ある被験体の観察日記
もこし
第1話
僕は幼馴染の考える物語が大好きだ。幼い頃の僕の救いだったから。人と話すことが苦手で、友達ができない僕の為に彼女が考えてくれた、現実ではあり得ないような夢物語。
その物語に出てくる主人公は初めて耳にした時から格好良かった。万人に愛されていて、人の上に立つ存在でありながら誰よりも前に出て戦って、必ず帰ってくる。そんな現実離れした存在が当時の僕には憧れの的として映った。
読んでいるだけで勇気をもらえて、自分もいつかこんな風になるんだと本気で思っていた。
――あの頃の純粋な少年は本気で思っていたのだ。
……残念ながら今はそんな物語の登場人物よりも遥か遠い立ち位置にいるのだが。
***
幼少期、自分は兎に角他人との交流が苦手だった。社交的な幼馴染の少女の裏に隠れては僕の唯一の味方である彼女が誰にも取られないように、と祈っていた。しかし、そんな日々もそう長くは続かない。彼女との距離は世間一般で言う男女の距離よりも遥かに近かったのだ。当然他者に揶揄われる。彼女は気にしないで、と笑っていたが僕自身は彼女が揶揄われる事実を許すことはできなかった。僕の問題のせいで彼女も僕と同じように扱われることが納得できなかった。
それでも、周りの子供達に言い返す勇気も無ければ、やり返す力もなかった。ずっと彼女の考えた優しい夢物語の主人公のようになれたなら、と願うだけで何もして来なかった。強いてやったことを挙げるのであれば、いっそ彼女に迷惑もかけず、誰からも揶揄われない場所に隠れられたなら、と祈ったことくらいだろうか。
***
「四葉。あのね、お父さんと一緒にイタリアに行くことになったの。今離れて暮らすのは危険だからって……」
その祈りが幸か不幸か神に届いてしまったらしく、中学に上がる直前に母にそう告げられた。母の後ろに視線を向ければ冷たい表情でこちらを見下ろす父親がいたことを今でも覚えている。
僕が生まれてから1度たりとも日本に帰ってこなかった父親が突然帰ってきたのはその言葉を聞いた数週間前のことだった。以前から母親に優しい人だと言う話を聞いていた僕は父親に出会えることを大層喜んだ。しかし、いざ蓋を開けてみれば表情ひとつ変えない機械のような冷たい人間だった。そんな父親の言葉を鵜呑みにした母親の言葉に僕は酷く絶望した。それでも、子供で何の力もない僕は両親の言うことを聞くしかなくて、あっという間にイタリアに向かう日となってしまった。
「四葉!私、毎月必ず小説を送るから!手紙も送るから!だから、だから……!頑張ってね。私も頑張るから……!」
そう言って僕を送り出してくれた幼馴染との文通は予想以上に長く続いた。向こうが飽き性なので一、二回程度でぱたりと途切れてしまうものかと思っていたのだけれど。僕を気遣ってなのか、はたまた好きなことは続くのか。気づけば数ヶ月で数えきれないほどの文通をしていたような気がする。彼女から物語が届くのは毎月だったけれど、手紙はかなりの頻度でやり取りをしていたから。そんな彼女との文通を楽しむ反面、僕は新しい学校でも馴染めずにいた。イタリアに渡ったとしても、そんなすぐに人は変わらないもので。学校では、案の定友達を作ることもできず、彼女がノートに書き連ねた小説を持って行って、休み時間に読んでいるだけの生活を過ごしていた。元々一人で居ることが苦ではなかった僕は早急に友達作りを諦めて一人の世界に浸っていた。
……それが、いけなかったのかもしれない。
『本当にこのガキで間違いないんだな?』
『ああ、間違いない。あの組織の
陰から伸びてきた手に僕が捕まっても、誰かの目に入ることはなかった。一緒に帰る友達が居なかったことも勿論そうだが、イタリアの自分の家は住宅街から離れた場所にあり、家に近づくにつれて同年代の子供が殆どいなくなってしまうから。恐怖で固まっている間に口を塞がれ、手足を縛られ、車に乗せられてしまった。何を言っているのか殆ど理解できなかったけれど、僕個人を狙っているということだけは辛うじて理解できた。
