冬の夜に、夏の空で
@kurumi1107
第1話
また始まった
ミーン ミーン
蝉の鳴き声が聞こえる。暗かった視界に日光が差し込んで、あまりの強さに目が眩む。立ちくらみでふらふらする足に力を入れて立ち上がり、ぐっと伸びをする。体が痛いと思ったら、ベンチに座っていたらしい。
まずはここについて知らなければ、と周りを見渡す。どこだろう。目の前には見覚えのない公園、年月が経って所々錆びている遊具。
ふと視界の恥に黒いランドセルが映った。気になって近寄ると、耳障りな『キー』という音と同時に、誰かがブランコを漕ぎ出したのがわかった。汚れたランドセルから、私より何歳か上だとわかる。私の目を眩ませた日光が男の子を照らして、髪の毛を、下を向く瞳を、落ちないようにとブランコチェーンを握る手を反射して、私にはまるで消えてしまいそうなくらいに儚く思えた。
男の子はちら、と私を見て、地面に向かって足を伸ばす。ざざと音を鳴らして、ブランコが止まった。
「ねぇねぇ、この公園の名前を教えてくれないかな?」
下を向いていた瞳が、ゆっくりとこちらを見つめようとする。それに釣られて顔も上がった。
「ここは」
キーン
耳鳴り。頭が痛くなってきた。平衡感覚を失って後ろに倒れる。男の子の声がよく聞き取れない。目の前が暗い。怖い。まだこの場所に縋って痛くて伸ばした腕は、誰に捕まれることもなく空を切って、地面に吸い込まれていった。
ゆっくりと目を開ける。閉じたカーテンから静かに光が漏れて、部屋を包み込む。名前もわからない鳥が朝の訪れを知らせるように、優雅に鳴いた。
「夢、か」
私、『壁成一』は今までの光景が全て夢だったことを悟った。公園も、男の子さえ。
「どこかで会ったような気がしたんだけどな」
まだ夢のことで頭がいっぱいなのか、朝だからなのか。しばらくぼーっとしていたが、支度をしなければならないことを思い出す。
「遅刻しちゃう」
と小さく漏らした。スリッパを足で探して、狭い隙間に足を滑り込ませる。行きたくない気持ちを無視するように、床をタンタンと叩いた。
人通りが多い通勤時間。横断歩道を渡ろうと信号待ちしている人々を眺める。薄く隈を作ったサラリーマン。前髪を直している学生の女の子。キャリーケースを持った親子。この瞬間に、全く別の人間も生きているということを嫌でも実感させられる。
一人暮らしになると、途方もなく寂しくなる夜がある。自分しかいない部屋に自分の声が反響して、普段なら気にもしない外の喧騒さえ飲み込んでしまいたくなる。
そんな日は、家族と生活していた時のことを思い出す。そういえば、そのたびに誰か忘れているような気
カッコー カッコー
いけない、今日はなんだか余計なことを考えてしまう。なぜだろう、やっぱり夢のせい?
はやる気持ちに蓋をして、カツカツと革靴を鳴らすサラリーマンを追いかけるように、今日も仕事場へと足を踏み出すのだった。
「おはようございまーす」
「おはよう!壁成さん」
上司に会釈をしてから座り、パソコンを起動させる。ふと写真たてが目に入った。どこかの公園で撮った写真。左側には幼い頃の私、右側には知らない男の子。いや、多分知っていたんだろう。だが、過去の心的外傷の影響で記憶を失ってしまったのだ。病名は解離性健忘。過去に病院を受診した時には、軽い症状でよかったと言われた。私は自分のことや家族のことは覚えているが、『恋人』のことを忘れてしまったらしく、母親に相談してみたこともある。
「相手に話はしているから、気にしないで。一の体にまた何かあったら大変でしょう?」
と言われた。罪悪感がないわけではないが、相手に話をしているなら大丈夫だと考えるようにしている。
写真の中に居る無邪気な私を憂うように、写真をそっと撫でた。
「壁成さん、大丈夫?」
心配を声色に滲ませながら話しかけてくれたのは上司だった。眉を下げながら、じっとこちらを見つめている。
「あ、すみません。少しぼーっとしてました」困らせないようにと、口早に答える。
「よかった。倒れないように、体調管理しっかりね」片手を腰に当て、もう片手は私の肩に乗せながら言った。
「はい、わかりました」
今は仕事に集中しよう。そう気持ちを切り替えて、キーボードに手を乗せた。
「ねぇねぇ、一」
同僚の『白木成鳥』が声をかけてくれる。
「どうかした?」
「夜ご飯食べに行かない?」
「もうそんな時間か」
ずっとパソコンに向けていた目を時計に向ける。18時34分。夕飯にはちょうどいい時間かもしれない。
「今日の仕事だけ終わらせちゃってもいい?」
「もちろん。じゃあ出口のところで待ってるね!」
「ごめんね、すぐ行くから」
「気にしないで」
彼女を見ていた体をくるりと戻してデスクに向かった。
「いいって、気にしすぎ」
同僚が眉を顰める。
「だって…」
