奥村雅彦の末路(2)

 郁紀は、部屋の真ん中で座り込んでいた。彫像のように、座った体勢のままぴくりとも動かない。

 何かを感じた。室内に、動くものの気配を感じる。だが、郁紀は動かない。視線すら動かさず、じっと待ち続ける。

 ややあって、畳の隙間からゴキブリが出て来た。触覚をひくひく動かしながら、こちらに向かい移動してくる。

 その瞬間、郁紀は動いた。弾丸のごとき速さで、ゴキブリに手を振り下ろす──


 トイレに入り、潰れたゴキブリを便器に投げ捨てた。その時、玄関のドアが開く音が聴こえた。次いで、何者かの入って来る足音が響く。

 それが誰であるかは、見なくてもわかっている。ペドロが来たのだ。すぐにトイレから出た。


「おはよう」 


 予想通りだった。入って来たペドロは、にこやかな表情で挨拶する。

  

「奥村氏だがね、君の指示通りにしたよ。彼は、これから先の人生を、入れ墨を背負って生き続ける。消すことも出来なくはないが、それには大金がかかるからね。奥村氏には、まず無理だろう」


 そこで、くすりと笑った。郁紀は、曖昧な表情で頭を下げる。


「君も、なかなか陰険な性格をしているね。ますます気に入ったよ」


 確かに、あれは陰険である。郁紀は、思わず苦笑した。

 奥村雅彦は、両肘と両膝の関節を壊された。膝靭帯は完全に破壊され、この先まともに歩くことは出来ない。さらに、肘の関節も念入りに壊した。もう二度と、元のように動かすことは出来ない。いずれ傷を癒えるが、動かすのに不自由するばずだ。

 もっとも、それだけで終わらせなかった。ペドロに頼み、奥村の視力と声を奪ったのだ。奴は、見ることも喋ることも出来なくなった。

 さらに、奥村の罪名を細かく書いた文をタトゥーにして背中に入れたのだ。

 今の奥村は、看護士らに助けてもらわないと動けない身である。身の回りのことも、他人の助け無しで不可能だ。

 身の回りの世話を担当する看護士に、自らの犯した罪を知られるのだ。それも、己の子供を虐待して死なせた……という恥ずべき罪である。

 もはや、あの男に誰かを不幸にすることは出来ない。残りの人生を、蔑みの視線を浴びつつ生きていくしかないのだ。

 



「これで、全て終了だ。君は、本当に素晴らしい。俺の目に狂いはなかった。後は帰るだけだよ。では、行くとしようか」


 そう言うと、ペドロは背中を向け歩き出す。その素っ気ない態度に、郁紀は思わず声を発していた。


「ちょっと待ってくれ。ひとつ聞きたいことがある」


 すると、ペドロの動きが止まった。ゆっくりと振り返る。


「君の質問がなんであれ、満足できる答えが返ってくるとは限らないよ」


「そんなことはわかってる。あんたは、なんでこんなことをしたんだ?」


 これこそが、郁紀にとって最大の疑問だった。

 ペドロという男は、自分に理解できるような人間ではない。この男は、凡人とは住む次元が違う。彼を理解するのは、既に諦めている。

 そんな男と過ごした一週間……この日々は何だったのだろう。何のために、こんなことをしたのか。

 郁紀は、ここでとんでもない体験をした。その裏では、多額の金が動いただろう。また、様々な種類の人間がかかわったはずだ。

 そこまでの価値が、自分にあったのだろうか。


「そのうち、君にもわかる時が来るよ」


 ペドロの答えは、相も変わらず意味不明だった。 


「なるほどな。つまり、答えは自分で見つけろってか」


 郁紀は、口元を歪める。この男を、自分は全く理解できなかった。そもそも、凡人に理解できる存在ではないのだ。

 前に、この男は言っていた……潜在制止の機能障害がある、と。目の前にあるものが、全て情報として事細かに脳に送られてくる……という症状らしい。

 だが、それは障害と呼んでしまっていいものなのか。郁紀から見れば、それは紛れもなく天才の証だ。目から入って来る膨大なデータを瞬時に処理し、その中からベストの選択が出来る。自分なら、とっくに狂っていただろう。

