私を殺したい人

よだみきはきみだよ

私を殺したい人

 その時、私は自分に何が起こっているのか全く理解出来ずにいた。さっきまであんなに笑いあって楽しかったデートの結末に、こんな恐ろしいことが待っていたなんて。


 今朝は、久しぶりに2人揃っての休日だったので、江の島までドライブに来た。2人とも海が好きで、時間があればドライブへ出掛け、のんびり海を眺めるのが唯一の楽しみだった。一緒には住んではいないけど、毎週末にはどちらかの家へ泊まりに行き、掃除や洗濯をして、一緒に買い物に行ったり食事に出掛けたり、新婚の共働きの夫婦のように過ごしていた。結婚していてもおかしくない付き合い方をしているけど、特に急ぐ必要も感じないので、いつかはこの人と結婚するだろうと思いながらも、まだ今は、このままで十分だった。

 今週末も、いつもと変わらない日程だった。ただ一つだけ違ったのは、ドライブの後の行動だった。今回は海の近くのモーテルに泊まろうと彼が計画を立てていた。私はいつもと違うシチュエーションに刺激を感じて、まるで小旅行みたい!とワクワクしていた。

 海辺のドライブの後、ネットで調べていたモーテルへ向かう途中に、テラスで海を眺めながら食事ができるレストランを見付けたので、入ってみた。家族連れのお客も多いリーズナブルなお店だった。彼はステーキセット、私は本日のおすすめパスタセットを注文した。彼はお肉が大好きで、「シンプルに焼くのが一番肉の旨味を引き出している」、と言って、トンカツやハンバーグよりはステーキ一辺倒だった。私は、麺類が大好きで、おそば、うどん、パスタ、ラーメンには目が無かった。特に和風味が好みなので、本日のおすすめが和風森林パスタという、きのこと野菜たっぷりのものだったので、それを注文した。どちらにも食前のミニサラダと食後の飲み物がついていて、ファミリーレストランのセットのようだった。お値段の割にはここのお店美味しいね、と二人とも気に入って満足していた。今日は車だから勧めないけど、勧めても彼は私の前では滅多に飲まない。私が飲まないからなのかが気になって、「私のことは気にしないで飲んでね。」と言っても、「特に好きなわけじゃないから良いんだよ。」と、家で食事をしていても、飲まないことが多かった。タバコも若い頃、面白半分で吸って、美味しいと思わなかったらしい。彼は見た目はパッとしないけれど、品行方正な好青年だ。日頃のお互いの会社の不満や、いつも話している変な上司の話で盛り上がりながら、二人は楽しく食事をした。食後のコーヒーも飲み終えて、お腹いっぱいになって車へ戻った。

 彼は、いつも私のことを気に掛けてくれて、私の方が仕事の帰りが遅いと会社まで車で迎えに来てくれたりする。食事の支払いはいつもお店では彼が支払うが、私が大抵車の中で、彼が支払った分の半分以上は「これ、今日の分ね。」と渡すようにしている。毎回のように彼は、「今日はいいよ。」と言ってくれるけれど、お金のことで揉めたくないので、帳尻が合うように支払うことにしている。結婚したらきっと、私がお金を預かって、彼にお小遣いを渡すようになるんだろうなぁ、足りないからもう少し欲しいとか、彼もきっと交渉したりするんだろうなぁ。彼が必要だと言う時には、すぐに渡せる用意をしていてあげよう、等と勝手に妄想していたら可笑しくなって、一人笑みを浮かべてしまった。彼に「どうしたの?」と言われたけれど、「何でもない、ちょっと思い出し笑いしたの。」と誤魔化した。結婚のけの字も二人の口に上ったことが無いのに、催促するような事はしたくなかった。この幸せを壊したくなかった。もし結婚を口にして別れる事になったら、と思うと、急に怖くなった。「あれ?結婚の話をしないのは、彼の方?私の方?」等とぼうっと考えているうちに車がモーテルに着いた。

 私はモーテルは初めてだったので、お互いの顔を全く見ないで部屋に入れるシステムになっている事にとても驚いた。「これじゃぁ、犯罪に使われちゃうんじゃないの?」とか、「いや、でも、防犯カメラとかで入退室はチェックしてるでしょ?」等要らぬ心配が頭をよぎった。