オレンジのマリーゴールドが空に散ってしまったように染まる空と、やわらかく人々を照らす夕日。スーツの人がちらほらと見えることから、かなりの時間が経ってしまっていることがわかる。
「それより」と彼女が言う。
小さくなった声が気になって横を見ると、彼女が目を細める。さっきの元気が周りの人々に吸い取られたとでも言うように青ざめていた。彼女と反対に、私は目を見開いた。
「大丈」
「前付き合ったって言ってた彼氏いたじゃん」
少し大きな声で遮られた。隣に居る彼女は、不自然なほどにっこりと笑いかけてくれる。
「あぁ、いたね」
「その彼氏とさ、その、別れちゃって」
「え!?なんで、原因は?」
「彼氏が浮気してた」
「最低だね」
「私が悪いのかなぁ〜」
彼女が沈む気持ちを誤魔化すように声のトーンを上げた。
すぐに言葉を返そうとして口を開くと、急に声が聞こえた。
「俺…悪く…よ」
思わず立ち止まる。隣の彼女も立ち止まって、私の顔を覗き込んでいた。今日は心配をかけてばっかりの一日らしい。
「どうかした?」
「いや、話しかけられたような気がして」
「気のせいでしょ」
「そうだよね」
気づいていた違和感には、気づかなかったふりをした。
カラン カラン
入店音が鳴って、店内の騒がしい音が耳に入る。店員さんのパタパタと小走りする音が聞こえた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」と彼が聞く。
目の前の彼に目を向ける。髪を染めていて、小さなピアスをきらりと光らせる好青年だ。
「2人です」
「かしこまりました。お席の方カウンター席しか空いていないのですが、よろしいですか?」
隣に居る成鳥に聞こうとして首を回すと、彼女の目にが見えた。
「いいよね?」
「うん」
「大丈夫です」
「ありがとうございます。では、案内しますね!」
店員なんがゆっくりと歩き出す。同僚が楽しみだね、なんて話しかけてきた。
「ここずっと来たかったんだよね」
「SNSでバズった店だよね」
「そうそう」
私たちは少し前に「クセになる味」と有名になったラーメン屋に居た。彼氏に振られて落ち込んでいた同僚も、どこかそわそわしながら視線を動かしていた。
「メニューどうぞ〜」
「ありがとうございます」彼女はすぐにメニュー表を開き、間にゆっくり置いた。
渡されたメニューの真ん中に、少し歪な字で「当店No.1メニュー!」と書かれているのが目に留まった。
どうやら話題になっていたのは醤油ラーメンだったようだ。クセになる味ということは、好き嫌いが激しい味ということだろうか。うんうん悩んでいると、同僚が何にするか決めたらしい。
「もう決めたの?」
「うん、話題になってたラーメン食べたかったんだよね」
「私は塩ラーメンにしようかな。なんかクセになる味っていうのが気にかかってさ。苦手な味だったら嫌だし」
「え、そう言われると迷うじゃん」
「話題になってるし、きっとおいしいよ」
「そうだよね」
同僚が「すみませーん!」と大きな声で店員さんを呼んだ。店員さんもすぐに駆け寄って「ご注文は?」と聞いた。私はメニューに指を乗せて
「この醤油ラーメンと、塩ラーメンでお願いします」
「繰り返します。醤油ラーメン一点と、塩ラーメン一点でよろしいですか?」
「はい」
「わかりました、少々お待ちください!」
店員さんも同僚に負けないくらいの笑顔でにかっと笑って、厨房へと走った。横目で同僚を見ると、頬杖をつきながら店員さんを見つめる彼女を見ていると、青ざめながら失恋の話をしてきたことを思い出した。彼女のことを想いながら飲んだお冷は、少し冷たすぎた。
「ありがとうございましたー!」
「おいしかったね!」
「ね。塩ラーメンもおいしかったけど、醤油ラーメンもおいしかったな」
「五口くらい食べられたし」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
店員さんの見送りともいえない挨拶を背にラーメン屋から出た。初冬の寒さに体温を奪われながらも帰路へつく。心なしか、2人とも歩くスピードが早い。成鳥が手を擦り合わせて寒空を見上げて、少し沈黙した。まるで見惚れているようだ。手に息を吹きかけてから、喋りかけているのか、独り言なのかもわからないような声で呟いた。
「空すごい」
急に言うものだから少し戸惑って、すぐに聞き返した。
「え?」
彼女の方を見ながら問いかけても、闇夜が彼女の表情を隠してしまっている。
「いいから、見てみて」
上を眺めていた瞳孔がこちらに向けられる感覚がして、今度は私が寒空を見上げてみる。
「きれい…あれって天の川?」
「そうそう。冬にも見えるんだよね。織姫と彦星は、会えてないだろうけど」
星から彼女に目を移す。静かな街灯に照らされて微笑む彼女はあまりに寂しそうだった。
