林檎
真和里
林檎
むかしむかし、あるところに美しいお姫様がいました。
雪のように白い肌。絹のように艶やかな黒髪。
深紅の唇で紡ぐ歌は透き通るように響き渡り、歌を聞いた森の動物たちは思わず踊りだしてしまいます。
心優しく美しいお姫様は、みんなから白雪姫と呼ばれました。
これが昔のドイツにいたと言われるお姫様の話。ここからは現代の日本にいるお姫様と王子様の話。
二つとなりのお家には小さなおひめさまが住んでいる。
ぼくより五さい年下の女の子。
肩まで届くストレートの黒がみにはお気に入りのカチューシャをつけ、すその広がったピンク色のワンピースを着ている。
「まきくん、まきくん」
ぼくの名前をよびながら、たったったと女の子がよってくる。
「えほん、よんで」
両うでをまっすぐ伸ばし、小さな両手でにぎった絵本をぼくの顔の前につき出す。絵本からはみ出した彼女の目は、読んで読んでと言っている。
「いいよ」
ぼくは差し出された絵本を受け取った。絵本のタイトルは『しらゆきひめ』。
おひめさま、ゆきのちゃんはあぐらをかいて座っていたぼくのひざの上に体をすべりこませてきた。
二周り以上小さな体をすっぽり包み込む。ぼくに包まれて落ち着いたゆきのちゃんは、ぼくの胸に頭と背中を預けて、まるでいすに座っているみたいにリラックスしている。
読み始めて、と上目づかいをしてくる。いつもの合図だった。
ぼくはゆきのちゃんの目の前に絵本を広げ、動かないように両はしを手でささえた。
ゆきのちゃんもぼくのまねをして、ぼくの手に自分の手を重ねる。
ぼくの手のひらに収まる大きさしかないゆきのちゃんの手は、小さい子らしい丸みがある。日焼けをしらない白いはだはふわふわしていて、小学校の体育や放課後に友達と遊ぶときに日焼けた自分とは大違いだった。
ゆきのちゃんは毎週、お母さんといっしょにぼくの家に遊びに来る。おばさんがぼくのお母さんとおしゃべりをしているあいだ、ぼくはゆきのちゃんと遊ぶ。絵本の読み聞かせは定番の遊びだった。
ゆきのちゃんが持ってくる絵本は、いつもプリンセスが主人公のものばかり。小四のぼくに、『シンデレラ』や『にんぎょひめ』の女の子向けの内容はすこしはずかしい。
でもゆきのちゃんが楽しそうに聞いてくれるから、全力で絵本を読んであげる。
「かがみよ、かがみ。せかいでい〜ちばん、うつくしいのはだぁれ」
ゆきのちゃんはプリンセスの中でも特にしらゆきひめが好きなようで、この絵本も何回も読んでいる。もう絵本を見なくてもこの後の話は覚えている。
しらゆきひめの美しさにしっとしたおうひさまは、まほうでおばあさんに変身し、しらゆきひめにどくりんごを食べさせる。どくりんごでねむったしらゆきひめに一目ぼれした王子さまがしらゆきひめにキスをすることで、ねむりのまほうがとける。
「しらゆきひめは、おうじさまとしあわせにくらしました。めでたしめでたし」
『しらゆきひめ』を閉じる。
絵本を読み終わると、ゆきのちゃんはぼくのもとからはなれてつみきの入った箱を持ってきた。次はつみき遊びの時間だ。
つみきでお城が出来て一息ついたとき、かべにかかったカレンダーが目にとまった。
「そういえば来月はゆきのちゃんのおたんじょうびだね」
「ゆきの、ごさいになるの」
五本のゆびをめいいっぱい広げて強調された小さな手が目の前におかれる。
「もう五才?ゆきのちゃんお姉さんだね」
「んふふ」
ゆきのちゃんはほこらしそうにむねをはる。「お姉さん」と言われたことによろこんでいるようだ。
「今年はどんなケーキだろうね」
おばさんはおかし作りが得意で、よくクッキーやカップケーキを作る。遊びに来るときに持ってきてくれて、ぼくも食べたことがある。おばさんはゆきのちゃんのたんじょうびケーキも毎年手作りしていた。
「ママに、くだものいっぱいいれてっていったの」
ゆきのちゃんはフルーツが好きでよく食べている。
「何を入れてもらうの」
