タイムリミットは今日も延びた。

はじめアキラ

タイムリミットは今日も延びた。

 人が自ら命を絶つ理由というのは、様々あるだろう。

 いじめに遭って生きていたくなくなった、とか。

 会社の仕事がつらすぎて鬱になった、とか。

 親が超絶な毒親で顔も見たくなくなった、とか。

 貧乏で生きていくのが無理になった、とか。

 あとはそう、犯罪の被害に遭ってそのトラウマを払拭できなかったから、という人もいるのではなかろうか。

 私の場合はそのどれも違う。学校の屋上のフェンスを乗り越え、ここから空を飛んで終わりにしようと思ったのは。


――つまんないな。


 己の人生に、面白味を感じることができなかったから。

 地味で、どっちかというとブサイク寄りの顔。背が小さくて、ちょっと太っていて、勉強も運動も人より得意なことなんて何もない。かと思えば分不相応な夢を見ることもなく、毎日学校に行って、ぼんやり窓の外ばかりを眺めているような日々である。

 友達もいない。高校の校風のせいなのかなんなのか、クラスにいるのは美容やアイドルに興味があるオシャレ系女子ばっかりだった。一応好きなものがないわけではないが、私が好きなジャンルの漫画や小説を好むような人がいる様子もない。話が合う合わない以前だと知っているのに、勇気を出して話しかける意義が何処にあるだろうか。

 私はきっと、神様にハズレクジを引かされたのだろう。そんなことを思っていた。

 無論、家が特別貧乏だとか、両親と不仲なんてわけでもない。こんな言い方をしたら、世界にはもっと不幸な境遇の人がいて、病気の子供がうんぬんかんぬん、と誰かに説教されそうな気はしている。けれど、いくら家に不都合がないからって、人が幸せかどうかはまったく別の問題だと思うのだ。

 それこそお金持ちの家で、甘やかされて育ったボンボンが本当に幸せだとは限らない。

 それほど経済面や環境面で満たされていても、幸せを感じる瞬間がなければそうと呼ぶことはできないだろう。きっとその不幸は、戦争孤児だの貧乏だの、という不幸とはまったく別のベクトルのものであるはず。並列して並べられる方がおかしいと思うのだ。

 何かを楽しいと思うことができない苦しみ。そして、それを誰にも理解してもらえない苦しみ。

 もう飽き飽きしていたのだ。そんなものを抱えて、ただ漫然と生きていくのは。


「いいや、もう。……どうせ、未練なんかないし」


 私はぽつりと呟いて、足を一歩前に出そうとした。これで、きっと私は生まれ変わることができるはず。そうしたら、今度は何か特別な才能を持った人か――そうでなくても、本気で何かを楽しめる人に生まれてくることができるはず。

 強い風にあおられ、ちょっとだけ足がすくんだその時だった。


「と、戸田さん!ダメだ!」

「!」


――うわ、何でここにいるの、熱血男。


 人一倍大きな声。聞き間違えるはずがない、それはクラスで一番熱血漢、正義漢――おせっかい焼きとして有名な男の声だった。

 源征児みなもとせいじ

 バスケ部の熱血キャプテンは、その長い足をばたばた動かしてこっちに走ってくるところだったのだ。




 ***




「いやあ、危なかった危なかった。間に合って本当に良かったよ!」

「……」


 私は、フェンスの内側に逆戻りする羽目になってしまった。屋上の地面にすわりこんでからから笑う彼を、私は睨みつける。


「……大きなお世話すぎるんだけど」


 彼の説得に応じたわけではない。それでも一端自殺をやめることにしたのは単純明快、あのまま強行しようとしたらこいつに邪魔され続けることが明白だったからだ。

 バスケ部のスモールフォワードをやっている彼は非常に背が高く、運動神経抜群で力も強い。学園祭のリレーでもアンカーを務めたほどの男だ。そのくせ、無駄に熱血、無駄にうるさい、無駄にお節介と三拍子そろっている。こいつに本気で邪魔されたら抵抗するのは難しい。

 いや、彼が走ってくる前に飛び降りればいいだろと言われそうだが。彼の目の前で飛び降りたら、私が死んだあともギャーギャーと騒がれそうで面倒くさい。死後のことはどうでもいいが、だからといってやたら悲劇的に語られるのもうざったいのが本音だ。


「私が死のうがどうしようが、源君には関係ないでしょ。なんで邪魔するわけ?」

「関係あるぞ!君は俺のクラスメートじゃないか。クラスメートが死んだら悲しいぞ!」

「話したこともないのに?」

「そんなこと関係ない。というか、俺は何回も君に話しかけようとしたのに、君は俺が近づくといつも逃げるじゃないか。それで会話が成立するはずがあるか?答えは否だ!」

「…………」


 こいつ、語尾に全部ビックリマークをつけないと喋ることができないんだろうか。なんとも暑苦しい、と私はため息をついた。

 確かに、彼が近寄ってくるとそれとなく逃げてきたのは私だ。悪いやつじゃないのはわかっているが、いかにも「毎日楽しくて仕方ないです」という陽キャ男と趣味が合うとは思えない。なんとなく威圧感もあるし、テンションについていける自信もない。避けて通るのは自然なことではなかろうか。


