第18話 神崎さんと柳沢くんの場合

「……あなたは、誰? 私、どうしてここに……?」


 その声を聞いた瞬間、心臓が止まるかと思った。

 病室でベッドに横たわっていた神崎彩花かんざきさやかが、俺の顔を見つめながらそう言ったのだ。

 

 俺、柳沢祐大やなぎさわゆうだいは、手にしていた彼女の手を思わず離しそうになった。


「彩花……俺だよ、祐大だ。君の――」


「知らない。聞いたことない名前……」


 白い病室の中、壁掛け時計の針の音がやけに大きく響く。

 俺はすぐにナースコールを押し、医師と看護師が駆けつけた。検査の結果、脳に物理的な異常は見られなかったが、診断は「解離性健忘かいりせいけんぼう」。

 

 原因は事故のショックによるものらしい。


 医師の問診により、彼女は約2年前から現在までの記憶を完全に失っていることが分かった。

 

 ちょうど、俺たちが付き合い始めた時期と重なる。


 恋人だったことも、笑い合った日々も、涙を拭いた夜も――

 

 すべて、彼女の中から消えてしまった。





 退院後、彩花は実家で療養することになった。

 

 俺は彼女の家族の許可を得て、少しずつ、彼女のそばに通い始めた。


「また来たの?祐大さんって、しつこいですね」

「ごめん、でも……彩花に、もう一度恋してほしくてさ」


 最初は警戒していた彼女も、次第に心を開きはじめた。

 

 一緒に昔行ったカフェに行き、同じメニューを頼む。

 

 彼女の好きだった映画を一緒に見て、笑い合う。


 彼女が覚えていないことを、俺は丁寧に、焦らずに伝えた。

 

 彼女が過去を思い出すことよりも、今の彼女と新しい記憶を作ることを大事にしたかった。




 ある日、二人で見晴らしの良い公園を歩いていたときのこと。


「ねえ、祐大さん」

「ん?」

「なんかね、最近……あなたといると、胸があったかくなるの。安心するっていうか、懐かしいっていうか……変ですよね」


 その言葉を聞いて、胸が詰まりそうになった。


「全然、変なんかじゃないよ。嬉しいよ、彩花」


 夕日が差し込む中、彼女は少しだけはにかんで微笑んだ。

 

 それは、俺が何度も見てきた笑顔だった。

 

 記憶はなくしても、彼女の心には、ちゃんと残っていたのかもしれない。俺との日々のかけらが。




そして今――


 季節は春。桜の花が咲き誇る公園で、俺は彼女の手を握った。


「彩花。記憶が戻っても戻らなくても、俺は君と生きていきたい。……もう一度、付き合ってください」


 彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……はい。私も、あなたと一緒にいたいと思ってました。記憶がなくても、心が覚えてるんです。あなたのこと」


 その瞬間、世界が光に包まれたような気がした。

 

 俺たちはもう一度、手を取り合って歩き出した。

 

 過去ではなく、未来へと向かって。

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