8、5

1年と4ヶ月が過ぎた。

僕はイタリアに旅立った。会いたい人がいた。今度はノエミもついてきてくれた。そのことだけが、過去とは違うことを示してくれていた。

 ローマにたどり着く。淡い空の下で太陽にこんがりと焼かれたような建物がずらりと並び、歩む道は大きくて、みんな堂々と歩いている。きっと僕らがどれだけ変わっても、この街並みはずっと変わらないのだろう。手袋と帽子とマフラーとダッフルコートでもこもこになったノエミの手を、繋ぎ合わせて歩いていた。

目当てのその人は、僕らが育った施設の庭にいた。子どもたちの笑顔に囲まれていて、植えてある花の手入れをしているようだった。僕たちは彼女に近づく。

「マリー・フィオレッリさん」

 その人の本名で呼ぶと、彼女は振り向く。少し白髪が増えて背が小さくなっていた。

 女性は振り向いて見る。僕の胸の、十字架のネックレスに気付いてから、初対面の人間を見る顔がゆっくりと変わっていく。

「……クラウディオなの?」

「お久しぶりです……おばさん」

 嬉しくてにっこりすると、マリーさんは目を大きく見開いて、胸に手を置いた。ノエミがマリーさんに抱きつく。

「マンマ、久しぶり!」

 聞いた話によると、ノエミを含む数人はあれからマリーさんの養子になって施設で16歳になるまで暮らしていたらしい。それは、マリーさんがもう時期この仕事を辞める予定だったからだ。まあ、結局辞めずに今もこうしてこの施設で働いているそうなのだけど。

 マリーさんは、僕たちを施設の中の客室に案内してくれた。懐かしい匂いや、記憶に残っている壁と床の色を感じた。

 始まったのは昔話だった。ノエミとマリーさんはリラックスしていた。僕は緊張で手が汗ばむのを感じていた。マリーさんに言うべきことを必死で、脳内で繰り返す。それはマリーさんへの感謝だった。思えばジョーの元にいってから、一度もマリーさんを訪ねなかったのだ。それだけならまだしも、僕はマリーさんのことを、忘れてしまっていた。それらが今更になって、重苦しい罪悪感としてのしかかってきていた。

「あ、あの、実は今日は、ちょっと用事があって」

 怖くなってくる。おばさんに全部がバレていたらどうしよう。「私のことを忘れていたのね」と言われたらどうしよう。ノエミとマリーさんの視線が僕の顔に集まる。声が出せなくて、口をつぐんだ。沈黙があたりに流れる。何か言わないと、という焦りが襲いかかる。

 すると、ノエミが軽い調子で言った。

「おぉお、愛しのアモーレとか言うつもり?」

 芝居がかった動作にマリーさんがくすりと笑う。少しだけ場が和む。ノエミの存在に感謝した。ゆっくりと深呼吸をしてから、僕はマリーさんに向き直った。

「ちっ、小さい頃、育ててくれてありがとうございました」

 言ったと同時に頭をばっと下げた。胸の中の重さが少しだけ落ちた気がした。

 しかし、返答はまるで予想外れだった。

「……え?」

 マリーさんは、「一体どういうこと?」と言う顔と声で僕をマジマジと見つめていたのだ。聞き逃したのかと思って、念のためもう一度言ってみた。今度はもう少しゆっくり、はっきりと。でもマリーさんは、また、歯に何かが挟まったような顔をする。

「え、あの時、僕たちを育ててくれた……あの、おばさんですよね?」

 まさかここまできて、人違いだなんてことはないよな。

「あ、ごめんなさい! 一瞬、どうしてお礼を言われてるのかわからなくて!」

 すると今度は大笑いし始めた。これにはノエミもびっくりしている。

 マリーさんは、ひとしきり笑った後でふうっと息をついた。

「ごめんなさいね。少し驚いていたの。感謝されるようなことなんて、何ひとつできていた覚えがなかったから」

 笑顔でそう話してくれた。

「私ね、施設のみんなが大好きだったの。みんな愛してた。みんなは、びっくりするぐらい大きな力をくれたの。だから私は生きていた。みんながいなかったら途中で死んでいたかもしれない人生だった」

