吸恋鬼
白川嘘一郎
吸恋鬼
吸血鬼である彼女と、こんな時間に会うのは初めてだ。
「ごめんね先輩。こんな遅くに押しかけちゃって」
悪びれた様子もなくそう言う彼女と、その隣に立つ僕と。
月明かりが、マンションの屋上にふたつ並んだ影を伸ばしている。
「ほら、この身体になっちゃってから、明るいうちは出歩けないですし」
「それでも終電までじゅうぶん余裕はあったはずだろ」
ほんの少し前までの熱帯夜がまるで嘘のように、夜風は少し肌寒い。
反響して聞こえる虫の声もどこか弱々しく感じる。
「……そりゃまぁ、いくら何でも電車がなくなれば部屋に入れてくれるだろう、という打算はなくもなかったんですけどね」
「ドラマか何かの見すぎだ。独り暮らしの若い男の部屋をいきなり訪ねて、上げてもらえると思うな」
「はぁ……据え膳を置く場所ぐらい空けておいてくださいよ」
カツン、とブーティのヒールを軽くコンクリに打ち付ける彼女。
すらりと伸びた素足を見せつけるように。
ギリギリ都会の端っこにある街の、安っぽいワンルームマンション。辺りを見渡しても、ここより高い位置にあるのは月だけしかない。高層と言えば聞こえはいいが、要は土地が狭いぶんを階数で稼いでいるだけだ。
「据え膳なら必ず食べてもらえるってわけじゃないんだけど。好き嫌いってもんもあるんだし」
「……ひどいなぁ、傷つきますよ」
言葉とは裏腹に、さほど傷ついてもなさそうな軽い調子で彼女はそう言い、僕の顔を覗き込んだ。からかうような笑みの端から尖った八重歯がこぼれる。
――この子は、こんな顔で笑う子だったっけ。
* * *
ヴァーニー症候群――正式にはややこしい英数字の名前がついているが、世間では俗にそう呼ばれている。
吸血嗜好。日光アレルギー。老化の抑制。犬歯の発達。肌や皮膚の色素減少。その他、体質の変化。
その症状は、いわゆる“吸血鬼”の伝承に出てくるものとそっくりだった。
世界のあちこちで万単位の発症者が確認されるようになれば、もはや疑う余地はなかった。
この特殊な病ははるか昔から地球上に存在し、それが伝承の由来になったのだと。
ただ伝承とは異なるのは、噛まれたり血を吸われたりすることで発症することはないということ。
そもそも伝染性もなく、粘膜感染も空気感染もしないということは、早い段階で医学的にも証明された。
どうやらある種の遺伝子が関係しているらしいが、この現代においてなぜ発症者が多数出現しはじめたのかは、不明のままだった。
「――何ですか? 見てくれるのは嬉しいですけど。どこか変なとこでも?」
「いや……色が白いな、と思って」
「そりゃまぁ、UVケア以前に、お日様の下に出れないですからね。せっかくの夏休みもヒマで仕方なかったです。先輩も遊んでくれないし」
そして彼女は、正面からじっと僕の目を見つめる。あけすけで無防備なその視線の奥は、僕を誘うように潤んでいる。
「わかります? 瞳もちょっと赤く変わってるんですよ。わたしたち日本人の場合、ほとんど目立ちませんけどね」
明るい陽光の下でならわかるかもしれないが、それは無理な話だ。
それから彼女は、唇に指を押し当て、尖った歯を僕に見せつけてくる。
「声ってね、微妙な歯の噛み合わせや共鳴具合で変わるんですよ。カラオケとか行けばもっとよくわかりますよ。部屋に入れてくれないならもうカラオケでいいです。行きましょう」
「そう言われても、お前の歌なんか聞いたことあったっけ」
そう言うと、彼女は冷めたような無表情になった。彼女がちょっとムッとしたときにする顔だ。
「前に飲み会の二次会で行ったとき、一緒の部屋だったじゃないですか」
「そうだっけ……? おぼえてない」
