復讐のカノン

松本凪

第1話

「ごめん、もう会えない」

夕焼けに染まる大学のキャンパスで、千夏は静かにそう告げた。

空は燈色に燃え、沈みかけた太陽が長い影を地面に落としている。まるで俺たちの関係の終わりを予感させるかのように、世界が赤く染まっていた。

「……どういうこと?」

思わず問いかけた俺の声は、驚きと戸惑いに揺れていた。

千夏は、一瞬だけ視線を落とし、それから唇をかすかに噛んだ。

「好きな人ができたの」

淡々とした声だった。まるで、雨が降ると予報された日の朝に「今日は傘を持って行った方がいいよ」と告げるかのように、あまりにも何気なく。

「……冗談、だよな?」

そう言えればよかったのに、声は喉の奥に引っかかって出てこない。

「もう決めたことだから……ごめんね」

千夏はそう言い残し、振り返りもせずに歩き去った。

俺はただ、立ち尽くしていた。

心臓が強く脈打ち、手のひらに汗が滲む。視界の隅で、彼女の後ろ姿が遠ざかっていくのが見えた。細くしなやかな指、肩まで伸びた髪、そして、夕焼けに溶けるようなシルエット。

つい昨日まで、彼女は俺の隣にいたはずだった。笑って、話して、当たり前のように寄り添っていた。それなのに、今はもう、触れることすら叶わない。

信じられなかった。

だが、頬をかすめる冷たい風が、現実を鋭く突きつける。何かが胸の奥で軋むように痛み、ふいに熱いものが込み上げた。

視界が滲み、こぼれ落ちる涙を止めることができなかった。

そのときだった。

「よう、山吹」

背後から、聞き慣れた声がした。

振り向くと、サークルの先輩・藤崎彗が立っていた。片手をポケットに突っ込み、気だるげな様子で俺を見下ろしている。

「いやあ、悪いな」

そう言いながら、馴れ馴れしく俺の肩に腕を回す。

「お前の彼女、いただいたわ」

その瞬間、何かが頭の中で真っ白に弾けた。

「……っ!」

俺の声はかすれていた。

「だってさ、お前より俺のほうがいいって、千夏が言うんだから仕方ねえだろ?」

藤崎は、いつものように軽い調子で言った。その顔には申し訳なさの欠片もなく、むしろ楽しんでいるかのような余裕すら浮かべていた。

「まあ、悪いとは思ってるよ?」

ヘラヘラと笑いながら、藤崎は肩をすくめる。

藤崎の声だけがこだまする大学のキャンパスで——

俺は何も言い返すこともできず、その場に佇んでいることしかできなかった。


次の日から、俺は別人になったかのようだった。

魂が抜けたように、ただの抜け殻になったように、空っぽの身体を引きずるようにして生きていた。

朝が来れば機械のように布団を出て、大学へ向かい、講義を受け、適当にノートを取る。だが、そのすべてが上の空。頭の片隅には、常に千夏の面影がこびりついて離れない。

忘れようとした。千夏のことも、藤崎のことも。思い出すたびに胸が軋み、どうしようもなくなるから。

だが、現実は容赦なく俺を打ちのめす。

久しぶりにサークルに顔を出してみると、そこには――俺のかつての恋人が、俺の先輩と、俺に見せつけるように寄り添っていた。

千夏が藤崎の腕に自分の指を絡め、甘えるように笑う。藤崎はそんな彼女の髪を無造作に撫で、親しげに囁く。

彼女が俺といた頃には見せたことのない表情だった。

周囲もそんな二人を受け入れているようだ。誰も何も言わない。むしろ祝福するように笑い、馴染んでいる。まるで最初からそういう関係だったかのように。

気がつけば、俺はひとりだった。

空間の中に、ぽつんと取り残される。誰も俺の存在を気に留めない。

俺は黙ってサークルを後にした。

冷えた風が頬を打つ。秋の夜は肌寒く、コートを持ってこなかったことを後悔するほど。それでも、家に帰る気になれず、キャンパスを当てもなく歩いた。

このまま消えてしまえたらいいのに。

そんなことを考えながら、ポケットに突っ込んだスマホが震えた。

――着信音。

誰からだろう、と思いながら取り出す。画面を見ると、そこには藤崎彗の名前が表示されていた。

……何のつもりだ。

眉をひそめながら、俺は無視する。だが、次の瞬間、着信が切れ、代わりに一通のメールが届いた。

訝しげに開く。

そして、俺は息を呑んだ。

画面に映し出されたのは、藤崎と千夏――二人が性行為をしている動画だった。

