祓い屋さまの赤い冬
双葉ゆず
前篇 メグミ
「――知ってる? 祓い屋さまの噂」
ぴく、と身体が動く。冷房の効いた部屋で快適な睡眠を堪能していたのに祓い屋という言葉でこんな簡単に目覚めてしまうなんて心外だ。机に伏せたまま少し頭を右に回し、僕はクラスメイトの女子二人の話し声がする方を見た。弁当を食べている様子からして、今は昼休みのようだ。教室中で飛び交う会話から彼女たちの声だけを拾う。
「祓い屋……って何? 陰陽師みたいなやつ?」
「そんな感じ。祓い屋さんは何人もいるんだけど、皆で深夜に街を巡回して、刀とか槍とかで悪霊を祓うんだって。和服だから目立つ筈なのに、その正体は誰も知らないらしいよ」
「ふぅん、なんか嘘っぽいね。作り話じゃない?」
「まさか! 中学の時の友達も見たって言ってたしホントだって!」
「なんで深夜にほっつき歩いてんのよアンタの友達は……」
知らないよ、と言い出しっぺが口にすると、すぐに全く別の話題に切り替わってしまった。
(僕がその祓い屋さまです、なんて言っても信じてくれないんだろうなぁ……)
落胆しつつ、また腕の中に顔を埋める。
――僕は現役の男子高校生にして祓い屋である。
巫女やら陰陽師やらの代々続く由緒正しい家系、という訳では断じてない。ただ去年の盆終わり、あの世に戻れなかった幽霊たちの悲壮な叫び声に耐えられず深夜に一人で街を歩きつつ祓っていたら、現上司にスカウトを受けたのだ。
お高い給料に惹かれアルバイト感覚で始めたこの仕事は不定期勤務制と言えど、まあ昼間は眠いので登校日は睡眠学習コースまっしぐら。世間には殆ど知られていない秘匿存在だし、そもそもバイト禁止の高校だしで周りの人間に言い訳できないのも困りものだ。高校入学時に一人暮らしを快く許可してくれた両親と、授業を聞かずとも参考書で何とかなる自分の素晴らしき頭脳には感謝しなければならない。
「おい寝直すな」
友人のツッコミと共にパァン、と爽快に響くハリセンの音。最早この教室では日常茶飯事なのでクラスメイトは見向きもしない。対して僕は何度こいつに頭を叩かれても慣れず「うぐぇ」と間抜けな声が飛び出てしまうのだった。
「購買で適当に買ってきたからさっさと食え」
美味しそうな揚げ物の匂いに顔を上げれば、火曜限定販売のコロッケパンが差し出されているではないか。さすが小学校から付き合いのある
「おお神よ、感謝感激雨嵐……」
「霰の間違いだろ」
「寝惚けてんね……午前中ずっと寝てたのに、まだ眠いの?」
「だいじょぶ、午後は起きてる」
呆れた様子で僕の顔を覗き込む
ついに上半身を起こし、封を開けたコロッケパンにかぶりつく。程良い衣のサクサク感、じゃがいもと挽き肉が織り成す旨味のハーモニー……たまらなく美味しい。こうして週に一度の幸せを噛み締めている最中だというのに、有馬は遠慮なく話しかけてくる。別にいいけど。
「
有馬が見せたスマホ画面には『肝試しにオススメ! ホントに出る!?心霊スポット10選【閲覧注意】』という在り来りなネット記事の見出し。その下に何処も彼処も蔦に覆われた如何にも古い洋館の写真が添付されている。
「げ、隅から隅まで呪い塗れじゃん。行ったら最悪死ぬよ」
「言うねぇ。ま、俺が見ても嫌な感じはするけどさ」
僕の霊感が強いことは、この仲良し三人組に於いて周知の事実だ。水上も多少なりとも『いる』のだと感じ取れるらしい。有馬だけは何も視えない一般人だが、根拠もない僕らの感覚を信用している。だから今も平然と「じゃあやめた方が良さそうだな」と呟いてネット記事のタブを即座に消すという驚くべき行動の早さを見せている訳で。
「行く気だったの……?」
有り得んわ、とでも言いたげに僕は目を細める。すると有馬が首を横に振った。
「いや、水上が部活の先輩に誘われたけど、こんな薄気味悪いとこ行きたくないっつーから、な」
「そ。俺より如月の方が説得力あるだろうと思って」
