臨界

石田くん

臨界

 知らない部屋で迎える朝というのを、僕は余り悪く思わないタイプだ、と思った。しかし、この部屋を「知らない部屋」と言ってしまうには、僕は余りにこの部屋を知り過ぎてしまっている、とも思った。彼女の部屋に来るのは何度目かもわからないぐらいだが、そのベッドで朝を迎えるというのは初めてだった。心地よい筋肉の弛緩と、掛布団と敷布団の間に体が染み出していくような感覚から、今これが心地よい目覚めであると実感する。少し空いた枕の左側に顔をうずめて、残った彼女の香りを堪能する。残った?そういえば、彼女はどこにいったんだろうか。部屋の真ん中の安っぽいちゃぶ台風ローテーブルに、黄色いポストイットの書置きがあった。

「おはよう!朝ご飯つくってくるね!」

 なるほど耳を澄ませば、たしかに包丁の音や湯の沸き立つ音が聞こえてくるような…?素晴らしい朝だ。朝があまりに素晴らしいので、何かよくないことが起こりはしないかと不安になって、何かすっかり忘れていることを探して部屋を見渡してみる。そのために上半身を起こそうと思って足をチョット動かすと、僕の足元でうずくまって寝ていた猫がぴゃっと飛び起きて、不機嫌そうに居場所を少し変えた。猫。彼女が飼っている猫。マクガフィン。中学生の時からこの家に来ている僕に、最近ようやくなついてくれた。物静かな子だが風に敏感で、今みたいな少しの刺激でもすぐ跳ね上がってしまう。ユミ、僕の恋人、は、マックは健康な子だからあまり気にしなくてもいいよと言うが、やはりあまり大仰に驚かれるとなんだか悪いことをした気分になってしまう。しかしまた、飛び上がった後すぐに気持ちよさそうに眠るマクを見ると、自分が許されたような気持ちと可愛らしさとで、不思議とよい気分になるのであった。

 少し猫を見つめた後、部屋を見回す。クローゼット、右に扉、壁、モネのカレンダー、お揃いのショートコート、天井まで伸びた本棚と、それと一体となった机。彼女はよく本を読む人だから、本棚は九割の文庫本と少しのビジュアル図鑑、それと雑誌でいっぱいになっている。宮本輝、大佛次郎、リルケ、トーマス=マン、……悪いが、全員存じ上げない。申し訳ないとは思うのだが、僕って自分の興味のないことにはほんとに興味がない。ビジュアル世界の鉱物、こんなのは面白そうだ。

 と思いつつも別に取りに行くわけでもなく、また視線は部屋の巡回を始めて、レースカーテンの向こうの榑縁と寒空を眺めた。

 部屋の回視の最後に、ベッドの脇に雑然と置かれた僕のバッグに目が行く。もちろん僕のバッグなので、中身はぐちゃっとなって、しかもそれが顔まで覗かせている。目が合ったので、昨日学校で受け取ってきた、模試の結果を手に取る。


第二回東大実践 8/10~8/11実施

国語22/80点 数学47/120点 英語28/120点 物理57/60点 化学10/60点


昨日受け取った時、思わず笑ってしまうぐらいのいい成績だった。高二の僕が高三と一緒に模試を受けるんだからもちろんE判定だが、そんなことより物理。僕の大好きな物理で57点も取れたことが嬉しかった。学校の先生に勧められて何となく受けた模試だったし、物理以外は手応えが全くなかったので、こんなにいい気分になるとは思っていなかった。

 偏差値92.5、を何度も頭の中で反芻し、感嘆の溜め息を漏らしながら、その模試の結果をまたバッグの上にほっぽり出した。

 紙が落ちるのと一緒に僕もまたベッドに倒れ込むと、ユミの勉強机の上の本の背表紙が見えた。


「不思議で美しい物理学とわたし」


 彼女はそうだ、僕の好きな事を一緒に好きになってくれるような人なのだ。僕はその本が読みたくなって、またいそいそとベッドから抜け出し始めた。いやに直接的に触れる朝の空気が気になって、僕は自分が上裸であることに気付いた。目線を落とすと、ちゃぶ台の上に昨日ぐちゃぐちゃに脱ぎ散らかした服、がユミによって畳んで置いてあった。それを着ながら勉強机に向かうと、目当ての本の下に二冊Newtonがあった。がしかし両方とも読んだことのある号だったので、特に気にも留めず、実際は僕の持つ物理学への情熱を理解しようというユミの優しさと愛情に心を動かされながら、大判で黄色い背表紙の本を手に取った。

「あなたのすぐ側にある 物理学 その美しい世界へようこそ」

 ベッドに戻って一ページ目を広げると、どでかい白抜きの文字でそう書いてあった。

「「物理学」。それだけ聞くと、なんだか難しそう、先生の話聞いてもわからなかったし、と思うかもしれませんが、まずはこの本を少しだけでも読んでみてください。美しい写真とわかりやすい解説で、あなたの身近なところに潜む物理の世界を紐解く手助けをしてくれます。水、空気、宇宙、植物、そしてあなたも、わたしも、物理学の持つ美しい性質に従って動いているのです。あなたのすぐ側にある、物理の世界。この本を読めば、きっとあなたも物理学のトリコになりますよ。」

「なぜ虹は七色に見えるのか?

