ウィアードの嘆き
@sabamaru
第1話 展示会と鳥の旅立ち
全ての芸術は、全ての愛と同様に心痛に根差している。
⇒ All art, like all love, is rooted in heartache.
アメリカの写真家、アルフレッド・スティーグリッツ
ある日、私はとある画家を題材にした展覧会へ参った。
彼の作品はある意味、心がなかった。だが、人を惹きつけているというよりも足を絡みとる蛇のような魅力があった。
私のこのチケットは、妻が買った物だ。だが、彼女はもう遠い列車に乗っている。私はそれを黒いスーツを着て白い百合を手に取り見送ったばかりである。彼女の列車は無事、彼女が進むべき道へ到着したのか不安である。今も、手紙を書きたい衝動に駆られていた。
この画家はそれを許すことはなかった。
私の瞳を焼き尽くすようなその高価な絵具で表現される絵画の中の女性は、こちらをひまわりのような笑みでを見ている。純白のワンピースに小麦色の輝く柔らかい麦わら帽子。白髪か銀髪か、彼女の緩やかなカーブのある髪質によく合っている。瞳のブルーは空と酷似している。彼女は蒸気船の上に立っている。
反対に隣で彼の本性を見せるような異彩を放つ絵画は、その晴れやかな絵を良い意味で引き立たせている。
その絵を表現するには私の知識では足りなかった。
彼の展示会では、あの天のような晴れやかな作品はこれ一つ以外なかった。全て、その反対に属する不気味な作品である。
妻は私にこのチケットを残し、何を語りたかったのだろうか。彼女は私の隣に立ち、どんな言葉を紡いだのだろうか。今、心にはただ静かな静寂と彼を知りたいという衝動に駆られていた。
彼の名前は『セオドア・コーマン』パクス・ブリタニカ 世界の工場と言われたイギリスを生きた男性である。
私は心の赴くまま、美術館を出ると図書館へ向かった。彼のことを記載した書物などあるのか、というか彼を知っている人などどれほどいるのか…。
一八〇〇年代 イギリス ロンドン
「社長、オランダ方面への貿易に関しての連絡とアジア方面への開拓。そして、綿糸紡績工場から納品に関する連絡がきております」
「ありがとうございます。最近近くにいい軽食を提供する店ができたそうです。」
「それは気になりますね。行ってみようと思います。…社長は?」
部屋から去って欲しいだけだからと、適当な理由をつけた下手な会話だったがまさか自分のことを言われるとは思わなかった。心の隅で失策だったと理解しつつ、ツギハギの笑みを向け「いえ、大丈夫です」とだけ返した。
部下の彼は長年の付き合い…ではないが相互不干渉であろうとする紳士的でありたまに策士である人物だ。彼を策士と男は呼んでいる。(心の中で)
「…仕事が今日はよく増えますね。宗教の争いが終わってからというもの、次は国の発展ですか。ルネサンス期にでも戻って…無理だな」
ふと溢れた言葉には本音と願望が欲張りではあるが組み込まれている。自分の会社の船を…と思ったらところで男は諦めた。あの策士に何と言われるのか、そして会社が火の車になる。そんな未来に興味が失せたからだ。
深い緑の壁紙に、ニスで塗られたアンティーク味のある木製の書斎には紙が壁を作っている。万年筆のインクは時計の針が終業の時刻を知らせるよりも早くに切れそうである。太陽を背に受けるように書斎を設置したのは彼が寒がりであるためだ。
太陽の日照時間が短いこの国で、しかも外には会社との往復でしか出ないような男だ。寒がりという体質的な理由だけではない。
革の椅子に体を預け、苦いブラックコーヒーを口にした。
アメリカと名付けられた新大陸から送られてくるこのコーヒーという飲み物は、瞬く間に拡大し人を潤すが。
清という眠れる獅子がもたらす紅茶はかなりの痛手を受けながら持ち出さなくてはならない。
近い未来、祖国の貿易会社がどう出るかなど男には手に取るようにわかった。だが、そこに口を出すのは彼の仕事ではなく、はたまた彼は茶葉の貿易に関しては行なっていない。
「同業者としては、何とも口惜しいところです。世界の工場でありながら、物で獅子を飼えないことが」