 部屋に入ると、食事もしたし、今日の宿も確保した安心感で眠くなった。お腹いっぱい食べた後の私はいつも「眠くなっちゃった。」と訴えるので、彼も「また、出た~。」といつものように言った。「もう、君はいつも食後は眠くなるんだからなぁ。」とちょっと非難した口調で言われた。「だって、お腹いっぱい食べると眠くなるんだもん。」と、私も口を尖らせて言い訳をした。「じゃぁ、お風呂の準備とか、コーヒーの準備とかしておくから、少し横になってていいよ。」と彼が言ってくれた。そういう優しいところが好きなんだよなぁ、と惚れ直して、彼の言葉に甘えることにした。「ありがとう、ちょっと寝るね。おやすみなさい。」

 一体、私はどの位眠っていたのだろう?何故そう思ったかというと、起きているはずなのに、真っ暗で1ミリ先も見えないからだ。時計を探したところで、真っ暗で見えないだろうし、その前に、何故私の手足はこんなに不自由なの?右手も左手も思うように動かない。それに足もだ。それと、この騒がしい耳障りな騒音は何?

この訳のわからない状態を理解する為に、今、こうなる前、眠る前に何をしたかを騒音でかき消される前に必死に思い出そうとした。この両手両足の不自由と真っ暗の理由は後ろ手に縛られているのと目隠しのせいだ。耳にはヘッドホンがかけられていて「運命」が大音響で「ジャジャジャジャーン」と流れている。私は思わず彼の名前を呼んだ。そして、今、自分が猿轡をされているのにやっと気付いた。

 え?何、これ猿轡?何で?強盗?彼は?彼も隣に居るの?

 私は力の限り彼の名前を何度も呼んだ。するとヘッドホンの片側を誰かが引いて、「そんな大声出さなくても聞こえるよ。」と静かな声で彼が言った。「え?何?これ何?」ヘッドホンは元に戻されて、また「運命」の大音響しか聞こえなくなった。でも、さっき聞こえたのは彼の声だったので、少し安心した。彼はいたずらをするタイプじゃないのに、こんなことをするのはすごく違和感を感じたが、さっきの恐怖は和らいだ。彼は何を企んでいるのかと考え、次の彼の行動を静かに待った。

 彼の次の行動は私の全く思いも付かない事だった。突然、首に強い痛みを感じた。ナイフでスッと切られたような鋭い痛みだった。それと同時にそこから何かが汗のように滴って私の左胸にポタポタと温かい雫が服を濡らしているように感じた。もしや、これは・・・。

「痛かったでしょ、ごめんね。ナイフで首を切ったから。でも、そんなには切ってないよ。だって、ざっくり切ったら血がシュパーっと出てすぐに死んじゃうでしょ。」また、ヘッドホンの片側をあげて、彼が耳元で囁いた。

「どうしてこんなことをするの?何がしたいの?何のために?どうして?」私は絶叫していた。

「・・・」

「何がしたいの?何の為に?」私は同じ意味の言葉を何度となく繰り返した。まるで言葉が途切れると爆弾が爆発するような気持ちだった。けれど、ナイフで首を切ったという報告の後は、彼は何も答えなかった。その間にもポタポタと落ちる雫は絶え間なく続いている。私はこの状況が呑み込めなくて焦っていた。そしてこれから自分がしなければならない事を迷っていた。「何?何なの?これは何なの?」と絶叫する反面、私がどちらかの道を選択しなければならない事を感じていた。首の痛みを感じてから彼は何も行動しない。何かを待っているようだ。その間にも首からと思われる滴が左胸にはポタポタと絶え間なく流れている。タイムリミットはもう近い。時間が無い。選択をする時間を無駄に使ってしまったんじゃないかと後悔もした。あぁ、ここまできてしまったからには、もうこの道を選ぶしか残っていなかった。「助けて!お願い!救急車を呼んで!死んじゃう!」私は心にも無いことを大声で、傍から見たら狂っているように言ってみた。さっきまで、「何で?どうして?」と「理由を教えて欲しい」と絶叫して乞うたのと同じテンションで、命乞いをした。いや、ここは動く事さえままならないという怠さを見せないといけないんじゃないか、と思い直して、今度はゆっくりと低い声で「このままだと出血多量で死んじゃう。救急車を呼んで。」と、ぐったりした様子でお願いしたりした。それと同時に、彼が私を殺そうと思っているのだとはっきり分かった事に愕然とした。今、私は殺される状況が怖いんじゃない。あんなに優しい人が、私に幸せの意味を教えてくれた彼が、私を殺そうと思っている事実こそが死ぬ程怖ろしかった。

