サルヴェーション・エンド

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1 暗黒の惑星への降下

 宇宙の果て、深淵の静寂にたたずむ一隻の宇宙船。

 それはまるで空間に浮かぶ鏡の欠片のようだった。滑らかな金属表面は、無数の星々の光を反射し、青白い輝きがゆらゆらと踊る。その曲線は異様なほどに美しく、どこか有機的な滑らかさを持ちながらも、一切の継ぎ目や接合部が見当たらない。一体誰が、どのようにしてこれを作り出したのか――その問いが無意識に浮かぶほどに異質で、非現実的な存在感を放っている。


 開口部は一切見当たらず、艦橋やハッチの痕跡すらない。ただ表面に流れる淡い光が、生命のように脈動しているだけだ。その光は規則的ではなく、時折波紋を描くように広がる。まるで船自体が呼吸をしているかのようだった。


 推進機らしきものも無い。それでも、宇宙船は静かにそこに存在していた。重力も抵抗も感じさせない空間で、ただそこに“在る”という圧倒的な存在感。船体の下部には一瞬、無数の星々を吸い込むような暗い縞模様が見えたが、それが実在のものか、幻覚なのかすら判然としない。


 宇宙の中で、この船がどこから来たのか、何のために存在しているのか。それを知る術は無い。ただ一つ確かなことは、その存在自体が、この果てしない空虚に、不気味な異物感をもたらしているということだった。


 宇宙船の眼下、虚無の海のような宇宙空間の中に、黒い惑星がひっそりと佇んでいた。それは闇に紛れるように隠れ潜み、どこか生き物のような不穏な気配を漂わせている。惑星の表面は深い闇で覆われており、稀に見える不規則な閃光が、暗雲の層を裂くように瞬く。その光は、嵐の中に潜む何かが呼吸しているかのように、一定のリズムを持たない。


 惑星の暗雲の中に目を凝らせば、ただの嵐ではないことが見て取れる。渦巻くように動く雲には奇妙なねじれがあり、まるでそれ自体が意志を持ち、何かを隠しているかのようだった。そして、その隠されたものが、圧倒的な存在感を持って宇宙船を見上げているように思える。


 宇宙船はその惑星の軌道上に静止していた。推進機もエネルギー源も持たないはずのその船が、どうしてこの軌道に辿り着いたのか。それは、この惑星と宇宙船との間に、何らかの目に見えない絆があることを示唆しているかのようだった。


 暗闇の中、惑星の表面に目を凝らせば、時折、奇妙な形状が影の中から浮かび上がる。それは建造物の廃墟か、あるいは山脈か、はたまた未知の生物の姿なのか――その正体を突き止める術は無い。ただ一つ確かなのは、この惑星は単なる無機質な天体ではないということだった。


 宇宙船はその存在を感知しているのか、表面に流れる淡い光が惑星の閃光に呼応するように変化し始めた。光は徐々に収束し、船体に刻まれた複雑な紋様が浮かび上がる。その紋様はまるで、惑星の表面に隠されたものと対話を試みているかのようだった。


 時間が凍りついたような静寂の中で、船と惑星の間に何かが生まれつつあった。それは言語では表現できない、より根源的で原初的な「交流」のように感じられた。


 宇宙船の船首に、まるで船体そのものから滲み出るように人影が浮かび上がった。その姿は、次第に輪郭を帯び、確かな存在感を持ちはじめる。男だろうか。こげ茶色のフードが深く顔を覆い、その下から覗く表情は影に隠れて見えない。しかし、その姿から漂う威圧感と静寂の中に宿る圧倒的な存在感は、ただの人間とは思えない異質さを放っていた。


 その装いは極めて簡素だった。ローブのような一枚の衣服が、宇宙船の滑らかな金属の質感と不気味なほどの調和を見せている。宇宙空間だというのに、彼は防護服もヘルメットもつけていなかった。それどころか、彼の身体を取り巻く何らかのフィールドが存在するわけでもない。ただ、彼自身の存在そのものが、空虚な宇宙空間と調和しているようだった。


 男――そう、暫定的に「彼」と呼ぼう――は、静かに眼下の黒い惑星を見下ろしていた。その仕草には何の迷いもなく、まるでその惑星に何かしらの答えを知っているかのようだった。フードの下から見えるわずかな顎の輪郭が、不意に動いた。まるで呟きでもしたかのようだったが、無音の宇宙空間ではその声が届くことはなかった。それでも、その呟きは、まるで惑星そのものに向けられているようだった。


 彼の足元から、淡い光が波紋のように広がり、宇宙船の船体全体を包み込む。光は脈動を繰り返し、惑星から放たれる不規則な閃光と共鳴するようだった。その光景は、二つの存在が互いに語り合っているようにも見えた。


 彼は動かない。ただ、惑星を見つめているだけだ。しかし、その静けさの中には、何かを待っているかのような緊張感が漂っていた。彼の背中に広がる宇宙の無限の闇すらも、その存在を引き立てる装置のように思える。


 その時、惑星の暗雲の中に、明らかにそれまでの閃光とは異なる光が生じた。それは無数の稲妻のような線となり、雲の中で絡まり合い、何かを形作ろうとしているかのようだった。彼の姿はその光景を背にしてシルエットとなり、異様な荘厳さを持って浮かび上がる。やがてその光は、言葉の形に似た何かを紡ぎ始めた。まるで、彼を歓迎するために惑星が応えているかのように。


 彼は黙然と眼下の黒い惑星を見つめ続けていた。惑星の暗雲は依然として渦を巻き、不規則な閃光がその中で蠢いている。彼が惑星に向けて何を考えているのか、それを知る術はなかった。ただ、彼の佇まいには、不動の意志と、何かを成し遂げようとする覚悟が滲み出ていた。


 数舜の沈黙の後、彼はゆっくりと両腕を広げた。その動きは無駄がなく、あたかも周囲の宇宙そのものと調和しているかのようだった。フードの陰からは相変わらず表情を窺うことはできないが、その仕草には奇妙な荘厳さがあった。黒い手袋で覆われた両手は微動だにせず、肌の露出は一切ない。彼という存在そのものが、謎を秘めた一枚のベールで覆われているようだった。


 そして、次の瞬間――。


 彼は何の躊躇もなく船を蹴り、静寂の宇宙空間に身を投じた。船の表面は一瞬だけ波紋を広げるように光り、まるで彼の行為に何か反応を示すかのようだった。その後、船は再び静寂を取り戻し、ただそこに“在る”だけの存在へと戻った。