コーヒー揺らめくフランス製陶器を置くと、左手に万年筆を取りインクをつけ、書類へと戻った。
この男こそ、レオナルド・ダヴィンチのような万能人でもなければルネサンスを起こすこともなかったが、後の時代に少数の評価と、謎を生み出す者だ。
名前は“セオドア・コーマン”彼の言葉を借りるなら、絵画を趣味に持つしがない貿易会社の社長である。
・
「モーショレス・バード孤児院まで出かけてきます」
「孤児院ですか?」
策士の顔には困惑と疑惑を重ね合わせたような表情が浮かんでいる。手元の書類を落とさなかったことを褒めるべきだ。仕事と結婚すると言われた方がまだ理解できていたくらいなのに、急に孤児院など。頭が四つあっても同じ反応をする。これは断定できる。
「えぇ、古い友人に呼ばれまして。今日はこれで帰宅にします。貴方も暗くならないうちにどうぞ」
濃く青いスーツと同じハットを手に取ると、片目のみのメガネが怪しく光った。
仕事関係の物が全て余すことなく入っているカバンを手に持ち、彼は有無を言わせず出て行った。
なんとなく、策士の中には何故という疑問よりも「何があった」という投げかけが埋め尽くしている。
セオドアがいなくなった部屋で策士は一人、呆れたように肩をすくめ鼻で笑った。
「子供を商品にしても売れないのに。
獅子にも子供はおりますから」
主人の不在を明確に知らせる書斎を見て、今ふと考えついたことではないことも、自分名義の判子を持って行ったことから、やっと策士の脳は彼個人の話なのだと理解した。
いうまでもなく、彼は膝から崩れ笑いころけたのだが。
セオドアは馬車に乗っていた。工場の黒煙を窓に見つつ、賑わっている通りを抜け、今は道が中途半端に歩道された緑生い茂る田舎道を進んでいる。
外部から見れば、都市で走る豪華な馬車が殺風景とも言える田舎道をなぜ走るのかと疑問でしかないだろう。
(…子供を売るくらいで銀が戻ってくるのであれば、皆そうする。だが、今や子供の手は無くてはならない、あの子供にしかできない仕事がある。外に出す訳がない。さて…)
『セオドア・コーマン殿
絵具の準備は済ませましたか
モーショレス・バード孤児院』
丁寧に書かれている手紙を二、三度指で触れるが魔法などない時代だ。何か秘密のメッセージがあるわけではない。
凛とした女性味のある美しくてなだらかな字であった。何回か彼女と文を交換したことを思い出せば、これがいつもの茶会でないことはよくわかる。
誰が見ても内容がわからないように隠された所謂暗号であった。
セオドアは会社が利益が出始め波に乗り始めた時のあの胸の高鳴りに近い物を感じた。やっと、手に入れたい商品を、拡大したい範囲を、金を手に入れられると実感した瞬間と同じだ。そう思えば、馬車に揺られるこの時間さえ惜しく思うのだ。
馬車はたまに上下に激しく動きながら走り続けている。
馬車は徐々に速度を緩め、遂には停止をした。最近乗ったどの馬車よりもいい馬だと思った。都市の中では周りの騒音や景色など興味も湧かず、すぐさま馬車に乗ってしまったが今の彼には余裕があった。
その馬は美しいほどに茶色の毛並みが艶のあるいい馬だ。長旅であったにも関わらず、何も感じさせないその立ち振る舞いはセオドア好みであった。
車掌へ駄賃を払おうと顔を上げれば、その男性はセオドアを見ると満足気に微笑んだ。
「いい馬だろう」
「えぇ。最近乗った馬の中でも比べようがないほどでした。」
「それは良い。馬も相手を見る。よければ褒めてあげてくれ、駄賃の半分はそれでいい。」
小麦色の髭がよく似合う少々年老いた老人であったが、現役というに相応しい人相である。彼は馬車の中を点検するため降り、セオドアと馬のみの時間を作り出した。
セオドアは、馬を見る。黒い瞳の奥には確かに、見る目があった。帽子を取り、鞄を置き深く頭を下げた。
駄賃のためではなかった。馬に対する純粋な敬意である。
頭を上げれば馬はこちらをはっきりと見ていた。先ほどの見定める目ではない、こちらを見て会話を求めるような。そんな目だ。
「都市のようになだらかな道ではないにも関わらず、衝撃が少なく長旅を苦痛に思わせぬ走りでした。貴方のような名馬に会えたこと、誇りに思います。