「モモと、イチゴと、キウイと、リンゴ!」
好きなフルーツをひとつひとつゆびを折って数えている。
「ブルーベリーは?」
「いる!」
ゆきのちゃんが勢いよく飛びはねる。つみきタワーの一部がくずれた。
「種類が多すぎて、ケーキからこぼれちゃうかもね」
ゆきのちゃんの頭をやさしくなでる。うれしそうに笑ってくれた。
ゆきのちゃんのおたんじょうび会には、ゆきのちゃんの家族とぼくの家族がさんかした。
会場のゆきのちゃんのお家に行くと、ひらひらのスカートをはいたゆきのちゃんが待っていた。
おばさんの手作りケーキは今年もすごくて、ゆきのちゃんのリクエスト通り、モモにイチゴ、キウイ、リンゴ、バナナやマスカットまで、想像よりも多くのフルーツがのったフルーツタルトだった。
おばさんがホールのタルトを切り分けた。横から見ると、一番下が茶色、その上にベージュ、その上に白、一番上にカラフルなフルーツの層が重なっていた。
食べるとサクサクのタルトとふわふわしたクリームと甘いフルーツが合わさって、お店のケーキみたいにおいしかった。
となりにいたゆきのちゃんはケーキをほおばって食べていた。
幸せそうなゆきのちゃんをもっと見たくて、ぼくは自分のケーキの上のリンゴをゆきのちゃんのお皿にうつす。
「あげる」
お皿にのったリンゴをゆきのちゃんはフォークでさして口に運んだ。
ケーキを食べ終えて、お母さんとお父さんはおばさんとおじさんとおしゃべりをしていた。
ぼくはゆきのちゃんと遊んでいた。いつものように「しらゆきひめ」の読み聞かせをする。
「まきくん、あのね」
急にゆきのちゃんがぼくの体にだきついて、耳元に小声でささやく。ぼくもまねをして小さな耳に片手をそえて小声で話す。
「なに?」
「しょうらいゆきのはね、しらゆきひめみたいなおひめさまになって、まきくんとけっこんして、いっしょにおしろにすむの」
とつぜんのプロポーズにおどろいた。
ゆきのちゃんの顔を見ると、まっすぐな目線がおくられる。ゆきのちゃんはふざけてない。ただただまっすぐだった。
ぼくもゆきのちゃんのことは好きだった。でもその「好き」はクラスの女子に向けるようなものとは違って、ぼくはゆきのちゃんを妹のように思っていた。
だから本気にはしていなかった。でもかわいがっている女の子に好きと言われるのはうれしかった。
ぼくのことを好きといってくれるの女の子はゆきのちゃんだけだ。
「ぼくもゆきのちゃんに似合うかっこいい男になれるようにがんばるね」
返事にならない言葉でごまかした。
「まきくんはいつもかっこいいよ、ゆきののおーじさまだもん」
小さくかわいいおひめさまは、むじゃきにぼくを王子さまにしてくれる。
二年後、ゆきのちゃんは小学生になった。
僕と同じ近所の小学校に通う。
来週の入学式が待ちきれないようで、赤色のランドセルを背負って嬉しそうに飛び跳ねている。
昨日届いたばっかりのランドセルを早く僕に見せたかったらしく、ゆきのちゃんのお家に来ていた。ピカピカのランドセルは今のゆきのちゃんの体には大きかったけど、僕も五年前は同じだった。
「赤いランドセル似合ってるよ」
「リンゴだよ」
「りんご?」
何のことか分からなくておうむ返しする。
ゆきのちゃんはピンときていない僕にムスッとして頬を膨らませる。
「ゆきののランドセルはあかいろじゃなくてリンゴいろなの」
僕はゆきのちゃんの背負っているランドセルをもう一度よく見る。
濃い赤色はリンゴの色と言われればリンゴぽく見えるけど、赤色にしか見えなかった。
なんと言っていいか分からなくて、目をランドセルから下側に逸らす。
急にキラッとした光が目に入った。それはランドセルのびょうの両サイドにがししゅうされた花だった。よく見たらランドセルの側面にも同じししゅうがあった。小さな白い花がつたに沿って散りばめられていた。
「かわいい模様だね」
「ゆきのがえらんだの、かわいいでしょ」
「うん、すごくかわいい」
