思い出の神様

夏目勘太郎

思い出の神様

 じり、とアスファルトを踏みしめる。


 重い足取りは、背に吹き付ける風のせいか止まることなく動いていた。

 想像以上の緊張に足を止め、大きく深呼吸をすると腕の時計を確認した。


 午後六時二十分。

 同窓会は六時から始まっている。もちろん遅刻なのは分かっていた。


「もしかして……バーモンドか?」


 聞き覚えのある呼び名に振り返ると、そこには確かに十年前の面影を残すかつてのクラスメイトの姿があった。


「ずいぶん懐かしい名前が出てきたな。それの由来なんだっけ?」


 彼は「なんだ覚えてないのかよ」と、かつてバーモンドカレーのCMをしていたサッカーの日本代表選手と俺が同姓だったからという安直な発想からついた名だったことを説明してくれた。

 そういえばあの時は、日本代表がワールドカップ本戦出場を果たして盛り上がっていたっけと思い出す。


「……あれからもう十年経ったんだよな」

「だな。気がつけば俺らもオジサンだ」


 ホテルへ入ると、会場の外に長テーブルが設置されていて、そこにかつてのクラスメイトの名簿と、胸につける名札が置かれていた。

 自分の出欠欄に丸を書くと、内心で他の出席者を確認するという名目の下に女子の名簿を上からなぞっていく。

 見知った名前を懐かしみながら、さらにそのまま視線を下げ、そこに目的の名前を見つけて息が詰まった。


「やっぱ今は女性が働く時代なのかね。結婚してる女子、思ったより少ねえな」

「……そうだな。でも、それを未婚のお前が言うか?」

「ほら、あれだよ。昔から言うだろ。鍋と自分は棚に上げろって」

「言わねーよ」


 待ち望んだリアクションに笑う友の横で名札を胸につける。

 あの日あの時に置いて来た俺の心は、まだずっとそこに居座っている。

 もう来ない親鳥を朽ちた巣の中で鳴きながら待っている。


 あれから十年――

 彼女の名前の隣には、俺の知らない姓が書かれていた。




 冷たい水で顔を洗うと、しょぼついた目が少しだけスッキリした。

 飲み過ぎないようにしようと思っていたのが、懐かしい友人達と話も弾んだせいで、ずいぶんと飲んでしまったようだ。

 早くも酔いが回ってきた俺は、酒気ただようホールを抜け、化粧室で火照った顔を冷やす。

 鏡に映る顔は赤い。

 それがどこか照れているようにも見えて、初めて告白したときのことが思い出される。

 少し気分が凹んだ。


「悠長に酔ってる場合じゃないってのに……」


 目的があって同窓会へ来たんじゃないのか、早々に酔いつぶれてどうする、と心の中で叱咤する。

 鏡に映る自分を睨み返し、気合を入れなおして化粧室を後にした。

 ホールに戻らず、酔い覚ましのために通路のソファーで一休みしていると、思いもかけずチャンスの方から舞い込んできた。


「あ、トモくん。久しぶりー、元気だった?」

「あ……ああ、久しぶりだな。そっちも元気か?」


 まだ心の準備が出来ていない内に声をかけられ、俺は慌てて答えた。

 緊張で心臓がばくんばくん鳴っていて、動揺で声が震えないようにするのに必死だった。


「むー、緊張してるなー? 相変わらず変なところ生真面目だよねー」


 十年を経て大人びた彼女は、付き合っていた当時と良く似た笑顔を浮かべていた。

 必ずしも美人ではない。

 でも、どこか無垢な子供に似た愛らしい笑顔が魅力的な、俺の知っている彼女だった。

 涙が出そうだった。


「十年前のこと気にしてるんだったら気にしなくて良いよ。お互い若かったしねー」


 こっちが涙を堪える作業に必死なのをいいことに、彼女は俺の言おうとしていた事をどんどん先回りしてしまう。

 相変わらず勘が良くて、機転が利いて、いつも明るくて……すれ違いがあったとはいえ、そんな事も分からず彼女に罵倒の言葉を浴びせ、傷つけた勢いのままに別れた俺の罪は重い。