また、私を乗せてくれませんか」
馬は口を何かを噛むように動かし、彼の方を向くことはなかった。嫌っているのではないとわかっているが、名残り惜しい気持ちと許されたという幸福が押し寄せているのがはっきりとわかった。
戻ってきた男に駄賃を渡せば、帰りも乗せてやると申し出てくれた。一応名前も訊いてみると、メモ帳にサッと書き記した。
(…彼のことは師匠。あの馬は紳士としよう)
策士に並ぶ人物が今日新たに生まれたことが、彼の一大トピックである。
まさか、それ以上のことが起きるなど思っていもいなかったが。
白を基調とした教会と一体化した孤児院が、モーショレス・バード孤児院である。周りは木々が生い茂り、森の中にあるようだ。確かにこれは鳥が羽を休める場所としては最適であろう。
木製の白い戸を前に立ち、軽く身だしなみを整えると三回ノックをする。ベルが最近壊れて、修理に出しているとこの前手紙を受け取った記憶がある。
好奇心旺盛でお転婆な小鳥がいるらしい。
「セオドアです。手紙を受け取ったので、参りました」
中は人の気配を感じられないほど静寂である。セオドアが来ようが来まいがこの空間は変わらないだろう。
だが、微かに静かな気配を殺しているかのような足音が近づく予感がした。
その瞬間、セオドアは彼女だとハッとするのだ。そして、重苦しく戸が開けばそこにはセオドアの背後から煌々と彼女を照らす太陽により一本一本が自意識を持って輝く金髪の女性が立っている。後ろでまとめた髪には子供に渡されたのか、花が刺してある。
黒く丈の長いドレスは彼女の不気味な空気を掴めない雰囲気によく似合っている。
「案外お早いんですね。明日の夕方くらいかと思っていましたが」
「私だって、たまにはわがままをすることもあります」
「また、人間の真似事をされるんですね」
「貴女もでしょう、レディ。」
こちらを試すように細められた瞳は、セオドアの鉄壁の笑みを崩すことはできなかった。だが、ここに策士がいればその異様な雰囲気と戦時のような重苦しさに耐えかねたことだろう。
だが、今回先に白旗を掲げたのは女性の方であった。戸を開け放つとセオドアを招き入れ応接室へと歩みを進めた。
中は教会となんら変わりない。大理石をふんだんに利用し、汚れ一つ許さない彼女らしい内装だ。だが、ここで結婚式をあげようとは誰も思うまい。
心がないからだ。
言い換えれば、異様な無機質。一応、人が来てもいいようにこしらえただけと言い換えても良い。何かが足りないと一瞬で思うのだ。光ではない、色相でもない。物でもない。言葉に表せない何かだ。 だが、セオドアにはこの内装が心地よかった。会社の内装も自分好みではない。この異様な空間が彼女とセオドアが文を交わす理由になっている。
応接室も、変化はなかった。
木製のシンプルな茶色の椅子に腰掛ければ、女性は紅茶を差し出した。 スコーンと共に。
今日はジョンという世話焼きな少年が作ってくれたのだと、満足気に語る。彼女はソッと口をつける。そして、美味だと頬を緩ますことなく淡々と述べる。
彼も同じように食べた。子供とはいえ、大した味ではある。だが、上等品を食べ慣れた舌は賞賛を口に出すのをこれほどまでに嫌がるのだった。彼女も同じだろう。
セオドアは彼女の過去を知っている。彼女はセオドアが世間に知られたくない彼を知っている。不可侵条約を結んでいるのに、武装を解かない国同士のように、歪で矛盾を抱えている。
「さて、本題に参りますが、率直に申し上げましょう。
貴方には余命一年以下と断言されている少女を引き取っていただきたいのです」
「一年ですか」
紅茶によって潤された喉は確かにスコーンによって水分は失われた。とは言え、そんな乾いた声が出る訳がない。絞り出したかのような自分の声に驚かないはずがなかった。思わず、ポーカーフェイスを作るためにカップに手を伸ばす。味などもうわからない。先ほどはスコーンによく合うなどと思ったはずだが。
そしてまさかという驚きと共に、何故だと思わざるおえなかった。病院に連れて行くでも、ここで安眠させるでも良いだろうと普通は考えるものだ。セオドアは彼女のまっすぐで意図を読めなくしている瞳を見つめた。考えるから黙れと伝えているのだ。