 私の祈りは虚しく、彼は私の想像していた言葉を発した。「知ってる?人間って体重の1/3の血液を失うと死んじゃうんだって。君の周りはもう、血で真っ赤だよ。」そういえば、私は目隠しをされていたんだった。目は見えていないはずなのに、まるで血の海の中に居るかのように自分の周りは赤だと感じた。左胸に温かいポタポタは続いている。あぁ、もう駄目だ。もう限界だ。私は二つに一つの死ぬ方を選ぶしか方法が無いと覚悟を決めた。私は彼の言葉をきっかけに10秒数えた。そうして、深く息を吸い今まで出したことのないような大声で悲鳴を上げた。耳には大音響の「運命」が鳴り響いているし、猿轡をしていたので、彼にどんな風に私の声が伝わったのかはまるでわからない。私は息の続く限り声を発して、苦しくなって倒れた。

私は車の発進する音で目が覚めた。どの位の時間が経ったのだろう。気を失っていたのはせいぜい、2~3分、長くても5,6分程度だったと思う。人間、やれば気絶する事が出来るんだと自分でも感心した。このモーテルに一人取り残されていたが、大音量の運命は終了していて、ヘッドホンも無く、手足も縛られていなかった。 私はベッドの上に服を着たまま仰向けに手足を投げ出していた。そしてベッドは血の海ではなかった。ただ、お風呂上りにバスタオルを使わずに服を着たのか?と、思う程、ベッドと私自身はびしょびしょだった。もしも私が死んでいて、警察がきて死因を調べても、きっと心不全としか判断されなかったと思う。私は確かに手足を縛られてはいたけれど、直接ではなかったからだ。手首と足首はタオルを巻かれた上から縛られていたので、私の身体には全く縛られていた形跡は無かった。そして首筋をナイフで切られた跡も自分で見たってちょっと筋が見えるくらいで、死ぬほどの怪我はしてはいなかった。自分が検証しても何だったのかと思うのに、ましてや、他人が見たら全くわからないだろう。多分彼はあのテレビドラマを私が観ていないと確信していたんだと思う。実際は私が観ていたとも知らずに。