ゆきのちゃんはんふふと笑う。
僕とゆきのちゃんは本当の兄妹のように、毎日一緒に学校へ行った。
週末は変わらずお互いの家に行って、一緒に遊んだ。
小学生になったゆきのちゃんから絵本の読み聞かせを頼んでくることはなくなった。
でも将来はしらゆきひめになりたいとは言っていた。
それを聞いていた小六の僕は、ゆきのちゃんが本当のプリンセスになれないことは気が付いていた。でもプリンセスのような素敵な人になれるように応援していた。
僕は中学生になった。
中学で始まった部活や友達と遊びに行くことが増えたが、去年まで程ではないけれど優希乃ちゃんと過ごす習慣は変わらなかった。
一緒にゲームしたり、僕が勉強を教えたり、ただ雑談したり。優希乃ちゃんと一緒に居ると友達にはない居心地が良さがあって、なんでも話すことができた。相変わらず兄妹のような関係だった。
居心地の良さに浸っていたら、いつの間にか三年が過ぎていた。
あっという間に僕は中学を卒業して高校生になり、優希乃ちゃんは小学五年生になった。
高校生になっても僕は優希乃ちゃんと会っていた。一緒にゲームをして、僕が高校の話をして、優希乃ちゃんが小学校の話をして、ゲームして、たまに愚痴って、勉強を教えて、雑談する。
ずっと変わらない関係とは別に、優希乃ちゃんは見るたびに大人っぽくなっていた。
身長はぐんぐん伸びて、新しい洋服を着ていることが増えた。丸かった顔もシュッと細くなった。
小さいときの白さはないけど健康的な色の肌。髪の根元は変わらず黒いままだけど、毛先は習い事で始めた水泳の影響で色が落ちて茶色になっていた。
そういえば優希乃ちゃんから白雪姫になりたいと聞かなくなった。
気づいても何も言わないようにした。わざわざ言うことでもないと思ったから言わなかった。
春になると優希乃ちゃんは目を擦ったり鼻をかんでいることが多かった。
「どうしたの」
「かふんしょう」
「つらいね」
「まきくんはかふんしょうじゃないの?」
「僕は花粉症じゃないな」
「いいなぁ」
数年前から春になると鼻水が止まらなくて、目と喉が痒くなって辛いらしい。病院に行って飲み薬や目薬を貰って、症状を抑えられているそうだ。
僕の家族には花粉症の人はいないけれど、周りの友達には花粉症の人が多くて、今年も始まったって唸っていたのを思い出す。
優希乃ちゃんが中学生になった。学校は僕も通っていた近所の公立中学。
紺色の制服に身を包んだ優希乃ちゃんは、成長を見越した大きいサイズの制服に着せられていた。
「スカート長すぎない?」
中学は昔ながらの習慣に倣って、スカートは膝丈という校則があった。
鏡に映った姿を見ながら不服そうに、裾が膝上になるようにスカートを持ち上げる優希乃ちゃん。理想はここだったと言わんばかりだ。
「大丈夫」
優希乃ちゃんの頭に手を置く。
「似合ってるよ」
ちょっと大きいけど。思ったけど言葉にはしなかった。
代わりに頭を撫でると嬉しそうにする。機嫌は治ったようだ。
数年前まで通っていた母校の制服は見慣れているはずなのに、優希乃ちゃんが着ているというだけで特別に見えた。
真新しい紺のブレザーからはみ出る真っ白のシャツの上に学年カラーのリボンが目立つ。
紺無地のスカートに濃紺のハイソックス、ピカピカのローファーと、まだ何も入っていなくてぺちゃんこなナイロンのスクールバック。
少し前までランドセルを背負っていた女の子は少し大人になった。
休日にいつものように優希乃ちゃんの家を訪ねた。
一通り対戦ゲームをした後、優希乃ちゃんがぼそりとつぶやいた。
「林檎になら殺されてもいいな」
小さな声はゲームで燃え尽き、静まり返った部屋のなかではクリアに聞こえた。
文章を理解できなかった僕は素直に聞き返す。
「林檎に殺されるってどういう状況?」
頭の中で手足と顔が生えた大量の林檎が襲ってくる状況をイメージした。自分の想像に恐怖を覚え、身震いする。普通に怖い。