「何で死にたいんだ?それくらい話してくれてもいいだろ!いじめとかだったら、相談に乗るぞ?悪いやつがいるなら俺がぶっとばしてやる!」

「ぶっとばしちゃだめでしょ、あんたバスケ部なんだから。インターハイは終わったけど、まだウインターカップあるんじゃないの?それで出場停止になったらどうするわけ、レギュラーのくせに」

「む、それもそうか。難しいな!」


 まったくもう、と私は頭痛を覚える。さっさとここから立ち去ってほしいが、いかんせんこの様子だと昼休みが終わるまでいなくなってくれる様子はない。

 仕方なく、私は彼に話すことにした。


「……いじめも失恋も毒親も、そういうのはなんもないから。ただ、毎日全然楽しくなくて……本気で面白いと思うものもなくて。だったら、こんな人生さっさと終わらせた方がいいかなって。ちょっと気になることがあっても、クラスの女の子たちとは趣味なんかあわないし」


 どうせ、言っても理解されることなんてない。自分でも、この苦しみを上手に説明できる自信がないのだから。

 みんなが笑顔でいる時に、自分だけそうなれない苦しみ。

 みんなが面白いと思うものを、心から面白いと思えない苦しみ。

 そして、ちょっとだけ興味があるものがあっても、それを誰とも共有できない苦しみ。

 毎日充実しているのがありありと見て取れる源君なんかにわかるとは到底思えない。どうせ彼も、もっと不幸な人がいるんだぞ!とかなんとか説教してくるに決まっている。


「なるほどなあ」


 しかし。彼は私の話を馬鹿にしたりはしなかった。それどころか。


「人生は、楽しく笑って生きてナンボだと俺は思っている。でも、その楽しいと思えることがないというのは、なるほど生きるのをやめるのに十分すぎる理由かもしれん。辛かったんだな、お前も」

「え……」

「世の中に楽しいことはたくさんある。が、それは俺の主観であって、お前の主観ではないな。お前はきっと世界が嫌いなのではなく、そういう風に感じることができない自分が嫌いで終わらせたいんだろう?……自分の不幸を他人のせいにして、やれ学校に火をつけてやるだの、国会議事堂にガスを撒いてやるだのと騒ぐやつらよりよっぽど真っ当な神経をしている!」


 まさか、そんな感想をもらうなんて思ってもみなかった。口をぽかん、と空けて佇む私に「そうだ!」と彼は唐突に立ち上がった。


「気になることがある、といったな!もしや戸田、バスケ漫画が好きだったりしないか!?」

「ええ!?」


 なんでバレたの、と私は目を丸くした。

 確かに、唯一“気になるもの”というのが、少年チャンプに乗っている少年漫画『白井のバスケ』である。

 もちろん、ちょっと面白いかも、と思う程度。なんせ、それに関して話せる相手も誰もいないのだから。


「お前はあまり運動が得意ではないし、中学以前にバスケ部に入っていたなんてこともなさそうだ。だが、バスケについて随分詳しいと見た。さっきそれとなく、俺のことを“バスケ部のレギュラー”で“ウィンターカップがある”などと言っただろう?高校バスケについて詳しくない者は、ウインターカップの存在を知らないことも多い。インターハイの方が圧倒的に有名だからな」


 そういえば、うっかりそんなことも言ったような。よく聞いていたな、と少しだけ感心する。

 ただの脳筋男かと思っていたが、意外と洞察力はあるらしい。


「でもって、ウインターカップを舞台とした人気バスケ漫画が一つあるのを思い出した。少年チャンプに連載している“白井のバスケ”だ、そうだろう!」

「し、知ってるの?」

「もちろん!俺も大好きだからな」


 そうだ!と彼は私の手を握ってこんなことを言いだしたのである。


「自殺するの、ちょっとだけ待って貰えないだろうか?その間に、俺が君に面白いものを教えてやる!それが本当に面白いと思えたら君は自殺を思いとどまる、それでどうだ!?」




 ***




 どこまでもお節介な男が提案してきた“面白いこと”というのは。いわゆる“推し活”というものだった。

 一般的な推し活がどうであるかはわからない。ただ、どうやら面白い漫画のキャラや、それに関わる人を応援することも推し活になると俺は思う!と源くんはそう提案してきたのだった。


「白井のバスケは漫画は全部持ってるか?ファンブックは?グッズは?」

「……書籍は全部持ってると思うけど、グッズは持ってない。その、フィギュアとかそんな興味なくて。どっちかというと、物語の設定とか、キャラのプロフィールとかの方が好きだし」

