第一章:薔薇の館

 エリスに導かれるまま、私はグラン・ギニョール劇場の裏手にある古い館へと足を踏み入れた。


 鉄製の門扉は、アール・ヌーヴォー様式特有の曲線を描いていた。蔦のように絡み合う装飾の間から、薔薇のモチーフが浮かび上がる。錆びついているはずの金属が、まるで生きているかのように艶めいていた。


 屋敷の庭園には、夜闇の中で燃えるように咲き乱れる薔薇の群れがあった。壁を覆うように絡みつく黒薔薇、地面にこぼれ落ちる紅薔薇。花々は季節を無視したように咲き誇り、甘美な香りを放っていた。


「まるで、エミール・ガレの香水瓶の中に迷い込んだみたい」


 私の言葉に、エリスは微かに微笑んだ。


「ガレとは親しいの。彼のアトリエで、私のために作られた香水瓶もあるわ」


 その言葉に違和感を覚えた。ガレのアトリエは、ナンシーにある。パリのこの場所にいる彼女が、どうしてガレと親しいというのだろう?


 しかし、そんな疑問も、館の中に入った途端に霧散した。


 玄関ホールは、まるでヴェルサイユ宮殿の一室のように豪奢だった。天井まで届く大きな鏡が、金箔を施された枠に収められている。シャンデリアの光が、クリスタルのプリズムを通して虹色に輝いていた。


「ここよ」


 エリスは私を、螺旋階段を通って館の奥へと導いた。


 階段の手すりには、金色の蔦が這い、その先端には黒薔薇の彫刻が施されている。一歩進むごとに、甘い香りが濃くなっていく。それは単なる薔薇の香りではなく、もっと官能的で、危険な匂いだった。


 二階の廊下には、等間隔で燭台が置かれ、青白い炎が揺らめいていた。壁には見覚えのない画家による肖像画が並ぶ。どれも若い女性の姿を描いたものだが、不思議なことに、顔の部分だけが影に沈んでいた。


 エリスが立ち止まったのは、廊下の突き当たり。そこには黒檀でできた扉があった。


「準備はいい?」


 私は無言で頷いた。


 彼女が手を伸ばし、扉を押し開けると??そこには薔薇に埋め尽くされた密室があった。


 壁一面に咲く黒薔薇。天井から垂れる血のように深紅の蔦。床には、何百もの花弁が積もり、足を踏み入れるたびに柔らかな感触が広がる。


「……これは?」


「変容の間よ」


 エリスが微笑んだ。その表情には、どこか残酷な美しさが宿っていた。


「この部屋では、人は蝶になるの。あなたも、もうすぐ……」


 その言葉の意味を理解する前に、扉が静かに閉じられた。


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