 あの日、私は彼と一緒に居た。その日封切されたアクション映画を二人で観に行った帰り、コンビニで食事やお酒を買ってラブホテルへ行った。そうすればお風呂も入れるし、食事の後片付けもしなくて良いので、次の日仕事が朝早い時等は、そういうパターンもあった。今日観た映画の評論やらダメ出しを言い合いながら夕食を食べた後、私が先にお風呂に入った。ちょうどテレビで「イカれたバディ」というはみ出し刑事が主役のドラマが始まる時間だった。案の定、彼はテレビに見入っていて、お風呂には来なかった。彼はそのドラマが好きでそのホテルにもその時間に間に合うように急いでいた。私は刑事ものはあまり好きではなかったので、ゆっくり一人でお風呂に入った。髪の毛も身体も洗って、ぬるめの温度でゆっくり湯船に浸かると、その浴室にはテレビが付いていたので、私も彼の好きな「イカれたバディ」を何となく観ていた。その回では、犯人が自分の恋人を縛り上げ、目隠しをして、猿轡をかませ、ヘッドホンで大音量をかけていた。そして首をナイフで切り、「人間は1/3の血液を失えば死ぬ」と告げていた。でも実際には首の傷はたいしたことはなく、血がにじむ位しか切っていない。でもぬるい温度のお湯をスポイトに含ませて、まるで今切った傷跡から血がしたたっているかのように、洋服の上から定期的にポタポタと垂らしていた。どんどん服が濡れていく度に恋人は震え上がり、自分の命のタイムリミットに怯え、命乞いをしていた。そして「もうきっと1/3以上流れちゃったね」という言葉を引き金に恋人は死に至ってしまう。猿轡や目隠しは勿論、手首足首を縛っているものはタオルの上から緩めにされていて、後など残らないようにしていた。そう、恋人は自分の身体から血が流れ出ている恐怖による思い込みの心臓発作で死んだ。その犯罪は昔、ヨーロッパで人は思い込みによって死ねるのか、という実験に基づいて練られた計画だと語られていた。その時、「へぇ~、そんなことで本当に死ぬのかなぁ、本当にそんな事件があったのか、ネットで調べてみよう。」と、その時は思っていた。そしてチャンネルをニュースに変えて観ていると、彼が浴室に入ってきた。だから私がその番組を観ていたとは思わなかったのだろう。でも観たかも知れないと、どうして思わなかったのか。私も、縛り上げられていた時に、あのテレビを観た事をどうしてすぐに言わなかったのか。でも彼の殺意を知ってしまったのなら、私を殺す事は出来なくなってもその殺意は無かったことにはできないだろうと思う。だから私は「あの時、あのテレビは観たから、こんなことをしても私は死なない!」と大声で叫ぶか、それとも死んだふりをするかという2択のうち、もう後の方しか残っていなかった。その場合、自分の死んだふりを見破られることはとても危険だ。見破られたら別の方法で再度殺される危険性があった。だから、彼の優しさと詰めの甘さに賭けることにした。きっと彼は、私が死んだふりをしても、生きているのか死んでいるのか脈を確認したりはしないだろうと賭けたのだ。ここからが一世一代の大勝負だ。賭けるからには勝たなくてはいけない。私は大声で悲鳴を上げて、猿轡や自分を縛っているものを外そうと大げさに身体を揺さぶった。興奮しているように見えるように必死に動いた。そして動きながら息を止めた。それこそ死ぬ程息を止めた。何分止めていただろうか。気がつくと身体を縛っていた紐や猿轡が外されていた。幸い、していたものを外された記憶がない事から、気絶していたらしい。

 私は急いで部屋を出る準備をした。車が去っていったという事は、もう部屋の鍵を返してチェックアウトをしているはず。ホテルの人が部屋に入る前に早くここから出たかった。別に私は何も悪いことはしていない。殺されかけた被害者だ。でも、どうしてもホテルの人には会いたくなかった。誰にも見られたくなかった。自分が殺されそうになったことを誰にも知られたくなかった。私はこれからどうしよう。でも、さっき「自分は殺されたことにする」と決心した時から、することはもう決まっていた。逃げなくちゃ。彼から、自分の人生の全てを捨てても逃げなくちゃ。もしも私が生きていることがわかったら、彼がどういう行動を起こすのかが何よりも怖かった。逃げたい。遠くへ逃げたい。彼のいる世界から逃げたい。


 どうやってここへ流れ着いたのかなんて、もう思い出したくもないし、思い出せなくなっていた。なぜ、彼が私を殺そうとしたのかは、いくら考えても全く分からない。だから、もう考えるのを諦めた。

 あれからどの位の歳月が流れたのか。初めのうちは彼から逃れたい一心で彼が絶対に訪れないような辺鄙な土地ばかりを転々とした気がする。追ってくる影なんて微塵も感じなかったけど、一つところに留まっていると、またいつ殺しに来るかもしれないという恐怖が私を追い立てた。そんな苦しい日々の長い長い時を経て、そのうち、私の心に変化が現れた。そうだ、殺される前に私が彼を殺してしまおう。もう恐怖に怯えるのはまっぴらだ。いつしか、私がこの世に生きる意味の全てが、彼を殺すことになっていった。

 彼を探さなくちゃ。私は逃げてきた道を反対方向へ歩き始めた。

道すがら、他の男性と一緒に暮らす事もあった。ひと時の安らぎを得ることもあった。それでも私の目的はただ一つ、彼を見つけ出して殺すこと。だから、彼以外の人と付き合ったとしても、頃合いを見計らって、その人の前から消えた。早く彼を探さなくては。

 私が生きる意味を見出してから、一体どの位の歳月が経ったのだろう。やはり苦しい道のりだった。生きるとは、このような辛い事ばかりならば生きている必要なんて無いとさえ思った。出口の見えない真っ暗闇をただ一筋の光を求めて歩いてきた。彼の気配だけを求めて。