イタリアに来てすぐに僕は、自分の父親が僕達に会いに来なかった理由を知った。父親はイタリアの裏社会の重鎮だったのだ。一言発するだけで屈強な男たちを動かすことができる存在。そんな存在が頻繁に職場を離れる訳にはいかないだろうということは自分でも理解ができた。
僕には知られないように生活していたらしいが、ここ最近になって敵対組織の動きが活発になり、離れて暮らしている方が危険になってきたからと、僕は小学校を卒業すると同時にイタリアへ連れられてきたのだ。
震える体を必死に抑え、恐怖で荒くなる息を整えながらただただ大人しくしていた。何をされるかわからなかったから。きっと人質だから殺されない、大丈夫だと心の中で自分に言い聞かせても、もしかしたら、ということも考えていた。何が離れて暮らすのは危険、だ。日本の方がずっと平和で、楽しかったじゃないか。
心の中でそう悪態をついた。そうしないと、恐怖で今にも泣き叫んでしまいそうだったから。せめて、心の中でくらいは強くあろうと、僕なりに必死に抵抗した。それでも、死んだらどうしよう。ああ、そもそも死んだら何もできないんだった。そうなると彼女の小説はもう読めないだろう。
彼女に、挨拶もできないのだろうか。それは悲しいな。僕は彼女にまだ何も返せていないのに。
せめて一言、お礼を言えたら良かったのにな。
***
遠くの方で騒がしい話し声が聞こえてくる。ああもう五月蝿いな。ただでさえ最悪な環境なんだからもう少し寝かせてくれても良いじゃないか。これ以上の睡眠は不可能に近いと悟った僕は、仕方なく目を開ける。
目の前では数人のガタイの良い男達が困惑したり、焦ったり、顔の色をころころと変えながら話し合っていた。
大方、父親から音沙汰が無いということだろう。彼らの言葉はまだ分からないけれどあそこまで顔を赤くしたり青くしたりしていれば何となくそうなんじゃないかなって思える。大した覚悟も無かったんだろうな。組織の下っ端みたいだし。だったら最初から子供なんて攫わなければ良かったのに。
確かに父親にとって僕は血の繋がった人間かもしれないけれど、初めて会った子供に対して表情一つ変えないどころか、冷たい目で見下ろしてきたような冷徹な男なわけで。彼にとってはその程度の存在である僕を惜しいと思うはずがないだろうに。
『おい、お前。本当にあの男のガキなんだろうな?』
「いっ……」
前髪を強く掴まれる。今まで一度もこんなことされなかったけど、本来狙っていた子供ではないとなれば話は別なのだろう。確かにこの場所はストレスの溜まる場所であることに間違いはないのだから。
『何だよ、その目』
「……」
『最初は大人しかったくせに、生意気な目しやがって!』
何かをしたつもりはないのだけれど、目の前の男は僕に怒声を浴びせた後、僕を思い切り投げ飛ばした。抵抗を取ることもできなかった自分の体は簡単に壁へ叩きつけられる。全身に痛みが走り、息が詰まる。すぐに次が来るかと身構えたが、彼は興味をなくしたのか背を向けて仲間の元へと戻っていった。
僕はというと、心の中で悪態をつくことしかできない。人質だって言うなら丁重に扱ってくれないものか、とかあくまで僕は本当の子供なんだから僕が死んだりしたら元も子もないんじゃないの、とか。まあ、もう二週間近く子供を助けに来ないから、僕のことを偽物だと決めつけるのは仕方ないのかもしれないけれど。このままだと、僕はどうなるんだろうか。偽物だって決めつけられて、こいつらのストレス発散に使われて、ズタボロになって、誰にも気づかれないままその辺のゴミと化すのだろうか。ここで、一人きりで、誰にも見つけられないまま忘れられるのだろうか。それとも、死体になってからなら誰かが見つけてくれるのだろうか。
もし本当に死んでしまうのなら、せめて母さんに会わせて欲しい。僕をここまで育ててくれた母さん。日本の家はお手伝いさんたちも居たけれど、母さんはお金があるにも関わらずずっと働いて、僕にたくさん愛情をくれた。ああ、母さんは今どう思っているのかな。心配してくれているのかな。助けが来ないということはひょっとしたら母さんも僕を助けようなんて考えていないのかもしれないな、なんて、卑屈になっていることはわかる。
