イクナイモノ
二月宴
天井裏の秘密:一
四月下旬の昼下がり。
客は一人もいないコンビニの店内に、うららかな春の日差しが降り注いでいる。
あくびをしていた二十歳前後の男性店員は、入ってきた俺たちを見て、無理やり笑顔を作った。
その店員の周囲で、ぼんやりした塊が円を描いて飛んでいるのが
普通の人には視えない。実体を持たず、この世界を流離う《存在》。
害意があれば大問題だが感じない。ただ遊んでいるだけなんだろう。
自分に気づかない店員に飽きたらしく、
俺はどちらにも気づかなかったふりをして、飲み物売り場に向かった。
ショーケースに映った自分の姿に、扉を開けようとした手が止まる。
まだ体に馴染んでいない紺色のスーツと、皺一つない革靴。大学生の時より短くした髪が社会人になったことを実感させる。
「
先輩の
「あ、はい」
慌てて棚の商品を選ぶ。
昼食は蕎麦にしたから、少しでも健康的なものを、と野菜ジュースの紙パックを手に取った。瞬間、軽やかな足音がした。背後からスッと白い手が伸びてきて、紙パックを奪っていく。
「ちょっとは先輩らしいことさせてください」
「え? あ、ちょっ、冬原さん!」
セミロングの髪を柔らかく揺らしながら、冬原さんは颯爽とレジに向かう。
「袋は必要ないです」
ほうじ茶のペットボトルと俺の野菜ジュースを並べてレジカウンターに置き、そう言った。
雪のような白い肌に艶やかな黒髪、形の良い赤い唇。白雪姫を彷彿とさせる容姿の冬原さんに、店員の笑顔は五割増になった。
「それから……三十八番のセブンスター一箱ください」
十代半ばから後半くらいにしか見えない冬原さんの注文に、店員の笑顔が引きっつた。俺に非難の眼差しを向けてくる。『付き添いの大人が何してるんだ』ということだろう。
そんな店員に冬原さんは運転免許証を差し出した。
「年齢確認、これでお願いします」
冬原さんの運転免許証を見た店員は目を丸くした。「ホァ?」という小さな音が唇から零れる。
分かる。驚くよね。一歳だけだけど、俺より歳上なんだよ。
俺は心の中で店員に話しかけた。
紺色のパンツスーツよりも高校の制服、ローヒールのパンプスよりもローファーの方が似合いそうな冬原さんだけど、免許証の色はブルーだ。
ブルー免許の条件は運転免許取得後、三年間無事故無違反であること。つまり二十歳を超えていることは確定している。
冬原さんと知り合ったのは、俺が二十歳の時。それから二年と数ヶ月。俺はなぜか身長が二センチ伸びた。顔立ちも大人っぽくなった、と自分では思っている。
でも、この人は髪が伸びた以外何一つ変わっていないように見える。
◆□◆
前進で駐車したら、たいていの場合はバックで出ることになる。駐車することに頭が一杯になっていた俺は、そこまで考えていなかった。
あと二軒くらいコンビニが建てられそうなほど広い駐車場の真ん中で後悔した。四回切り返して、やっと車道に出る。
「そんなにおっかなびっくりだと、逆に緊張しますよ」
助手席に座る冬原さんのやんわりとした指摘に、俺は上擦った声で「はいっ!」と返した。手のひらに嫌な汗が滲んでくる。ハンドルが滑りそうになって、さらに焦る。
『いいか
と帰省のたびに、強引に運転の練習をさせた兄貴に今は心の底から感謝している。それでもまだ運転は不慣れだ。
よく知った道を、家族を乗せて運転するのと、初めての道を、他人を乗せて運転するのとではわけが違う。しかも今日は駅前で借りたレンタカーだ。兄貴の車と車高とアクセルの感覚が少し違うだけなのに、緊張は倍増している。
運転しながらお喋り、というのは俺にはまだハードルが高い。なので、赤信号で停まったタイミングで尋ねた。
「冬原さんってラークじゃなかったんですか?」
「銘柄にこだわりはありません。味の違いも分からないので。
必要がなければ、一日に一本か二本吸う程度。でもこれが大変なのだという。
外見のせいで見ず知らずの大人に注意されたことは数知れず。駅前の喫煙所にいたら通報されて、警察官がやって来たこともあったらしい。