 今日は久々に彼とドライブに出掛ける予定だ。彼も私もそれぞれの仕事が忙しいので、だいたい、土曜日にどちらかの家に行って、夕食を一緒に作るか、遅い時は外食にして、日曜日の夜まで一緒に過ごすパターンが多かった。彼と過ごす時間はいつの時も甘く幸せだった。

海の見える海岸沿いを車の窓を開けて走った。二人のお気に入りの音楽は会話が聞き取れるほどのボリュームで心地良い。目的地の海岸へ着くと、用意してきたマットを木陰に広げ、2人で今朝作ったサンドイッチを並べて、少し早いブランチにした。今日は春と夏の間のちょうど良い陽気らしい。木陰で風が吹いているので、気持ちよくて、彼はすぐに私の膝枕でまどろんだ。少し離れた海岸では、海に降りる階段に何人か座ってお弁当を食べていたが、とびが彼らの周りをクルクルまわって、食べているお弁当のおかずを狙っていた。しばらく見ていると、人間のほんのスキを突いて、見事にとびが獲物をゲットしていた。一瞬の出来事に、彼らは怖いというよりも、きゃっきゃと騒いで楽しそうだった。それも彼らには思い出の一つになるのかもしれないと思った。

 彼とは付き合って2年になる。私が勤めている会社に売り込みにやってくる仕入れ先の営業マンで、週に2~3回は顔を出すマメな人だ。初めは会社に来る度に軽く冗談を言い合える仲だった。そのうち、私の会社の他の女性と話している彼を見て、胸がチクッと痛んだ。「あ、私、この人の事好きなんだ」と、初めて自覚した。それ以来、多分、私の好意が顔にはっきり出ていたんだと思う。向こうも悪い気はしていないという感触で、自然に外で逢う約束をするようになった。

 彼も私も海が好きで、海を見ながらのんびり過ごすのが二人の最高の幸せだった。二人とも土日がお休みで、特に予定も無い時はどちらかの家で過ごした。夕食には何を食べたいのか食べさせたいのか、何を作りたいのか作らせたいのか二人で相談して決めるのが、食べること以上に楽しかった。二人とも話が脱線してなかなか結論にたどり着かないのが、かえって会話を終わらせたくない二人の気持ちの表れだった。お互いに真面目に働いていて、日中は仕事に集中して、四六時中彼の事を考えていたわけではないけど、それでも仕事が終わってからの時間、そして週末は、二人の時間を大切にしてきた。

 海を見にドライブに行き、朝二人で作ったサンドイッチをさっき食べたばかりなので、とても眠かった。ゆったりした時間の流れのまま、このモーテルまでやってきた。部屋に着くと、一安心してもっと眠くなったので、シャワーを浴びたかった。私はバスタブにお湯を張りに行った。彼も眠そうだったので、「今日はお泊りだから、ゆっくりできるね。少し寝ていたら?」と勧めた。彼はベッドの上でテレビを付けて、チャンネルを何度か変えていたが、すぐに静かな寝息が聞こえてきた。彼が眠りに就いたのを横目に私はシャワーを浴びるために浴室へ向かった。温いシャワーを浴びながら、今から自分が何をしなければならないのかを反芻した。

やっと長く重苦しく続いた日々が、今日で全て終わる。私はこの時をこの時だけをどれだけ待っていたことか。この日の為の作業手順はずっとずっと前から自分の中で何度も何度も繰り返してシミュレーションしてきた。縛る順番はとても重要だ。まず、眠っている彼を後ろ手で縛れるようにそっと横向きにした。前々から準備していたベルトを使う。そのベルトは縛った跡が手足になるべく残らないようにタオルを巻きつけてある。まず手を後ろ手に縛った。それからは彼が起きようと暴れようと構わなかった。すぐに足も縛り、口にもタオルを噛ませた。目隠しも全て、私が彼の顔を見ないように後ろ側から作業をした。そして最後に、頭が痛くなるほど重低音を響かせた曲が流れるヘッドホンをゆっくりと彼の耳にかけた。その間、彼は何かを言っていたが、私にはどうでも良いことだった。