 天才だの奇跡だの神だのという言葉は、最近は安っぽい使われ方をしている気がする。だが、目の前にいるのは本物の天才だ。自分など、あと百年生きたところで、この男のいる場所には辿り着けないだろう。

 もちろん、彼のいる場所には苦しみも伴う。凡人には理解しえない苦しみだろうが。

 そんなことを考えていた時、ペドロが口を開いた。


「俺はもう、君と会うことはないのかも知れない。しかし、また会えることを望んでいる」


「はあ? 何を言ってるんだよ」


 首を捻る郁紀の前で、ペドロは何かを取り出す。見ると封筒であった。

 その封筒を、こちらに差し出してくる。


「えっ? なんだよこれ?」


 なにげなく中を見てみる。その途端、表情が強張る。中には、札束が入っていたのだ。確実に数十枚はある。


「ちょ、ちょっと待てよ! なんだこれ!」


 思わず、素っ頓狂な声が出ていた。こんなものをもらう覚えはない。むしろ、金を払わなくてはならないのは、こちらの方だ。

 その瞬間、ペドロの目がすっと細くなった。


「金は、いくらあっても困ることはない。黙って受けとるんだ」


 ペドロの表情そのものは、先ほどと変わっていない。が、言葉の奥には有無を言わさぬものがある。その迫力に圧され、郁紀は黙って頷いた。

 すると、ペドロは笑みを浮かべる。


「考えてみたまえ。君は、職場に何も告げずにここに来たはずだ。つまり、一週間の無断欠勤……これは、辞めさせられても文句は言えまい。次の職場が見つかるまで、生活費の足しにしたまえ」


 言われてみれば、その通りだ。そもそも、今までの生活のことなどすっかり忘れていた。明日からは、また普通の生活に戻る。

 それは嬉しいことのはずなのに、奇妙な感覚に包まれていた。

 今、郁紀は……漠然とした寂しさを覚えていたのだ──


 この部屋に来てから、郁紀は様々な体験をした。ペドロという怪物から、人を殺すための指導を受けた。挙げ句、人をひとり殺している。

 恐ろしい体験、のはずだった。その時のことは、忘れてはいない。

 かといって、その体験がトラウマになっているか……と聞かれたなら、違うと答えるだろう。罪悪感に押し潰されそうな状態で生きていたわけではない。悪夢にうなされているわけでもない。はっきり言うなら、普通に生活している。

 戦場から帰ってきた兵士は、PTSDに悩まされるケースが多いと聞いた。だが、今のところそんな症状はない。

 ひょっとして、自分は異常なのだろうか。

 後の世に名を遺すシリアルキラーたち……自分は、彼らと同類なのだろうか。

 その時、悪魔の声が聴こえた──


「君に言ったはずだ。自分の中に潜む悪魔に気付けば、もっと楽に生きられる。それにね、君にはまだまだ時間がある。無限の可能性があるんだ。つまらぬ見栄や小賢しい世間智で、持てる才能を空費してはいけない」


 どきりとして、顔を上げる。

 ペドロは、柔和な表情を浮かべつつ言葉を続けた。


「とあるボクシングのトレーナーが、興味深いことを言っていたよ。十人にひとりくらいの割合で、人の顔面を殴れない者がいるそうだ。どんなに練習を積もうが、殴れないらしい」


「はあ? 何を言ってるんだよ」


 思わず口を挟んだが、ペドロは語り続ける。


「つまり、人には後天的な努力では克服できない部分がある、ということさ。どう頑張っても、人の顔を殴れない者は存在する。同様に、どう頑張っても人を殺せない者もいる。恐らく、先進国に住む人間の過半数はそのタイプだ。だが、君はそちら側の人間ではない」


 その言葉に、郁紀は愕然となった。それは、どういう意味だ……と聞こうとした時、ペドロが右手を上げて制した。


「俺が何を言っているか、今はわからないだろう。だがね、いつかはわかる時が来る……俺は、そう願っているよ」


 言った後、ペドロは立ち上がった。


「では、帰るとしようか」




 この時の郁紀は、何もわかっていなかった。

 本番は、これからだったのだ。








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