「あー……卓球部の連中か」
水上の所属する卓球部の先輩と言えば思い当たる節があった。
確か――去年の夏。卓球部は強化合宿の夜、近くの廃病院で肝試しをすることになった。その際、水上は其処の写真と『なんか悪寒が……』というメッセージを僕に寄越した。見ればびっくり、無数の人魂が彷徨っていたので『危ないからすぐ帰れ』と忠告するも、先輩は聞く耳を持ってくれず肝試しを実行し、何やら散々な目に遭ったとか。
あの事件を機に、僕の言葉を信じてくれたらいいのだが。
「最悪死ぬ、だっけ。先輩方に伝えておくよ」
「たとえ先輩が納得しなくても絶対行かないでよ! 水上が死んじゃったら僕は……もう……」
出てもいない鼻水を啜る僕の背中を、水上は優しく撫でてくれる。
「はいはい、分かってるよ。小芝居はいいから早く最後の一口食べな」
言われるがままにコロッケパンの端を食べて至福のひと時を終える。……と同時に予鈴が鳴った。もう午後の授業が始まるのか、などと憂鬱な気分に浸っている場合ではない。次は移動教室なのだ。
袋に残されたパンや衣の欠片たちを急いで口に流し入れた。この切羽詰まった状況でも有馬は僕に突っかかる。
「残りカスまで食わなくていいだろ!」
「だって勿体ないし……それに、有馬みたいな思考の奴がいるから世のフードロス問題が解決しないんだぞ! 粉も愛せよ!」
机から教科書やノートを引っ張り出しながら僕は言い返す。
「二人ともその辺にして。喧嘩するなら続きは授業終わってから。分かった?」
水上に宥められ痴話喧嘩が一瞬で収まると、僕はつい口を滑らせてしまった。思ったことをすぐ言ってしまう質なので。
「水上、お母さんみたい……」
「ふざけるのも大概にしな」
ちょっと冗談を言えばこの始末。……怖い。笑顔が怖い。普段は穏やかな水上の低い声に背筋が凍りつく。
「はぃ……」
僕の口からは弱々しい返事しか出てこなかった。それを聞いた水上は無言で教室へ向かう。有馬はというと、つい先程準備を終えてすぐ逃げるように教室を出ていきやがった。許せない。
有馬への恨みを膨らませる一方で、少々おふざけが過ぎたので反省しながら僕も教室を後にした。……ちなみに予鈴はとっくに鳴り終わっている。
*
「――それで、彼とは仲直りできたの?」
「まだ……あれから一度も喋ってないんです。なんか話しかけづらくて」
「あら、そうなの」
ふたつの琥珀が不安げな色を帯びている。それを更に際立たせる絹糸のような髪。薄い桃色の口紅、きめやかな白い肌と着物、金色の袴も相俟って、美しいという言葉が誰よりも似合う彼女。名を
雪が仕事を兼任している理由は一つ。この喫茶店を含む二階建ての一軒家が、夜だけは祓い屋の隠れた活動拠点として機能しているからである。一般企業に比べると時間にルーズな職場なので、始業や出勤日に合わせて来る必要もない。僕は毎日のように通い、お決まりのソファー席で自習させてもらっている。タダで軽食セットも頂ける、今となっては勉強に最適な空間だ。仲春に至っては喫茶店の閉店時間から入り浸っているらしいが。
昼間はマスター、夜間は課長となって切り盛りしているのだと雪は言うけれど、一体いつ休息を取っているのやら。
「勇気のいることだと思うけれど、必ず貴方から謝罪することを忘れないで頂戴ね。……はい、クラフトコーラとホットサンドよ」
「ありがとうございます! えっと……頑張ります、いろいろ!」
「フフッ、色々ね」
暖かな眼差しを向けられてしまった。用意してもらった軽食セットを手に、そそくさと自分の席に戻る。
僕は彼女の前だと未だに緊張する。その原因の一つが、カウンター席のど真ん中を陣取るこの男。
「如月君、今の見たよね?」
「……何ですか今のって」
始まってしまった。いつものアレが。
「雪さんの微笑みだよ! はは、眼福……」
そう静かに涙を流す彼の名前は
更には。
「いつ如何なる時も美しい雪さん、俺と付き合ってくれませんか!」
