安岡の災難

 ピーチピットは、駅から歩いて十分ほどの所にあるガールズバーだ。正確には、俗にいうぼったくりバーだが。

 そんなピーチピットの雇われ店長である安岡忠司ヤスオカ タダシは、一応は桑原興行の構成員である。とはいっても、チンピラに毛の生えたような存在だ。頭がキレるというわけではないし、格別に有能だというわけでもない。はっきり言うなら、警察のガサ入れを受けた時のパクられ要員でしかないのだ。

 もっとも、当人は全く気にしていない。店の人間からはペコペコされるし、道を歩けば周囲の店の人間から挨拶される。すっかり大物になった気分で、肩で風切り外を歩いていた。

 そんな安岡の最近のお気に入りは、路地裏の風俗店である。当然ながら違法な店だが、桑原興行の看板により格安で利用することが出来た。

 今も彼は、裏道を歩き風俗店へと向かっていた。道は狭く、人がふたり並んで歩くのがやっとの幅だ。辺りには人気ひとけがなく、街灯の明かりも届いていない。

 そんな路地裏を歩いていた安岡だったが、不意に背後から声をかけられた。 


「すみません、桑原興行の安岡さんですよね?」


 その声に振り向いた。

 見れば、黒いパーカーを着た男が立っている。背はさほど高くないが、がっちりした体格だ。フードを深く被っているため、顔は見えない。手には、手袋を嵌めている。

 まともな人間なら、確実に警戒していただろう。だが、安岡は脳天気な男である。おまけに、組織の力を自身の力だと勘違いしているふしもあった。最近、名前の売れてきた自分に、どこかのチンピラが声をかけてきた……くらいにしか思わなかった。


「そうだよ。で、お前は誰なんだ?」


 自信たっぷりな態度で尋ねた。だが、相手は何も答えない。

 この失礼な態度に、安岡は苛立った。目の前にいるのは、桑原興行の怖さを知らないバカのようだ。ならば、礼儀を教えなくてはならない。上目遣いで相手を睨みながら、顔を近づけていった。

 彼は何もわかっていない。目の前にいるのは、山木郁紀という危険人物なのだ。 


「俺はな、誰だと聞いたんだ──」


 言い終える前に、郁紀は動いていた。間合いを詰めると同時に、速く強烈な左のパンチを放つ。

 拳は、安岡の鼻に炸裂した。その一撃で、安岡は文字通り出鼻をくじかれる。目をつむり、顔がのけ反った。

 直後、衿を掴まれたかと思うと、一瞬で地面に叩きつけられていた──


「なあ、桑原特馬ってのはどこにいるんだ?」


 尋ねると、安岡は震えながらも意地を見せる。


「お、お前山木だろ! 俺にこんなことして、ただて済むと思ってんのか!」


 怒鳴った直後、郁紀の拳が振り下ろされる。顔面に命中し、安岡は痛みのあまり呻いた。


「俺はな、桑原徳馬はどこにいるか聞いたんだよ。さっさと答えねえと、本当に殺すぞ」


 言いながら襟首を掴み、顔面に拳を振り下ろしていく。肉を打つ鈍い音が響いた。

 その一撃で、安岡の態度は変わる。


「ま、待ってくれ! わかった! 知ってることは言うよ!」


 泣きそうな顔で叫ぶ。郁紀は手を止め、彼に喋る隙を与えた。だが、この安岡は想像以上に無能だった。


「桑原さんは、どこにいるかわからねえんだよ」


「じゃあ、呼び出せ」


「無理だよ。俺なんかが呼び出せる人じゃねえんだ」


 怯えた表情で、安岡は首を横に振る。

 郁紀は思わず舌打ちした。こいつも、ただの末端構成員らしい。


「てめえは、とことん使えねえ奴だな。じゃあ、奴はどこに行けば会えるんだ」


「た、たぶん、駅前の小山ビルの事務所か……後は──」


 その時、郁紀は異変を察知し後ろを向く。彼の耳は、こちらに向かう足音を捉えたのだ。

 彼の判断は間違っていなかった。スーツ姿の男が、こちらに走って来たのだ。無言のまま警棒を振り上げ、郁紀に殴りかかる──

 郁紀は地面を転がり、からくも警棒の一撃を躱した。さらに地面を転がり続け、パッと立ち上がる。

 新手の男の攻撃は止まらない。警棒を振り上げ、突進して来る。その迫力はかなりのものだ。

 もっとも郁紀から見れば、あまりにも愚かな行為だった。警棒は強力な武器だ。その一撃は、プロの格闘家の蹴りよりも強い衝撃力を持つ。

 しかし、いくら強力な武器でも、振り上げていては隙だらけだ。郁紀は素早く間合いを詰め、左のジャブを鼻に叩き込む。この一撃には、相手の動きを止める効果もある。僅か零コンマ何秒かの間だが、それだけあれば充分だ。直後に、腰の回転を効かせた右のストレートを放つ。体重の乗った右拳は、相手の顎を砕いた。男は、そのまま崩れ落ちる。