それでも、どうしても悪い方へと考えてしまうのだ。そんな救いのない世界に再び顔を出さなければならないのなら、僕はもう誰にも会わずこのままここで死んでしまった方が幸せなのかもしれない。
何も、知らないまま、このまま、空へ。飛んでいけたのら僕は自由になれたかもしれないのに。あの物語の主人公のように、魔法が使えたら、こんな場所を飛び出して、自分の力で幸せを掴むことができたのに。
***
それから何日が経ったのか分からないが、未だに父親から音沙汰はないそうだった。僕は最早人質として機能しないと判断されかけているみたいで、暴力を振るわれるようにもなった。抵抗したら余計に酷くなりそうで、何もせずに居たらとうとう手錠に拘束具を変えられた。
今まで後ろで腕を縛られていたから何もできなかったけど、手錠になったおかげで本は読めるようになった。
あいつらは僕の荷物から外部と通信するものだけを持っていったから彼女から送られてきたノートは手元に残った。だから何度も何度もそのノートを読んでいた。そのノートに書かれた物語の主人公になる自分を想像して、あり得ない展開を想像して、助けがくるっていう絶望的な可能性を信じた。物語の世界に浸れるだけで良かった。嫌な現実を全て忘れられるから。こっちに来る前の楽しかったあの日々を、思い出せるから。
***
「…?」
目の前に誰か立っている。ノートを読んでいて気が付かなかった。目線を上げるとそこには1人の男性が立っていた。
「こんにちは。突然すまないね」
その男性は、僕にも分かる日本語を使って話しかけてきた。この陰鬱とした場所に似つかわない、綺麗な白衣を身につけている。僕を品定めするような視線と、貼り付けたかのようなニコニコとした笑顔が不気味で目を離したくても離せない。
「君のお父さんに以前まで支援を受けていたんだが、少し前に支援を打ち切られてね…。話も聞いてもらえないし、理由も聞いてもらえない。だから君を使って話を聞いてもらおうと思ったんだが…」
どうやら君の父親はなかなか酷い人みたいだね。そう告げられた言葉に内心で同意する。
そんなもの、ここに来てからすぐに思い知った。理解した。それでも、改めて言われると胸の内が苦しくなる。
「そこで、だ。やはり結果を見てもらった方が早いと思ってね」
そう言うと男はどこからか注射器を取り出した。漫画やアニメで見るような怪しい色をした液体が入っている訳でもない、無色透明な液体が入った注射器。背筋に冷たいものが走る。
「さて、君は…随分とお父さんに似ているんだね。その金色の髪も緑色の目もそっくりだ」
「でも君はお父さんが嫌いなんだろう?無理もない。ずっと放置していた癖に今更父親ぶってこんな危険な場所に連れて来られたんだ。そんな父親を好きになるなんて難しいよ」
「……大丈夫さ。すぐに君はお父さんとは違う存在になれる。お父さんとそっくりな君とは違う存在に」
早口で捲し立て、僕が言葉を挟む隙も与えさせない。
ああ、そういえば彼女も好きなものの話をする時はいつもそうだった。楽しそうに早口でたくさん話して、僕が感想を言う時間も与えさせない。
でも、それでも楽しかった。君の話を聞くことが何よりも好きだったから。話すことが苦手だったから。君の世界が好きだったから。
だけど、これは、これは違う。楽しいなんて微塵も思わない。怖い。ただ怖くて、震えが止まらない。別にあの人と似ているからって気にしたことはない。母親に似たかったと思ったことはあったが、それはただの幼い子供の戯れ程度のもので、別に本当に変わりたいと思ったことはない。ましてや人工的に、正体不明の薬の力で変わりたいだなんて。
「や、やだ、」
ここに来て久しぶりに出した声は、酷く震えていた。
ずっと言葉を発していなかったから、喉を震わせることに違和感を覚える。
「そんな、薬、いらない、ぼく、かわりたいなんて、思ったこと、ない」
「たすけ、助けて、誰か、」
「ああ、良いね。その表情。あの人の顔でその顔を見たかったよ」