「嫌に決まってるでしょう」
流れるように笑顔で振られた仲春は椅子から転げ落ちると、そのまま床に倒れ伏した。いい歳して、なんて情けない姿だろう。それを呆然と見つめながら僕はホットサンドを貪り、渇いた喉をクラフトコーラで潤す。
彼女を好きだという想いは本物らしく、何百回と告白して全部振られていると本人は宣っていたが、今も諦めていないようだ。
「本当、騒々しい人……」
そう言って雪が溜め息をつくと店内は静まり返った。僕も漸く学校の課題に取り組み始める。始業まであと二時間、授業の復習と数学のプリントくらいなら難なく終わりそうだ。
――解読困難な有馬の授業ノートを何とか写し終え、数学のプリントも裏面に突入した頃。突然ドアベルが鳴り、反射的に出入り口の方を見た。僕が来るといつも雪と仲春の二人がいるので、自分の後から客が訪れるなんて初めてだ。計算途中にも拘わらず僕の視線は其処に釘付けになった。
そして、扉の奥から現れたものに息を呑んだ。艶やかな髪に着物、手袋、編み上げブーツは黒く――彼岸花の簪、双眸は紅い綺麗なツートン。雪に引けを取らない可憐な少女だった。背面に日本刀を携えており、すぐ同業者だと察しがついた。
「おかえりなさい。早かったわね」
「呼びつけたのは雪でしょ」
雪とかなり親しい様子の彼女。実は同級生、とか有り得る話なのでは。首を傾げていると、彼女は未だ床に倒れている仲春の方に視線を移す。
「久しいね、
「仲春……また雪に変なこと言ったね」
愛称だろうか――宮ちゃんと呼ばれた少女の目つきが獲物を捉えた猛獣のような鋭いものに変わる。仲春が弁解する一瞬の隙も与えず背面抜刀、当たるか否か絶妙な距離感で刃先を向ける。
「ちょ、ストップ!」
僕はシャーペンを握ったまま席を立ち声を上げる。万が一でも傷害事件に発展する可能性がある以上、流石に看過できない。
カウンター付近にいる三人が一斉に僕を見た。全員揃いも揃って目を丸くしていたが、途端に雪がクスッと笑い出す。
「宮ちゃん、刀を下ろして。新入り――と言っても、もうすぐ一年経つけれど、彼に謝罪と自己紹介を」
案外、少女は素直に応じた。納刀した後、僕の席まで歩いてきた。
「はじめまして、私は
「は、はぁ」
少女――もとい風宮は日本刀の柄に触れる。冷めた表情で衝撃的事実を言い放った上、軽く謝るものだから反応に困った。
「えっと、僕は如月って言います。自分の方こそ急に大声出してすみません」
「気にしないで。怒った宮ちゃんは私でも止められないから助かったわ」
「俺にも無理だ。礼を言うよ如月君」
雪と仲春が口々にそう言った一方で、風宮は頷くだけ。謝罪の時以外で僕と目を合わせることはなく、雪の方に向き直る。
「それで用件は?」
「そうね……せっかちな宮ちゃんの為に結論から言いましょう。今夜は宮ちゃんと如月くん、二人で合同任務に当たってもらうわ」
*
祓い屋の仕事は基本的に単独で街の巡回である。悪霊は見つけ次第祓除し、発見場所や特徴などを記録しておく。それを繰り返しつつ担当の区画をぐるりと一周したら喫茶店に戻り、報告書を書いたら終業だ。
対して合同任務は二人、緊急で依頼を受けた場所を集中調査する。悪霊の祓除という点では巡回と変わりないがリスクは高い。今回の任務も当然ながら。
「此処かな」
喫茶店から徒歩十分ほどの道程の間、ずっと無言だった風宮が初めて口を開いた。雪に貰った資料と目の前の建物を見比べる。蔦を纏う不気味な洋館。見覚えがあった。頬に冷や汗が伝うのが嫌でも分かる。
「怖い?」
「いやぁ……そんなことは、断じて」
「そう」
風宮は平然と洋館の敷地内に足を踏み入れる。ネット記事に載っていた、行ったら最悪死ぬアレが聳え立っているというのに全く動じない。これが経験の差か。
水上に謝れないまま、此処で死ぬのかもしれない。それでも、と覚悟を決めて僕も後を追った。