 惑星へと飛び降りた彼の姿は、無限の闇に包まれるかのように、宇宙空間を疾駆した。防護服も無いはずの彼がどうして生存できるのか、その謎は深まるばかりだ。しかし、その身を翻しながら惑星へ向かう彼の姿は、まるで落ちゆく彗星のように力強く、そして抗いがたい宿命を背負っているかのようだった。


 眼下の惑星は、彼の接近を察知しているかのように暗雲を激しく震わせ始めた。その表面を覆う雲海はうねり、稲妻の網がその中を走り抜ける。あたかも、惑星そのものが彼の到来に対して何かしらの感情――恐れ、期待、または敵意――を抱いているかのようだ。


 彼のローブが宇宙の微かな光を受けてわずかに揺れ、フードの奥に隠された顔からは依然として何も読み取れない。しかし、その姿には確かな意図が宿っていた。目的地に到達するための一挙一動が、緻密に計算された儀式のようでもあった。


 そして――。


 彼の身はついに暗雲の層に突入した。雲海の中に消えていくその瞬間、彼の背中に走る光の筋が一瞬だけ輝きを増した。まるで宇宙船から放たれた一縷の光が、彼を護るかのように彼を包んでいるように見えた。それと同時に、惑星の暗雲からは轟音のような振動が宇宙空間に響き渡る――音のない空間で、それは感覚として彼方まで伝わった。


 彼が飛び込んだ暗雲の中で、何が待ち受けているのか。それは、この果てしない静寂の宇宙に新たな謎と緊張感をもたらすに違いなかった。


 惑星の暗雲の中は凄まじい嵐が吹き荒れていた。雨が滝のように流れ、狂乱の雷が視界を裂くように閃く。その轟音と振動が空間を揺さぶり、風は鋭利な刃のように空気を切り裂いていた。どこまでも分厚い雲の層は、光を吸い込む闇そのものであり、ただその合間を稲妻が一瞬の輝きで埋めるだけだった。


 その中を男は、速度を緩めることなく一直線に降下し続けていた。雨がローブに当たり、無数の滴となって弾け飛ぶ。雷は執拗に男を狙い、幾度となくその身に直撃した。だが、雷の電流が男の身体を貫いても、彼は微動だにしない。防護もなく装備もないというのに、彼の動きに痛みや影響の気配は一切なかった。それどころか、雷そのものが彼の存在を避けるように弱まっていくかのようにさえ見えた。


 その時、不意に男の通信機から声が響いた。風と雷の轟音の中で、透き通るように鮮明な音が耳に届く。軽やかで、どこか気楽な調子の声――それは若い少女の声だった。


 「ご主人、経過はどうや?」


 嵐の中、あまりにも場違いに思えるその声。だが、男はその問いに何の驚きも見せることなく、静かに応じた。口元はフードの影に隠れていたが、その声には冷徹さと深い威厳が宿っていた。


 「予定通りだ。嵐は無視できる。」


 「通信なんかは妨害されてないし、探知されてる様子もないで。」

 少女の声は、緊張を押し隠そうとしているものの、その微かな震えが彼女の不安を物語っていた。嵐の音が背景を埋める中、その声だけが男の耳に届く。


 「いきなり撃墜されるわけではなさそうだな。」

 男の声もまた、普段の冷静さを保ちながらも、わずかに緊張がにじんでいた。それは彼自身が、この未知の地に潜む危険を十分に理解している証だった。


 「このまま降下する。何かあったら言ってくれ。」

 男の簡潔な指示に、通信の向こうから短い間があった後、少女が答える。


 「わかったで。ご主人、降下後、問題が無さそうやったらウチらも探査用ボディを送るからな。」

 彼女の声はどこか揺らぎが取れ、少しだけ自信を取り戻しているようだった。嵐の中、男の安定した声が、彼女にとってひとつの拠り所になっているのだろう。


 男は、通信機を一瞬だけ静かにした後、ぽつりと呟くように言葉を放つ。

 「映画なら、そのうち俺が乗っ取られていて、帰還した母船にまで被害拡大だろうな。」


 思いも寄らない軽口に、通信の向こうの少女は短い沈黙の後、小さく吹き出した。

 「あはは、ご主人、そんなん言わんといてや! 緊張してるんバレるやろ。」

 少女の声には、確かにほっとしたような色が混じっていた。彼女はそれを隠そうともせず、続ける。


 「それに、探査ボディは使い捨てやからな。基本的に戻さへんやん。ご主人のその体も、もう戻れへんで。」

 通信越しのハルミの声に、男は軽く笑みを浮かべた。荒々しい嵐の光景を背に、その表情は余裕すら感じさせるものだった。


 「ハルミ、わかっているとは思うが、おかしいなと思ったら俺を殺して、俺のバックアップを起動するんだぞ。」

 その言葉に宿る冷静な覚悟に、ハルミは一瞬言葉を失ったようだった。しかし、次の瞬間にはその声色を引き締め、神妙な口調で応じる。


 「もちろんや、ご主人には悪いけど、乗っ取られたりしたらウチの敷居はまたがせへんで? 殺虫剤みたいに艦砲でバーンや。」


 少女らしい言い回しの中にも、確かな決意が込められている。それを聞いて、男はわざとらしく肩をすくめる仕草をした。


 「おぉ、こわいこわい。」

 その軽口に、通信機越しのハルミが小さく笑ったような気配が伝わる。しかし、彼女もまた状況の深刻さを理解していることに疑いはなかった。


 「ご主人、もうすぐ雲を抜けるで? 注意してな。」

 彼女の報告に、男は一息ついた。嵐の渦巻く暗雲が次第に薄まり、建造物の輪郭が鮮明に見えてくる。雲の層の終端が近いことを示していた。


 男は、視界の先に目を凝らしながら短く告げた。

 「戦争卿、御国桃谷、突入する。」


 男、いや、御国桃谷は暗雲を突き破った。


 暗雲の下は、ここまでの荒れ狂う世界とはまるで違っていた。視界には明るく広がる広大な風景が広がっている。地平線の彼方には輝く海とそびえ立つ山脈が見え、その輪郭が温かみのある光で照らされていた。足元の雲海は薄く発光し、穏やかに揺らめく。その様子は、先ほどまでの嵐や荒々しい環境が幻であったかのようだった。


 桃谷は空中で静止し、大きく息を吐くと、ゆっくりとフードを脱いだ。

 その下から現れたのは、精悍な顔立ちをした美青年の顔。日本人特有の彫りの深い輪郭が、淡い光を浴びてはっきりと浮かび上がる。その表情は冷静かつ鋭く、まるで全てを見透かすような目つきが印象的だった。一見すれば普通の人間にしか見えないが、その佇まいには、ただ者ではない威圧感が漂っている。