 驚いて、僕とノエミは顔を見合わせる。ノエミの目元は、濡れていた。

マリーさんは、しばらく、自分の中で気持ちを味わうように黙り込んでいた。やがてゆっくりと、語り始める。ひんやりした空気が僕らを包んでいた。

 私ね。若いころ、夫に暴力を振るわれていたの。もうあまり、思い出せないけれどとても怖かった。

 そんな生活が数年続いて、もう死んでしまおうかって思っていた。だけどある日、私を助けてくれる人がいた。その人は弁護士だった。顔にあざを作ってた私を心配して優しく包み込んでくれた。離婚の手続きまで請け負ってくれた。私たちは互いに恋をしていた。

こんなにも好きな人はもう二度と現れないってわかっていた。今でも、思い出すわ。あの人の目は、今まで見た何よりも綺麗だった。私たちは婚約した。あの人が私を見る目は、年を経るに連れてどんどん穏やかに、魅力的になっていった。

結婚を間近に控えた日。あれは忘れもしない、1985年の冬の日のことだった。私たちは東南アジアの島国に旅行する予定で、ローマ国際空港にいた。太陽は登っても寒空のままの朝、ロビーでコーヒーを飲みながら、チケットの手続きを待っていたの。

 そこで起こったことは、はっきりとはわからない。何かの拍子で意識が途切れて、私は病院のベッドにいた。悪夢みたいだった、身体中がひりひりと焼け爛れている感じ。眠っては目を覚ましてを何度も繰り返していたの。夢の中でもずっと痛みが続いていた。

 病院のベッドに寝たきりになって2ヶ月した頃、少しずつ起きている時間が増え始めた私を訪ねた人があった。あの人だったらどんなに良かったか。だけどそれはあの人の両親だった。

 何が起こったのか、初めて知った。テロだったの、そしてあの人は。

……。

 それから、立ち直るのにかかった時間は計り知れない。初めは神様なんていないと思ったし世界を憎んだ。だけど何故か、私はまた、教会に通い始めていた。何を求めていたのかも、わからないまま。だけど神父さんや、いろんな人に何度も相談をして、これからの私の生き方について考えたの。神のお告げだなんて大それたことじゃないけれどね。

 同じ頃だった。私の家の向かい側で、ぼろぼろの服を着た男の人と女の子が物乞いをしていたの。男の人は身体が不自由で、私の家の前で時々、道行く人にお金をねだっていた。女の子はいつもひもじそうに、指を口に入れていた。お話をした時に、母親がテロで殺されたと聞いた。しばらくしてその親子はどこかに去ってしまった。たった一度お話ししただけなのに、女の子の空っぽの目が妙に焼きついてしまったの。一つの要因に過ぎないのかもしれないけれど、何年も経ってようやく、自分のやるべきことがわかった。

ローマで、テロによって親を奪われた子ども達の、生きるお手伝いをしよう。あの人と私にいたかもしれない子みたいに、育てよう、守ろうと誓った。

 クラウディオ、あなたのお父さんもね。テロで亡くなったの。あなたが寂しかったこと知っていた。知っていて、何もできなかった。私はあなたを愛してた。だけどあなただけを愛することはできなかった。みんなを愛していたから。きっと知っていたのね、クラウディオ。私とあなたが一対一にはなれないということ。あなたにとっての家族は、一対一で愛しあえる存在だったのね。


 一対一。一緒に音楽をしていた時まさに僕らはそうだった。お互いを対等に必要とした。


ふ と思い出す。鼻の奥がつんとする。ジョーは、本当は僕のことを大事にしたかったのかもしれない。僕はもしかしたら初めから、一人なんかじゃなかったのかもしれない。じわりと熱が滲む。

「私はあなた達に生かされていたのよ。私の方こそ、ありがとうございました」

 マリーさんの言葉で我に帰った。

「あの時。クラウディオが施設を出て行く時、あなたを離したくないと思った。愛していたから」

 ノエミの肩を抱いている彼女の、まっすぐな視線が僕を貫く。

「……本当の、家族じゃなかったのに?」

 おばさんは僕の胸に手を当てた。生まれてから今まで、自分が愛されていただなんて、全く気づいてなかった。愛されるだけの魅力がないのだと思いこんでいた。

「頭じゃなくて、胸の奥に従うのよ」

 昔から、この人の茶色い瞳が好きだった。完熟のオリーブの果実みたいだ。

「愛は初めから、あなたのなかにもあるの」

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