「ずっと昔、無理言ってお兄ちゃんと星を見に行ったんだ。夜更けだったのに海まで連れてってくれたんだよ。そのときに星が好きになった」
「いいお兄ちゃんだね。今も一緒に行くの?」
何気ない一言だった、口をついて出ただけ。言い終わった瞬間に、まるで私を憎んでいるような彼女の表情がはっきりと見えた。放心状態でいる私に追い打ちをかけるように一言、今朝もした挨拶の言葉をかけるように、でもはっきりと言った。
「ちょっと前に死んじゃった。交通事故でね」
「明日も会社なのに、何してるんだろう…」
時刻23時9分。いつもだったら寝ている時間なのに、眠れない。あの後、彼女はこんな話してごめん、と謝ってくれた。もちろん彼女は何も悪くないので、私も何度も重ねて謝罪した。だが、何よりも気になることがあった。交通事故という言葉が頭から離れないのだ。交通事故、交通事故、交通事故…
「あ」
キーン
耳鳴り。痛みが響く頭の中で、静かに波の音が聞こえる。高校2年生の夏休み、着替えたばかりのTシャツに汗の滲むような真夏日のことだ。三つの影が海の見えるベンチに座っている。空を眺める私と、短髪の黒を海風に靡かせながら、口元に手を当てて星を見つめる『白木有平』だ。
さらにその隣には、成鳥ちゃんが服でぱたぱたと風を誘いながら、天を仰いでいた。
「ねぇねぇ!あれって天の川?」
無邪気な声で問いかける私。
「そうだよ。今日は一年に一回、織姫と彦星が会える日なんだ」
ゆるく口角を上げる有平くん。
「素敵だよね」
私に微笑みかける彼女の姿が見えた。
成鳥ちゃんが言っていた昔の話。有平くんと成鳥と流れ星に願いごとをするために海へと出かけたあの夜は、みんなで笑い合った最後の記憶だ。
次に私の目に映ったのは、迫る車だった。
「危ない!」
今まで聞いたこともないような声が耳をつんざく。まだ幼くて小さい私の、固まっていた体が突き飛ばされる。
「お兄ちゃん、ねぇ!」
叫んでいる成鳥ちゃんの声が気になって、ゆっくりと状態を起こす私。視線を右往左往させていると血が目に入ったらしい。子供らしい大きな目を、飛び出そうなほどに見開いている。小さく口を開いて小さく息を吐き出した有平くんが、苦しそうな顔を浮かべながら小さく言った。
「かみ、さまに…みはなされた、かな」
自分を嘲笑するかのように笑う。
「おれのじんせい、わるくなかったよ。さいごにはじめ、たすけ、られたし」
「また思い出したの?」
声の発生源を探そうと辺りを見渡す。ふと見えた人影がぼやけていたのは、気のせいじゃないだろう。
「全部わかったよ、有平くんのことも、成鳥ちゃんのことも、全部」
有平くんは私の『恋人』だった。成鳥ちゃんが『お兄ちゃん』と呼んでいたのは有平のこと。
有平は私を庇って死んだ。成鳥ちゃんの冷たい表情は、気のせいじゃなかった。
戸惑いなんてなかった。何度も同じことを思い出してきたから。
「また夢?」
何回も同じ日を繰り返している。思い出すたびに記憶が消えて、また、また、また今日という日は巡る。
「俺から会いには行かないよ」
控えめに笑った。
「夢で会った公園も、私たちが初めて会った場所だよね。成鳥ちゃんは飲み物を買いに行ってたんだっけ」
2人で撮った写真は、2人の秘密にしてねってお母さんがくれた思い出の写真。もう色褪せてしまった写真も、何回も今日という日を巡ってきた私からのメッセージだったように思っている。
「また記憶を消すの?」
「…うん」
わかっていた。何回も質問していることでも、目の前で聞いてみるとまた別の重みがある。まだこの夢の中に居たいと思ってしまうのは、おかしなことなのだろうか。
「ごめん」
そう言った有平は、私を抱きしめようとした。私も有平がいなくならないようにと、強く、強く抱きしめようとしたのだ。でも触れられなかった。有平は、はっとした顔で抱きしめようとした腕を引いて、やわらかく笑う。
「時間みたい。もう思い出さないでよ」
「待って、行かないで」
「今度は、空で逢いたいな」
有平がゆっくりと消えていく。ただ見ていることしかできない。目を逸らしたくても、釘を打ったように目が離れてくれない。部屋には私一人が残された。あれ?元々一人暮らしじゃないか。なんで誰かがいたような気がしていたんだろう。
「今まで何してたんだろう。早く寝ないと」
成鳥に怒られちゃう、と呟く。
外の喧騒に時間という概念はないらしい。アパートの外では誰とも知らぬ男女が更けた夜を楽しんでいた。
「ホームシックでしょ」
手足が冷えて寒い。少し寂しくなる気持ちを切り替えようと、頭を回す。そうだ、明日は温かいものを食べよう、ラーメンなんていいな。最近流行っていたし。
そんなことを考えながら目を閉じて、今日も街のどこかで密かに眠るのだった。
冬の夜に、夏の空で @kurumi1107
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