「あの時のことをずっと後悔してた。まず謝らせてくれ。ごめん」

「だから良いって。気にしてないからさ。ほら、頭上げてよー」


 それはできない。

 勝手に疑心を募らせて、勝手に暴発させたのは俺だ。

 自分の過ちに気付いた時には、お互い遠く離れてしまっていて、弁解の機会が訪れる事はなかった。


 あれから十年。

 心の中でその時の自分を絞め殺さなかった日はない。

 俺は本当に馬鹿だった。

 ひたすら謝る俺の為に、彼女はあれこれ言葉を尽くしてなだめようとしてくれた。

 それを見て、詫びのつもりが逆に罪悪感を抱かせてしまうという自分の失敗に気付いて内心で頭を抱えた。


 これじゃ十年前と何も変わらない。

 相手の事を考えず、勝手に盛り上がって勝手に一方的な感情をぶつけるだけ。

 同じ過ちを繰り返そうとしていた俺は、やっぱり救えないほどの馬鹿に違いない。

 さすがにこの話を続けるのは憚られ、仕切り直した俺達はしばらく当時の思い出話に花を咲かせた。


 彼女とは同じクラスだったが、接触はなかった。

 それが通い始めた塾への道すがら、別の塾へ通っていた彼女といつもすれ違うようになった。

 そんな事が続く内、会うたびに挨拶を交わすようになり、話すようになり、物を貸し借りするようになり、いつしか誰にもできない相談をし合う仲になった。

 彼女は「今だから言うけど」と、俺の告白を受けたときは別に好きな人がいたことを白状した。

 俺は「このやろう」と笑った。




 俺の手が、少しずつ十年の記憶を遡る。

 時を経て今、ようやく掴めた過去の自分。

 しかし、そこにいたのは自分だけじゃなかった。

 後悔の森で追い求めた、記憶の中の恋人。

 思い出の中で美化され続け、彼女は人を超える。

 そこには神がいた。


 しかし記憶の中の彼女は、今隣で楽しそうに喋っている彼女とは、なぜか繋がらない。


「ああ、そうか……」


 俺は枷を外す鍵を見つけた。




「頼みがあるんだ」


 解れていた緊張が、いつしか舞い戻ってきていた。


「俺と別れてから今までの、お前の話を聞かせてくれないだろうか」

「私の? どうして?」


 彼女は左手を頬に当て、少し困ったように笑った。

 動揺したときに動く左手は今も昔も変わらなかった。ただ、薬指に嵌められた指輪を除いて。


「変な誤解するなよ、と言っても難しいかも知れないけど……なんて言ったら良いのかな。俺の中には、まだお前がいるんだ。でもそれはお前じゃなくて、十年前のお前だ。そのお前がいる限り、俺の心はずっとそこから離れることができない。なぜなら俺の心にいるお前もまた十年前で止まっているからだ。だから俺の中で止まった時間を動かすために、お前自身の話を聞きたい」


 何の根拠もない理屈の、ひどく勝手な願いだった。


「えーと……もしかして今でも私のことが好きなの?」


 昔から、言いにくい事でも必要ならハッキリと言うやつだった。

 そんなところは変わってないのを知って安心した。

 でも人妻が未婚の元彼氏にそんなこと聞くなよと、心の中でつぶやいたが。


「たぶん違うと思う。昔のような情熱は湧いてこない。

 でも、それはお前に限ったことじゃないんだ。

 あれから十年間、誰に対してもそうだった。

 おそらく『あの時のお前』が俺の中で唯一愛すべき存在として心に居座ってしまったせいだと思ってる」

「えー、ひどーい。じゃあオバサンになった私には興味ないのね。しくしく」


 彼女はどこからか薄青色したハンカチを取り出し、目元を拭う動作をしてみせた。


「しくしく、じゃない。頼むから真面目に話を聞いてくれ」


 わざとらしく肩を落として大きく息を吐いてみせる。

 しかし言外に潜む彼女の微妙な気遣いに、変だった空気は少し修正された気がした。

 もうお互い無垢な子供じゃないことを、やや寂しく思いつつ、ややありがたく思いつつ、言葉にならない水面下の会話は続く。

 そして彼女は覚悟を決めたように息を吐くと、少し間を置いてから昔語りを始めた。


 身振り手振りを交えつつ、時に悲しそうに、時に楽しそうに、昔と今を紡ぐ。

 途中、不況にあえぐこれからの日本経済のあり方とか、因数分解は大人になったら使わないとか、関係ない寄り道もあったものの、俺の中に欠けていた彼女の時間は、少しずつ補完されていく。




