第4話 ① 苦悩にさす光
イギリス、ロンドン郊外病院にて_
蝋燭の灯りが薄暗い病院の廊下を寒々と照らしていた。清潔感のある白い壁と、自分の知らないところで何かが起こっているという排斥感が平穏を奪っていった。
恐ろしいほどの冷たい風が渦巻いているようなこの空間にさまざまな人々が往来を繰り返す。
セオドアは壁に背中を預ける気にもなれず、ただ俯いていた。木製の椅子はまるで金属のように冷えていた。
湖よりも深く沈んでしまった心の中には多種多様な思いを潜めた魚が泳ぎ回る。地に足を固めつつある蓮の花を食いちぎろうとしている。
その度に我に帰り、セオドアは荒い呼吸を抑える。触れる瞳で見えた自分の両手は小さく細く見えた。
「やほ、どうだい?続報か朗報か、速報か、何かある?」
病院の重苦しい雰囲気にも、セオドアの新月よりも深く濃い暗さを過ぎ去るような軽快な声。
人形のランスを片腕に抱いた男が近づいて来た。衣服が黒一色でないことはあの女性の影響を彷彿させる。しかし、彼女も彼の全てを否定するほどの残酷さはない。だから靴と帽子だけは彼が残っている。
「いえ、何も」
「そ。マーレは不安がっていたけれど、こんな状態のお前を見せたら病院で戦争が起こるからね。やめておいたんだ、感謝してくれても良いんだよ」
「どうも、ありがとうございます」
目線でさえも合わせない彼を見下ろすとなんとも言えない腹立たしさが現れた。そして、無意識と意識の合間で出たのはいつものチェーロなら出さない、最低限以下だった。
「ちっ」
チェーロは隣に立っておきながら、隠しもしなかった。一向に隣に座ろうとしないのは彼なりの気遣いか、はたまた純粋な嫌悪か。それはわからない。
「人間らしくなったね〜俺も、お前も。これなら、俺たちも堂々と生きられそうだ。」
「僕が人間らしいですか?
貴方は、嘘を並べて嘘で全てを取り繕うあたり、良いご趣味のままだと思いますけれど」
「…君もな。
あの少女の出会いによって俺たちの中で何か変わっているんじゃないか。って馬鹿で鈍感、偽紳士も気づく時なんじゃない?
早く、一緒に歩けるといいねー」
「機械に歯車が一つ増えただけのことなのに、それの有益性を新聞ではなく葬儀屋が自ら調べるとは、手紙も行方を知らない家族に手紙を出すべきかもしれません」
「はっ、性格悪いなぁ…セオドアは。」
そのまま二人とも口を開くことはなかった。マーレとの戦争は防げたが、結果的に同盟国との口争いが始まったのであれば本末転倒もいいところであろう。
それに、互いに言いたいことなど水面下で隠れていても明日の天気を占うよりも容易いことだった。
時は今 朝、早朝である。
廊下の端に鎮座する大きな窓の奥では人の往来が見え始めた。これから工場での仕事へ向かう女性か、男性か。皆、顔に色がない。疲労よりも重い感情がある。
普通に生きている人間でさえ、日々あのような表情をするのであれば、より息が詰まる日常を送る自分はどんな表情をしているのか。男にはわからなかった。ただ、墓を彷徨っている亡霊よりかはマシだと思いたい。
「セオドア・コーマンさん、こちらへ」
看護婦であろう女性がセオドアの前に立ち、ベットが並ぶ部屋へと静かに向かっていく。重い体が今の自分を全て体現している。
顔を上げるのも億劫になり、肩から落ちたコートをチェーロが慌てて拾い、掛けるほどだった。
隣で歩く男が腕で優しく抱え込んでいる人形のランスの瞳が眩しいほどに輝いている気さえした。
その男は、やはり平然な顔だった。
すれ違う医師の資格を本当にあるのかさえわからない医者達を睨んでやろうかと思ったが、自分も同じ立場であると自己嫌悪になる。
そして、自分の背後で己を指差し批判的な目を向ける自分に気が付き、背中が冷える。
コートの皺を気にせずしがみつけば、今日の己の仮面がズレていることなど痛感する。
髪の端にお揃いだと言って昨日初めて結んだ三つ編みは跡形もなかった。視界の端で揺れるその髪は彼に複雑な思いを呼び起こした。片眼鏡だけが唯一の防衛線を引いてくれている。これが無くなった時、自分が今に何をしだすか何を口に出させるのか不安であった。
「先生、セオドア・コーマンさんとお連れの方をお呼びしました」