 「対空砲火は無いな。」

 桃谷は静かにそう呟く。まるで、ここに到達するまでの緊張感を吐き出すかのような声音だった。


 その声に応じるように、通信機からハルミの声が届く。

 「スキャン結果に変化は無いで。その周辺の文明レベルは軌道スキャン通り低いな。レーダーとかも無い……とは思うけどな。」


 ハルミの声には、どこか慎重な響きがあった。彼女は状況を冷静に伝えつつ、未知の脅威に対する警戒を忘れていない。


 「ウチらの技術を上回る文明が監視しとったら、さすがにそれはわからんわ。」

 一息ついて、彼女は続ける。

 「あと、惑星の場所ごとに文明レベルは異なっとる。どれも宇宙文明には至っとらんけど、航空機くらいは持っとるみたいやな。」


 桃谷は目を細め、遠く地平線に目を凝らした。彼の目には、光に包まれた広大な世界の中に、何かを探り当てようとする鋭い意志が宿っている。


 「……航空機、か。」

 その言葉には、何かを考え込むような響きがあった。しかし、彼はそれ以上言葉を続けることなく、ただ眼前の光景をじっと見据えていた。


 「先進文明があるとするなら、やはり地下かな。」

 桃谷の視線は、眼下の広がる大地を越え、その奥深く――惑星の中心へと向けられていた。その目は、まるで地表の下に隠された何かを透かし見ようとするかのように鋭い。


 「暗雲で覆われてさ迷っとる単独遊星で、地下がスキャンできへん、怪しさ満点やで。」

 通信機越しのハルミの声は、どこか緊張感を帯びていた。嵐の中を抜けた先に広がる穏やかな世界――その裏に潜む異質な気配を、彼女もまた敏感に感じ取っているのだろう。


 「なんにせよ、どういうルートで調査するかはご主人に任せるわ。」

 その言葉には、信頼とともに、彼女自身が手を出せない未知の領域への警戒心が滲んでいた。


 桃谷はその報告に短く頷き、薄く微笑んだ。フードを脱ぎ去ったその顔には、どこか余裕すら感じさせる表情が浮かんでいる。


 「寿命も資源も克服した先進文明に参加できたかと思ったら、それ以上の種族が最低47種もいるって話だからな。」

 言葉の端に皮肉めいた軽口を混ぜながら、彼は続ける。

 「俺はドロドロに溶かされたり、謎の怪生物に体を乗っ取られたりはしたくないもんだ。」


 その一言に、ハルミが突っ込むように言葉を返した。

 「そりゃ大抵そうやろ~。好き好んでそんな目に遭いたい人なんておらんわ。」


 通信機の向こうから伝わる彼女の声には、わずかに安心感が混じっていた。桃谷の軽口が、彼女の緊張を和らげたのだろう。しかし、その裏には依然として、不安と警戒が根を張っていた。


 桃谷は空中に静止したまま、大地とその奥に潜む未知の領域をじっと見据えた。彼の頭の中では、この惑星に隠された秘密を暴くための手段とリスクが、綿密に天秤にかけられていた。


 「さて、どこから手を付けるべきか……。」

 彼は低く呟き、再び静かに息を吐く。その瞬間、周囲の穏やかな光景の中に、微かだが確かに異質な振動が感じられた。


 「ん。」

 桃谷は静かに声を漏らした。その視線の先、地上に何かを発見したらしい。その瞬間、彼の身体がピタリと静止したかと思うと、一気に降下を再開する。


 「ちょちょちょ、ご主人!」

 通信機越しにハルミの慌てた声が響いた。彼女の声には明らかな焦りが滲んでいる。

 「アレはあかんで! 何するつもりなん?」


 桃谷は降下速度をさらに上げながら、唸るように返答した。悩むようなその声は、迷いを含んでいるようにも聞こえる。


 「この星の地上文明は全部スキャンしとるけど、アレは悪党やで!」

 ハルミは必死に言葉を続ける。

 「助けようとしとらへん? ご主人、アレ、ほんまに無理やって! 聞いてる!?」


 桃谷は彼女の言葉に対して返答する代わりに、通信機に「悩ましい」というスタンプを送り返した。軽いユーモアを交えた行動にも見えるが、その背後には彼自身の葛藤が透けて見えるようだった。


 「アレは人を殺しまくっとる女やで? それにもう、死んでるやん? わざわざ介入する必要は無いんとちゃう?」

 ハルミの声はさらに強い警告の色を帯びていた。彼女は桃谷が目をつけた地上の「何か」を既に特定しており、それが持つ危険性を誰よりも理解しているのだろう。


 桃谷は通信機越しに短く頷いた。降下を続ける中、その声には確固たる意志がこもっていた。

 「問題のある女だというのは認識しているが、とりあえず行かせてくれ。」


 「何のために!?」

 ハルミの声が一気に大きくなり、続けざまに畳み掛けるように問い詰める。

 「悪い女が死んだ、それをまさか助けるつもりなん? ロクなことにならへんで、ご主人! 反対や!」


 その言葉には、彼女自身の不安と懸念がはっきりと表れていた。ハルミにとって、桃谷の行動は明らかに理解を超えており、余計なリスクを負う必要があるとは思えなかったのだ。


 しかし、桃谷は彼女の反対に耳を傾ける様子もなく、ただ地上へ向けて加速を続けている。その瞳には、何かを見定めるような鋭い光が宿り、強い決意が滲み出ていた。


 通信機の向こうで、ハルミがさらに説得を試みる様子が伺えるが、桃谷はそれに応じない。ただ静かに地上に向かい、その「何か」に接近していく――。


 桃谷の周囲に半透明の光の壁が形成され、それが彼の降下に伴って大気を鋭く切り裂いていった。その光は灼熱の刃のように周囲を震わせ、耳障りなおぞましい音を宇宙に響かせる。降下速度を増すたび、その音は叫びのように共鳴し、地上の空間に不気味な圧力を投げかけた。


 地上にいた者たちは、最初は遠くから響くその音に眉をひそめるだけだった。しかし、空を見上げた瞬間、彼らは全身を強張らせた。何か――いや、誰か――が落ちてくる。しかも、ただの落下ではない。それは明らかに制御された意図的な降下であり、その周囲を包む光が異様な存在感を放っていた。


 「なんだ、あれは……!」

 襲撃者たちの中の一人が、思わず声を漏らす。彼らは二足歩行するトカゲのような獣に乗り、馬車を囲んでいた。その場面は紛れもない殺戮の終着点であった。倒れた護衛たちの身体からは血が流れ出し、ぬかるんだ地面に赤い泥を作り出していた。護衛たちは自らの命を懸けて高貴な身分の女を守ろうとしたのだろう。しかし、その努力は無惨にも報われず、その女もまた、襲撃者の手によって首を切り落とされていた。


