色無き世界のファンタズマ
霜桜 雪奈
色無き世界のファンタズマ
広い空を飛行機が飛んでいる。今日の最高気温は、二十八度。もう夏が近いと、朝のニュースキャスターが言っていた。
僕は、家でだらけている自分に嫌気がさして、散歩に出かけることにした。何をするわけでもなく、ただ街を歩く。少し動くだけで、汗ばんでくるような陽気。こんなことなら家にいれば良かったと、僕は太陽を睨みつける。
こんな日でも、意外と出歩いている人は多かった。街行く人たちは、みんな何かに焦っているように歩みが速い。それらと日差しを避けるように、僕は街路樹の影を歩く。
ふと目を向けた、大通りの横。脇道の先に墓地が見えた。こんな住宅街の中にある、お寺の墓地。何度か、親とお参りに行ったことがあるため、さほど真新しさは感じないはずだった。
だが不思議なことに、今はとても興味を惹かれる。
何故、と考えているうちに、気付けば僕は、自然と墓地の方へ足を進めていた。
やはりそこは、ただの墓地だった。墓石が規則正しく整列して、線香の匂いが漂っている。低木の葉っぱは太陽の光を受けて艶めいており、墓地という暗い空間を幾分か明るいものにしていた。
だが、普通でないところもあった。
墓地の中に入った僕は、そこで女性に出会った。墓石の上に座った、女性に。多分、ティーシャツとデニム。胸のあたりまで伸びた髪を風に揺らして、鼻歌交じりに枝を手で弄んでいる。加えて、彼女の姿は――
「あっ、あの……」
「ん? あぁ、どうかしたかい、少年」
彼女の姿を、僕は表現することができない。彼女の着ているティーシャツとデニムであろう衣服は、僕の知っているそれとは様子が違う。
この世界から浮いて見える彼女の姿に、僕は思わず声をかけてしまった。大人なら、こんなことはしないだろう。だが、得体のしれないものを知りたいと思う、子どもながらの好奇心が、僕にそんな行動をとらせたのだろう。
「ここで、何してるんですか?」
彼女は、僕の質問に少し考えるように唸った。
「なんというべきか……強いて言えば、彷徨っているとかかな」
「彷徨っている……?」
彼女の返答は、思わぬものだった。墓地ですることと言えば、墓参りしかないと思っていたのに。でも、墓石の上に座るような人だ。僕の思う、普通の枠組みの中には納まらないような人であることは明らかだ。
「こうしていれば、誰かと会える気がしたんだ」
何を言っているのかは、よくわからなかった。
そこで僕は、あることを思い出した。そういえば、死んだ人は墓の上に座っているように見える、という風に聞いたことがある。
「あなたは、すでに死んでるんですか?」
「ふふっ、どうだろうか……因みに、どうしてそう思うんだい?」
「だって、幽霊は墓の上に座って見える、っていうじゃないですか」
「確かに、言われてみれば……」
彼女は持っている枝を顎に当てながら、わざとらしく悩むようなジェスチャーをする。「だから墓の上に座るのか」だとか呟いて、一人納得したようにうなずいている。
「君からみると、私のいる世界は『あの世』だから、私は死んでいることになるね」
「じゃあ、幽霊なんですか?」
「そういうことになるね」
「……冗談ですか?」
「だとしたら、実に趣味の悪い冗談だな」
そう笑いながら、彼女は手元にある枝をいじりだす。まるで、いたずらのバレた子供が、それを誤魔化すかのような動きに思えた。
「私も、聞きたいことがあるんだ。質問、しても良いかな?」
「どうぞ」
「なんで、この世界は〝色〟が無いんだ?」
その言葉の解釈に、僕は少し時間を要した。それは、先ほどまで何の問題もなく会話をしていた相手が、急に他言語を話し始めた気分だ。麦茶だと思って麺つゆを口にしてしまったような感覚に似ていた。
「……イロって、何ですか?」
初めて聞いた言葉に、僕は思わず聞き返す。
彼女は心底驚いたような顔をしたが、すぐに「なるほど」とうなずいた。おそらく、どこか予期していたのだろう。
「ちなみに君は、この空をどう表現するんだい」
手に持った枝で、彼女は空を指し示す。そこには、ただただ広い空が広がっている。
「空……ですけど」
「いや、違う。もっと、具体的に……そうだな、文章に起こすとしたらどうだい」
「広い空……です」
彼女が息を吐く。それは、期待した回答が得られないことに嫌気がさした溜息に似ていた。
「こちらに来て、どうして世界が白黒なのか、一人で考えていたんだ」
彼女は、不意に一人で話し始める。きっと僕に話しかけているのだろうけど。彼女の話からは、独り言のように感じられた。
「『こちら』は、色という言葉と概念を忘却しているらしい」
「ちょっと、何を言っているのか分からないんですけど」
「……そうだろうね。そもそも、身に覚えのないことなのだから」
彼女は、自分の履いているデニムを指さした。
「これは、藍色という色だ。一般的な空は青色だが、ここは君の着ている服と同じ白色。君の眼は黒色だ」
「シロイロとクロイロ……?」
「そう。これは一人で考えて辿り着いた結論だが、君は……いや、君たちは、世界『そのもの』を忘却しているといっても過言でもない」
彼女は、自分の眼の高さまで枝を持ってくる。
「色とは、この世界の遍くものに存在する概念だ。光のもたらす自然の神秘、といってもいいかもしれない」
彼女は、手に持った枝を大きく振りかぶって遠くに投げた。
枝の飛んでいった方向から、目線が僕に戻ってくる。
その時、彼女の手のひらに液体が滲んでいることに気が付いた。おそらく、枝を投げるときに傷つけたのだろう。
「あぁ、これは赤色という。血液の赤、他には……そうだな、リンゴとかもそうだね」
彼女の言うそのイロは、何処かで見たことがあるような気がした。でも、なんだったのかは思い出せない。頭に靄がかかったように、あと一歩、何かが足りない。
「この世界は色が欠けている。でも多分それは、この世界が確固たる形を有していないからかな。現世の人間たちによって創られた、想像の世界。それがここなんだろう。」
おそらく僕は、何かを忘れているのだろう。それが大切なものなのか、そうじゃないものか、今の僕にはどうでも良く感じられた。思い出しても、きっと現状は良くならない。
「そういえば君、家族はいるのかい?」
「いますけど……何か?」
そう答えると、彼女の表情はわかりやすく陰る。
「そうか……いや、ごめんね。君には、何ら関係のないことか」
彼女が墓石から降りる。すると彼女の体は、足から徐々に透けていく。
まさか、本当に幽霊だったのか。
「私が思っていたより、地獄は味気ないものだった。……なんで写真に写る幽霊が白黒なのか、分かった気がするよ」
その言葉を最後に、彼女の体は世界に溶けていった。
強くなった日差しの元、僕はただ、彼女の最後の言葉を反芻した。
色無き世界のファンタズマ 霜桜 雪奈 @Nix-0420
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