桑原徳馬の決断

 郁紀は、真幌公園のベンチに座っていた。

 時刻は、午後十一時を少し過ぎたところだ。周囲に人気ひとけはなく、街灯の小さな明かりが周辺を照らしている。以前には、暇な若者がたむろしていたこともあったが……最近では、近寄らなくなっていた。近頃、やんちゃな若者たちを「狩る」奇妙な男が出没する……という噂が流れるようになったからだ。

 もっとも、理由はそれだけではない。ここ一週間ほど、町中のチンピラやヤンキーといった連中が異様に殺気立っている。妙な男が、桑原興行に喧嘩を売っている……そんな噂が、一部で広まりつつあったからだ。その妙な男を捕まえ桑原興行に引き渡せば、賞金が出るとの噂まで流れている。軽い気持ちで夜の町を徘徊しようものなら、たちまち目を付けられ袋叩きに遭うだろう。

 そうした事情を知らない者たちでも……無人の公園で、黒いパーカーを着てフードを目深に被っている郁紀の存在には、見る者に異様なものを感じさせるのは間違いあるまい。

 郁紀の座っているベンチの近くには、鉄棒が設置されていた。大人でも、ジャンプしない限り届かない位置に付けられている。

 不意に、郁紀は顔を上げた。鉄棒に飛びつき、懸垂を始める。これはトレーニングだが、同時に裡なる衝動を沈めるためのものでもあった。

 己の体重を、背筋の力で引き上げる。そうして肉体をいじめ汗を流しつつも……頭の中では、今後の行動について計算をしていた。

 恐らく、連中は血眼になって自分を探しているだろう。となると、しばらくは動きを押さえるとするか。

 やがて懸垂を終えると、郁紀はふたたびベンチに座りこんだ。荒い息を吐きながら、汗をタオルで拭く。目は、じっと闇を見つめている。

 彼の裡には、破壊の衝動が湧き上がっていた。一刻も早く、桑原を殺したい。そうすれば、差し当たっての目的は達成だ。


 その後は?


 決まっている。あの、ペドロという怪物を探し出す。今回の騒動の元凶であり、諸悪の根源だ。

 奴を探しだし、この手で殺す。


 そんなことを思いつつ、郁紀はふたたび鉄棒に飛びつく。自身の体を引き上げながら、裡に潜む殺戮の衝動を押さえ込んでいた。


 ・・・


「そうか、池野がやられるとはな。具合はどうだ?」


 桑原徳馬の問いに、佐藤隆司は神妙な顔つきで頷く。


「はい、頬骨と肋骨をへし折られ、前歯もやられていましたが、命に別状はありません。今は、おとなしく病院で寝てます」


 その言葉に、桑原は面倒くさそうな表情で首を回す。


「そいつは困ったな。まさか、池野がやられるとは思わなかったよ。こいつは俺のミスだ」




 彼ら二人は、町外れにある事務所にいた。事務所といっても、ボロアパートの一室であり、最低限のものしか置かれていない。普段は使っていないような場所である。

 そんなところで何をしていたのかといえば、減った子分たちの補充である。桑原自ら出向き、めぼしい連中をスカウトするため来たのだ。

 ところが、想定外のことが起きる。桑原の腹心の部下・池野清吾が病院送りにされた……という報告を部下たちから受けたのだ。


「大丈夫だろうな? あのバカ、リロイみたいに病院を抜け出したりしねえだろうな?」


「ええ、大丈夫です。最初は山木を殺すと叫んでいましたが、薬を飲ませて眠っています。今は、手の空いた連中に見張らせてます。いざとなったら、絞め落としてでも止めろと言ってありますから。にしても、今回ばかりは想定外でした。まさか、池野さんが返り討ちに遭うとは。他にも、三人が階段から落ちて入院してます。山木が、ここまでやるとは……完全に想定外でした」