 郁紀は、素早く周囲を見回した。安岡の姿がない。この一瞬の隙に逃げたらしい……と思った時、大きな声が聞こえた。


「池野さん! こっちです! 山木の奴です!」


 安岡の声だ。どうやら、桑原興行の増援が来たらしい──

 その時、郁紀に恐怖はなかった。むしろ、強い血のたぎりを感じた。迎え討とうかという思いが頭を掠め、同時に体は戦闘モードに突入する。本能の命ずるまま、殺戮の衝動に身を委ねたかった。

 その瞬間、ある男の言葉が脳裏に浮かんだ。


(避けられる戦いは避ける。待ち伏せを受けたら、脱出を第一に考えるんだ)


 同時に、先日見たペドロの姿が浮かぶ。彼は、ここから逃げろと言っている……そんな気がした。

 その途端、郁紀の思考は切り替わった。素早く周囲を確認する。

 次の瞬間、駆け出した──


 狭い道を猛スピードで走り抜け、塀を飛び越える。見知らぬ人が住む家の庭でしゃがみ込むと、息を潜めて辺りを窺う。

 追っ手の気配はない。ひとまず、しのげたらしい。

 

 荒い息を吐きながら、郁紀は立ち上がった。その瞳には、異様な輝きがある。

 彼は今、胸の高鳴りを感じていた。チンピラを狩っていた時など比較にならないものだ。

 いつの間にか、その顔には笑みが浮かんでいた。


 ・・・


 その頃、路地裏では池野清悟が激昂していた。


「おい! 山木はどこ行ったんだ!?」


 吠えながら、安岡を睨む。傍らでは、郁紀のパンチを食らった武山が顔をしかめている。頬をさすり、顎関節がくかんせつに異常はないか自らの手で確かめていた。

 一方、安岡は完全に怯えきり、震えながら口を開いた。


「わかりません……さっきまでここに──」


 言い終える前に、池野の拳が飛ぶ。安岡は、顔を押さえうずくまった。


「てめえは、本当に使えねえ奴だな。せめて、俺たちが来るまで武山と足止めしとけや! 何でひとりだけ逃げてくんだよ!」


 喚きながら、池野は安岡に蹴りを叩き込む。安岡は悲鳴を上げるが、池野の攻撃は止まらない。凄まじい勢いで蹴りまくった──


 やがて、池野はスマホを出す。佐藤隆司に、メッセージを送信した。


(安岡が山木にやられた。しばらく入院だ。あのガキは完全にトチ狂ってる。これから追っかける。ガキは必ず押さえると桑原さんに言っておいてくれ)


 直後、武山の方を向く。


「このままじゃ、桑原さんの前に顔は出せねえぞ。山木を見つけるまで帰れねえ。二度とヘマすんなよ」


「は、はい」


 武山が答えると、池野はその場にしゃがみ込んだ。血まみれで倒れている安岡の襟首を掴み、無理やり引き起こす。


「山木郁紀に何を喋った?」


 その問いに、安岡は震えながら口を開く。


「な、何も言ってません……」


 その途端、池野が拳を振り下ろす……真似をする。安岡は、ヒッと叫んで顔を手で覆った。


「嘘つくな! 正直にいわねえと、てめえもリロイみたいにマグロ船行きだぞ!」


「すいません! 桑原さんの居所を聞かれたんで、駅前の小山ビルの事務所ならいるかもしれないと……」


 その言葉に、池野は拳を降ろした。眉間に皺を寄せ、下を向く。

 少しの間を置き、顔を上げた。


「となると、あいつは小山ビルの事務所に乗り込んで来るはずだな。だったら、待ち伏せてやる。一刻も早く山木の身柄が らを押さえて、桑原さんに引き渡すんだ。でないと、俺たちがマグロ船に乗せられることになるぞ」





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