気持ちを押し殺し、どうにか歩き出した時、不快極まりない声が聞こえてきた。


「山木、みーつけた」


 顔を上げると、三人の若者が前方に立ち、にやけた顔でこちらを見ている。全員が中肉中背、町のチンピラに有りがちなタイプだ。武器らしきものは持っていない。普段ならば、一分もかからない雑魚である。

 だが、今は戦える状態ではない。郁紀は、瞬時に向きを変えた。だが、そちらにも二人の若者がいる。余裕の表情で、ゆっくりとこちらに歩いて来る。

 完全に退路を断たれた。


「こいつ連れて行けば、ネタがただで手に入るらしいぜ。さっさと捕まえろ」


 言いながら、若者は大股で近づいて来る。今は抵抗すら出来ない。

 若者たちに左右の腕を掴まれ、拳で小突かれる。しかし、されるがままだった。動く気力がない。桑原との闘いで、精も根も尽き果てていた。

 もう、終わりだ……そう思った時だった。


「君は、合格だ」


 不意に、声が響き渡る。郁紀にとって、忘れようにも忘れられないものだ。

 自分をこの世界に引きずりこんだ、あの化け物の声──

 若者たちの視線が、声のした方へと向けられる。そこには、ひとりの中年男が立っていた。汚れた作業服を着て、飄々とした態度でこちらを見ている。彫りの深い顔、百六十センチ強の体、周囲に漂う異様な空気……間違いなくペドロだ。


「ああン? なんだてめえは?」

  

 ひとりの若者が、つかつかと近づいて行く。彼らから見れば、目の前にいる男は小柄な外国人でしかないのだろう。

 郁紀は、こんな状況にもかかわらず笑ってしまった。ペドロという怪物を前にして、恐れもせず突っ掛かっていける神経。これは勇気ではなく、無邪気なだけだ。赤ん坊は殺人鬼を前にしても怯えないだろう、それと同じだ。

 そんな彼らのことを、ペドロは視界にすら入れていなかった。彼が見ているのは、郁紀だった。


「君は合格だよ。ただし、限りなく不合格に近いがね。こんな状況に陥るようでは、君もまだまだだな。今後も精進したまえ」


「おい! てめえ聞いてんのか!」


 若者のひとりが、ずかずか近づいていく。郁紀は、思わずため息を吐いていた。こいつらは、どこまで頭が悪いのか。


「よく見ておきたまえ」


 言った直後、ペドロは郁紀から視線を外す。

 直後、彼は動き出した──

 しなやかな動きで、スッと前に出る。手を伸ばし、手近な位置の若者に触れた。

 瞬間、若者が宙で一回転する。自らバック転でもしたかのように空中で回ったのだ。

 そしてバタリと地面に落ち、異様な声をあげる。普通に生活していたら、一度も聞くことのない声だろう。

 場の空気が、一瞬にして変わる。皆、静まり返っていた。目の前で、何が起きたのか把握できていないのだ。それでも、これだけはわかる。今の出来事は、常人には不可能なことだと──

 ペドロはというと、すました顔で郁紀の方を向く。


「こうした集団と、素手で戦う……本来なら、さっさと逃げるのが正しい選択だ。しかし、逃げられないこともある。そんな時の戦い方を教えよう」


 言った直後、ペドロは舞った──

 郁紀は己の置かれた状況も忘れ、ただただ唖然となっていた。ペドロが手を伸ばし手近な男に触れた直後、ひとりずつ倒れていく。ある者は地面に頭を打ち、ある者は壁に叩きつけられ……無駄も無理もない、自然な動きである。

 格闘というより、ダンスと表現した方が適切かもしれない。ペドロがすっと動くと、そのステップに合わせ相手が倒れていく。美しいとさえ思える動作だった。

 ふと郁紀は、今の彼の動きと似たものを、以前に見たことを思い出す。動画で観た武術の達人……を自称する老人の演武だ。老人が動くと、弟子らしき男たちが次々と倒れていく。

 その演武は、明らかなヤラセだった。しかし、目の前の光景はヤラセではない。

 ペドロという怪物は、本物の達人なのだ──


 ほんの数秒で、全員が倒れていた。意識を失い倒れている者や、地面に叩きつけられ痙攣している者など状態は様々だが、全員が戦闘不能な状態であるのは間違いない。

 一方、ペドロは涼しい顔だ。若者たちには目もくれず、郁紀に向かい口を開いた。


「いいかい、武器になるものはいくらでもある。地面、壁、相手の体……これらは、武器にもなるし障壁にもなる。覚えておきたまえ」


「ふざけるな。あんなこと出来るのは、あんただけだよ」


 郁紀は、そうとしか言えなかった。


「そんなことを言っている場合ではないよ。早く、ここを立ち去るんだ。あとは、俺が始末しておく」


「えっ?」


 意外な言葉に、郁紀は怪訝な表情を浮かべる。この男が、そんなに親切だとは思えない。何が目的だ?