 首を落とされた女の身体は、倒れた護衛たちの中心に横たわっていた。その美しく高価そうなドレスは血と泥にまみれ、かつてその身体に宿っていた気品は見る影もない。襲撃者たちは、その首もまた他の戦利品と同様に扱っていた。

 彼らは殺した者たちから証を剥ぎ取るように、首を掴んでは無造作に網袋へ放り込んでいた。その手に残る血を服の裾で拭う様子には、ためらいや羞恥心など微塵も感じられなかった。


 桃谷は、半透明の光の壁をまとったまま、慌てふためくトカゲや襲撃者たちの近傍に思い切り激しく着地した。まるで隕石が地面に衝突したかのような衝撃が走り、斜めに大地が吹き飛ばされる。硬い土は砕け散り、砂煙が一瞬にして周囲を覆った。その光景に、襲撃者たちは愕然と立ち尽くす。


 「なんだこいつ……化け物か!」

 襲撃者の一人が喉を引きつらせるように叫ぶ。しかし、その恐怖はすぐに現実として彼らの身に降りかかることになる。


 土埃の中から姿を現した桃谷は、傷一つないかのような無傷の姿で立ち上がった。彼は静かに頭を上げると、再びフードを深く被り、その影の奥から男たちを鋭く見据えた。その視線は、獲物を追い詰める捕食者のような鋭さを帯びていた。


 「……。」


 一言も発することなく、桃谷は音もなく襲撃者たちへと歩み寄る。その動きは滑らかで、まるで風が通り抜けるかのような軽やかさだった。しかし、その中には圧倒的な力が潜んでいることが感じ取れた。襲撃者たちは恐怖のあまり足がすくみ、逃げることもできないまま彼を見つめる。


 最初の一撃が放たれる。桃谷の素手の拳が、襲撃者の一人の胸元を正確にとらえる。音を立てる暇もなく、男は地面に叩きつけられ、そのまま意識を失った。その動きは余りにも早く、周囲の者たちは何が起こったのか理解することすらできなかった。


 「化け物だ、逃げろ!」

 別の男が叫び声を上げ、トカゲの背に乗ったまま逃げ出そうとする。しかし、桃谷は一瞬でその間合いを詰め、トカゲの脚を素早く掴むと、軽々と地面に引き倒した。その勢いで男も地面に投げ出され、次の瞬間には桃谷の掌底が彼の顎を撃ち抜いていた。一撃――それだけで男は意識を失い、動かなくなる。


 襲撃者たちを相手に、桃谷の動きはまるで舞踊のような美しさと正確さを備えていた。その身のこなしには一切の無駄がなく、全てが致命的な一撃へと繋がっていた。素手での戦闘にもかかわらず、彼の力に抗える者は一人もいなかった。


 次々と打倒されていく襲撃者たち。その間、桃谷の呼吸は乱れることなく、瞳には冷徹な光が宿り続けていた。その静けさが、逆に彼の圧倒的な力を物語っていた。


 桃谷は戦闘が終わったかのように何事もなかったかのように静かに息を吐いた。周囲には、襲撃者たちが昏倒し、トカゲたちが低い声でざわめいているだけだった。その喧騒の中、桃谷はフードの奥に隠れた瞳を細め、再び息を吐いた。その仕草は、荒れた状況の中にあっても揺るがない余裕と確信を感じさせた。


 桃谷は軽く手を振った。その一見、何の力も込められていないように見える動作の直後――。

 地面に倒れていた襲撃者たち、護衛たち、そして高貴な女性の遺体が、まるで見えない糸で操られるように空中へと浮き上がった。重力を無視したその動きは静かで、なおかつ不気味な光景を作り出していた。


 切り落とされ、無造作に放り込まれていた首も同じく空中に浮き上がり、その首はいつの間にか、何の痕跡もなく元の身体へと繋がっていた。血の跡すら完全に消え去り、身体が整然と揃っていく様子に、桃谷の振るう力の恐ろしさが垣間見えた。周囲の空気が、彼の力に満ちた静けさに飲まれていく。


 浮かび上がったそれぞれの身体は、桃谷が小さく手をかざすと共に整然と地面に横たえられた。その光景はまるで儀式の一部のようであり、異様なまでの秩序を持っていた。


 「ちょうどいい現地人が手に入ったな。」

 桃谷が低く呟くと同時に、彼の袖口から微細な粒子のようなものが飛び出した。その粒子は光を帯びており、揺らめくように襲撃者たちへと降り注いだ。粒子が彼らの肌に触れると、まるで命令を刻み込むようにその身体へと染み込んでいった。


 桃谷の行動がどのような意味を持つのかは定かではなかったが、その姿には一切の迷いがなかった。


 「問題はこっちか……」

 彼は振り返り、整列した身体の中でも特に異様な存在感を放つ遺体に目を向けた。それは修復された護衛たちの身体と、かつて高貴な地位を誇っていた女性の死体だった。桃谷の視線は、その女性の遺体に鋭く向けられ、その眼差しには何かを見極めようとする強い意志が宿っていた。


 桃谷が死体に目を向けて考え込んでいると、通信機から軽快な、しかしどこか呆れた口調の声が響いてきた。

 「ご主人、まさかとは思うけど、そいつらを生き返らせたるとか言うんちゃうやろな?」

 声の主はハルミ。彼女の軽やかな声色には、理解不能だと言わんばかりのニュアンスが滲んでいた。


 桃谷は答える代わりに、ふと視線を落とし、顎に手を当てた。通信機越しに続けられるハルミの言葉が耳に入る。

 「そのバカ女、ホンマに人殺しやで? 軌道スキャンでチェックしたやろ? 人間を拷問して殺すのだーいすき! みたいなやっちゃ! 生き返らせるのに何の理があるんか言うてみ?」


 ハルミの言葉には強い批判と苛立ちが込められていたが、桃谷はただ静かにフードを脱ぎ、顎を撫でながら考え込んでいた。その顔には悩まし気な表情が浮かんでいる。


 「なんだろうな……」

 彼はぽつりと呟いた。

 「俺にもわからん。しかし、この子は環境も悪いと思わないか? 王族以外はすべて家畜のように扱われて、何をしてもいい、むしろ無茶苦茶に扱うべき、のような育ち方をしたわけだ。」