「あぁ、セオドアさん。どうぞ、こちらへ」
病室の戸が看護婦によって開き、進んでいく女性。なぜか一歩踏み入るのに勇気がなかった。まだ、余命一年は経っていない。だからその未来はないはずだ。だが、だが、と不安と興奮の狭間で胸が躍っている。
呼吸が速くなっている気がした。
口元に手を当てれば息を吐く口元が上がっている。
視野が狭まっていく。無機質な石に床がどうしても恐ろしいような気がした。ありえないが、この床が崩壊し、自分だけの一歩も足が出せないような状況になるんじゃないかと。
だが、目元はきっと垂れるように開かれ瞳は横に長く見えるかもしれない。頬の熱さが異常さを掻き立てる。
いないはずの家族の声が耳のそばでした気がした。そしてあの喉を締め付ける冷たい手は背中から腕を伸ばし、遂には自分を包み込もうとしている。
セオドアはまだ自分の心の整理ができない。だが、彼から言わせれば“分かりたくない“のかもしれない。自分の過去と向き合い、自分を受け入れ、自分がわからなくなるほどに薄めたあの自分を捨てるのが恐ろしいのか、はたまた早く捨ててしまいたいのか。
セオドアは思うのだ“あぁ、待てない”と。
そう思い始めた時、誰かが自分の隣に立つのがわかった。その人が出す声がまた自分を救ってくれたと気がついたのはその後だった。
「おーい、アリスー。セオドアが三つ編みして欲しいってさー」
チェーロはそれだけ言うと、セオドアの腕を掴むと彼を無理矢理引っ張りながら進んでいく。腕を引かれた時の強さは友人故の配慮のなさ、と言うだけではない。きっと、八つ当たりであり叱責を含んでいる。
だが、この重たい空気の中からあの妻の声がしてくれるわけがない。一回でも最悪の未来に喜びを感じた自分に会いたいと思うのか。子供のように駄々をこねる脳内ではチェーロを振り払う計画の方を考えるのに、精一杯だった。
顔を直し、平常に戻る、仮面をつける時間もない。仮面が今は自分の手から落ち、床でヒビを無造作に入れながら落ちたことだろう。
手元に汗が滲む。
「あら、その前に彼に言わなくちゃいけないことがあるの!セオドア!こっちへ来てくださらない?」
チェーロの声よりもはっきりと聞こえた。その反対に呻き声のように誰かの唸る声が去っていった。
掴まれていた腕をそっと外せば、おぼつかない足のまま白いカーテンを開け放った。
カーテンが騒がしく開けば、そこには似つかわしくない服を着て口元を手で隠し微笑む女神がいた。
太陽の光が淡く入り込んでいるだけなのに、陽だまりの中にいるかのような輝きだった。
一言で言うならば_美しい。以外に何が当てはまるのか。人の心理描写を描くのに秀でたあのシェークスピアでさえ、今のセオドアの気持ちと彼女の美しさが与た感情を書き起こすのは難しいだろう。
男はただアリスの空いた手をとると、ベッドの横で少年のような笑みを浮かべ、ただ一言を言った。
「おはようございます、アリス。」
そっと冷や汗の名残か違う汗の残りが多少濡らした前髪を撫で付けつつ、頭の上に優しい手を動かすと彼女は目を柔らかく細めて返すのだ。
「おはよう。セオドア」と。
看護婦も医師でさえも、この二人の純愛さにはどんな病でさえも勝てないだろうと思った。
だが、医師はそう思いつつも心のどこかで男に対する恐怖とぶつかり合う違和感を覚えた。
奇跡や魔法を信じない人間でも、どうかこの二人に聖母や神が振り向き手を差し出しますようにと願うだろう。
たった一言の挨拶だけで、言いたいことが全てわかるわけではない。だが、その一言に二つの意味が隠れていて、それを汲み取った時本当の安堵を得られることはこの夫妻にしかわからない。
そんな朝だった。
「おそらく、スモッグの影響かもしれません。
石炭を使ったことによってあぁ、ほらもう出ているあの煙突の黒い煙。あれを元々持病で弱っている肺や器官に急に押し寄せたから、と言うのが見解です。
もちろん、他にも可能性はあります。ですが、科学が進歩しても今の時代での限界はあります。安静にしてください」
医師はそれだけを言うと、終わらせようとしたが思い出したかのようにセオドアだけを残した。