 雨上がりにふと空を見上げると、大きな虹が浮かんでいる。その時隣にいる誰かに、「ねぇ、なんで虹は七色に光るの?」と聞かれて、答えられる人はいるでしょうか……」

……

「水 実はとっても“変”!?

 川、お料理、飲み物、いろんな場面で出会う、私達に最も身近な液体、水。でも実は、物質の中でも珍しい性質を、いくつも持っているんです。例えば、氷と水の体積のちがい。ふつう物質は、……」

……

……

「物理学者もネコのトリコに!?

 世界の名だたる物理学者たちも、私たちと一緒で猫が大好きだったんです。でもその理由は、カワイイから、だけじゃありません。物理学の有名な問題で、「ネコひねり問題」というのがあります。マクスウェルやストークス、マレーといった著名な物理学者たちは、「なぜネコは、背中から落ちてもキレイに着地できるのか」について考えることを楽しんでいたようです。……」

 なるほどこれはたしかに興味深い。この問題自体は知っていたが、今僕の勉強しているストークスまでこれに関心を持っていたとは知らなかった。このページではだいぶ説明が省かれているが、たしか、猫をひっくり返して持ち上げ、そこから落とした場合に猫の重心回りのねじりモーメントはゼロなはずだが、なぜ猫は体を回転させて足から着地できるのか、という問いで、答えは、猫が剛体でないから、だったはずだ。

 僕は頭の中でずらずらこんなことを考えていたが、続きを読んでみるとこの本は、問いの解説ではなくこの問題に夢中になった物理学者達の様子を紹介していた。

「……マクスウェルは妻への手紙に、「私はケンブリッジ大学で、ネコを放り投げてまっすぐ立たせないようにする伝統を発見した。私もそれに倣って、よくネコを窓から放ったものだ。これは本来ネコがいかにして素早く身を翻すかの探求であって、ほんとはもっといいやり方がある。……」と書いています。こうした彼の努力は、最終的に実を結ぶことになります。……」

 左側のページに解説文、その下に重なって見開き一面に、マレーの撮った「猫の落下」という猫が身を翻す様子をコマ撮りにした写真が載っていた。物理学徒の間では有名なこの写真も、名だたる物理学者達のエピソードを纏うとまた違った見え方もしてくるから不思議だ。モネは絵に人間味が出過ぎていて面白い、と言うユミは、こんな気持ちなのだろうか。

 ぼけっと写真を眺めて、次のページにいこうとしたところで、僕の足元でうずくまる猫、が目に入った。薄茶色一色に包まれた体の背中に、濃い茶の縞が乗っている。さっきまではただ可愛らしく、あの愛玩動物だけがもたらしうるぽわぽわした感情を見る度僕に与えていたそれは、物理学的にあまりに美しい曲線を体で描いていた。その妖艶さは鼻に抜けるほど熱い息を僕に誘い、そしてその曲線の主はこの本を読む前とはすっかり変わって、好奇の対象となった。

 僕は風をなるたけ起こさないように、ゆっくり過ぎるぐらいゆっくりとベッドから這い出し、その猫の首元から背中の中腹までを曲線の美しさに沿って撫ぜた。猫はゆっくり目を開けて、僕が抱きかかえるのに特に抵抗するでもなかった。そのまま左手に猫を収め、カーテンと窓を開けた。朝の風が入ってきて、僕を身震いさせ、この風に過敏な猫を軽く暴れさせた。僕はベッド際まで戻って、猫を仰向けにして両の掌の上に乗せ、反動をつけて猫を放り投げた。猫の足が汚れないように、しかしケンブリッジ大学の伝統に沿えるように、縁側の上にちょうど着地するような具合で。

 僕の手を離れた猫は、放物線の頂点のあたりで上半身を翻し、そのすぐ後に下半身を畳んでくるりと回した。気付けば既に着地の体勢に入っていて、その一連の動きには全く無駄がなく、猫の本能に組み込まれた、理性など一切介在しないシークエンスなのだと、僕もまた本能で解った。その自然の神秘は僕の心を震わせるに十分足るものだった。

 悠々と落ち行く猫を、僕もまた悠々と見つめていた。その全てがスローモーションに見えた。まず縁側の縁に、左前足が着地、次に、右前足と同時に、左後足が

猫が落ちた。

 猫が消えて、コン、という音がして、その後静かになった。僕は心臓ごと引っ張られるようにして、スローモーションの世界から現実に戻りながら、縁側へ駆け寄った。

 沓脱石の向こうで、少しはげた芝生の上に猫がうずくまっていた。僕はサンダルをつっかけてしゃがみ込み、猫に、マクに手を添えると小さく震えていた。そうしている内に、僕は自分がしでかしたことの大きさと愚かさとに、まるで猫から伝播したかのように震え出した。小さな庭に吹く冷たい風が僕を痛めつけ、また孤独にした。僕は、迷って、猫を庭の周りの灌木の茂みに隠し、迷った。