 通信の向こうで、ハルミが短く息を吐く音が聞こえた。そして、少し苛立ちながらも理性的に返す。

 「そりゃ同情するで? 悪い環境で生きたんはわかる。けどな、ご主人、こんな原始文明に先進文明の倫理観を当てはめるのは間違っとる。ここにはここのルールがあるんや、生きとったり、瀕死やったりしたらウチも考えるけど、死んどるやん? この星の死人全員生き返らせる気なん?」


 桃谷は何も答えず、ただ女性の遺体をじっと見つめている。その表情には、迷いや葛藤が明確に現れていた。


 ハルミはそんな彼に、さらに冷静ながらも厳しい口調で畳み掛ける。

 「ほっとき、その女の物語は終わったんや。王族に産まれて、アホみたいな文明でアホみたいな教育受けて、殺しまくって命狙われまくって死んだ。はい、終わりや、終了!」


 その言葉は、まるで重い蓋を閉じるかのような冷徹さを持って響いた。ハルミの語る理屈には確かに筋が通っていたが、桃谷の目はなおも女性の遺体に注がれていた。その沈黙が意味するものは、ハルミにも測りかねるものだった。


 ハルミには、桃谷が抱える葛藤の理由がわかっていた。通信越しに聞こえる彼の声の調子、言葉の端々ににじむ迷い、それらは全て彼が背負う過去の影を映し出している。桃谷もまた、人を殺しすぎたのだ――その事実を、彼女は痛いほど理解していた。


 桃谷は戦士だった。いや、今の彼がそう言えるかどうかはわからない。しかし、かつては間違いなく戦士だった。地球を侵略した敵に対する復讐を誓い、命を賭して戦場に立った。その戦いの果てに、遠大な宇宙戦争のほんの一部に過ぎない砂粒の役割を果たし、ボロボロになった太陽系を解放した。そして――虚脱した。


 戦場の記憶が、桃谷の脳裏にこびりついて離れない。殺してきた者たちの顔が浮かび上がる。どれも、まともな戦場ではなかった。


 敵は、人間の、いや生命の肉体を操作する技術を持っていた。彼らは敵対する種族を養殖し、意志を持たせたまま死ぬための雑兵として戦場に送り込んでくる。自我も経験も関係ない。ただ操られるだけの駒。

 命乞いをしながら、親の名を叫びながら、訓練された動きで襲いかかり、恐怖で泣き叫びながら躊躇なく自爆する。

 敵の本体は、その後に攻めてくる。装甲の上に雑兵を縛り付けて。


 彼らは平和な養殖場で幸福に育ち、成熟すると何の覚悟もないまま死ぬために前線へと『配給』される。


 桃谷は一度、命乞いをする美しい女に躊躇した。

 それ以来、桃谷の前に送り込まれるのは、美しい女ばかりになった。


 次に子供に躊躇した。

 それ以降、戦場に現れるのは、美しい女と幼い子供ばかりになった。


 敵は常に、抗う桃谷たちの心を壊そうとしてきていた。

 その知性の全てを、無慈悲な冷酷さに傾けて。


 それを楽しめる才能は、桃谷にはなかった。


 武器が閃き、肉体が吹き飛ぶ光景が幾度となく脳裏をよぎる。恐怖に染まった瞳が、絶望に満ちた表情が、焼き付いて離れない。


 心折れた廃人が、戦う術に精通した廃人が、ただの日常に戻れるだろうか?

 心を折るのだ。たとえ生き残ろうが、折れた廃人は敵の社会を内から焼く毒となる。

 誰が生き残った友を殺せるだろうか? 病みは病みを広め、いずれ大樹を腐らせる。


 心拍数が上がる。汗がにじむ。息が詰まる。体が震える。

 夜はもう、眠れない。


 桃谷はもともと殺人を好む人間ではなかった。ただ、やるしかなかった。生きるため、そして守るために、彼は数え切れないほどの命を奪った。それは人間だけではない。異星の生物、機械、人工知能。あらゆる存在を相手にし、彼は殺し続けた。戦場では割り切る必要があった。そうしなければ心が壊れてしまうからだ。


 だが、今の桃谷は――。彼がかつてのように割り切ることは、もうできなくなっていた。

 戦争が終わり、復讐を果たした後、彼に残されたのは破壊された何かだけだった。殺戮の中で少しずつ削り取られた彼自身。戦場から離れた今、彼はただの壊れた何かでしかないのかもしれない――その事実をハルミは痛感していた。


 ハルミは戦友だった。桃谷の全てを見てきた。戦場での無数の犠牲、燃え尽きた地球、傷ついた太陽系。彼らが戦場を離れた後も、桃谷を見守り続けてきた。そして今、彼と共に調査任務のような予備的な任務を巡る日々を送っている。もはや前線での激しい戦いではない。しかし、彼女は心の底から願っていた。桃谷が平穏を取り戻し、ほんの少しでも幸福を感じられる日々を過ごせるように――。


 しかし、桃谷は割り切れない。かつて戦場で見せた冷酷なまでの割り切りは、もう彼にはできないのだ。目の前の高貴な女性の遺体を前にしても、それを「物語の終わり」としてただ流すことが、彼にはできない。彼がその目に映しているのは、死体だけではない。その背景にある、終わりを迎えた命の物語。そこに潜む数え切れない痛みと歪み。


 ハルミは通信機越しに桃谷を見守りながら、心中でいくつもの可能性を天秤にかけ続けていた。どの選択が桃谷を救うのか。どの道が彼の魂を救済するのか。彼女には答えが見つからない。それでも、戦友として、彼を見捨てることなどできなかった。


 ハルミは思う。桃谷が救済を見つけるその日まで、彼女は共にいるしかないのだと。たとえ彼が壊れたままであっても、その破片を少しでも拾い集めることが、今の彼女の使命なのだと。


 「……ご主人。」

 短く名前を呼んだその声には、ほんの少しだけ優しさが込められていた。それは厳しさばかりではない、戦友としての彼女の本音だった。


 ハルミの任務は単純だ。いや、一見すると単純に見えると言った方が正しいかもしれない。彼女の本当の任務、それは桃谷がいずれ最前線に復帰できるか否かを判断し、そのどちらの結果になろうとも支え続けること。調査任務はあくまで表向きの仕事だが、根本的な任務はそれとは異なる次元にあった。


 復讐を果たした桃谷は、徐々に自室に引きこもることが多くなっていた。真っ暗な部屋。無機質な壁に囲まれたその空間の一角に座り込む彼の姿を、ハルミは何度も見てきた。彼が口を開くのは、誰かが来た時か、任務が始まる時だけ。彼はほとんど何も言わない。ただ、暗闇に溶け込むように存在している。