後退りしたくてもすぐ後ろには壁があって、これ以上下がれない。助けを求めて声を出しても、助けが来るはずなんてない。何かに縋っていたくて、薄っぺらい思い出のノートを握りしめる。
「大丈夫。すぐ終わるよ。そして君は生まれ変われる」
焦点の合わない瞳で見つめられる。嬉しそうに笑った男の表情と自分の置かれた現状とのギャップに頭がぐらぐらとする。軽度とはいえ、拘束された体では満足に抵抗することもできない。
注射器の液体は痛みもなく、いとも簡単に僕の体へと入ってきた。
「……っ!」
すぐに終わると言っていた。その言葉の通り、投薬はすぐに終わった。効き目もすぐに出てきた。
熱い。身体中が熱くてたまらない。体を起こしていることが辛い。まるで流行病に感染した時のように身体中が発熱しているような感覚に見舞われる。
「はぁ…な、なに、あつ、い…」
これ以上は起き上がっていられなくて、その場に疼くまる。胸が、息が苦しい。この苦しみから解放されたくて、胸を抑えて息を精一杯吸い込む。助けを呼びたくても、喉が詰まって声を発せない。
「ふむ、即効性に問題はなし、と」
苦しむ僕の姿はどうでも良いのか、ひたすら薬の効果についてメモを取る男。その余裕そうな表情に心底腹が立つ。何か一泡吹かせてやらないと気が収まらない。それでも体は思うように動いてくれない。あの人の子供だというだけで、どうして僕がこんな目に合わなければいけないんだ。僕が何をしたって言うんだ。誰か、誰か助けて!
……神様、僕は普通に生きることすらも許されないの?
***
薬を打たれてからは何の気力も起きなかった。頭がずっとぼーっとして、何も考えたくなくて。大好きだったはずの彼女の物語も読まずに遠くを眺めている。もう何日経ったのだろうか。それすらもわからない。
僕が見つめる先に何かいるような気がして、顔を膝に埋めて一人の世界に閉じこもろうとした。
時々、どうしても左目が気持ち悪くなって左目の周りをひたすらに引っ掻いた。あまりの気持ち悪さに一度左目を抉ろうとしたけど、怖くて最後まで出来なかった。それでも気持ち悪さは収まらない。僕の左目はどうなっているんだろう。鏡のないこの部屋ではそれを確認する術はない。
「いらない、」
左目の存在を異質に感じて、左目のあたりに手を持っていき、爪を立てる。
「いらない、こんなもの、いらない…痛い、苦しい、いらない、いらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらない…」
気持ち悪さを掻き消したくて左目の周りを引っ掻き続ける。
この気持ち悪さを打ち消すには痛みが最適だった。
「……ダメじゃないか。そんなことをしたら。せっかく変われたのに」
一度聞いただけなのに、やけに耳に残った憎らしい声がして顔を上げる。そこにはあの日と同じ表情をした男が立っていた。
「ふ、ざけんな、あんたが、勝手に…!」
「私の薬が有用でいることを示さなければいけなかったんだ。君のお陰でデータが取れて助かったよ。」
話が通じない。僕の話なんて最初から聞く気がないんだ。この男は自分のしたいことを僕で発散させることしか考えていない。
「さて、今日はこの薬がもたらす本当の効果を試しに来たんだ。これはなんだと思う?」
「それ、は、」
グラグラする視界、合わない焦点の中で男が手に持っているものを見つめる。見覚えのある薄っぺらいもの。茹る頭の中で、それの正解を叩き出す。
「ぼくの、ノート…」
「正解だ。随分大事そうにしていたから、少し預からせてもらったよ」
「かえ、して」
ろくに動かない体に鞭を打って、腕を伸ばす。そのノートは僕の心の拠り所だ。僕の味方はもう、それしかないんだ。僕が僕であるために、そのノートがないと。
あの子との、思い出がないと。
「最終段階だ。返してあげられなくてすまないね。でもこのノートよりも面白いものが君を待っているから」
静かな空間を引き裂くような音がした。ビリビリと軽い音を立てて、散らばっていく白い、雪のような思い出たち。
「あ?え、」