千夏がベッドの上で乱れ、俺の知るはずのない顔をしている。いや、知っているはずの顔だったのに、俺が見たことのない、まるで別人のような表情を浮かべていた。

とろけるような瞳、艶やかな唇、甘く喘ぐ声。

俺の腕の中では決して見せなかった、そんな姿。

藤崎がカメラ越しに笑い、千夏の頬を撫でる。

千夏は恥じらいながらも彼に身を委ね、その手を求めるように伸ばしていた。

――そんなの、知らない。

俺の千夏は、そんな女じゃなかった。俺の知る千夏は、慎ましくて、優しくて、俺のことだけを見ていたはずだ。

そんな千夏を俺は心から愛しているつもりだった。本気で、大学を卒業したら結婚することも考えていた。ずっと、千夏のそばで生きていたい、そう常々実感していた。

なのに……

その瞬間、脳の奥で何かが弾けた。

心臓が暴れ出し、血が沸騰するような感覚。胸の内にあった黒い感情が一気に膨れ上がり、抑えきれない衝動が込み上げる。

足元が揺れた。呼吸が乱れ、視界がぐにゃりと歪む。

熱い、熱い、熱い。

喉の奥が焼けるようだった。指先が震え、スマホを握る手に力が入る。

――藤崎、彗……っ!

その名を呼んだ瞬間、俺の中で何かが決定的に変わった気がした。


藤崎に直接手を下すつもりはなかった。

こいつは自分で勝手に転げ落ちるタイプの人間だ。俺はただ、その背中をそっと押してやればいい。

――奴を、自滅させる。

それが、俺の選んだ復讐の形だ。

藤崎は女好きで、見栄っ張り。そして何より金にルーズだ。ブランド物の時計、仕立ての良いジャケット、夜の街で女を口説くときにちらつかせる高級なライター。だが、こいつがそんな贅沢をできるほど裕福な家庭の出身ではないことを、俺は知っている。

じゃあ、その金の出どころは?

借金か、あるいは短絡的な投資か――。

どちらにせよ、金に目がくらむタイプであることは間違いない。

そんな男を陥れる方法は、ひとつしかない。

俺はまず、匿名のアカウントを作成した。

プロフィールは適当に、それらしい肩書きを付ける。経営者、投資家、成功者。最近流行りの仮想通貨やFXの情報を並べ、いかにも「稼げる人間」を演じる。

そして、ターゲットである藤崎にDMを送った。

『簡単に稼げる投資案件があります。興味ありませんか?』

藤崎は最初、警戒しているようだった。

俺が作ったアカウントを訝しげに見つめている奴の顔が脳裏に浮かぶ。そして案の定、軽くあしらうような返信をしてくる。しかし、それで終わるわけがない。

俺は慎重に、じっくりと藤崎を誘導する。

過去の「成功例」を捏造した証拠画像、いかにも胡散臭いがそれっぽい「実際に儲かった」証言、数十万が数百万円になったという取引履歴のスクリーンショット――すべて偽物だが、藤崎にとっては魅力的に映るはずだった。

『最初は少額からでも大丈夫ですよ』

俺はそう付け加える。

最初から大金を要求すれば、さすがに警戒するだろう。だが、少額であれば「試しにやってみるか」となる。藤崎のようなタイプは、まず小さな成功体験を与えてやれば、一気にのめり込むのだ。

数日後。

俺は藤崎を、ある仮想通貨の投資グループに招待した。

そこには、俺が用意した「カモ」たち――いや、演じるために雇ったサクラたちがいた。

彼らは次々とメッセージを投稿する。

『この案件、本当にヤバい。昨日5万円入れたら、今日10万円になった!』

『最初は半信半疑だったけど、マジで儲かる!』

『もう20万円くらい増えたわ、ガチでありがとう!』

藤崎は、最初こそ半信半疑だったようだ。だが、グループ内で次々と上がる「成功報告」を目の当たりにし、徐々にその疑念は薄れていくように思えた。

人間というのは、欲に目がくらめば自ら進んで奈落へと足を踏み入れるものだ。

そして、ついにその瞬間が訪れた。

藤崎は、最初の金を投資した。

それは決して大金ではなかった。

だが、重要なのは金額ではない。

一度でも手を出したら、もう戻れない。

まるで蜘蛛の巣にかかった獲物のように。

奴は、もう逃れられない場所へと足を踏み入れてしまったのだ。

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