チェーロとアリスは廊下に出された。肌寒いがアリスは寝巻きのままだ。
これはセオドアがあの後自分の身支度を適当にスーツだけ拵えて走ったせいであり、夜間に病院が閉まっていながらも彼のドアベルの騒がしさに開けてくれた医師の優しさという背景がある。
だから、セオドアは自分の少女にはサイズが合わないコートを羽織らせた。床に不衛生だが引きずるのは愛らしさを含む。そして、いつかそれを引きずらなくて済む日を望むと共に暗くなった。
親しげに話し合う二人に若干の違和感を抱きつつ、木製の椅子に座り直せば医師は深刻な顔をしている。男は曖昧ながら言いたいことを悟った。
そして思うのだ、だろうなと。
「セオドアさん、ロンドンを離れてください。」
医師は淡々と放った。それは一番の解決方法であるが、残酷な宣告であった。
彼が自分を擦り切ってでも押し潰してでも手に入れたものを手放せと言っているのだ。それでも、彼女と一緒になるべく共にいたいなら。という文句と一緒に。
だが向かい合った医師は息を呑んだ。彼の中に自分はただの小石としてしか、認識されていないと気づいたからだ。なんと瞳が虚無に侵されていることだろうか。
診察室の気温が一気に真冬に戻ってしまっている。
医師は口を閉じると、ただ噛み締めた。目の前の男の無機質を。男の感情は頭にある言葉はこれは怒りではなく、葛藤でもない、ましてや喜びなどという是の感情ではない。
ある意味0だ。
「そうですか。ありがとうございます。」
男がそんなことを思っているわけがないことも、感謝をするべきでないと理解しているのも承知の上だ。
定型分を言っただけだ。目元を変えず口角だけ上げた人形以下の笑みを浮かべると、彼は室内からそのまま去って行った。
(…私は今、人と話をしていたのだろうか。彼は彼女の安否に怯えていたのか?
あぁ、恐ろしい。どうか、ロンドンから去ってくれ…)
背もたれに預けた医者は深いため息を吐いた。
「戻りました。アリス、帰りましょう」
「えー俺には何も言ってくれないの?お前のことを思って歩いて来たんだけどなぁ。アリスのこと見守ってあげてたのになぁ〜。
あーあ、セオドアってひどいなぁ」
人目を気にせず無駄に大きな声で駄々をこねる男の姿は本当に哀れに見えるものだ。蔑んだ視線を送らざるおえない。
自分よりやや上にある少女は、コートを返そうと腕の中で動くが男からの「大丈夫ですよ」の一言で静かになった。首元に腕を伸ばせば安定はする。
その前で深く腰掛け、足を左右に堂々と開き、人形を抱きしめてはその瞳はおそらく家で朝食を心配そうに作るウサギのことを考えているのであろう。
先ほどのチェーロの発言を無言で反芻してみればあぁ、的を射ているなとつくづく感じる。
「…堂々生きてみるにはまだ僕は恐ろしいと思います。仮面の下で傍観している方がきっと世界が美しいと信じていられるじゃないですか」
「壊れそうな仮面を付けて、舞踏会では室内の端にいるって?
それこそ、恐ろしいとは思わない?音楽から外れたお前を人々はどう見つめるんだろうな」
「その時は舞踏会のホールから一人分の影が消えるだけです」
的を射た彼の言葉を思い返した結果、出てしまった言葉に彼は即座に対応した言葉を返した。アリスは訳も分からず、二人を相互に見ては結果困惑のままになってしまった。静かに見つめ合うこの居心地の悪さしかない場は原因も何も知らない他人からみれば、揉め事を通り越した威嚇かと思わせたが、後退を決めたのは嘘つきな紳士だった。
「今日は、ありがとうございました。また、今度お会いしましょう」
「はいはい、まぁそれでいいや。じゃ、気をつけろよ、お前。」
怪しく煌めいた片眼鏡越しに見えた瞳は南極よりも冷えているようで、製鉄所よりも熱く見えた。
後味の悪い飴玉を舐めさせられた気分がチェーロには残ったが、慌てて手を振る少女に手を振り返し姿が見えなくなった後彼も静かに病院から出て行った。
残された椅子には何も残らず、何か変化があるとすればその病院のとある医師が資格不所持を理由として足早に、辞職したことであろう。
彼は辞職する時に同僚に吐き捨てた言葉があった。
『病人に対して頬を赤らめ、瞳に光を失っているのに笑っている人を君たちは人と呼べるのか。』と。