 話を黙って聞いていた桑原は、天井を向いてため息を吐いた。


「仕方ねえなあ。こうなると、俺が行くしかなさそうだ」


 その途端、隆司の顔色が変わる。


「ちょっと待ってください。何を言ってるんですか?」


「俺は来週の水曜日、白土市の事務所に行く。ガキどもに、その噂を流させろ」


 白土市の事務所とは、うらびれた町の中にある。事務所とは名ばかりで、実質的にはただの倉庫だ。付近に民家はなく、多少の騒ぎを起こしても問題ない。もともとは、死体の処理などに使うつもりであった。


「どういうことですか?」


「池野がやられた以上、雑魚を何人送り込もうが捕まえられねえよ。これ以上、兵隊の数が減ったら商売に差し支える。だったら、俺が行く。俺と板尾と腕の立つ連中で、山木のアホを取っ捕まえる。それしかねえだろ」


「いや、そんな──」


「俺が白土市の事務所にいると聞けば、奴は必ず来るはずだ。そこを捕まえる……それが、一番手っ取り早い方法だよ」


 隆司の反論を遮り、桑原は静かに答えた。

 対する隆司は、思わず顔をしかめる。恐れていたのは、この事態だ。桑原徳馬は、昔ながらのヤクザ気質が抜けていない部分がある。やられたら、やり返す……これは、今の御時世では賢いとはいえない。

 山木郁紀という男は、確かに喧嘩は強いだろう。いや、強いというレベルではない。ここまでのことをやってのける以上、ただのチンピラではない。だが、相手にしたところで金にはならない。仮に山木を殺したところで、一文の得にもならないだろう。そんな者を捕らえるのに、トップに立つ桑原がいちいち動く必要はないのだ。


「やめましょう。あんなガキ、桑原さんの手を煩わせるほどのことはありません」


「そのガキに、俺たちは散々やられたんだぞ。ここまで来たら、損得じゃねえんだ。奴の狙いは俺なんだよ。このまま引っ込んでいるわけにもいかねえだろう」


「意味ないですよ。遅かれ早かれ、山木は警察にパクられます。以前から付き合いのある刑事たちに、奴をパクるよう言っときましたから」


 そう、隆司は数人の刑事を手なずけていた。どんな人間も叩けばホコリが出る。調べれば、弱みがある。刑事という特殊な職業なら、なおさらだ。弱みを握り、金を渡して味方につける……アメとムチを上手く使い分け、手下として利用していたのである。

 この手下となっている刑事たちは、山木郁紀を血眼になって捜している。彼らに任せれば、そのうちにいぶし出せるだろう。放っておけば、奴は必ず騒ぎを起こす……それまで、無理にこちらから探す必要はない。それが、隆司の考えであった。

 しかし、桑原はかぶりを振る。


「ダメだ。いいか、この業界はナメられたら終わりなんだよ。山木を押さえるのに時間をかけたら、それだけウチの株も下がっていくんだ。これ以上、時間をかけていられねえ。一刻も早く、あのガキを捕まえる必要があるんだよ」


 桑原の口調は静かなものだった。だが、隆司にはわかっている。彼は本気だ。こうなると、桑原は誰にも止められない。

 以前から懸念していたのだが……この桑原の最大の短所は、昭和ヤクザの価値観を引きずって生きていることだ。普段は、特に気にする程のことでもない。だが、こういう事態では命取りになりかねない。

 沈黙する隆司に向かい、桑原はなおも語り続ける。


「しかもだ、山木のバックにはとんでもねえ奴がいる。俺たちの事務所を、爆弾で吹っ飛ばしたイカレ野郎だ。俺は、何が何でもそいつを引きずり出したいんだよ。はっきり言うなら、お前の言う通りだ。山木みてえな雑魚なんざ、ほっといても構わなかったんだよ。俺の狙いは、山木のバックにいる奴だよ。そいつの面が見てみてえのさ」


 桑原の目には、異様な光が宿っている。ここまで言われては、隆司には反論の言葉はなかった。ただ、頷くしかなかった。


「わ、わかりました」


「俺に万一のことがあったら、後のことは頼んだぞ」






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