「こんなものもういらないだろう?君はこの物語の主役になりたかったんだから。紙もペンも必要ない。知識と武器を持て。そうすれば君は主人公になれる」
ノートの代わりに手元に投げられたのは銀色に輝く鋭いもの。
「憎くないか?悔しくないか?助けは来ず、自分の無力さで思い出は引き裂かれて。さあ、それを手に取るんだ。扱えるようになれば、そんな思いをしなくて済む」
「どこまでも自由になれるんだ。君が何よりも願ったことだ。素晴らしいだろう?」
男がそう話すと同時に男の後ろからゾロゾロと屈強な男たちが入ってくる。
『博士、本当にこのガキを殺っちまって良いのかよ?』
『構わない。どうやらハズレだったみたいだ。本当の親からも連絡がないのであれば、彼は捨てられたということだろう』
『ならば一思いに殺してやろうじゃないか。このまま生きているのも可哀想だろう?』
***
ああ、なんだ。随分と簡単なことだった。いつまでも助けを待つ子供じゃなくて、何か行動をしていれば良かったんだ。
目の前に散らばった見るも無残な思い出たちをかき集める。白かった思い出たちが赤黒く汚れていく。これは、修復することはできないだろう。あとであの子に謝らないと。
「ああ、無くなっちゃった」
自分が思ってたよりも遥かに感情のない声色が飛び出した。あんなに大切にしていたものだったのに、こんな簡単に壊れてしまうなんて。
「あは、この世のものって全部簡単に、壊れちゃうんだ」
思い出も、物も、ヒトも、全部全部簡単に壊れてしまう。こんなその辺の子供の僕でも簡単に壊せてしまう。
全部、全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部!僕が壊してやった!思い出を壊したこいつらを!僕を壊したこいつらを!
「あは、あはは、あははははははははははははははは!!!!」
今まで抵抗してこなかった僕が本気で殺しに来た時、こいつらはどう思っていたんだろう。そう考えるだけで笑いが止まらない。何も話さない不気味なクソガキに殺された奴らの最期の顔を思い浮かべるだけで愉悦に浸ることができる。
「…何が被験体だよ。あーあ、ふざけないで欲しいなぁ」
研究員の持っていたバインダーを見ながらそう呟く。
そこには僕と僕に使ったであろう薬の情報が書き記されていた。もう今更こんなものを知ったってどうにもならない。どうでもいい。
バインダーの留め具が反射して自分の顔が少し映る。引っ掻き傷だらけになった顔の左半分。所々赤く滲んでおり、そこにはもはや異質とも取れるほど綺麗な丸い黄色がそこにはあった。
あーあ、僕の左目、変な色になっちゃったな。少し前まで、僕の目はどっちも緑色だったのに。
自分の体の変化を認めたくなくて、これ以上見ていたくなくて、バインダーを蹴飛ばし、その辺へ滑らせる。
こんな僕を見たら皆なんて言うんだろう。あの子は、なんて言うんだろう。
気持ち悪いって言うのかな。僕のことを嫌いになっちゃうのかな。もしもあの子に嫌われたら……僕は本当に1人になるのかもしれない。ああ、それは嫌だな。あの子に会う時は何が何でも隠さないと。
「……?」
部屋の入り口の方から物音がする。扉の向こうに、誰かがいる。敵か、味方か。右手に持っていた銀色の光を強く握りしめる。
別に敵でも味方でも良いか。どうせ皆、僕がどうなろうとどうでも良いと思ってる人だけなんだから。それに、さっき逃げ出した諸悪の根源の可能性だってある。あいつだけは僕が殺さないと気が済まない。
目の前の扉が開く。自分の身を守れるのは自分だけだ。
そう思うと同時に、再び脳が沸騰したかのように熱くなる。その熱に耐えきれずに、僕は意識を失った。
***
イタリア最大級の裏組織、ラインフォード。かの家は製薬会社との契約を中心に多くの事業へと手を回し、勢力を拡大してきた。
この組織の二代目は数年前に怪我で引退し、その息子である二十一の若造がその後を継いだのだという。それでも組織の勢いは止まることを知らない。なんて、聞こえは良いけど中の実態はかなりの惨状である。
