畳のへり

西しまこ

お父さん……

 電話が鳴った。

 画面を見ると、妹の音羽からだった。

 珍しいなと思いながら紗弥が電話に出ると、前置きなしにいきなり恐ろしい事実が突きつけられた。

「あのね、お父さん亡くなったから」

「え? どうして?」

「どうしても何も、ずっと入院していたし」

「それは知っていたけど」

「……一度もお見舞いに来なかったけどね」

 音羽の声は冷たい北風のように、紗弥に突き刺さった。凍てついた手が紗弥の頬を撫で、鋭く尖った風の切っ先が心臓を貫いた。

 そうだ。

 その通りだ。私は父が入院しているのを知っていて、お見舞いに行かなかった。一度も。それどころか、ここ何年も実家にすら行っていない。

 紗弥は電話を持つ手が震えるのが分かった。

「とにかく、明日がお通夜で明後日がお葬式だから。……伝えたからね」

 音羽からの電話はかかってきたときと同じように唐突に、そして彼女の気持ちを代弁するかのように乱暴に、切られた。


 紗弥は父が苦手だった。

 幼い頃から、父に見つめられると何も言えなくなった。

 小さな嘘も見逃さないその視線をいつも怖いと思っていた。

 小学生のとき、紗弥は教室の中で大好きなキャラクターの消しゴムを拾った。その消しゴムは、紗弥が欲しかったけれど買ってもらえなかったものと同じものだった。紗弥は周りを見て誰もいなかったので、消しゴムを拾って自分の筆箱に入れて家に帰った。

 夜、家のリビングで宿題をしているとき、母に「あら? その消しゴム、どうしたの?」と言われた。あ! と思ったけれど、遅かった。

「あのね、友だちがくれたの!」

 紗弥は早口で嘘を言った。

 母は紗弥の嘘に気づかず「そうなの、よかったわね。欲しいって言っていたものね」と言った。

「うん」

 紗弥はほっとしてそう言って、ふと母の後ろを見ると、父が怖い顔をして見ていることに気がついた。紗弥は急いで消しゴムを筆箱にしまった。

「紗弥。友だちがくれたというのは本当かい?」

 父が低い声で言った。

「う、うん!」

 紗弥は父にじっと見つめられ、思わずどもってしまった。すると、母が心配そうに「ねえ、もしかして嘘なの?」と言った。

「嘘じゃないよ、もらったんだもん!」

「誰に?」

「えーと、ひなちゃんに」

「ひなちゃんのお母さんに、ありがとうって言わなくちゃね」

 母が電話を取り出したので、紗弥は「やめて、お母さん!」と思わず言ってしまった。母は眉根を寄せて「盗んだの?」と訊いた。

「違う、盗んでない!」

「でも、もらったというのは嘘なんでしょう?」

 紗弥は黙り込んだ。そして「拾ったの」と絞り出すようにして言った。

「本当?」

「本当」

「じゃあ、明日、先生にそう言って渡してきなさい」

「……分かった」

 母の背後の、父の視線が痛かった。

 父の視線は紗弥の隠しているあらゆる悪事を暴き立ててしまうような気がした。

 また、紗弥は勉強が得意ではなく、特に算数が特に苦手だった。父は勉強の出来ない紗弥を心配してか、算数をよく教えてくれた。

 時計の問題を教えてもらったときのことだ。

「七時四十五分の三十分後は?」

「七時七十五分!」

 父は溜め息をついて「ほら、時計を見てごらん。七十五分はないんだよ。三十分だと半分回って、針はここにくるよ」と言った。

「……七時十五分?」

「どうしてそうなるんだい? 七時四十五分の三十分後だから、七時四十五分より後の時間だろう? 七時十五分ではそれより前じゃないか」

 父が続けて何事か言ったが、紗弥の耳には入って来なかった。失望させてしまったという思いが紗弥を混乱させた。結局テストも間違えて、父にまた溜め息をつかせた。

 高校を決めるときも大学を決めるときも、紗弥は父の望む答えではなかったと思っていた。父が何も言わなかったから。

 転職したときは珍しく父が「どうしてあんないい会社を辞めたんだ」と意見を述べた。

「私ね、デザインの仕事をやりたくて」

「……いつまでそんな夢みたいなことを言っているんだ。いい歳をして」

「だけど、私は――」

 紗弥が父に何か言おうとしたとき、父は紗弥に背を向けて本に目を落とした。紗弥は物言わぬ父の背中を見つめ、家を出ようと心に誓った。二十五歳のときだった。

 一人暮らしを始めると、紗弥は実家にはほとんど帰らなくなった。仕事が忙しかったから、という理由もあるが、何より、実家にはもう紗弥の居場所はないように感じていたのが大きな理由だった。

 八歳年の離れた妹である音羽を中心に、家が回っていると紗弥は思っていた。音羽は紗弥とは違って利発で運動神経もよく、友だちも多かった。父も母も、音羽だけがかわいいんだという思いを消せなかった。

 音羽とはケンカもしなかったけれど、深い話もしなかった。家族というのは、父と母と音羽の三人だけで、そこに自分は入っていないのだと、紗弥は悲しく思った。

「ただいま」

 実家に帰ったあるとき、紗弥が玄関の鍵を開けてリビングに行くと、三人が笑い合っていた。テーブルの上にはケーキがあり、ああ、そう言えば今日は父の誕生日だった、と思う。