同僚はこう言った。
「いや、それを俺は死神であり“ウィアード“と呼ぶね」と。
今日は静かにここで休もうと決め込み、帰宅すればポストの中にはあの策士の筆跡で「仕事です」とだけ書かれた分厚い一つの茶封筒があった。
一つだけかと思えば、玄関前には入りきらなかった三つの茶封筒が見えた。
「…ごめんなさい、セオドア。私のせいね」
「いえ、元々策士には指定の時間までに通勤しなければ、書類を送るよう言ってるんです。アリスのせいではありません。
今日は貴女の部屋で仕事をしましょう」
少女は部屋に入るとコートをそのまま離さず、セオドアがしゃがみ込み緩んだ腕から放たれた。
玄関の棚に置いた茶封筒を持ち上げると、いつもよりも重く感じた。
腕に力がうまく入っていない気がした。少女を持っている時に自覚しなくてよかった。逆に、彼女が腕の中にいた時はいつもよりも力が込められている気さえした。
思わず自嘲した。
階段を安静にと言われたことも忘れ、走り回る彼女の音を聞きながらリビングへ行けば紅茶を淹れようと動き始めた。
その時、初めてティーパックがなくなったことに気がついた。
自分一人の時は朝に飲んで夜に飲んでおしまいのはずが最近はそれが二倍になったのだ。取り出す量と、減る量が二倍になった。
(どこを見ても、貴女を思い浮かべてしまうとは…まるで残り香に縋っているようですね)
アリスが謎に押し進めてきたお揃いのティーカップを出せば、今日はコーヒーにした。
苦いコーヒーは嫌いだろうと思い砂糖と牛乳を目分量に入れれば、甘そうな色になった。
トレイはどこかと、振り返ればそういえば音がしないなと気がつくのだ。自分の家がこんなにも色を持っていたのだろうか、と思うほど今家には鮮やかさがある。
壁の色は何も変わらないのに、眩しいと思った。
それに、考え事が増えた。頭にはいつも自分と彼女がいる。それが幸せだと思った。
トレイにティーカップを二つ乗せ、この前定期の手紙と一緒にあの孤児院の女性が送ってきた中々手が出せないクッキーを、二枚ずつ皿に盛り、乗せた。
カップの上で不規則に揺れる白い煙にも似た空気の流れは気分を変えてくれる。
アリスはどこにいるんだろう。自分の部屋だろうか、あぁ、そういえば封筒はどうしよう。また、取りに戻ろう。今日は何も急いでいないから。
彼女と何を話そう。口下手な自分の話に飽きていないといいが。コーヒーが苦手だったらどうしようか、紅茶を買いに出かけようか。
このクッキーは彼女の好物だろうか。
セオドアは人らしいほどに笑みを浮かべていた。
「あら、何か香ばしい匂いがすると思っていたらコーヒーだったのね!
あ、ママからのクッキーだわ」
「おや、部屋にいらっしゃると思いましたが、こっちにいらしたんですね。
このクッキーはアリスがお好きな物ですか」
「そうね!ママが誕生日に買ってくれたのよ。
皆んなは本とか人形を頼むんだけれど、クッキーがいいのって言ったら、ママがこれをくれたの。
もしかして、セオドアはお嫌いかしら?」
リビングの机の前でふと考え込んでいれば、いつの間にか足元には愛らしい妻が、頭に三つ編みを編み込んだ変化とともに訪れた。
下から覗き込むように入り込んでくるその青い瞳が今日は少し影が侵入している気がした。いつも通りのはずの会話は少し変だ。
二人の心の糸に絡れが生まれているわけではなく、片方に改めて隠していたほつれが生まれただけ。それだけだ。
「どうなんでしょう。嫌いではない、のかもしれません」
「じゃあ、それを今日は解明しましょ!」
『じゃあ私がこのトレイを持っていくわ』と、机に置かれたお茶会の準備をセオドアよりも随分小さい手で彼女は軽々と持ち上げて、足早に行ってしまった。
彼女の歩きにどこか違和感を覚える。あの時と同じだ、そう直感的に思った。
そう、二人の時間を二人が無自覚のうちに恋しく思っていたと気がつくあの朝のように。
セオドアは人の気持ちも、自分の気持ちを伝えることができない。だから、今回も手の中にある砂のような宝石たちを彼は手の隙間から溢れ散らしてしまうのだ。