結論から言おう。彼はポーカーフェイスを捨てた。ここには自分を知る人間しかいないのだ。わざと作った化けの皮も意味はない、反対に作れば作るほど墓穴を掘る。今後の付き合いが面倒だ。
判断は正しいが、決断は遅かった。
余命一年という長くもあり短い期間の少女だ。
セオドアは自分が耐えられるのか不安だったのだ。
命を天秤にかけるならば彼は彼女と同等の価値の物(彼の価値観)で出せると自負している。問題はそこじゃないのだ.自分自身の問題であった。
女性を睨むのは流石に紳士蔓延るこの国では気が引けるが、軽く睨んだ。
もう一度言おう、セオドアとこの女性は不可侵条約を結んだ敵国でもある。
敵国にモラルは求めるものだろうか、戦時中に。彼らは答えるだろう。「冗談じゃない」と。
「一年じゃありませんよ、一年以下です」
目の前の女性は紅茶とスコーンを味わいつつ、目の前で自分で彫ったという女性の左腕を模した彫刻を触り始めた。まるで自分の赤ん坊のように。見つめ、頬を赤く染め、頬に近づけ、撫でる。
彼女も“ウィアード”である。彫刻しか愛せない。
「コーマン。
花は咲いている時も美しいですが、朽ちるまでの過程を味わうのも一興と私は思いますが。貴方は一方にしか美を求めないんですね」
『それは虚しく、船を眺めているだけと同じですよ』と、付け加えた。
彼女の皮肉は、毒を持っている。人のプライドを撫でつつ下に見ている。彼女が聖母ならば、その息子は堕天使もいいところだと彼は毎回思い唇を噛んでいる。
「なるほど、新天地を目指せと? それは良い。道端に無造作に散り落ちた薔薇の花弁もいいですが、一枚ずつ散る花弁を見るのも一興。ということですか、レディ」
紅茶を飲み干し、スコーンを食べ終わると女性に対して光のない瞳を向けた。その瞳はあのロシアよりも冷たく、海よりも深い。女性は意図を隠すが、セオドアは感情を隠す。
これは女性は一枚取られたと自覚するのに時間はかからなかった。セオドアの禁忌の戸を開いたのかもしれないからだ。彫刻に思わず力が入ってしまう。みしりと音がしたかもしれない。幻聴だろうか。
「えぇ。セオドアさん、いかがなさるおつもりですか」
「…俺が最後まで面倒を見る。絵はあんたに送る」
片眼鏡を取ると。レンズを拭きその間も女性を見つ続けた。女性の表情に変化はないが、心情のブレなど長年顔を合わせればわかる。これは焦っている。
何に?など、彼が考えるべきではない。目当ての物が手に入ればいいのだから。
余命など考えていた自分の未熟さにセオドアは心中鼻で笑った。
「悪趣味ですね」
「あんたもだろ。
俺の妹を墓から掘り出してまで自分の欲を満たしてんだ
…だからこそ、いい関係でありましょう。レディ。不可侵条約は再締結しておかないと、ですね」
「ふふふ。えぇ、もちろん。妹さんは返還しませんけれど。罪は貴方にもあり、それは私が背負っている物と同じ重さ。仲良くしましょう、セオドアさん」
教会と孤児院の代表を務める女性の顔ではなかった。聖母、天使そんなものではない。悪魔であり、死神のようだ。セオドアの復讐心を知りつつもそれでいいとして。自分の欲のために生きるのが、この女である。
セオドアは復讐心を心に抱き込み、全てを彼女に向けるような表情をしていた、だが。彼もまたウィアードである。妹を彫刻にした罪ではない、彼が憎んでいるのは女性が妹の…。
「では、呼んで参ります。お顔、治された方がいいですよ。警戒心しか生まれませんから」
「助言ありがとうございます。得意分野ですので、ご心配なさらず」
女性がゆったりと席を外し戸から去った後、セオドアは片眼鏡を付けた。紅茶の味がほのかに口の中に残っていた。
(確かに、いい紅茶です)
仕事のために飲んでいるコーヒーよりも断然気持ちが洗われる良い紅茶であった。
女性が戻ってくる時には確かにもう一人分の足音が混じっていた。病気を抱えていると言われたが、それにしてはやけにテンポの良い足音である。もしや、彼女こそベルを壊したお転婆鳥だろうか。
