戦闘開始
郁紀は、呆然と立ちすくんでいた。
昨日まで、自分が住んでいたアパート。それが今、目の前で燃えているのだ。道路には消防車が止まっており、消防士たちがせわしなく動き回っている。さらに制服警官も来ており、野次馬を整理していた。
大勢の人間が、目の前でせわしなく動いている……そんな中、郁紀は野次馬に混じり、燃えている己の家をじっと見ていた。
その時だった。
突然、郁紀の背中に衝撃が走る。突き刺すような……いや、貫くような視線を感じた。ゆっくりと、そちらを向く。
予想通りだった。群衆の中にいたのは、あの怪物だった──
今日のペドロは、スーツ姿で立っていた。野次馬に紛れ、落ち着き払った表情でこちらを見ている。
あまりにも異様な光景であった。羊の群れの中に、巨大なアムール虎が紛れこんでいる……郁紀には、そんな風に見えた。にもかかわらず、羊たちは何事もなかったかのように虎を受け入れている。いや、虎という生き物を見たことがないため危険性が理解できないのか。
不意に、ペドロはくるりと背を向けた。ゆっくりと歩いていく。やがて、視界から消えてしまった。にもかかわらず、郁紀は動くことが出来なかった。今度会ったら殺す……などと彼に向かいほざいたのに、いざ本人を目の前にしたら何も出来なかった。
俺は、あんな恐ろしい奴と生活していたのか。
再会したペドロは、記憶にあった姿より何十倍も恐ろしく見えた。あんな奴に、勝てるはずがない。
初めてペドロと会った時、郁紀は彼を叩き出そうとした。今になってみると、無謀という表現すら甘いくらいに感じる。あんな怪物に立ち向かうなど、愚の骨頂だろう。
その時、郁紀はハッとなった。ペドロは、ここで何をしていた?
まさか、奴が火をつけたのか?
考えられない話ではない。何せ、あの怪物は百人以上の人間を殺しているのだ。今回の件にしても、そもそもの始まりがペドロの仕掛けた爆弾である。放火くらい、何でもないだろう。
だが、郁紀は思い直した。それはない。断言は出来ないが、これはペドロのやり方とは思えない。確かに、あの男のやることは想定の遥か外にある。しかし、これはペドロらしからぬ気がする。
その時、人混みの中で誰かが近づいてくる気配を感じた。反射的にそちらを向く。だが、そこにいたのは隣の部屋に住んでいる中年男だった。確か、山下という名前だったか。特に親しくはなく、顔を見れば挨拶する程度だ。
山下は、恐る恐るという感じで話しかけてきた。
「いやあ、まいりましたね」
「本当ですね。火元はどこなんですか?」
さりげなく聞いてみた。
「それがね、とんでもない話なんですよ。一時間くらい前に、でかい黒人がいきなりやって来て、建物に灯油を撒いて火をつけたらしいんです」
黒人? となると、さっきのあいつか……などと思っていると、中年男は面倒くさそうに頭を掻いた。
「私も警官から、いろいろ聞かれましたよ。いい迷惑です。まったく、世の中どうかしてますよ。いつから、こんな時代になっちゃったんですかね。昔は、こんなおかしな犯罪はなかったのに」
いや、今も昔も危険性は変わりないだろう……などと思いつつも、愛想笑いを浮かべて頷く。
「そうですね。しかしまいったな。こうなったら、しばらく実家に泊まりますよ」
ぺこりと頭を下げ、郁紀はその場を離れていった。すると、背中越しに山下の声が聞こえた。
「あのう、刑事が話を聞きたがってましたよ」
そんなことは、こっちの知ったことではない。郁紀は、かつての住みかから遠ざかって行った。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
そもそも、始まりからしてバカげているのだ。突然、ペドロが目の前に現れた。そして一週間、わけのわからないトレーニングをさせられた。挙げ句、ひとりの女を殺し、ひとりの男を廃人に変えた。
それだけでも理解不能なのに、裏社会に棲む危険人物たちと殺し合いをさせられる羽目になってしまった。結果、住んでいたアパートに放火されてしまった。
もう、戻れない。
恐ろしい状況であるのはわかっている。普通なら、逃げるだろう。郁紀には、裏社会のやり方はわからない。が、このまま真幌市をうろうろしていたら、また狙われるのは間違いない。
にもかかわらず、郁紀は逃げる気になれなかった。
燃え上がるアパートを見て、さらにペドロという怪物と再会してしまった。その結果、今では形容の出来ない何かが五体を駆け巡っている。