「なら知らないか。実はグッズの中に、キャラの設定が知れるものがあるぞ。白井のバスケのキャラクター設定画が描かれたクリアファイルというのが売ってるんだ」

「ほ、ほんと!?」


 それは欲しいかも。うっかり私がそう言ったら、彼は私の手を引いてお店へと連行してしまった。ちなみに、屋上でのあれこれの直後である。どうやら今日の午後の授業はサボる気マンマンというらしい。なんだか、漫画の不良キャラになったみたいでちょっとだけドキドキしてしまった。

 学校から徒歩十五分くらいの場所に、そのグッズショップはある。場所ならば知っていたが、書籍に興味があってもグッズに興味がない私は一度も立ち寄ったことがなかったのだった。


「推しキャラいる?誰?」

「……て、天童、くん」

「おっけ!天童シオンだな!だったら紫ヶ丘むらさきがおか高校だから、こっちの方の列かー。あ、これ、学校ごと、かつ学年ごとに並んでるから覚えておくといいぜ!」


 本当に詳しいらしい。クリアファイルコーナーの前で、彼はてきぱきとお目当てのキャラの品物を探し当ててしまった。

 天童と聞いてすぐ下の名前も学校も出る。しかも、紫ヶ丘高校は主人公のライバル校の一つであり、主人公の学校のキャラと比べると認知度が低いはずなのだ。それでも知っているあたり、白井のバスケのファンであるのは間違いないようだった。


「……本当に、あの漫画、好きなんだ」


 公式設定画が描かれたファイルには、細かな書き込みも多くて非常に満足が行く代物だった。しかもクリアファイルは値段も安い。バイトもしていない女子高校生のお小遣いでもまったく問題なく購入できる価格だ。


「源くんも推し、いるの?」


――なんで、こんなこと訊いてるの私?こいつに興味なんか、ないはずなのに。


 するりと漏れてしまった言葉。変な勘繰りされないかな、なんて心配は杞憂だった。


「おう、いるぞ!」


 彼はぐっと親指を立てて笑ってみせた。太陽のような、キラキラとまぶしい笑顔で。


黒帝こくてい高校の、高園李久利たかぞのりくりだ、あいつはかっこいい!俺は奴に憧れてバスケ部に入ったんだからな!」


 現実の男に興味なんかない。面白いやつなんていない。確かにそう思っていたはずなのに。

 その瞬間私がくぎ付けになったのは彼の言葉より、その笑顔の方だったのだ。




 ***




 推し活といっても、お金のない高校生に貢げるお金はたかが知れている。それは、部活が忙しくてバイトをする余裕なんかない源くんも同じだろう(そして、あの日は放課後は部活があってどうしても外せなかったから、授業中にサボって私を連れ出したのだと気づいた)。

 だから彼はそれからというもの、毎日のように私に“白井のバスケと天童シオン”を追いかける方法を教えてくれた。


『白井のバスケってバスケ漫画だけど、ミステリー的な要素も強いだろ?だから、考察するようなユーチューブ動画もたくさん上がってるんだ。このチャンネルおすすめ、“白井のバスケ考察隊”!ユーチューブってやつは、無料で見て高評価してコメントするだけで相手を応援できるのが最高だよな!興味持ったらガンガン見てくれ!』


『ちなみに、白井のバスケはバスケの知識があるとより面白くなる漫画だと俺は思ってる。初心者向けのバスケ指南書貸そうか?……何言ってんだ、金なんかとるわけないだろ!』


『紙の本に拘らないなら電子書籍の方がおすすめだな、こっちの方が遥かに安いしな。それでいてちゃんと推しを応援できるし!ちなみに、ドラマCDも電子で聴けるんだぜ!』


「『おいおいおいおいおい聞いたかよ戸田!?ニコニコで生放送やるぞ、予約しろ予約!一週間なら無料で聴ける!!』


 彼は私を楽しませようと、白井のバスケ関係の面白い話をどんどん持ってきてくれた。

 そして少しでも私が興味を示すと、まるで子供のようにはしゃいで喜ぶのだ。はじめは暑苦しい男だな、なんて思っていたけれど――次第に私は、漫画のことそのものより、それについて“彼と話す”ことに惹かれ始めていたのだった。

 あっという間に、一か月が過ぎてしまうことになる。

 気づけば私の足は、屋上に向かおうとすることさえなくなっていた。それよりも歩を進めるのは、教室の彼の席だ。


「……ねえ」


 彼に出会うまで、知らなかった。人と何かを共有することこそ、本当に“面白い”ものであるということ。

 同じものを見て、同じものを追いかけることがどれほど楽しいのかということ。

 そして。

 自分のために一生懸命になってくれる人が一人でもいる。それが、どれほど嬉しいことなのかということを。


「……源くんさ、部活忙しいんでしょ。……来月、白井のバスケのミュージカルとか……一緒に行く気、ない?むり?」


 精一杯の勇気を振り絞って尋ねる私に、彼は本気で嬉しそうに笑って頷いてくれた。

 きっと、彼にとって私はまだ、助けたいクラスメートの女の子という枠でしかないのだろう。それでも、確かなことが一つあるのだ。


 最期を告げるタイムリミットは、今日もまた少し延びた。

 私が今、一番追いかけたい人は目の前にいるのだから。

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