その上を何食わぬ顔で大きな足で踏み潰し、歩けば彼が気にすることはなくなる。今回もそうでいいのか、悪いのか。圧倒的後者が、胸を叩いた。
アリスの部屋は昨夜見た時と何も変わらない。ただ、太陽の光がよく届いているだけだ。同じ家の一室なのに、セオドアの部屋とは真反対に位置しているかのようだった。
野原にあるコテージが彼女の部屋であれば、セオドアの部屋は真冬の山にある緊急用の古びた小屋がお似合いである。
部屋に入ると、まずは約束通りに髪を編んでもらった。まだ二日目だがこれが心地いいと思えるようになっていた。彼女の柔らかい手が自分の髪を持って、慎重に編んでいる。たまに軽く引っ張られるが、痛くはない。
「ん〜!やっぱり、このクッキー美味しいわ」
『コーヒーもね!』と幼さ残る顔は言うが、どこか張り詰めた頬が見えた。
あの夜のように体の外から冷えるような寒さはないのに、どうしても冷えていると思った。
ベットの上で慎重にコーヒーを揺らす彼女は目線に気がつくと「どうしたの?」と声をかけてくれる。徐々に上に昇った太陽が窓から光を差し入れて、彼女の銀の糸を光らせる。手に取っても色も光もくすまないが、このままでも美しい。一本一本が芸術品なのだ。
「アリスは、怖いですか。死ぬということが」
最後のクッキーを口に含もうとした手をそっとおろし、掛け布団の上を見つめる。手の中にあるクッキーは寂しげに見つめている気がした。
セオドアをチラと見れば、やはり光のない彼は子供のようなおとなしく純然な顔をしている。
多分これは『どうして海は青いの?』などと、学者でない一般の親を困らせる純粋な質問をしているのと同じなのだ。もちろん、子供が。
だが、彼が近づこうとしているのがわかるからこそアリスには答える義務が課せられている。
頭の中で言葉を何回も反芻しても、答えに変化はなかった。
「えぇ、怖かったわ。自分がどこに行くのかも、その行き着く先で一人になってしまうんじゃないかと思うと怖かった。
でも、違うのよ。
今は、次に目覚めた時、貴方と出会うための方法と考えたら怖くないわ。楽しみよ、今は」
微笑んでみれば、やはり彼はわからないようだった。コーヒーを二人して飲めば、沈黙の時間が流れた。
少女は考えさせ、男は考える。
冷たい微風は優しく髪を弄び、時間を遊んでいる。外の騒がしい音もどこか遠いことのように聞こえた。
トレイで輝いていたクッキーもコーヒーもいつの間にか消えて無くなりかけ、ティーカップは暖かさを失った。
少女は手の中に眠っている菓子を頬張ると幸せとイタズラの笑みを浮かべた。どうやら心には平穏が戻ってきたらしい。
その様子をまるで動物を監視するように見つめている男。最後のクッキーが咀嚼され、喉を通過し甘いカフェオレが喉を通った時、思いついたように口を開いた。
「…僕はアリスとまた出会えるんですか」
それは死んだ後の話だった。
彼女が死んだ時、自分が何をするのか何を思うのかはわかりきっている。だからそこを心配する時間は要らない。そう思った時に、心の中の一人で住んでいる住人が問いかけた。
『じゃあ、彼女の死は一度しか見れないのか』と。
彼と向き合う机でチェスの駒が一つ倒れた。
倒れたのは多分、ナイトだ。何かを守ろうとしているのに、防御が一つ消えた。キングのコマの先にある椅子で傍観している自分の心臓を鷲掴み、ネクタイを引き寄せ、耳元で囁く。
自分が死んだ後、汽車から降りた時彼女はそこで待ってくれているのだろうか。もしくはすれ違うように列車に乗っているのだろうか。
いや、待ってくれているわけがない。彼女は次の人生のために違う人と会うために汽車に乗っている。お前が持っている白いユリは、誰かの靴底で薄汚れるだけだ。と。
住人のせいでセオドアの中に不安と初めて手にした感情_寂しさを理解してしまった。その時、男は不快感と気持ち悪さから吐き気がした。
吐き出してしまえばよかったのに。
人間臭くて仕方がなかった。
「えぇ、運命が会わせてくれるわ、きっと。
運命って、歯車じゃないの、糸よ」
目元を閉じ、微笑む彼女は頬を撫でるように優しく語る。
右手の小指を自身の前で見つめるとそっと撫で上げた。自分にとっては十分な大きさの手も、隣で不思議そうに見つめる彼と比べれば人形のように小さく見えた。