 記憶の中の彼女。

 神格化された恋の象徴。

 今は過ぎ去りし青春という名の聖域。

 しかしそこに今という道が繋がり穴を開ける。

 神が動く。




「……それで三年前に結婚してー、子供も産まれてー、今は幸せな家庭を築いてまーす」


 そう話を締めくくると、彼女は酒の勢いで言いましたと言わんばかりにケラケラと笑った。

 胸が苦しいのはネクタイのせいだけじゃないだろう。

 言葉の中に潜む壁、立ち入る事を許さない現実。

 それが俺を責め立てる。

 彼女が無理におどけているように見えるのは気のせいじゃないはずだ。

 やはりあの時の事は掘り起こしたくない出来事だったに違いない。

 俺はまた、俺の為に彼女を傷つけてしまったらしい。

 やはり救えない阿呆だ。


「ごめん」


 意図せず漏れた言葉。

 それは今この場にいる俺のものではなくて、歩みを止めた十年前の俺からの叫び。

 許されるとは思っていないが、言わずにはいられなかった。


「……だめ。ゆるしてあげない」


 不意に、彼女の重さが肩に圧し掛かった。

 肩に顔を伏せて震える彼女は、同じ言葉をもう一度、吐き出す。


「ゆるしてあげない」

「……ごめん」


 肩にしがみつく彼女から小さな嗚咽が漏れた。

 しかし俺は差し伸べるべき手を持っていない。

 彼女はスーツを力任せに引っ張って、責めるように揺り動かす。

 振り上げた手が何度も、肩を、背を、胸を叩く。

 表情を見せない無言の責めに、俺は自身の罪を実感した。


「ごめん」


 言うべき言葉は、他に無かった。




「えへへ……泣いたら少しスッキリしちゃった」


 目元の涙を拭って、彼女は昔のように無垢な笑みを浮かべた。


「そりゃ良かったな。代わりに新調したばかりのスーツが皺くちゃになったんだが?」

「知りませーん。これはとーぜんの報いなのです。

 むしろこのくらいで済んでありがたく思えと天国にいる長谷川玉枝さんも言っております」

「誰だよそれ」

「私のお婆ちゃん」

「知らねーよ」


 即座に返した俺に、彼女はその長谷川玉枝さんのエピソードを意地になって説明し始める。

 初めは気を遣いすぎていたようだったが、ようやく本来の自然さを取り戻したような気がした。

 ちょっと変なやつ、でも一緒にいて何だか楽しい。

 十年間背負い込んできたの罪を、ようやく今の自分のものとして受け入れられる気がした。


「さて、そろそろ戻りますか」と、彼女はソファーから立ち上がる。


 その後の姿はとても活き活きとしていて、かつての彼女らしい強さがあった。

「そうか」と応えて俺も立ち上がる。


「今日は本当に申し訳なかった。色々と嫌なことも思い出させてしまった。

 許してもらおうとは思っていないが、あれは過ちであったと悔いている事は伝えておきたい」


 そういうと、彼女は静かに笑った。


「いいの。私もトモくんと話して色々吹っ切れたし。悔いているならもっと頑張って悔いるように!」

「が、頑張らせていただきます」


 ずずいと鼻先に指を向けて、彼女は意地悪く笑った。

 その顔には、今の自分にはまだ出来ない強さを感じさせた。


「仲直り」


 そう言って彼女は手を差し出した。

 その寂しそうな笑みを見て、俺もまた同じ顔になった。

 一度は交わったはず道はもう交わる事も無く、きっと離れていくのだろう。

 十年ぶりに握った手は、記憶よりも少し小さくて、軽くて、か弱く感じられた。

 過ぎ去った時間は戻らない。

 ただ、その現実を知る。

 記憶の中の彼女は、今このときに上書きされた。


 十年前で止まっていた俺の隣に、もう彼女の姿はない。

 今という時間に向けて、俺の知らない道を歩いている。

 振り向くことはない。

 待つこともない。

 彼女は彼女の道を進んで行く。


「ありがとう」


 なぜか、そんな言葉が出てきた。

 何に対しての「ありがとう」なのかは分からなかった。

 だけど今の気持ちを的確に言い表しているように思えた。


「うん」


 彼女は、納得したように頷いた。




 酔いは醒めていた。

「戻って一緒に飲もう」と誘う彼女を、「もう少し休んでから行く」と断った。

 彼女は全てを見透かしたように表情を緩め、舐めるような生暖かい視線で俺を見つめる。

 格好つけた薄っぺらな言葉は簡単に見破られていた。


「今さら追い付いて来た十年前の失恋だ。もう少し感傷に浸らせろ……ったく。なんだよ。遠まわしの嫌がらせか。あまり人の心の傷に触れてくるなよ」

「えー、それをトモくんが言う?」

「あ、いや……ほら、昔から言うだろ」

「なんて?」

「鍋と自分は棚に上げろ」

「言わないわよ」


 彼女は嬉しそうに笑うと、お笑い芸人のように逆手でツッコミを入れてきた。

 叩かれた胸は、少しだけ痛かった。




 熱っぽくなった頬に当たる風がずいぶんと心地よかった。

 あれから二次会、三次会と参加した俺は、心から抜けてしまった穴を埋めるように大いにはしゃいできた。

 夜空の星が俺を笑うように瞬いていたけれど、逆にざまあみろと叫んでやった。


 恋に燃え、今まで燻ってきた巣木は、ようやく燃え尽きた。

 もう彼女という親鳥を待たなくていい。

 その背を追わなくていい。

 思い出の中の彼女は消え、十年前に置いてきた心は、ようやく『今』へと到着した。


 さらば、思い出の神様。

 二度とあなたに逢うことはないだろう。

 俺はもう、ひとりでも飛んで往ける。




 -了-

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