そう答えると、彼女は不服そうな顔をしたまま、僕のほうへ半歩だけ距離を詰めた。
「……まぁ、カラオケじゃなくったって、どこでもいいです」
月を見上げるふりをして視線をそらそうとする僕のシャツの襟元をそっと引っ張って、彼女は強引に視線を自分のほうへと戻させる。
「先輩と一緒なら、ファミレスでも、ネカフェでも、どこでも。もちろん、ホテルのベッドの中でも。……わたしの“門限”は夜が明けるまで。秋の夜は、長いですよ?」
※ ※ ※
彼女と初めて出会ったのはサークルの飲み会だ。
ショートカットのせいで、耳元の複数のピアスや、黒いチョーカーを余計に目立たせていた。
(新入生の中ではいちばん可愛いと思うけど……男受けしないタイプだな)
案の定、サークルの男たちは早々に、ふわっとした雰囲気で丸っこい肩を露出した子や、長い黒髪の清楚そうな子のほうにばかり話しかけるようになった。
僕はと言えば、注文したタケノコのバター焼きが思いのほか美味しかったので、付き合いで頼んだ二杯目のウーロンハイを片手にちびちびとつまんでいた。
ひとりぶん挟んだ隣で、手持無沙汰そうにしていた彼女は、小ぶりでお洒落な黒いリュックの口を開け、その中に入っていた文庫本の背表紙にチラチラ目をやっていた。
「――そんなに続きが気になるんなら、読めばいいのに」
彼女はチラリと横目で僕の方を見て――今となっては想像もできないほど不愛想な調子で答えた。
「そこまで空気読めない女じゃないですよ」
それならまぁ、先輩として場をもたせる手伝いをしてやるかと、僕は話を振ってみた。
「なに読んでんの?」
「南町操の『潜る獣』です」
「ふーん、知らないな。どんな話?」
「えっと……たぶんあんまりネタバレしないほうが良さそうな話なんですけど、女子大生の主人公が――」
僕は箸を止めて、しばらく彼女の説明を聞いていた。話終わったあと、彼女はこう言った。
「……やっぱり先輩、変わってますね。なんか大学の男の人って、本の話をすると知ったかぶってマウント取ろうとしてきたり、自分の好きなジャンルの話を押し付けてくるような人ばっかりなのに」
それはちょっと自意識過剰じゃないかと思ったが、言わずにおいた。
「そうかな。自分が普段読まないような本について教えてもらえるのは、僕はありがたいけどね」
「……じゃあ、読み終わったら貸しましょうか」
彼女はそこで初めて笑顔を見せた。冷たくツンと澄ましたような無表情が、笑うと目が細くなって、途端に子供のような無邪気な顔になる。
いつもそうやってにこやかにしていればいいのに、と僕は思う。余計なお世話だろうけど。
「いや、いいよ。本は自分のペースで読みたいから」
このやり取りのせいで、僕は彼女の中で少し特別な位置付けの先輩になったようだった。
そこからここまでグイグイと好意を向けてくるようになるまでには他にも色々あったのだが――「あれが先輩に折られたフラグの最初の1本目でしたよね」と、後になって彼女は苦笑しながら言った。
※ ※ ※
「ファミレスじゃ、お前が困るんじゃないか」
「あ……そうでした。ドラッグストアで血液パックが買えるようになったのはありがたいですけど、さすがにそのへんのファミレスや居酒屋じゃ、そこまで配慮してくれませんよね」
その存在は広く知られるようになったとは言え、彼女のような“吸血鬼”はまだ国内人口の1%にも満たない。
彼女は、僕の首筋に目をやって、いたずらっぽく言った。
「心配しなくても、血を吸うために噛みついたりはしませんから。そんなやり方じゃ、そうそう飲めるものじゃないですし」
どう反応していいのか困る話題を、彼女は明るく笑いながら話す。