「ここに、運命の赤い糸があるの。そして、その糸の向こうにはセオドアが立っている。来世もその次も、ずっとよ。
だからね、セオドア。悲しい顔をしちゃダメよ、まだ私はここにいるわ」
小さい炎が冷えた氷を包み込んだ。その炎は小さいのに、氷を一瞬で溶かしてしまった。
青い瞳はまるで猫のように鋭いが、可愛らしさもある。猫じゃないかもしれない、やはり彼女は聖母に近い。
全てを善として包み込んでくれるその懐はどうしても離れることを拒ませ、独占欲を掻き立てる。あの死神のような女性の手中で舞い踊る鳥とは思えなかった。
「さ、セオドアにはお仕事が待っているんじゃない?私はここで編み物をするわ、マーレに教えてもらったのよ!」
ベッドの下からマーレから譲ってもらったであろう赤い毛糸が多く入った籠を取り出し、ベットに置く。中には彼女のらしくキレのある字で作り方のメモが入っている。
一度教えてもらおうと思い、同じように書いてもらったが、初心者にもわかりやすい言葉でベースが書かれているのに加えて、余白にコツや想定される質問への回答を書く程丁寧な仕事ぶりであった。
結局、セオドアは彼女の店にてそのメモを読んだ後丁重にお返ししたのだが。理由は簡単だ、興味が失せたのだ。
それに、チェーロがなぜそこまで人形に固執をするのかもわからないほど惹かれなかった。
今でもそのことを彼女は根に持っていると見せかけて、さほど気にしていないらしい。
マーレはそういう女性だ。いい意味で潔い、悪い意味で薄情。
何を作るのか、といつものように訊けばいいのに、男はそれをしなかった。トレイを片しに部屋を抜ければ、力がどんどんと抜けていくような気持ちだった。
やはりアリスと言う少女は自分よりも大人びているとわからされてしまった。死というものに恐れを抱いていない。
なのに自分は彼女との別れをなぜか怖がっている。初めて会った時は、その瞬間を待ち遠しく思っていたはずなのに、だ。
階段を下る度に、自分の心の秩序が砕けるような心地がした。
あぁ、このまま人間になれたらいいのに。そう息を吐いた時のことだ。
ドアベルがうるさいほどに鳴ったのだ。この鳴らし方には覚えがある、あの人の気持ちがわからないほどに完璧を求めるあの男だ。
リビングにトレイを置くと、玄関へと向かう。
ドアノブに手を掛け、ゆっくりと回し戸を開けばそこに男はいた。何やら分厚い本を片手に持っている。こちらに気がつくと後ろを刈り上げた金髪の髪が揺れ、赤い瞳が自分を射抜いている。
「やっと、出たか。セオドア・コーマン。俺の時間を無駄に使うとはいい身分だ、ベルが鳴ったらすぐに出るように、いいな。
入るぞ」
「要件を先にどうぞ。今日はこれから自宅で仕事です。」
無理矢理にでも入ろうとする男の前に腕を出せば、男は顔を顰めて見つめている。手元にある革製の小さい鞄は彼らしく閉まっており、何か探ることはできない。
初対面の人間が息を呑むようなその赤い瞳は鋭く、獲物を見据える虎のようである。
しかし、折れたのはその男であった。
「今度の舞台の観戦チケットを貴様に与えてやろうというわけだ。これでいいか」
「ここでいただきます。獲物に目がない虎が休むには非常に貧しい棲家ですから、他の狩場へとどうぞ」
「ほぉ、俺が虎と?まぁいい、入るぞ。俺の行動を縛る権利は貴様にはない。そうだろう、セオドア?」
男の名前はパルフェ・アーチステ。脚本を生業として生きる者だ。
もっと言うのであれば、彼もウィアードの一員であるがそれを世間に公開している。セオドアに目をつけ何かと舞台を見させたがる男であった。
セオドアはセオドアで、この男がなぜ自分に執着するのかを理解していないため、この自分の城である家には一歩たりとも入れたくはなかったのだが。
自分の手を退け、自国の王であるかのように入っていく。
階段へ続く廊下など見えていないかのように彼はリビングへと入りソファの上に座った。案外ちゃんとしているところがある男である。それ故に膝を組みコートを脱ぎ鞄も自分の付近に置くとセオドアの出方を伺っているらしい。
「今日は紅茶が切れていまして、コーヒーでいいですか?