雪の説明によれば、この洋館の購入者と同居人は例外なく生活を始めて一ヶ月以内に死んでしまうらしい。幽霊を信じていない人が安価を理由に買うのだろう、此処での死亡事故は幾度も繰り返された。ここ十年ほど買い手がいないそうだが最近は肝試しをするべく不法侵入者が現れ、その誰もが怪我したり病気を患ったりと悪影響を及ぼしている為、緊急依頼が来たという訳だ。
ギシギシと不快な音を立てる玄関扉を開けて中に入る。最初は真っ暗だったが次第に慣れてきて、気付けば長い廊下が奥まで伸びていた。妙だなと思えば、突然振り向いた風宮がやっぱり、と呟く。僕も首を回すと背後には扉ではなく壁があった。
「此処はライトフロアだね。本当は入ってすぐ大広間と左右のフロアに繋がる大階段がある筈だけど」
「つまり、悪霊による空間操作ってことですか?」
「怨霊と言った方が正しいよ」
言い終えると風宮は僕を置いて廊下を進み、通りかかった部屋の扉を躊躇なく開け放っていく。怨霊が飛び出してくる可能性は考慮していないのか? しかし先刻の抜刀を見るに、この人はぶった斬って瞬殺するか。そんな想像をしながら僕は小走りで追いかけた。
――かれこれ体感で30分経過したけれど何も見つからないので。
「かざ……いや、先輩!」
数歩前にいる風宮を呼び止める。
「もしかして僕たち閉じ込められてませ――」
瞬間、空気を切り裂く音が耳に響き渡る。目線を動かすと、黒い人魂を貫く刀。そして風宮が至近距離にいる。ドッと心臓が波打った。
「怪我は」
「ない、です……多分」
「じゃあ訊くけど。君、強い?」
唐突すぎる疑問に戸惑いを隠せなかったが、ここは素直に答えておくことにした。
「弱いですけど、足は引っ張らないんで」
「矛盾してる」
「いえ。たとえ僕が怨霊に攫われようと僕一人の責任ですから、先輩は助けようなんて考えないでください。元凶を祓う、それだけに集中すればいい。祓除できれば僕は救われる訳で――結果的には足手まといにならないでしょ?」
ほんの一瞬だけ風宮が目を見開いたような気がした。
「加勢して。動きは合わせる」
風宮が後退すると、何処からか数え切れない程の悪霊が湧き出てきた。どいつもこいつも僕を狙っているようだ。
溜め息が出る。こんなのに好かれるなんて。
「知らない方が幸せなこともあるってのは、まさにコレですよね」
背負っていた薙刀を思いきり振り回す。悪霊が一気に霧散する。リーチが長いから不安だったけど広い廊下で助かった。
僕が大半を薙ぎ払い、取り零した分は風宮が処理し、急場は切り抜けた。悪霊の姿がないことを確認してからお互い武器を仕舞う。ふと僕は風宮の足元に何か落ちているのを見つけた。
「先輩。これ落としてますよ」
白雪姫をモチーフにした可愛らしい柄に『恵』と刺繍が施された少し黄ばんだ巾着を、しゃがんで拾い上げる。もしかして先輩、僕と同じ名前だったり……と流れで訊こうと思ったのだが。
「待って、それは……!」
焦燥を帯びた声の直後。バンッ――背後から勢いよく扉が開くような音が聞こえた。瞬く間に無数の腕が全身に絡みつく。抵抗しようが手遅れだと悟った。
油断していた。隅から隅まで呪い塗れと言ったのは紛れもなく自分だったのに。
「――ッ、先輩!」
強く輝いていた筈の紅い瞳が揺らぐ。刀を握り締めているけれど一向に動かない。
「さっき言ったこと、忘れないでください!」
引きずり込まれていく。何度も何度も、どこか懐かしい『メグミ』と呼ぶ声がする。でも、呼んでいるのはきっと僕のことではなくて――。
水に溺れたみたいに息苦しくなる。そのまま意識を落とすように、ゆっくりと瞼を閉じた。
僕の手が届かない程度に常に距離を取ってた癖に、いざとなると傷付けるのが怖くて刀を振れない先輩へ。
どうか、このこえだけでもとどきますように。
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