「吸血鬼の映画とかで、血を吸われた人が一瞬で干からびて死んじゃったりするじゃないですか? でも人間の失血の致死量って、体型にもよりますけど1~2リットルでしょ。大ジョッキどころか大きなペットボトル一気飲みするみたいなものですよ? 飲む方だってキツいですよ、そんなの」
僕の表情を見て、彼女は笑顔から少し――試すような、探るような、そんな感じの表情になって僕に尋ねた。
「“発症”する前と比べて……わたし、そんなに変わりました?」
「そりゃまぁ……服装とかもなんか変わったし」
今日の彼女は、ゆったりしたパーカーの下はタイトミニと、胸元が大きく開いたタンクトップという格好だ。
「それは先輩のせいです。ちょっとでも先輩の趣味に合わせようと、わたしなりに頑張ってるんですよ」
そう言って、彼女は大仰にため息をついた。
「あ、でもこの季節じゃちょっと寒そうですか? わたし、体温低くなってるから、よくわからなくて。ほら、触ってみます?」
彼女はそう言いながら、僕の手を掴んでくる。その言葉どおり、彼女の指先は秋の夜風の中でも殊更にひんやりとして感じられた。
そのまま彼女は、僕の手を自分の頬へと持っていこうとする。
「鏡に映らなくなっちゃったから、メイクとかちょっと面倒なんですけどね」
「じゃあ、どうやってんの?」
答えつつ、僕はさりげなく、彼女の頬に触れる寸前で手を引っ込める。
「……そういうとこには食い付くんですね」
また不服そうな顔になりつつ、彼女は続けた。
「デジタル化した映像に特殊なフィルタかけると見えるようになるんですよ。なので、そういう吸血鬼用のスマホアプリが出てます。だから自撮りでツーショだって問題なく撮れちゃいますよ。記念に撮っていいですか?」
僕は静かに首を横に振った。
「……やっぱりお前、変わったよ」
あくまで明るく、ずっと僕を見つめていた彼女が、初めて少し目を伏せた。
「吸血鬼になって変わったとしたら……それは、気持ちの踏ん切りが付いたからです」
頭上で月に雲がかかったのか、コンクリートに伸びる影が闇に覆われて消えた。
「こんな身体になっちゃって、気持ち悪いって嫌われるなら、いっそ諦められると思った」
「お前が吸血鬼でも、そうでなくっても、
伏せた彼女の瞳の端で、一瞬だけ赤い光が煌めいたように見えた。
「うん、先輩はそういう人。わたしがどんなでも、気味悪がったり避けたりはしない。――でも」
指先で目元をぬぐい、彼女は顔を上げ、いつかのような無邪気な笑みを浮かべて僕を見つめる。
「――でも、わたしのことは好きになってはくれないんですよね」
わずかでも、残酷な期待を抱かせてしまってはいけない。だから僕は冷たく振る舞う。
秋が終われば冬が来る。時間が夏に逆戻りしたりすることは、決してない。
うなずくのが彼女のためだ。けれども、それでも彼女の気持ちは変わらないのだろう。僕にはそれがよくわかっていた。
……僕も、同じだから。
「映画の吸血鬼みたいに、先輩の首筋に噛みついて、わたしのものに出来たらいいのにな」
そんな伝承が生まれた理由も、今ならわかる。
夜にふたりきり、首筋に歯を立てることが出来るような関係なんて――それはもう、その時点で魅了されているも同然じゃないか。
僕はそっと、自分の首筋に残る見えない痕に指先で触れる。そして心の中で、彼女に対して謝罪にならない謝罪をする。
彼女が向ける好意に僕が応えることはない。
――僕の心は、すでに彼女以外の女性に魅了されてしまっているからだ。
恋を唄う虫の声だけが、僕と彼女を包んでいた。
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