もしくは、紅茶を買いに行く時間を下さればお出しできますけれど」
「はっ、可愛らしい皮肉なことだ。つまり、帰れと?」
「皮肉の意味を伝えてくださるとは、お優しいですね。パルフェは」
コーヒーを出すと、彼は香りを十分に楽しんだ後一口、二口と飲んでいく。
彼は甘い物が好きではない、だからこそ菓子を出さない。一度出したことがあったが、その時はうざったらしいほどの皮肉をつけた感謝状をいただいた記憶は新しい。
一応来客であるため、真正面に座れば満足げに微笑んでいる男の顔が目に入った。
まるで懐かなかった飼い猫が甘やかされに自ら腹を見せたかのような。
「今回の演劇は傑作に近いが、歯痒くもある作品だ。必ず見に来い」
「二枚もくださるんですね」
男が胸ポケットから出した細長い長方形のチケットは確かに二枚であった。モノクロであるが、文字が筆記体よりも華やかなのはは彼らしく豪華であり、チケットから彼の世界が始まっていると言っても過言ではないだろう。
他の紙よりも分厚いその紙を受け取り見つめていれば、チケットの上から見えるその男の顔が自慢気にニヤついているのがわかった。そのニヤついている口角が、言いたいことの大半を教えてくれている。
セオドアは彼が苦手な部類である。
「観賞用と入場用だ。チケットも俺の作品の一部だ。」
「ならば、後一枚ください」
「なぜ?三枚も何に使う。お前の額縁に入れるのか?」
チケットを指の腹でなぞると、そっと机の上に置くと喉を潤しパルフェを見つめる。そして、驚きで目を丸くした珍しい彼がいた。
そういえば、彼には伝え忘れていたか。とやっとく納得する。だが、その反面この男が自分にどこまでの執着を見せているのかは不透明も良いところだ。
そうすると、断片的に伝えておけばいいだろう。
「妻ができましたので。その分です」
その瞬間、パルフェは鞄を勢いよく引き寄せるとメモ、万年筆、インクを取り出し足を崩し、さぁ語れ。と言わんばかりの体勢をとった。その笑みはあの病院でのセオドアに似ている。
瞳に光はない、獲物を狩るような奥深い細い瞳孔。口角が高く上がっていること。これが彼らの本性である。
それをセオドアは普通のこととして見つめ、ため息を吐いた。最近、よくため息が出るようになった気がする。
おそらくこの男はセオドアが語るまで居座り続けるだろう。
光り輝くことが確実な原石よりも、薄暗く微かに光る原石の方が彼は惹かれるのだろう。
「…モーショレス・バード孤児院から引き取った余命一年以下の少女です。その子から一生分の恋をもらってほしいと言われたので、承諾しただけのことです。
お気に召しましたか?」
「余命一年…現在は病院で窓の外を眺めているのか?」
「いえ、二階にいますが」
「…貴様、この薄汚れたロンドンで真っ当に一年を過ごせると思っているのか?」
メモに一言一句書き留めつつ、微かな瞳でどこしらぬ顔をする男を見る。これはいい脚本が出来そうだと、思いつつこの男の幼稚さをあざ笑っていた。
「それは僕が決めることではありません」
どんな人でさえこの男のこの返答を予測することはできなかっただろう。普通、「あぁ、出来る」か「できないかもしれない」と答えるはずだから。
まるで責任を放棄するかのように言ったのだ。「決めることじゃない」と。
自分の人生だから、愛していないから。ではない。愛の方向性の違いだ。
飛ぶべき場所へ向かう飛行機が普遍的な物であれば、彼のは縦横無尽に飛ぶ続ける自由な風だ。
そしてその不運な糸に結ばれた彼は、死を待ち、死を歓迎する男へと着地したのだ。
「そうか!、そうか!お前はやはり面白い。
さすがはウィアード!世間から後ろを指を指され、理解されず、そして迫害される変人か。
駅の前で触れ合い日々を紡ぐものを無価値と見て、列車の中で喜怒哀楽すら表せない、不平等な運命を黙認したものを愛する…ハハハハッ!
アッハッハッハ!!あぁ、傑作だ!俺の最後の作品はお前にしてやろう、セオドア!」
部屋中に響き渡った彼の興奮した声は、いつもなら騒音としてのみ流し、そのまま気分が昂ったままご帰宅を促すはず。だが、今日だけはそれができないのだ。
セオドアは何も言わず、パルフェを見つめていた。そこにはあの太陽ですら溶かせない氷河が見せる吹雪の破片あった。
肘掛けに置かれた腕の先が支える男の顔は、まるで淡白な色で輝いているように見える月のように、鋭かった。
それに対し、パルフェは月を追いかけることなく自分の光を生み出す太陽のようであった。
舞台の袖で、脚本を片手に見つめる脚本家、そして舞台上でまるで自分の人生を謳歌し喝采をあげるように踊り狂う演者のように、歪に、反対に、そして冷たい信頼の上で立っていた。
そしていつの日かどちらかが興味を失くすか、もしくは幕を下ろした時、この舞台は終焉を迎えることだろう。それはある意味、交わることを知らない線路がつながり、また自分の元の道へと戻るだけのことだ。終電とし、車庫に戻るまで彼らがまた同じ線路の上を歩くことはない。
「時が動かない御伽噺の世界も、神が新しい風が吹き込むきっかけがあれば時代が動きだします。