三代目は就任してすぐに古株の多くを地方へと送り飛ばした。そしてどこから連れてきたのかわからない新参者達を自分の周りに置くようになったのだ。当然そのような暴挙に出た彼を快く思う人間の方が少なかった。
それでも彼とその周りの人間達は実力で逆風を吹き飛ばし今の地位を確立させたのだ。
それが、ここまでの僕と僕の組織のお話。どこまで外に漏れ出ているかは知らないけれど、全て紛れもない真実のお話。
あの後目が覚めたら白い天井が僕を出迎えた。あんなに時間をかけた癖に結局父親が部下を動かし、僕を助けにきたのだと言う。僕を抱きしめた母親は何度も僕に謝り続けた。見るからにして痩せ、憔悴しきっている母親を見て、この人だけはもう一度信じて良いのかもしれないと思った。
僕を攫った奴らがどういう集まりなのかは教えてもらえなかったが、あの研究員の言葉から父親に提携を切られた腹いせに敵対組織と手を組んだ、という感じなのではないかと思っていた。それからは、まあいろいろあって先程述べた通りとなるわけだ。
あの地獄から生還した僕は母親と幼馴染しか信じられない人間になっていた。
この組織の幹部に味方なんていない、皆自分のためにしか生きていないんだ、と。だからこの組織を内部から破壊するような形で思い切り人間の入れ替えを行った。反感は買ったが、結果として成果に繋がっているのだから今ではとやかく言ってくる人間はいない。実力で黙らせるとはまさにこのことである。
あの日々から学んだことはただ一つ。頼れるのは己自身だけであるということ。
だからこそ。僕はこの組織の人間に頼らないと決めた。
一人で、自由に生きていくのだと決めた。
誰にも縛られず、自分のままで生死を全うするのだと決めた。自分勝手だと思われるかもしれないが、組織に不利益を出さなければ何も問題ないでしょう?
そんなこともあって、僕はよく日本に戻るようになった。日本の文化が好きだし、日本の方が僕にとっては故郷と呼ぶに近しい場所だからだ。それに、僕の心の拠り所がそこにはある。
「げ、あんたまた何も言わずに……」
「来夏!おかえり〜!また遊びに来ちゃった」
「だからせめて何か言ってから来てよ。心の準備とか家の準備とかそういうものがあるっていつも言ってるでしょ?」
そう溜息を吐きながら僕を素通りして家の扉を開け放つ黒に近しい茶色の髪を持った群青色の瞳の女性。
「……どうぞ。部屋散らかってるけど良い?」
「良いよ〜。急に来たのは僕の方だしね」
「本当に。はぁ……昔は可愛かったのにどうしてこんなことに……」
「今の僕は嫌い?」
そう問い掛ければ彼女はバツが悪そうな顔する。
「四葉のこと嫌いになれるわけないでしょ」
「ふふん、だよね!僕も来夏のことは嫌いじゃないよ!」
「そこはせめてお世辞でも好きって言いなさいよ!」
「あははは!」
数年前に再会した幼馴染は見た目が変わってしまった僕を見ても普通に接してくれたし、すぐに僕だとわかってくれた。前髪で隠した左目のことも何も問うて来なかった。それが何よりも嬉しかった。
彼女は僕とのやりとりをきっかけに小説家になったのだと教えてくれた。その話を聞いて僕はすぐに彼女の本を大人買いしたし感想も伝えた。すると昔のように彼女が楽しく笑うものだからあっという間にあの頃に戻れたような気さえした。
女々しいと思われるかもしれないが、彼女と居られる時間が、彼女が呼んでくれる僕の名前が、僕を安寧へと導いてくれるのだ。だからこそ、隙をついては日本に戻ってきてしまうのだが。
それでも、この安寧を壊してでも僕にはやらなければならないことがある。いつまでも幸福に縋り付いてはいけない。いつか必ず、僕の全てを壊したあの男に復讐しなければならない。だから、僕はヒーローとは遠い存在になったのだから。
君の傍に居てはいけない人間になってごめんね、と心の中で呟きながら、今日も僕は表と裏、幸福と復讐の狭間で生きているのだ。
ある被験体の観察日記 もこし @mokosya
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