 記憶の消去――それは多くの戦士たちが選ぶ救済の手段だった。壮絶な戦場の記憶を消し去り、負担から解放される。しかし、桃谷はそれを拒んだ。

 「結局のところ、自分のやってきたことは自分で受け止めるしかないんだ。」

 かつて彼がハルミにそう語った時、その目は底知れぬ疲労と痛みを宿していた。それでも、彼の意志は揺るがなかった。記憶を消すことで得られる安堵を選ばず、彼は自らが背負った全てを受け止める道を選んだ。


 ハルミは、そんな桃谷の姿を思い出しながら考えていた。目の前には、地面に横たわる高貴な女性の遺体。そして彼女を蘇生しようとしているかもしれない桃谷の姿。

 「ここでこの女を蘇生することは、桃谷にとって良いのか悪いのか……?」

 彼女の頭の中では、幾つもの可能性が瞬時に浮かび、消えていく。それが彼にどんな影響を及ぼすのか、その場限りの問題ではなく、長期的にどう作用するのか――そのすべてを慎重に天秤にかけている。


 ハルミにとって、現地人の倫理観などどうでもよかった。彼らが何を信じ、何を価値とするのか――それは彼女の任務とは無関係だった。重要なのはただ一つ。桃谷をどう回復させるか。あるいは、どうすれば彼を楽にしてやれるか。彼女のすべての思考はその一点に集約されていた。


 戦場を共にした日々の中で、ハルミは桃谷がいかに壊れ、傷ついているかを見てきた。そして、それでもなお、彼が戦士であろうとし続ける姿も知っていた。彼が決して明言しない葛藤や後悔、そして孤独――それらが彼を蝕み、彼の中でどう積み重なっているかを知る者は、ハルミしかいない。


 「……蘇生が正しいかどうかなんて、ウチにはわからん。」

 ハルミは自分にそう言い聞かせる。正解を探そうとしても、それは容易に見つかるものではない。目の前の選択が桃谷を救うのか、それともさらに深い闇に突き落とすのか。誰にも予測できない。だが、ハルミは考え続ける。彼女の役割は、どんな状況でも彼を支えることなのだ。たとえそれが正解かどうかわからない道であっても。


 ハルミは通信機越しに桃谷の姿を見つめ続ける。彼のフードの下に隠された顔は何を考えているのか読めないが、ハルミは戦友として、彼が抱える迷いの全てを感じ取っていた。


 「ご主人、ウチの見解を聞いてくれるか?」

 通信機越しに響くハルミの声は、いつもの軽快さを抑えた、静かなものだった。彼女は悩み続ける桃谷に向けて言葉を紡ぐ。その声色には、深い思索の末に辿り着いた提案の重みが滲んでいた。


 桃谷は視線を動かさず、ただ微かに頷いて応じる。ハルミが続ける。

 「蘇生するとするやん? ご主人はどうしたいんや? その女を改心させたいんか?」


 その問いに、桃谷は目の前の遺体をじっと見つめたまま、ゆっくりと頷いた。

 「そうだな……それがいいかもしれないな。」

 彼の声には迷いがあったが、その奥には確かに一抹の希望が含まれていた。


 ハルミは短く息を吸い、一瞬言葉を切る。そして慎重に選び取った言葉を、真っ直ぐに投げかけた。

 「現地文明の倫理観を無視して、その女に先進文明の倫理観を植え付けたとするやん? その女は、ただ不幸になるだけやで?」


 桃谷はその言葉に反応を見せず、ただ耳を傾け続けた。ハルミはさらに言葉を紡ぐ。

 「今やったら、その女は、なんで自分が殺されるのか、不幸だ! みたいに死んだかもしれん。でも、もし蘇生して、先進文明の倫理観を理解させてみ? その結果、この女は何で自分はあんなにたくさん人を殺してしもうたんやろ? とか、どうして許されへんことをしてしもうたんやろ? そういう風に悩むことになるで?」


 その言葉に、桃谷はかすかに表情を曇らせた。その変化を、ハルミは敏感に察している。彼女は声を少しだけ抑え、真意を伝えるように話を続けた。

 「そしたら、ご主人と変わらんやん。……言いたかないけど、ご主人、自分がその女で実験したいんとちゃうん?」


 桃谷はその言葉に僅かに眉をひそめ、ハルミの言葉の意味を噛み締めていた。ハルミの声は一層低くなり、さらに核心に触れる。

 「人殺しが救われる方法があるのか、みたいな……そう思ってるんやないん? でも、それって、その女にとって本当にええことなんかな……?」


 沈黙が通信の間を埋める。ハルミの問いかけは単なる疑問ではなく、桃谷自身が抱える迷いや意図を明確に突きつけるものだった。

 彼女はただ桃谷を非難しているわけではない。むしろ、彼の葛藤を理解しているがゆえに、そう問いかけずにはいられなかった。


 桃谷は静かに息を吐き出し、わずかに目を伏せた。その姿には答えを見つけられない者の影が差していた。


 「俺は生きていて、すごく苦しいよ。」

 桃谷は静かに、しかし深い感情を込めて呟いた。その声には、押し殺した痛みが明確に滲んでいた。

 「でも自分で死ぬ気はない。それは違う気がする。」


 彼は目の前の高貴な女性の遺体をじっと見つめながら、通信機越しのハルミに問いかけた。

 「ハルミはどう思う? 人殺しの俺は……死んだ方がいいと思うか?」


 ハルミはその言葉を聞いた瞬間、感情が揺さぶられるのを感じた。だが彼女は迷うことなく、毅然とした声で否定した。

 「何言うてんねん、ご主人! ご主人はいつも、やむを得ず殺してきたんやろ? どうしてもそうするしかなかったやん。」

 彼女の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。それは桃谷を責めるものではなく、彼が自分を否定することに対する怒りだった。

 「それに、ご主人はぎょーさん助けたやんか! 命を救った人もいっぱいおる。ご主人が死ななあかん理由なんか、どこにもないで!」


 その力強い言葉を聞いて、桃谷はゆっくりと目を閉じ、わずかに頷いた。

 「……そうだな。」

 彼は再び遺体に目を向けながら、静かに続ける。

 「あぁ、だから……この女にも、他の同じような、選択肢の無かった人殺しにも、機会を与えてみたいんだ。」


 その言葉に、ハルミは一瞬息を呑んだ。通信の向こうで彼の声に耳を傾けながら、その真意を読み取ろうとする。


 「どういうことになるのか、俺は見てみたい。」

 桃谷はまるで自分自身に語りかけるように続ける。

 「そうすれば、俺はどうするべきなのか……わかることがあるんじゃないかと思うんだ。」


 その言葉には、桃谷の内に渦巻く矛盾と葛藤が全て詰め込まれていた。自分自身を救いたいのか、それとも救われる資格があるのかを確かめたいのか。そのどちらとも言えない複雑な思いが、桃谷の中でせめぎ合っているのがハルミにはわかった。