 その猫の居場所は、縁側からも低木の茂みで見えないし、外からもほんの少しの隙間しかない高い柵のおかげで見えないだろうところだった。つまり、僕は猫を、完璧に隠してしまった。

 僕はベッドに戻って、風を起こすのも気にせずぼふっと座り込んだ。壁にかかったネイヴィーのショートコートを見ながら、呆然としていた。

 そのまま五分ほどして、その静寂を突き破るようにしてユミが入ってきたので、僕は飛び上がるのを必死に抑えねばならなかった。

「あはは、ごめんね、びっくりさせて。おはよ!」

「おはよう」

「朝ご飯できたよ」

「うん、ありがとう。ごめん、ずっと寝てて」

「いいよー、顔洗ってきてね。マックも連れてきて!」

「あー、うん。いや、」

立ち上がった僕は白々しく、吐き気がするほど白々しく、辺りを見回す。ゲロの代わりに、言葉を吐き出す。

「マックいなくない?」

 激しく動悸する心臓が、この鍵カッコといっしょに零れ出しそうになった。

「え?」

 純真なユミの声色が、僕のすべてを痛めつける。

「リビングにいるんじゃないの?」

 と、僕は証明済みの問いをユミに適当に投げかけた。

「いや、いないよ。マックドア開けたりできないから、絶対この部屋にいるよ。」

 しかし、逃げ込むほどの隙間なんてどこにもないほど整頓されたユミの部屋には、僕とユミとの二人分の空間だけ残して、あとは全部空気で埋め尽くされていた。

「私、ちょっと探してくるね」

 僕が何を言うのも待たず、ユミはぱっと部屋を飛び出していった。僕もそれを追って、知っている部屋だけを滑るように眺めた。

「いない、マックいない」

僕は今にも泣きだしそうなユミの必死さに、どんどん気道が狭くなるような心地がした。

「うん、見つからないね」

 できるだけ心を殺して、ぽつりと返事をした。

「ちょっと、外見てくる。先ご飯食べてていいよ」

「えっ」

 また僕が何かを言うよりずっと前に、手袋と上着をひっつかんでユミは玄関へ飛び出していった。僕は必死にそれを追いかけながら

「俺も行くよ」

と引き止め、ユミを振り向かせ、追いつくことに成功した。僕は上着も着ずに外に飛び出し、玄関の外で

「俺庭の方見てくるから、ユミ前の道路見てきて」

と提案した。

 ユミは素直に道に飛び出し、どこにもマクの影がないことを認めると、すぐさま駆け出して家の裏手に回り始めた。

 僕はあまりにぎこちなく、庭へと歩き出した。十畳、五坪ぐらいの庭の周りには丸っこかったり枝を散らしていたりする低木が、庭を取り囲むようにびっしり植わっていた。花は、端っこの方に早めの水仙がピンと咲いているだけだった。僕はそれらを一瞥するかしないかで、真っ直ぐ猫のいる方へ向かって庭を横切った。道に面する方の柵の間から、ユミが走って行くのが見えた。びっしり生えた灌木の隙間に、綺麗な毛並みの猫がうずくまっていた。僕はそれを少しの間見つめていた。僕は寒風に心ごと凍て付き、もう何も思えなくなってしまっていた。小さな溜め息もまたすぐに、ぐっと低い空の下に消えていった。

 僕は玄関の方に戻って、ユミが帰ってくるのを待った。深く長い僕の呼吸とは裏腹に、息を堰切ってユミが戻ってきた。

「いなかった マック いなかった」

 途切れ途切れに。

「俺も」

 僕の予想に反して、そこで喉がぐっと上がって喋りにくくなった。

「見なかったな」

 少しの沈黙の中に、断続的なユミの息切れがあった。

「一回中入ろっか。寒いでしょ」

 僕は半ば押し込まれるようにして、ユミの家に戻った。

 冷たい水に手を痛ませながら洗ってリビングに戻ると、時計は十時を指していた。

「うわ、お母さん戻ってきちゃうかも、早く食べて!私も食べよ」

 既に盛り付けられた幸せな朝食たちはすっかり冷めきっていたが、さすがに温め直そうとは言い出せなかった。

 ぬるい味噌汁。ぬるいご飯。ユミはそそくさと全て平らげて、僕を置いてけぼりにして、また部屋を探し始めた。僕もようやく食べ終わって、捜索を手伝う形を取ろうとしたが、そろそろ本当に親が帰ってきてしまう、こっそり泊めたのバレたらヤバいから!と言われて。

「ごめんね、バタバタしちゃって。でもめっちゃ楽しかった。勉強も教えてもらっちゃったし。」

「うん」

「また来て、お父さん出張最近多いからさ」

「そーなんだ」

「じゃあね、気を付けて!」

 そんなに元気にされると、寂しくなる。


 通りの向こうから、黒髪の綺麗な女性が来た。

 僕はさっきまで居た家の前を通りかかった。柵の隙間から、庭が見えた。灌木の隙間を通り抜けた風が、脚に纏わりつく。

 町は、静かであった。







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臨界 石田くん @Tou_Ishida

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