 彼はしばらくもがいていたが、そのうち諦めたのか静かになった。私はベッドの上にうつぶせになっている彼をゆっくり仰向けにさせ、壁際に座らせた。そして彼の首筋にナイフの刃をペタっとつけてみた。彼は一瞬ビクっと体を震わせた。私はそのナイフの先端を首の奥に突き立てて、躊躇せずにそのまま力は入れずに素早く引いた。案の定、赤い線が首筋に一本ついて、そこからタラリと血が一滴垂れてきた。体温くらいのお湯を入れたスポイトから彼のお腹の上あたりに一定の間隔でポタポタと垂らした。彼の身体は滴が落ちたと同時にまたもやビクっと震えた。私はスポイトからお湯を垂らしながら、ヘッドホンの片側を持ち上げて、あの日の彼と全く同じ言葉を吐いた。

「痛かったでしょ、ごめんね。ナイフで首を切ったから。でも、そんなには切ってないよ。だって、ざっくり切ったら血がシュパーっと出てすぐに死んじゃうでしょ。」

「何で?何?これ?何してるの?」彼もまた、震えた声であの日の私と同じ言葉を吐いた。自分の声が聞こえないからか大声で叫んでいた。「そんなに大声を出さなくても聞こえるよ。」彼の片側のヘッドホンを外して、大音響に負けないような大きな声で伝えた。ヘッドホンを戻すと、私の胸に苦い痛みがじくじくと湧き上がった。自分は一体何をしているんだろう。何が私をそうさせているのか。半分は自分の意思で、半分は完全に誰かに操られていた。

 私はスポイトで人肌のお湯を彼のお腹辺りに滴らせ続けた。彼はあの日の私とは違い、演技をしていなかった。心の底から懇願する言葉を吐いた。「やめてよ、このままじゃ死んじゃうよ。お願いだからやめてよ。」あの日の私は自分がこんな事では死なないと解っていた。だからいくら生暖かいものがお腹に垂れてきても、その事に恐怖は感じなかった。でも、この彼はこの雫が自分の血だと疑っていない。雫が垂れる度にビクッと身体を震わせ続けている。そして、その震えは雫が落ちる度ではなくなっていった。今ではずっと震えている。きっと体温も下がっているに違いない。

 私は最後の仕上げに取り掛かった。私はこの瞬間をずっとずっと夢に見てきた。やっと、やっとその時が来た。私が生きてきた目的が果たされる。「知ってる?人間って体重の1/3の血液を失うと死んじゃうんだって。君の周りはもう、血で真っ赤だよ。」

 その時、彼はあらん限りの力を振り絞って拘束に抗った。その為に目隠しが外れたので、慌てて手で覆い、目隠しを元に戻した。私と目が合ったが、それはほんの一瞬にすぎなかった。念には念を入れて「もう楽にしてあげる。」そう言って、再度首にナイフを軽く滑らせ、今度はスポイトからお湯を雫ではなく、何滴もボタボタと垂らした。みるみる彼の呼吸が荒くなってきた。

彼は最後に「何で?僕が何をしたって言うんだ。」そう言って、呼吸をする事を諦めた。私はあの日の彼のように甘くは無い。彼が呼吸を止めてから一時間は静かに黙って見ていた。ただひたすら黙って見ていた。徐々に彼の身体の体温が下がって、今ではすっかり冷たくなった。私は彼の身体を拘束していたベルトを外し、猿轡も目隠しも外した。全て外して彼をベッドの上にまっすぐに横たえた。本当に彼は死んでしまった。あの時、私を殺そうとした彼は甘かった。普通の人ならこの程度の恐怖心では死なない。あのテレビドラマでも殺された人は心臓病を患っていたから成功していた。だから、この方法で殺す為に、私は彼の食べ物に少しずつ夾竹桃の毒を仕込んでいた。この2年の間ずっと少しずつ。彼は少しずつ弱ってきていたので、私が運転するから、気晴らしに行こうと誘ったのだ。

 こうして、私の目的は果たされた。でも、私はこれからどうすれば良いのか。あの日、私を殺そうとした彼はあの後、何を思ってどういう行動を起こしたんだろうと思いを馳せた。