 通信機越しに沈黙が訪れる。ハルミはその沈黙の中で、猛烈な速度で思考を巡らせた。彼が蘇生を望む理由は理解できた。だが、それを受け入れるべきか否か――答えを出すには、冷静な判断が必要だった。


 やがて、ハルミは息を吐き、静かに口を開いた。

 「……えぇで。」

 その声には慎重さと覚悟が入り混じっていた。

 「ご主人が悩んどるのもわかる。生き返らせたいんやったら、ウチも追認するわ。」


 ハルミは一呼吸置いて、続ける。

 「もちろん、その女や護衛にも、監視や対策はバッチリ埋め込むで。」

 彼女の声には確固たる決意が宿っていた。それは桃谷の意思を否定せず、しかし状況を制御しようとするプロフェッショナルとしての姿勢だった。


 全ては桃谷のためだ。ハルミはそう思った。彼が答えを見つけるための機会を与える。それが彼を支える戦友として、今自分にできる最善の判断だと信じていた。


 ハルミは心の中で決意する。

 「リターンを得るためなら、リスクを許容する。長期的にご主人が救われるためなら……今は賭けてもいい。」


 ハルミは桃谷の決断に追従しながら、心の中で再び考えを巡らせていた。合理的な解答だけでは割り切れない部分がある。それが心の難しさだ。どんなに慎重に計算しようとも、何が桃谷にとって薬になるか、毒になるかは確定できない。正解は、いつもあとになってしか見えてこないものだ。


 だからこそ、ハルミが今できるのは、状況をコントロールすることだけだった。彼女は桃谷を見守り、必要に応じて手綱を握ることを使命としていた。それは、かつての桃谷が戦場で見せていた冷徹さに似ている。けれど、桃谷とは違い、ハルミには感情的な重みがあった。彼女にとって、桃谷の未来こそが最大の優先事項だった。


 「……進んで冷酷になるつもりはないけど、必要になれば辞さない。」

 心の中でそう自分に言い聞かせながら、ハルミは目の前の状況を冷静に見据えた。目の前の高貴な女性の遺体と護衛たちの身体――これらが、桃谷にとってどう作用するのか。彼女には正解がわからない。それでも、桃谷が答えを見つけるためには、この手段を試すしかないのだ。


 そんな彼女の思考を知るはずもない桃谷が、静かに腕を上げた。その袖口から、無数の小さな足音が響く。やがて、光沢を持つ百足のような装置が何匹も這い出してきた。彼らは艶やかな金属製の身体を持ち、まるで生き物のように滑らかな動きで蠢いていた。


 その百足たちは、躊躇することなく死体たちの方へ向かっていく。そして、遺体の口や傷口、関節の隙間などに入り込み、肉体の中へと潜り込んでいった。その動きは無機質で冷たいが、どこか生命を宿しているような不気味な存在感を放っていた。


 これらは通常の蘇生装置ではなかった。百足型のボットたちは、ただ身体を動かすだけではない。監視装置であり、処刑装置でもある。単独判断能力を備えたそれらは、目標が何らかの危険行動を取った際に即座に対応し、必要とあらば命を絶つことができる。しかも、完全に自律的なAIが統制しており、桃谷の直接的な指示を必要としない。


 「……監視と制御、そして再教育。これが最低限の条件やな。」

 通信越しにハルミが短く言う。その声には冷徹な響きがあったが、それはハルミの本意ではなかった。彼女にとって冷たく見える手段も、全ては桃谷を救うための一手に過ぎないのだ。


 百足型の装置が遺体の中で蠢き、奇妙な微光を放つ。その光が、生命活動を再起動させる準備を進めていることを示していた。護衛たちの身体がわずかに震え始め、高貴な女性の遺体にも変化が現れ始める。


 「ウチがリスクを許容したのは、ご主人のためや。全部な。」

 ハルミは心の中でそう自分に言い聞かせた。桃谷を支えること――それがどんな困難な選択を伴っても、彼女はその責務を全うする覚悟を持っていた。


 百足型ボットが死体たちに潜り込んでから、わずか数秒。すぐに目に見える変化が現れ始めた。護衛たちも高貴な女性も、体全体が震え、けいれんを始めた。そして、身体中の穴という穴から、粘つく汚れた液体が溢れ出す。それは血と腐敗した体液が混ざり合ったような異臭を放つものだった。


 だが、その汚液は地面に垂れる前に、まるで何かに吸い取られるように消滅していく。汚れた液体が消えていくたびに、死体たちの体表が徐々にきれいになっていくのが分かった。汚泥が剥がれ落ちたかのように、血に染まっていた肌が清潔で滑らかなものへと変わっていく。


 「さすがに、この文明レベルだと不潔すぎるからな。」

 桃谷は冷静に頷きながら呟いた。


 彼の言葉通り、彼らの身体はどんどんと改造されていった。破壊されていた組織は再生し、骨は修復され、肌や髪は以前よりも健康的で艶やかなものに変化していく。傷跡は跡形もなく消え失せ、その外見は次第に整ったものへと変わり始めた。


 その変化を見たハルミが、慌てて通信越しに突っ込みを入れる。

 「ちょちょちょ、ご主人、あんまり美化するとこいつら世間から浮いてしまうで!? 中世レベルの原始文明にこんな美男美女おったら怪しさ満点やん!」


 桃谷はその言葉を聞いて、一瞬だけ考え込むような仕草を見せたが、すぐに肩をすくめて答えた。

 「でも、不細工だと俺のモチベに関わるし……。」


 そのあまりにも率直すぎる返答に、ハルミは長い溜息をつく。

 「はーーーーーーーーー、それは……まぁ、わかるけどな。」


 桃谷は、満足そうに変化を続ける死体たちを見つめながら続けた。

 「蘇生して美形化、清潔化、健康化だぞ? 普通は喜んで欲しいものだろう。」


 ハルミは呆れ果てたような調子で「まったく、ご主人らしいわ」と呟きながらも、最終的には納得するしかなかった。

 「まぁまぁまぁまぁ、やる思っとったけどな! さすがに不細工は避けるやろって!」


 蘇生された護衛たちと女性の体は、驚くほど健康的で均整の取れた姿へと変わりつつあった。さらに清潔感を放つその外見は、もはや元の姿を想像することさえ難しいほどだった。だが、それを眺める桃谷の表情には満足げな光が宿っており、彼自身の心の中の迷いを抑え込むかのような安堵の気配すら感じられた。