「お誕生日おめでとう、お父さん。……ケーキどう? 私が作ったんだよ!」

「おいしいよ、音羽。ありがとう」

 見たことがない父の笑顔に、紗弥はリビングの入り口に立ったまま、中に入っていくことが出来なかった。

「紗弥?」

 母が紗弥に気づいて、声をかけた。でも、うまく笑うことが出来なかった。

「うん、ちょっと、荷物取りに来たの。邪魔してごめんね」

 紗弥は自分の部屋へ行った。

「紗弥!」

 背中に母の声を聞きながら、紗弥は二階の自分の部屋に向かった。しかし、扉を開けたとたん、そこはもはや紗弥の部屋ではなく、家族の部屋になっていることが分かった。紗弥が残していった荷物以外のものが多く置かれていた。紗弥はクローゼットから衣類を数点取ると、そこに置いてあった紙袋に入れ、すぐに玄関に向かった。

「紗弥、ごはん食べて行ったら?」

 母がそう言ったが、紗弥は「ううん、いい」と短く言い、三人に背を向けた。「放っておきなさい」という父の声が、紗弥の背中に届く。

 紗弥の脳裏に、母の困ったような顔や冷たく口を結んだ父の顔、それから怒ったような顔をしている音羽の顔が刻まれ、もう二度と家には帰るまい、と紗弥は心に決めたのである。


「お父さん、入院したの」

 音羽からその連絡があったのは、去年で、紗弥が三十五歳のときだ。紗弥は結婚も出産もしていなかったが、音羽は結婚をし実家の近くの賃貸マンションに新居を構え、子どもも産んでいた。

 音羽の「お父さん、入院したの」という深刻そうな言葉に、紗弥は一言「そう」と答えた。音羽は「お姉ちゃん、冷たいね」と言った。紗弥が黙っていると、「お姉ちゃんは、お父さんが心配じゃないの? お見舞いに行ったら?」と音羽は続けて言った。

「今、仕事が忙しくて」

「仕事なんて、どうにでもやりくりでしょう? お父さんなんだよ? ……あまり病状、よくないのよ」

「そう」

 紗弥は専業主婦の音羽には、仕事の大変さは分からない、と思った。そして、フリーランスは大変なのだ、とも。家族に愛され守られ、一流企業に勤め、そして同じ会社の人間と結婚し、出産を機に仕事を辞めた音羽には、私の大変さなんて、到底分からないだろう、と紗弥は冷たく考えていた。それに、父に愛されていたのは音羽であって、私じゃない。

「……お父さん、お姉ちゃんに会いたがっていたよ。すごく気にしているの。だからお見舞い、行ってあげてね?」

「仕事がひと段落したらね」

 お父さんが私に会いたいなんては嘘だ、と紗弥は思った。

 仕事がひと段落する日は来なかった。紗弥は次々に仕事を受けた。時には徹夜もして働いた。自分がやりたかった仕事だから、大変だったけれど情熱を注いだのである。父に見返してやりたい気持ちもあったかもしれない。そして、結局一度もお見舞いに行くことはなかった。

 その間に、父はこの世を去った――らしい。しかし紗弥には、父が死んでしまったことが、現実だとは思えず映画の中のことのように感じられた。

 紗弥は仕事のスケジュールを調整した。

 それから、喪服と黒い鞄と靴と数珠と袱紗を買いに行った。ショッピングモールの中を足早に歩いていたら、懐かしい音楽が流れてきた。その曲は紗弥の心臓を鷲掴みにし、紗弥を過去に飛ばした。

 それは昔、父と一緒に聴いた音楽だった。紗弥が小学校に通う前で、音羽が生まれる前のことだ。そのとき、家には紗弥と父しかいなかった。紗弥は父と一緒に和室にいて、父は黙ったままその音楽をかけた。透明な歌声の異国語のその音楽は、紗弥の身体中に満ちて溢れ、清らかで澄んだ流れが紗弥の小さな身体を緩やかに或いは勢いをつけて巡った。歌の意味は少しも分からなかったけれど、ずっと心に残る、美しい調。音楽の旋律の波に自分が溶けてしまう。

 その音楽を聴いている間、紗弥は裸足の足で、畳のへりをなぞっていた。イグザの緑の部分をつつと確かめつつ、畳のへりの布部分を何度も足の親指でなぞった。布の、ざらざらした感触。

 あのとき、父は確かに少し笑って紗弥を見ていた。包み込むような優しい視線だった。

 口元が少し上がるのを見て、紗弥はじんわりとした温かいものが心に広がるのを感じた。それは、空が次第に赤く染まっていくような美しさも伴っていた。

 畳のへり。

 紗弥は不安なことがあると、いつも畳のへりを見ていた。あの日の透き通った音楽と父の微笑を思い出すことで、不安もやり過ごすことが出来た。畳のへりは深い緑の色に、金糸が織り込まれたものだった。

 ――お父さん、お姉ちゃんに会いたがっていたよ。すごく気にしているの。

 音羽の言葉が紗弥の中に色づいて蘇る。……お父さん……

 紗弥は、今自分が歩いている場所も不確かになりながら、あの日のにおいまで蘇るようだと思った。イグサのかおり、透明な歌声のかおり。

 ぽたりと、床に落ちたものがあった。

 その雫は次々に床に染みをつくった。





               了




*****


以前、ショートショートで書いたものを長くしたものです。

既知感があった方、すみません。

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畳のへり 西しまこ @nishi-shima

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