椅子から立ち上がるべきかと思ったが、座ったままでいることにした。理由はない。
「ねぇ、ママ。私のパパになる人はどんな人なのかしら」
「紅茶好きな紳士ですよ」
「紅茶?まぁ、それは素晴らしいわ。私も好きよ。今日のジョンのスコーンと飲むのが好きだわ」
廊下の奥から微かに聞こえた。
少女らしい声の高さにセオドアは懐かしい思い出妹を浮かべた。彼女のことを愛しているわけではないが、あの姿の妹には恋をしている。
少女もそうであってほしい。いつか、自分史上最高に美しい物になって欲しい、そう思った。
室内の左奥にあり、外の森林を映し出す窓からは何も変化は見られなかった。子供が走り回ることも、何か鳥が来るわけでもない。孤児院というには子供の存在があまりにも薄いのは違和感であった。
毎度の茶会ではそこを深く指摘することができず、歯痒い思いをしている。
今回も、同じだった。
「窓の風景がお好きですか」
「えぇ、都市ではもう失ったものですから。見納めておかないといけません」
室内に戻ってきた二人組の女性をそっちのけに、窓にしがみつくように見てしまった。椅子から立ち上がり近づき、窓を開け身を乗り出し見れば良いのに、彼はそれをしなかった。紳士でありたいのであって、好奇心に支配された少年でいたいわけではないからだ。
女性の方に視線を戻せば、そこには女性も後ろでこちらを弱々しく見つめる少女がいた。
銀髪の青い瞳を持つ可憐で静かで花よりもどんな鉱石よりも美しい少女であった。
セオドアのように汚い世界で、嫌われる世界で嫌悪の世界で生きていない少女であった。
彼と少女の間に春一番という風が吹いたようだった。確かにここに風が通り過ぎたと感じた。心が洗われるなんてものではない。背筋を伸ばし、顔を上げさせる、いや、あげようと思わせてくれる風だった。少女も同じであれば良いなと、彼は願った。
彼らしくない一面である。
「アリス、自己紹介を」
「私、アリスっていうわ。苗字は…そのないんだけれど」
歳は八、九も良いところだ。胸あたりにまで流れる銀髪は人形に近い。
勇気のある子らしい。女性の後ろから出てきてはセオドアの目をはっきりと見つめ自分から目を逸らすなと訴えかけているようだった。お辞儀をする仕草も、水色のドレスをぎこちなく持ち上げる時もこれまで出会った女性の中でも特に胸を張っているように見えた。
彼女は年齢以上に大人である、そう直感した。そしてそれは、良い意味でも悪い意味でも将来の絵に影響すると考え至るのにおかしくはないだろう。
人の出会いがどれほど影響力を持ち、自分という水面に波紋を生み出すかなど身をもって実感している。
だが、彼女にポーカーフェイスを出すほどまだ仲が良いわけではない。それに、彼女がこうも凛々しくあろうとするのは警戒心故か。
(顔、戻せていませんでしたか…?)
「初めまして、お嬢さん。私の名前はセオドア・コーマン。しがない貿易会社の社長です、ぜひセオドアとお呼びください」
「…セオドアさん。わがままはお好き?」
瞳が震える少女は、何を言い出すつもりなのだろうか。
青い瞳が揺れるのは海の波を見ているかのようだ。まっすぐこちらを見つつ、その先の窓を見ている気もする。
セオドアも彼女を見た。彼女に映る自分はどんな男に見えているんだろうか。
「嫌いではないですよ、内容によりますが」
案外乾いた声だと思った。女性に苦手意識でもあっただろうか。今日は本当に喉が渇いて仕方がない。思わず、眼鏡に手が触れていた。先ほど直したばかりだから、何も変化はないのに。
自分のペースが崩れることに嫌気がした。
「なら、私の一生分の恋を貰ってくださらない?」
『わかりやすく言うなら、夫になって欲しいの』
私はそこで本を閉じた。
情報の多さではなく、あの展示会で見た少女はセオドアの妻であったのか。しかもかなり歳の離れた、少女の。深いため息をこぼす。溢さざるおえないだろう…。
セオドア・コーマンと言えば東インド会社とは並ばないがそこそこに有名な芸術品の貿易も営んだと言われる会社であった。
経済学を学んでいる友人には要らぬ誤解をされそうになったが、そうじゃない。私は学問が嫌いだ。