 やがて蘇生と改造の処理が完全に終わった。遺体だった彼らは、その全てがまるで別人のような姿へと変貌を遂げていた。特に、問題の女性――赤毛のツインテールを揺らすその美少女の姿は、桃谷の視線を捉えた。スレンダーながらグラマーな体型、そして以前の気品と残酷さを合わせ持った印象からは程遠い、どこか無邪気でありながら気の強そうな雰囲気を漂わせている。その容姿は若返りも著しく、少女と呼べる年齢になっていた。


 護衛たちもまた、彼らがかつてどのような風貌をしていたのか想像もつかないほどの変貌を遂げていた。どれも均整の取れた体格に整えられ、戦士らしい力強さを放ちながらも清潔感が漂う。彼らの記憶もまた改変されており、赤毛の美少女が彼らの「主人」であるという認識を完璧に植え付けられていた。


 桃谷はその仕上がりに満足げに頷き、思わず口元を緩めた。

「素晴らしい。豚舎の豚と見間違うような連中を相手にするよりも、これなら俺のモチベーションが段違いだな。」


 通信機からハルミの呆れた声が鋭く響く。

「ふーーーーーーーーん!? ご主人、ほんまに自分の都合丸出しやな!」


 桃谷はその言葉を受け流しながら、彼女たちの元に一歩近づくと、楽しげに手を振ってみせた。その仕草には、どこか計算された軽やかさがあった。


 すると、まるで桃谷の合図に反応したかのように、護衛たちと赤毛の少女がゆっくりと目を開き始めた。赤毛の少女の長い睫毛が震え、瞳が初めての光を取り込むかのように微かに揺れる。その瞳には一瞬、混乱の色が浮かんだが、次第に意識が定まり、周囲を見渡し始めた。


 赤毛の少女は困惑した様子でゆっくりと立ち上がると、両腕を組み、尊大な口調で言い放った。

「ちょっとあんた! 頭が高いわよ! 何様のつもり!?」


 その言葉遣いに、桃谷の表情は一瞬あっけに取られたようになったが、すぐに納得したように目を細め、通信機越しにハルミへと囁く。

「翻訳をいじったな?」


 通信の向こうから、ハルミの明るい声が聞こえた。

「せやで。えぇやろ、このくらい。」


 桃谷は何か言い返そうと口を開きかけたが、その前に少女が再び声を張り上げた。

「控えさせなさい!」


 少女の命令を受けた護衛たちは、困惑の色を浮かべつつも訓練された動きで桃谷へと迫り、拘束しようと一斉に掴みかかる。だが、桃谷はその手を軽く振り払っただけで彼らをいともたやすく弾き飛ばした。


「無駄だ。」

 短く呟くと、桃谷は少女の方へとズカズカと歩み寄る。その動きは威圧的で、少女を黙らせるには十分だった。


 少女が何かを言う暇もなく、桃谷は彼女の肩をぐっと掴むと、無理やりその場に膝をつかせた。

「悪いが、俺は何でもかんでも膝をつく男じゃない。」

 桃谷の声は冷徹な響きを帯びている。

「膝をつかせたいなら、俺を感服させることだな。」


 少女は反発するように顔を上げたが、そんな彼女の耳にはもう桃谷の言葉は届いていないようだった。代わりに彼女は大声で悲鳴を上げ、絶叫し始めた。


 その騒ぎに、通信越しのハルミが呆れたようにぼやく。

「野蛮な原始人、ほんまうるさいわー。」


 桃谷は溜息をつきながら、泣き叫ぶ少女を見下ろした。その視線には微かな苛立ちと、わずかな哀れみが混じっている。


 激高した護衛たちは、怒りと屈辱の表情を浮かべながら一斉に桃谷へ襲いかかった。しかし、その動きは唐突に封じられた。

「何……?」

 護衛たちが驚愕の表情を浮かべる。彼らを押さえつけたのは、なんと先ほど桃谷が打ち倒したはずの襲撃者たちだった。


 襲撃者たちは先ほどと何も変わらない外見だったが、その動きは異様なまでに統制され、無駄な仕草一つない。声も上げず、淡々と護衛たちを確実に抑え込んでいく。その様子はまるで人形のようで、生気を感じさせなかった。


 桃谷は、目を見開く少女と動きを封じられた護衛たちを見渡し、冷然と告げる。

「いいか?」

 彼の声は低く静かだったが、確実に相手の心に突き刺さる威圧感を帯びていた。

「お前たちは、さっきこいつらに殺された。わかるな? 無様に命乞いをして、汚物まで漏らして、惨めに死んだ。」


 その言葉を聞いた瞬間、少女と護衛たちの顔は血の気が引き、呆然と桃谷を見上げる。


「夢じゃない。」

 桃谷はさらに追い打ちをかけるように続ける。

「そこに俺が通りかかった。そして、お前たちを蘇生させ、助けてやった。それだけの話だ。」


 少女は金切り声を上げて激しく抵抗し始める。

「嘘よ! そんなこと信じられるわけがない! 無礼者! 下賤の者が!」


 しかし、桃谷は冷静だった。彼はわずかな体術を使い、少女を簡単に地面へ押さえつけた。その動きは素早く、そして容赦がなかった。少女は声を出すことすらできず、無力感に震える。


「今から、お前たちは自分の国に戻る。」

 桃谷は少女を見下ろしながら、淡々と話を続けた。

「戻って賊徒を倒し、この襲撃者たちのような人形を使って国を奪わせてもらう。」


 彼の言葉には、反論の余地を許さない冷酷な意志がこもっていた。その瞳は、少女を見ているようで、実際には彼女の奥にある何かを見透かしているようだった。


 少女はなおも憎しみを込めた目で桃谷を睨みつけ、全身を震わせていた。桃谷は一瞬だけ手を緩め、少女に声だけは出せるようにした。その途端、少女は血走った目を桃谷に向け、言葉を吐き捨てた。

「無礼者が……!」


 その憎しみの籠もった声は、空虚な土地に虚しく響き渡るばかりだった。桃谷は冷静に彼女の姿を見下ろし、何も言わず立ち上がる。そして少女の肩から手を離した瞬間、彼女は地面に倒れ込み、荒い息をつく。


 通信越しのハルミが、その光景に呆れたようにため息をつき、皮肉たっぷりに呟いた。

「相変わらずやなぁ、ご主人。ほんま野蛮な原始人たち、手に負えへんわ。」


 桃谷は眉一つ動かさず、地面に倒れ伏す少女と無言の護衛たちに視線を落とした。その姿には、彼独自の冷徹さと揺るぎない決意が表れていた。

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