そして、その行方がどうなるのかなど未開拓の大陸を言い当てるのと同じくらい、不可能に近いでしょう」
「ほぉ?ならば貴様に習って答えてやろう。
神が動かさなかった世界に、小さく弱い人間が反乱が時代を小さく動かしたとしても、その世界を人間の世界ということはできないだろう。
そして、航路を考えず大海原へ走り出す航海士とそれを信じる船長ほど馬鹿な人間はいないだろう。」
「…貴方は僕に何を望んでいるんですか。なにが気に食わないんですか。」
「気に食わないのではなく、嘲笑っているだけだ。
作られて枠に嵌っている愚かな役者ではない、と言い張る貴様を。
そして、俺たちウィアードの中でも特に異彩を放つ貴様の変化を俺なりに祝っている。
おめでとうセオドア、貴様の第三の誕生日だ。
そうさなぁ、貴様の題材のタイトルは…」
『ウィアードの嘆きが相応しい』
勝ち誇ったかのように立ち上がったその男の顔はまさしく愉悦。彼の筆記体の解読不可能な文字が並んだその紙の束に、彼が愛好している相棒の万年筆も後のことも知らず地面へと近づいていく。
天井を見上げ、自分の世界に浸る。
完璧を愛する彼の頭には二つの未来が見えた。一つはきっとその劇は嘆きにふさわしく、変人の心を打つ作品になるということ。
二つ目は、その劇を見終わった人々は口々に「ありえない」と口口に言うんだろう。逆に彼らのお喋りな口はそれしか言うことができない無意味な道具に成り下がる、という未来だ。
男の中で、脚本の歯車が動き出した。全て彼の思う通りに一定の時間、足並みを揃え、一斉に回る。誰も怠ることなく、全て秒刻みで進むのだ。
満足した後、腕時計を確認し荷物を無駄なくまとめると自分の世界に浸っているらしく何やら小さく細かく呟くと、彼はコーヒーを飲み干し気がついたように、冷めた顔のセオドアを見た。
「否定の裏には肯定がある、それは理解し合えない個人の意見とも言うものだ。
言い換えよう。セオドア。貴様がどんな御託を並べても俺には砂糖で隠した毒のケーキにしか見えない。ヒビの入った窓から見える貴様らの店は、さぞ繁盛しているように見えるんだろう。
では、そのチケット三枚を有効活用するように。貴様が来たかどうかなど俺には手に取るようにわかるからな。以上」
時計はただ静かに秒針を刻み、彼とのこの対談が立ったの二十分の間の出来事であったと教えてくれる。
まるで映画のワンシーンを見ている、いや、役者となり入り込んだようであった。静かに閉められた戸を見つめていると、過ぎ去ったはずのあの手と焦りが後ろから追いかけて来た。
パルフェのせいだ。あの男が妙なことを言うから。チェーロもマーレも、どうして素直に祝わない。セオドアという人間が一人の女性を愛することの何が悪いのか。
頭を両手で掴むと、苦しい喉を引っ掻きたくなった。だが、これは呪いだった。
あの聖母の嫁には一生言えない。チェーロも曖昧にしか知らず、あの孤児院の女性とセオドアの二人だけの秘密。
それが今は、自分を殺すかのように締め上げた。喉の圧迫感は慣れない。膝をついて視線を落とした先にある木製のフローリングは、玄関から差し込む微かな光で白く輝いている。
涙がひとつ溢れた。
「僕は、彼女を愛する資格がないのだろうか…。
君はいつになったら、僕を許してくれるんだ。君を取り返す方法を見つけたら?君の絵を描けばいいのか?
だから、僕は仮面の下で笑っていたくないんだ。目は人を語るから…」
アリスの部屋に戻れば、少女は静かに寝ていた。編み物が手元で時が止まったまま鎮座していた。
安らかに眠る少女はセオドアの苦痛など知らないようだった。
彼女のために買った書斎には今やセオドアの仕事が積み上げられていた。
なんとか静まった心のまま、窓を閉じ、羽ペンを掴み、インクに濡らし文書に目を通す。
彼女の優しい呼吸音が安心感を感じさせてくれた。
(どうか、貴女だけは僕のことを後ろからささずに、そして白いユリと赤い薔薇の元で列車へ乗っていて欲しい。
そして、貴女のおっしゃる運命の糸があるならばどうかその糸が薔薇の棘で切れてしまいますように。僕は願います)
心で祈った願いは教会でもないこの家では無意味な言葉であった。
書類の文字が震え、髪を破りそうになってしまったのはきっと彼がまだまっすぐ彼女に向き合えていないからなのだ。
静かな室内に流れるその筆の音、彼女の呼吸音が生み出すこの静けさが痛かった。
机の上に乱雑に置かれた三枚のチケットがパルフェを思い出させ、心の奥にしまったはずの炎に煙を立たせる。
その日の書類を見て、策士は後に社長に対してこう言った。
「本来はもっとあるんですから、こんだけの量で腹を立てないでください。
あ、その分私がやりましたので今度良いお酒買ってくださいね」
アリスが起きた時、セオドアが一番懸念しているのは自分の顔を戻せているかだった。だが、彼女の前でどんな顔が正しいのかわからないのも事実だ。貿易会社の社長の顔は、果たして家族に向けるものなのか。それがわからないから、あぁ言われるのか。
また、字が滲んだ。
続
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