彼曰く、セオドアは謎が深いと言われておりプライベートなどは全くわからないが戦略家としての一面はかなり名高いそうだ。
だが、近年彼の物かはたまた近辺の人か彼に関する情報を記載した日記や書類がちらほら出てきているのだ。それを探っているのが私の現状である。歴史学者のようにでもなった気分だ。
モーションレス・バード孤児院に関して調べれば謎めいた女性の日記と、活動記録のような物をも発見したのだ。これも発見された物の一種である。
彼女の日記には一月に二回は最低彼のことが書かれている。お茶会であろう。
アリスという名の少女の一世一代の告白はどんあ行方を辿ったのか。この日記には書かれていない。淡々と女性は「その時の彼の顔は驚くほど人であった」としか書いていない。つまり、彼は嬉しかったのか…もしくは一目惚れでもしたのだろうか。
私はひとまず、今日は帰宅することにした。
妻よ、今日はいい読書日和である。紅葉が窓の外で散り乱れている。これも美術であろうか。
「一生分の恋、このセオドア・コーマン。喜んで受け取らせていただきます」
セオドアは少女の前にひざまづくと、片手を取り軽く唇が触れる接吻をした。シルクよりも清らかで純白な肌。だが、その手は緊張故かはたまた彼女の体を蝕む虫のせいか、酷く冷たかった。
だが、彼はそれすらも美徳であろうと思っているのだ。彼の価値間もまたあの女のように異常である。
さて、少女と言えば。
頬は林檎よりも赤く染まり、太陽ですら表現が足りない。感情が追いつかず瞬きを繰り返すその目は、堂々とする彼女らしく敗北前提の大博打だったということを証明する。
唇が離れていく自分の手と平然とやってのける紳士の男を交差させれば、彼女は人生で最高の瞬間を手に入れた。
思わず、母の方を見れば微笑みかけいた。自分を引き取る可能性がある男の話を聞いた時からの計画が成功を遂げたのだ。彼女も誇らしいのだろうか。もしくはお転婆少女の夜遅くまで恋愛妄想話に花を咲かせることもなくなることへの、安堵かもしれない。
「わ、私!貴方を何十年も置いていくのよ!貴方が他の方と結婚したら嫉妬しちゃうかもしれないわ!夜明けが来ても、太陽が巡っても貴方の枕元で怒っちゃうかもしれない」
流石に気が引けた。でも、その中にはこれを乗り越えて欲しいと思っている彼女もいる。それを受け入れてでも自分と一緒にいてくれまいかと。願っている、ラブロマンスを信じている夢見がちなシンデレラである。
頬を膨らませ、両手を後ろで組んでいる少女はただ構って欲しいだけに見えてしまう。
セオドアは立ち上がらず、少女の目を見てばかりいる。彼の顔には何も変化はない。
母であった女性には疑問しか残らない。引き受けるならば、結婚の申し出は断ると睨んでいたからだ。少し真剣な眼差しになっている女性は細目で見られたが、やはり感情は見えなかった。
(…策士、ですね)
感嘆であり、皮肉である。
「私は貴女以外の女性に隣に立っていただく予定はありませんので、大丈夫です。
枕元に来てくださるなら、ホットミルクをお作りしましょう。そして貴女の声を聞かせてくれますか。ご安心を、レディ。私は貴女に嫉妬をさせませんから。
いかがですか?不安があれば何なりと」
「あっはっはっは!ママ!聞いた?このお方すごいわ!私、アリス・コーマンを名乗ることにする。これにはシンデレラも白雪姫もどんなお姫様も羨むわ」
セオドアに身体の赴くまま飛び込んだが彼は尻餅しらつかず、彼女をそのまま受け入れた。背中に腕を伸ばし、軽く叩いた。肩に埋まる少女の顔は見えないが、どれほど幸せなのかなどきくまでもないだろう。
「えぇ、きっとそうでしょう。」
今日は天使もどんな意地悪な神であっても彼女の幸せにベルを鳴らしたことだろう。
窓の奥には青い鳥がこちらに入りたそうに見ていた。
その後ろを鳩が飛び、青い鳥はそれに続いた。風が吹き、木々も喝采を上げ、その中を名馬と馬車が走り去っていった。
彼女は空を飛び、地を眺める鳥へとなったのだ。
続く。
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