「もし殺されるなら好きなもので死にたい」
林檎が好きだから、好きな林檎に殺されてもいい。優希乃ちゃんは独特な感性で林檎が好きだと言った。
昔からフルーツが大好きで、よく一緒に食べたことを思い出す。
誕生日ケーキの具沢山のフルーツタルトを頬張った思い出もある。
「何かあった?」と聞いたら「別に」と言われた。
「学校は楽しい?」と聞いたら「別に」と言われた。
中学生といえば僕も反抗期が始まった時期だった。
学校に行くのが面倒くさい、授業がつまらない、宿題だるい。
僕はクラスの中心にいるような生徒じゃなく端にいるタイプだった。真ん中で騒いでいるクラスメイトが目障りに感じたこともあった。
優希乃ちゃんも思春期で、理由もなく鬱陶しく感じる時期なのかもしれない。
後追いするのはうざいだろうからそっとしておくことにした。優希乃ちゃんも何も言わなかった。
その後も話題に出すことなく、いつも通り雑談をしてその日は終わった。
玄関で「じゃあね」と言って扉をくぐる時、「バイバイ」と笑顔で手を振って見送ってくれた。
ある朝、高校へ行くために家の玄関を開けると、たまたま二つ隣の扉も開いた。
中から出てきたのは優希乃ちゃんだった。制服を着てスクバ肩にかけて、学校に行くところらしい。
僕の高校へ行く時間が早まったことがきっかけで、登校時間が被るのは久しぶりだった。
優希乃ちゃんも僕に気がついて近づいてくる。手を振って挨拶をすると優希乃ちゃんも手を振って挨拶をしてくれた。
僕は自分の口元を指差す。
「優希乃ちゃん、風邪ひいたの?」
優希乃ちゃんは僕のジェスチャーからマスクのことだと察してくれた。
「風邪じゃなくて花粉症」
そういえば優希乃ちゃんは小学生の頃から花粉症の症状があった。ティッシュと薬が手放せないと言っていたけれど、今でもそうなのかな。
自分に花粉症の症状が出ないから気にしたことがなく、話題に出すこともなかった。
「そっか、大変だね」
頭を撫でてあげる。いつもの癖がでた。
「今日は比較的マシだから大丈夫」
「それならよかった」
頭から手を離し、少し乱れた髪を手櫛で整えてあげる。
「学校頑張ってね」
中学校の方へ歩いていく優希乃ちゃんの後姿を見送り、僕も高校へ向かった。
進級すると同時に受験生になり、休日は塾で消えたので優希乃ちゃんと会えない期間が続いた。
トークアプリでは頻繁に連絡を取り合っていた。内容はいつもと変わらないくだらないお喋りだった。
毎日何気ないやり取りを変わらず続けた。
だから優希乃ちゃんが不登校になったと聞いてびっくりした。母さんが教えてくれた。理由を聞いたけど知らないと言われた。
僕はなんて言ったらいいか分からなくて、優希乃ちゃんに聞けなかった。
その日も優希乃ちゃんから変わらないメッセージが届いて、もっと聞けなかった。
僕はもやもやしたまま見て見ぬふりをして優希乃ちゃんに接し続けた。
優希乃ちゃんに不登校になった理由を聞けないまま僕の大学受験が終わった。
なんとか無事に合格でき、春から大学生になる。
春休みになり、家でダラダラしていた僕を見かねた母さんから優希乃ちゃんの家にお土産を渡しに行くおつかいを頼まれた。
訪ねるとおばさんが出迎えてくれた。家にはおばさんしか居ないようだった。
おばさんは僕のことを昔から可愛がってくれて家に招き入れてくれる。お土産を渡すだけのつもりだったけどお茶をしていくことになった。
優希乃ちゃんの家に来たのは一年ぶりだった。
リビングで向き合ってお茶と紅茶をもらう。
高校の話や受験の話を一通り聞かれたあと、僕も気になっていた優希乃ちゃんのことを聞いてみた。
「なんで優希乃ちゃんは不登校になっちゃったんですか」
「本人が行きたくないっていうのよ」
おばさんはティーカップをスプーンでクルクルかき混ぜる。
「病気とか虐めとかじゃないから安心して。学校に行くことが嫌になっちゃったのね」