「
「俺の叔父も一色さんと似たようなこと言ってました。俺が死ぬまでこの味でいてくれ、って」
「こだわりがあるとそうなんですね。あ、
二歳歳上の先輩、新田さんは仕事はメンソールタイプ、プライベートは電子タバコだという。吸っているところを見たはことない。でも『こんな仕事で、公私で同じ煙草吸えるかよ』という持論は語られた。
俺が入るまで、唯一の非喫煙者だった
「火も煙も有効ですけど、
「身も蓋もないっすね」
俺がそう言うと、冬原さんは小さく笑って肩を竦めた。何も言わなかったのは、歩行者用信号機が赤に変わったからだ。
目の前の信号が青に変わる。慎重にアクセルを踏み込む。
「後続車がいない今はいいですけど、もう少し早く発車しないと追突される危険がありますよ」
「き、気をつけます」
今後も車を運転することは多い。
来週からのゴールデンウィークには、レンタカーを借りて練習しよう。帰省以外、何一つ予定のなかった俺の予定は運転の練習で決まった。
「来月の俺に期待してください」
来月なら今よりずっと上手くなっているはずだ。たぶん。
やっぱり冬原さんは何も言わなかった。表情が少し翳ったのがちらりと見えた。
さっきのまでの無言とは違う沈黙の意味を、俺は知っている。知っていて、気づかないふりをした。
◆□◆
特殊危機調査室。
神、幽霊、妖怪などの怪異と呼ばれる存在の調査・観察を専門とする組織で、俺はこの春からここに所属している。
普通の人には視えない存在が視え、聴こえない音が聴こえ、解らないものが解る。《素質》
全国各地から寄せられる怪奇現象が本物かどうか調査し、本物であれば外部の《本職の方》に依頼をかける報告書を作成する。それが仕事だ。
◆□◆
畑と畑の間に、数軒ずつ家が固まるように建ち並んでいる。のどかな光景に地元を思い出す。ほんの少しだけ運転中の緊張が和らいだ。
そのゆとりも、目的地である古ぼけた二階建ての公営住宅が見えた瞬間に霧散した。
四棟あるうちの一番奥――A棟はネットでも地元の噂でも『最恐の事故物件』『呪われたり公営住宅』として有名だった。
噂通り、A棟だけ明らかに雰囲気が違う。突き刺さるような剥き出しの悪意が向けられてくる。
心臓が激しく脈打つ。生物が腐ったような、鼻に残る嫌な臭いに全身が総毛立った。
本能が帰れと訴えてくる。
「
特殊危機調査室では、人に害意を及ぼす存在を《イクナイモノ》と呼んでいる。誰かが考えた隠語で、良くない
「っ! は、はい」
帰りの運転は冬原さん。俺は先輩の言葉にありがたく従って、15番の駐車スペースに前進で車を停めた。
「今回は調査や観察ではなく確認です。イクナイモノがいるのは、もう確かですけど」
事前に読んだ資料によれば、この公営住宅A棟にまつわる曰くは戦後間もない頃まで遡る。
四百坪の広大な敷地に暮らしていた、大人四人子供三人の一家七人は深夜に起きた火事で亡くなった。数日後に逮捕された犯人は、親戚の夫婦だった。畑の境界線と借金を巡って揉めていたらしい。
その後、相続する者がいなくなったことで市の所有となり、公営住宅が建てられた。全焼した母屋の場所に建てられたのが、このA棟だった。
完成当初から、A棟にだけ奇妙なことが起きていたという。
・真冬でも腐敗臭のような臭いがする。
・うめき声や何かが這うような音がする。
・髪の長い人が立っていた。
・家鳴りで部屋が揺れる。
その他、諸々。
耐用年数が過ぎたため取り壊しが決まり、住人が全員退去するまで三十人以上の人が亡くなっている。事故、自殺、さらに殺人。急死も入れると、もっと増える。人はいつか亡くなるのだが、この数は多すぎる。
火事で亡くなった一家が祟っているのだと、少しだけ覗いたネットの掲示板には書き込まれていた。
「さて、行きましょうか」
「はい」
俺は冬原さんに続いて車を降りた。
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