 その時、ペドロの目が細くなった。


「早く、ここから消えるんだ」


 有無を言わさぬ口調であった。その言葉を聞いた途端、郁紀はスッと立ち上がっていた。疲れも痛みも忘れ、よろめきながらも歩き出す。 

 振り返ることなく、その場を離れた。



 それから、一ヶ月経った。

 郁紀は、今も放浪の生活をしている。あちこちのネットカフェを転々とし、定職にも就かず漂うように生きていた。

 振り返ってみれば、ペドロと出会ってからの出来事は、全てが夢幻ゆめまぼろしのようだった。あれは、現実だったのだろうか。

 だが、夢でも幻でもない証拠はいくつもあった。かつて住んでいたアパートは、放火により原型を留めていない。桑原興行の爆破された事務所は、未だに事件の痕跡を残したままだ。

 あれは、紛れもなく現実だった──

 気がつくと、郁紀はトレーニングを再開していた。闇の中で、徹底的に体を鍛え抜く。その瞳は、ある一点を捉えていた。

 

 俺は、待っている。

 あの男はいつか、必ず俺の目の前に姿を現すはずだ。

 その時こそ、必ず仕留めてみせる。


 ・・・


 桑原興行の佐藤隆司は、仕事に追われていた。

 社長である桑原徳馬が姿を消して以来、彼が桑原の仕事を全て引き継いでいる。

 桑原の腹心の部下である池野は、既に退院して仕事に復帰している。板尾も、驚異的な回復力で退院し仕事に復帰した。どちらも、桑原の後釜は佐藤隆司ということに納得はしているらしい。あくまで、表面上ではあるが。

 もっとも、この二人の思惑など知ったことではない。桑原徳馬が姿を現さない以上、側近だった自分がやるしかないのだから。

 その時、不意に事務所のドアが開いた──


 隆司の目の前には、奇妙な男が立っていた。背はさほど高くないが、体つきはがっちりしている。スーツ姿の上からでも、鍛え上げられた筋肉質の肉体であるのは窺える。

 黒い髪は長めで、彫りの深い顔立ちだ。日本人でないのは、一目でわかる。表情はにこやかだが、瞳の奥からは背筋も凍るような冷ややかさが感じられた。

 その男を一目見た瞬間、考えるより先に体が動いていた。隆司の手は、机の引きだしに伸びる。中から拳銃を取りだし、素早く安全装置を外す──

 次の瞬間、何が起きたのか本人ですらわかっていなかった。気がつくと、隆司は床に叩きつけられていた。いつのまにか外国人に接近され、持ち上げられ、床にねじ伏せられていたのだ。

 投げられた痛みよりも、恐怖の方が遥かに強い。隆司の体はすくみ上がり、体は硬直していた。

 その時、外国人が口を開く。


「俺は、君と争う気はない。だがね、君がやりたいと言うのなら、最後まで付き合うよ。さあ、どうする?」


 顔からは想像もつかぬ、流暢な日本語であった。発音も完璧だ。隆司は恐怖に震えながらも、どうにか口を動かした。


「お、お前誰だ?」


「俺が誰であるかを知ることは、今の君にとって大した意味はないよ。それよりも、君にはやらねばならないことがある。桑原氏の後を継ぐことだ」


 外国人の言葉を聞いた瞬間、隆司の顔が歪む。


「はあ? お前、何を言って──」


「桑原氏は、確かに勇猛であり有能でもある。だがね、彼は桑原興行の社長には相応しくなかった。この真幌市の……いや、裏社会のバランスを保つためには、彼に社長の座を退いてもらうのが一番だ。俺は、そう判断したんだよ」


 その言葉に、隆司は愕然となった。では、桑原はもう死んでいるのか。

 すると、外国人は頷いた。隆司の考えを読んだかのように。


「そう、桑原氏には死んでもらうこととなった。だがね、ただ殺すのでは面白くない。そこでだ、ひとつの実験をおこなってみた。実に興味深いものだった。予測とは、違う結果が出たからね。これだから、人間は面白い」


 淡々と語る怪人に、隆司は何も言えなかった。呆然となり、ただただ彼の話を無言で聞いているだけだった。


「桑原氏の死体は、俺が始末した。今後は、君が桑原興行のトップだよ。頑張ってくれたまえ」


 そう言うと、外国人は不気味な笑みを浮かべる。

 くるりと背を向け、ドアから去って行った。





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悪魔の授業 板倉恭司 @bakabond

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