おばさんは優希乃ちゃんが学校に行かないことを深刻には思っていなさそうだった。
「ただねぇ」
おばさんは頬に手をあてて、ため息をつく。
「学校に行かなくてもいいんだけど、ずっとお家にいるのは少し心配なの。お家から出れない理由も分かってはいるんだけどね」
不登校の子が健康だけど家から出れない理由、外で学校の知り合いに会うと気まずくなるしか思いつかなかった。
ガチャと玄関の扉が開く音がした。
リビングに優希乃ちゃんがやってきた。今帰ってきたのは優希乃ちゃんだった。
優希乃ちゃんは僕を見て驚いた顔をしていた。
「久しぶり」
アプリで会話してたし、大学合格の報告も済ませていた。
でも顔を合わせたのは一年ぶりだったので、謎の感動があった。
「ゲームする?」
優希乃ちゃんの提案に即答して部屋に移動する。
モニターの前に横並びで座って、いつもの対戦ゲームをする。
「さっきまでどこ行ってたの?」
ゲーム中のなんでもない会話を装った。
「病院」
「どこか悪いの?」
「アレルギーの薬もらってきただけだよ」
優希乃ちゃんが切れちゃったからね、と付け足した。
「花粉症?」
「そうそう」
話しが終わり、話し声が止まる。静かになった部屋にゲーム音とカチャカチャとコントローラーの音が残る。
「なんで学校行かなくなったの」
勇気を出して聞いた。できるだけさりげない感じで聞いた。カチャカチャ。
優希乃ちゃんは変わら指を動かす。
カチャカチャ。
「アレルギーだよ」
「へぇ?」
予想外の答えに変な声が出た。優希乃ちゃんはクスッと笑った。
「私が学校に行かない理由はアレルギーの症状がひどいからだよ、
哀し気な表情をした優希乃ちゃんに見つめられて、見つめ返すしかできなかった。ゲーム音だけが耳に入る。
「花粉にハウスダスト、食べ物もいくつか。犬、猫もあったかな。私のアレルギー」
何てことなさそうに優希乃ちゃんは指折り数える。
花粉症以外はどれも初耳だった。
「家から学校へ行くまでの短い時間、外に出ただけでも鼻水が出るからポケットティッシュとマスクが欠かせない。何回も鼻かんでるっていいイメージないよね。不潔って思われそう」
毎日ポケットティッシュを持ち歩いていたことを思い出す。
「外出ると目も痒くなっちゃうんだよね。目薬って点眼回数決まってるから何回もできないし」
愚痴る時みたいにスルスルと優希乃ちゃんは話し続ける。
「給食も辛いな。中学生になってから食べれないものが増えちゃって、美味しそうなのに食べれなくて残しちゃうとか普通にある。あと食べれないものが多くてお昼の量が足りないとかね」
中学の給食の献立は一種類しか用意してくれない。全校生徒が給食を食べる学校だったから、給食が食べれないなんて考えたこともなかった。
「だから特例でお弁当にしてもらったんだけど担任はめんどくさそうにするし、クラスメイトは好きなの食べれていいなぁって言ってくるんだ。無神経だよね」
素直な意見は人によっては無邪気で、人によっては無遠慮に映る。
「万樹くんはどれか一つでも経験したことがある?」
ない。どれも、少しも感じた事はなかった。
「別に虐められたわけじゃないんだ。でも毎日のそういう積み重ねがすごいストレスで、面倒くさくて、学校に行くことが嫌になっちゃった」
優希乃ちゃんはモニターに向けたリモコンの赤いボタンを押す。さっきまでBGMになっていたゲーム音が消えた。
「今日はもういいか。帰って」
無表情で部屋の扉を指さす優希乃ちゃん。もう全部話すことはないといった態度だった。
僕は納得いかなかった。小さい頃からずっと一緒に居たのに。兄妹みたいに仲が良かったのに。隠し事されていたのが悔しかった。
「なんで僕に言ってくれなかったの」
「万樹くんにまで気を使われたくなかった。アレルギーの症状が酷くなってから、みんな私を異常者みたいにする。外に行けない、ご飯が食べれない可哀そうな子」
「そんなこと気にしなくていい、よ」