その何かは、郁紀に言っていた……敵を皆殺しにしろ、と。
郁紀は歩き続ける。自分の住んでいた場所が燃えたというのに、不安はなかった。
以前にペドロからもらった金は、全額そのまま残っているし、肌身離さず持ち歩いていた。これで、しばらくは生きられるだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。今度は、こちらから攻撃する。
桑原興行を、叩き潰す。
・・・
その一時間後。
桑原徳馬と佐藤隆司は、真幌市内の事務所にいた。隆司は、顔をしかめて先ほど聞いた話を報告している。
「池野さんが、リロイの
佐藤隆司が言った途端、桑原特馬の目に凶暴な光が宿る。
「どういうことだ? 俺はあいつに、山木の身柄を押さえることを最優先しろと言ったはずだ。俺の言うことを聞いてなかったのか?」
「それがですね、厄介な事態になっちまったんですよ」
そう前置きし、隆司は先ほど池野から聞いた話を語り出した。
池野は三人の手下を連れ、すぐさま山木の家へと向かった。家にいれば、外出するのを待つ。外に出たら隙を見て拉致する。場合によっては、家に乗り込みそのまま拉致してくる。
いなければ、いないで構わない。どこに行ったか、ガサ入れをすれば手がかりくらいは見つかるはず。家族構成や友人知人、立ち寄りそうな場所などなど。家を調べれば、かなりの情報が得られる。
そんな計画を巡らせつつ、池野は荒事に向いている手下を引き連れて山木の家へと向かったのである。
ところが、到着した場所はとんでもないことになっていた。
山木の住んでいたアパートは、激しく燃えていたのだ。消防士や警官たちがせわしなく動き回り、スマホを掲げた大勢の野次馬によりごった返している有様だ。野次馬のひとりにそれとなく聞いたところ、どうも放火の疑いが濃厚……とのことである。事実、刑事らしき者も付近をうろうろしている始末だ。
この状況では、下手な動きは出来ない。ひとまず周囲を回っていた時、遠くから見ても目立つ大男が、よろよろ歩いているのを見つけた。
それは、リロイだった──
「放火だと? どこのバカが火をつけたんだ?」
「池野さんが聞き出したのですが……リロイです。あいつ、山木の家に火をつけたんですよ」
「んだと……」
「あのバカ、山木の家に行ったそうです。ところが山木が留守だったので、腹立ち紛れに灯油撒いて火をつけたんですよ」
隆司の言葉を聞いた瞬間、桑原は思わず舌打ちしていた。彼にとって、放火とは火災保険金を騙しとるための手段でしかない。そもそも、放火は重い罪なのだ。火を放ち、ひとりを死なせただけでも死刑の可能性がある。
ましてや、金にもならないのに、腹立ち紛れに放火するなど……発想が中学生と同レベルだ。頭が悪すぎて話にならない。
リロイが、ここまでバカとは思わなかった。今すぐ消す。
「あいつは、果てのないバカだな。で、山木はどうなった?」
「生きているのは間違いありません。その後、リロイは近所を歩き回って山木を見つけたそうです。殺そうとしたんですが、返り討ちに遭いました。今は、池野さんが大量のモルヒネをキメさせて縛り上げ、車に乗せてるそうです。いい気分で、ヘラヘラ笑ってるそうですよ」
だったら、すぐに連れて来い……と言いかけた。が、桑原は口を閉じる。リロイの顔など見ても、何の得もない。自分が手を下す価値もない。
それよりも、やらなくてはならないことが他にある。
「どうします? 連れて来るよう池野さんに言いますか?」
案じるような顔の隆司に、桑原は首を横に振った。
「いや、いい。バカな上に喧嘩も弱いんじゃあ、救いようがねえな。さっさと準備して、マグロ船に乗せるよう池野に言っとけ」
そう言った後、窓から空を見上げた。いったい何が起きているのだろう。なぜ、こんな事態になったのか……全くわからない。
始まりは何だったか……まず、事務所が爆弾で吹っ飛ばされた。次に、おかしな男から電話がかかって来た。
その男に言われた通り、山木郁紀を追いかけた結果、こんなことになってしまった。
まあ、いい。
全ては、山木郁紀を見つければはっきりする。池野に任せれば大丈夫だろう。
問題は、山木の背後にいる何者かだ。おそらく、あの電話をかけてきたふざけた男──
「てめえは、俺が殺す」
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