王女

京野 薫

第一章:血と造花

夕闇

 どこにでもある普通のワンルームマンション。


 部屋の中は海岸と、赤や青の屋根の家が原色で色鮮やかに描かれている。

 ベッドの上には外国の可愛らしい人形が4体ほど並んでいる。

 それと共に仄かに香るラベンダーの穏やかな香り。


 そして……血の匂い。


 僕……石田祐樹いしだゆうきはその生臭いツンと来る匂いに吐き気を感じながら、自分の腕に伝わる感触から目を逸らしていた。

 目を閉じて顔を背けて。


 左腕に感じる彼女の手の温もり。

 そして髪の感触と共に、彼女……結城文乃ゆうきふみのの興奮しているのか、汗の香りも鼻腔に飛び込んでくる。


「すいません……もうすぐ、終わります」


 そんな澄んだ鈴のような声が聞こえ、目を逸らしていた世界に嫌でも目を向けさせられる。

 僕は降ろしていた自分の左腕をつい見てしまった。


 そこには……僕の左腕に噛み付いている制服姿の少女、結城文乃。

 年齢は17歳だが、今の彼女は年齢から信じられないほどの色気を放っている。


 僕は彼女の通う高校で担任をしている。

 そしてそれと共に僕にはもう一つの役割がある。


 それは……彼女の「食料」である事だ。


 文乃は僕の腕から口を離すと、真っ赤に染まる傷口を素早く止血と消毒を行い、ガーゼを貼った。

 腕についた4つの小さな穴。

 そこから止まる事無く血は流れていたが、この程度の手当てで問題は無いし、痛みも無い。


 文乃は片手を唇に当て、口の中の血液を目を閉じて飲み込むと、ホッとため息をつく。

 それまでの青白い顔色が嘘のように血の気が通い始めた頬。

 そして潤んだ瞳で僕を見て、両手を合わせて頭を下げた。


「ご馳走様でした。本当に有難うございます」


「いや……大丈夫。満足できた?」


「はい。やっぱり先生が……一番いいです」


「それは喜ぶべきことなのかな?」


「すいません……でも、本当に助かっています。そこはご理解いただければ」


 そう言うと、彼女は妖しい輝きを僅かにたたえた瞳で続けた。


「……あの、結構血を吸ってしまいました。でも……成人男性の血液量ならまだ健康に支障は無いと思います。で……その……」


 それは明らかに僕の言葉を期待している目だった。


 僕は内心うんざりしながらも無言で頷いた。


 目を閉じて「好きにするといい」と、わざとぶっきら棒に言った。

 自分の期待する気持ちに蓋をするように。


 近づく気配と音がする。

 そして、彼女の顔が僕に近づき、首の横に唇の柔らかい感触が押し付けられ……歯の感触が伝わってくる。

 そして、鋭い痛みと共に首に暖かい血液が流れる感触と……それを音を立ててすすっている音が聞こえる。


 まだ足りないのか……

 彼女のもたらす心地よさと、罪悪感に襲われながら僕は彼女とこんな歪んだ関係になった、3ヶ月前を思い出していた。

 誰も居ない夏の日の教室で起こった出来事。


 僕が本当の意味で結城文乃の事を知ったあの日の事を……


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 帰りのホームルームを終えて、僕が受け持つ2年C組の生徒たちが楽しげに話しながら教室を出て行くこの時間。

 これが一番ホッとするな……と考えながら、書類などを重ねて職員室に戻る準備をする。

 今日も何事も無く終える事が出来た。

 平和に終えた。


 それが一番いい。

 波風立てず、いだ海の様に穏やかに。

 そんな平穏な毎日が有り難い。


 僕はそう思いながら誰も居ない教室を確認し、職員室に戻りながら今夜見に行く新作ミュージカルの事を考えた。

「今、一番チケットが取りにくい」と言われているだけにかなり苦労したがまさに幸運の賜物だ。


 早く残りの業務を片付けて、定時で上がりたい。

 余裕は持ったが、それでも早めに着いて気分を上げたいのだ。

 そんな事を考えながら職員室の自分の席に戻った僕は、ふと自分の携帯が無い事に気付いた。

 教室か……

 確かに背広のうちポケットに入れたはずなのに……いつの間に落としたんだ?


 正直面倒だと言う気持ちもあったが、流石にそのままにする訳にもいかなかったので重い腰を持ち上げて教室に戻った。


 9月になった空気はすでに若干の涼しさを含み、真夏の時よりも少し日が沈むのが早くなっていた。

 そのため、夕焼けの朱色が廊下の窓から入ってきて、どこか物悲しさを漂わせる。

 僕は夏の終わりのこういう雰囲気や空気が好きだ。

 この祭りの終わりのような寂しさは、不思議と心に染み込んで来る。


 そんな事を考えながら教室の扉を開けようとした僕は、立ち止まって思わず教室の中を見直した。


 誰か居る。


 だが、それが誰かはすぐに分かった。

 結城文乃。


 肩まで伸びた美しい黒髪。

 そして、童顔だがそれぞれのパーツが極めて高いレベルで整っている、愛らしさをも感じさせる童顔と……なにより印象的なのは左右で異なる目の色。

 所謂いわゆるオッドアイと言われるものだが、右目がグリーンで左目がブラウンと言う配色で、彼女の美貌もあり一度見たら忘れる事のできないインパクトがある。


 その容姿で非常に注目を集めているだけでなく社交性もあり、特に仲の良い佐々岡えりを初めクラスの誰ともにこやかに会話し、文字通り誰からも愛されている。

 僕ら教師に対しても、非常にしっかりした受け答えで万事に如際無く振舞っており、もちろんイジメ等のトラブルにも無関係だ。


 そのため、同僚の教師からも「石田先生、生徒ガチャ大当たりじゃないですか! 結城文乃がいる時点でSSR引いてるようなものですよ」と茶化されているが、確かに一面の真実ではある。


 ただ、飛びぬけた魅力があるため、男子からもかなりの頻度で告白されているようだが、全て撃沈しているらしい。


 特にイジメ等のトラブルもなく、成績も優秀。協調性も特A級。

 生徒としては本当に得がたい子だ。

 教師としては本当に理想的。

 あとは、どうか波風立てずにそのまま卒業してもらえれば申し分なし、と言う所だ。


 そう思っていた。

 この時までは……


 だが今、教室の中に居る彼女は窓枠に足をかけて……まさに身を乗り出そうとしていたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る