なんて声をかけていいか分からなくて語尾が弱々しくなる。
何を言っても共感できない僕は同情になってしまう気がした。
「私、普通の林檎も食べられなくなっちゃった。だから今の私は毒林檎じゃなくても死んじゃうかも」
あの時、僕が無視した言葉を思い出す。林檎になら殺されてもいいな。
あれは比喩でもファンタジーでもなくて、言葉通り林檎が原因で死んじゃうかもしれないという意味だったと今更のように知る。
「今でも白雪姫になりたいって思ってるよ、昔みたいに純粋じゃないけどね。今の私には助けてくれる王子様は要らないから」
挑発するように口角を上げて、皮肉を込める。初めて見る顔だった。
「万樹くんもういいでしょ、帰って」
まだ話をしたかったのに強制的に帰らされることになった。
追い出されてから数日間、ずっと優希乃ちゃんのことを考えていた。
僕はアレルギーを知らな過ぎた。それは自分自身にはアレルギーがなく、関心がなかったからかもしれない。
アレルギーについて調べた。webサイト記事をいくつも読んだ。
そもそもアレルギーは免疫の一種らしい。元々は体を守る機能だったのに今は体を苦しめている。
優希乃ちゃんが小学生の頃から苦しんでいた花粉症は二人に一人の確率で発症するらしい。決して珍しくないらしい。
さらに調べていくと、花粉症が原因で食物アレルギーが発症するとあった。
アレルギーの原因物質が似ていると勘違いして反応しちゃうらしい。例にはトマトやセロリの野菜とモモや林檎などのフルーツがあった。
きっと優希乃ちゃんが林檎を食べられなくなったのは花粉症が原因だ。
対処方法にアレルギー源をあえて体内に入れて慣らすワクチンのような方法があったが、数年間行う必要があるらしく、副作用も怖いので調べるのをやめた。
こういう医療的な解決方法じゃなくて、僕が優希乃ちゃんしてあげられることがほしかった。
『私は林檎になら殺されてもいいな』
優希乃ちゃんの言葉がフラッシュバックする。
あの時は優希乃ちゃんがアレルギーを持っていて、林檎が食べれないことを知らなかった。今の僕は、毒なんか塗らなくても普通の林檎が優希乃ちゃんにとって危ないと知っている。
『白雪姫になりたい』
僕は決意を固めて優希乃ちゃんに会いに行った。
優希乃ちゃんは何もなかったように、いつも通りの態度だった。
「僕なりに優希乃ちゃんのアレルギーについて考えたんだ」
すぐに本題を切り出した。
「余計なお世話なんだけど」
呆れや、ウザいという感情を前面に出している。優希乃ちゃんからの好意的な態度に慣れていたから、明らかに嫌悪を向けられるのは傷つく、けど気が付かれないようにする。
優希乃ちゃんの中では前回でこの話は終わったつもりなのかもしれないけれど、僕の方は言いたいことがある。
「アレルギーは優希乃ちゃんの体を守ってくれるものだから、悪いことじゃない」
優希乃ちゃんもアレルギーは体質で、仕方のないことは分かってる。それでもアレルギーの症状が鬱陶しくて嫌いになる。
「でも」
僕は覚悟を優希乃ちゃんに真っすぐ向ける。
「それで優希乃ちゃんが苦しむなら、僕が優希乃ちゃんの心を守ってあげる」
驚いた顔をした優希乃ちゃんと目が合う。
「優希乃ちゃんがアレルギーに悩む時間を減らしたい。僕は学校に行ってるとか鼻をかんでるとか気にしない。僕はこれまで通りにする、一緒にゲームして、お喋りして、愚痴も聞く」
優希乃ちゃんの『白雪姫になりたい』という言葉を思い出す。
昔はお姫様への純粋な憧れから言っていた。いつしか林檎が食べれない自虐の言葉になっていたのに、僕は気が付いてあげられなかった。
「わざわざ毒林檎なんて食べなくていい」
頭を撫でてあげる。
「白雪姫にならなくても、昔から優希乃ちゃんは僕のお姫様だから」
林檎 真和里 @Mawari-Hinata
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