 一体、私は何をしているんだろう。

その思いは今日、何度も何度も私の心の中に湧き上がっていた。でも、別の何かがその度に思考を妨げていた。

 あの日、私は彼に殺された。実際には死ななかったけど、死んだと思わせなければならなかったから、それまでの人生は全て捨てるしかなかった。それは、もはや死んだも同然だった。それからはただただ息を潜めていた。水面下で息をしていただけの生活だった。そしてふつふつと湧き上がった殺意。彼を探し出して同じ目に合わせてやろう。その為だけに生きると誓った。あれからは何度も何度も生まれ変わった。何度生まれ変わっても、物心付いた頃にはこの殺意も芽生えていた。彼の事は何度生まれ変わってもすぐに判った。ある時は彼が先に生まれていて、私が見付けた時には既に死の床に就いていて一歩遅かった。またある時は、私が随分先に生まれていて、私の命がもう消えかかっていた頃、眼前に現れた彼はまだ小学生だった。先に命の火が消えた私は、「次こそは」と思いを新たにして、次の命に誓いを刻み込んだ。

 そして今世、運命に導かれるままに私は彼と出逢い、恋に落ち、愛し合った。最後に、私の命に刻まれた誓いをやっと、やっと果たす事が出来た。

 でも、今日、一度だけ目隠しが外れて彼の目を見た時に、私はこれまでの二人の人生の全てを理解した。彼の目は怯えきっていた。「自分がこんな目に合う意味が分からない。何故、君はこんな事をするの?」と訴えていた。そう、私が殺されそうになった時、私が思ったように。今日の彼の目はあの時の私と全く同じだった。だとしたら、私を殺そうとした彼も、何度も生まれ変わって私を探し出し、命に刻まれた誓いを果たしただけに違いない。きっと魂に刻まれた目的を果たすと、次に生まれ変わった時にはすっかり前世の事は覚えていないのだろう。だから、あの時殺されかけた私も、今世の彼も自分がなぜ殺されるのかわからなかったのだろう。

 あぁ、何ということだろう。私は本当に彼を殺したかっただけなのか?いや、そうじゃないはずだ。私はただただ彼と幸せに暮したかっただけなのに。きっとあの時の彼も。それでも命に刻まれた誓いの為に私達は互いを殺し合ったのか。

彼を殺してしまった今、私は次こそは彼と愛し合い幸せに暮したいと願っている。いや、しかし、その願いは叶わないだろう。きっと次の私は殺されるだろう。彼の命に刻まれた誓いによって。

 私は自分達の運命を呪った。私が彼と幸せに生きる道はないのだろうか。どう考えても無いに違いない。ならば、私が来世、生まれ変わるのを拒否しよう。私はもう生まれ変わらない。次の彼が私を殺すことを命に刻んだとしても、対象である私を見付けられなくて、誓いはいつまで経っても果たされないだろう。そしていつの日か、命の誓いは忘れ去られて、そうして、いつか彼には誰かと幸せに暮して欲しい。それが私でなくても。

 私は、死に場所を探して旅に出た。さっきまでは彼を見付け出して殺す事が生きる目的だったが、今は決して生まれ変わらずに死ぬ事が目的だ。人間てなんて自分勝手なんだろう。

 私はそこで死ぬと絶対に遺体が出てこないという滝壷を見付けた。そこで死ねばきっと遺体もあがらず、魂もそこに留まったままかもしれない。それだけは死んでみなければ分からない。私は遺書を書いた。誰に宛てたわけでもない。強いて言えばただ何となく。


 私は二度と生まれ変わるつもりはありません。だから、あなたは私の事は早く忘れて、今度は幸せに生きて下さい。殺す為に生きるなんて、馬鹿な事で人生を棒に振るのは止めて下さい。

私を殺したい人へ


 私は滝の上まで辿り着いた。近くの宿では一人旅の、特に女性は自殺志願者ではないかと目を付けられ、沢山の人に声を掛けられて一人にはしてもらえなかった。だから遠回りをして、ここまで来るのに丸三日もかかってしまった。私は確実に死ななければならない。滝の上で、後一歩前に出たら滝壷に落ちる位置でまで来ると、睡眠薬を取り出した。あぁ、どうか、私の願いが叶いますように。祈るように薬を拝み、一気に飲み干すと、急いでナイフで自分の首をざっくり切った。

さようなら、私を殺したい人。さようなら。

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