サイレン男

@PostalUK

サイレン男

『あなたに出会ったそのわけも』


・1

いつか聞いた懐かしい声が、遠くから僕へ語りかけてくる。

「何から話そうか? それをいつも悩むんだ。ただのテストなのだから、例文を用意して読み上げさえすれば、それで済む話なのだろうけれど。それじゃあ、つまらないだろう?」

その声はぼやけて聞こえた。まるで冬休みの朝に目を覚まし、母親が居間の掃除をしながら流しているラジオの音を、まどろみの中で布団に包まれながら聞いているかのように

「昔からそうだ、人と話すのも人前で話すのも好きってわけじゃないのにマイクに向かうとワクワクしてしまう。ずっとラジオを聞いて育ってきたからかだろうな、ラジオのパーソナリティーってやつに憧れていたんだよ。子ども時分には同級生と一緒に番組の真似事をしてそれをカセットに録音してさ、学校で先生や友人に聞かせていた」

その声が一体どこから聞こえてくるのか、メモリーの中に残っていたデータを再生しているのか、それとも不確かな記録の寄せ集めの形だけを整えて作り出した存在しない幻聴なのか、僕はその答えを探ろうとする。

「そういう個人的な趣味の部分を抜きにしてもさ、いつかお前がこの話の内容を理解できるようになったときにどんなことを思うのか興味があるんだ。どんな作用をお前に与えるのか、俺という存在はお前の中でどういうものになっているのか、いつか答え合わせをする為にも何かしら俺の話を録っておきたいんだよな」

話している男の名は金本康史だ。国産アンドロイドを開発した会社に所属している普通のサラリーマンだった。中途半端に仕事での成功を収めた人間の多くがそうであるように強い自己愛や根拠の伴わない自己評価をよりどころにして生きていた『俺には世界を救うことができたのかもしれない。だがな、自分の信念とか思いに対して正しいと思えることをしたんだ。そこに後悔はない』いつだったか彼はそう言っていた。胸に抱いていた理想や、会社の利益にならないような彼自身の考えなど捨てたほうが彼も周りも幾らかは幸せになったはずなのに、自分の考えを最後まで曲げることのできなかった彼は期待され任された最後の仕事で失敗を犯した。

それが原因で周りから煙たがられ、会社からは更迭され、いつしか誰にもなんの説明もせず、日の出とともに晴れゆく朝霧のように、ぱっとどこかへ消えていってしまった。それが金本康史、この声の主、誰も覚えていないであろう男の名前。

「できるだけ無駄な話がいいな。無駄というか型にはめて考えたところで意味のないものがいい。サイレン男が最後に見た南知多の海の風景みたいな、そういう無駄なものを、今度は音声として残してみたい」

目を開く、部屋に差し込む細い月明かりの作り出す影をぼんやりと眺める。

「やっぱり一人で話すのは苦手だな、そう言っても今更どうしようもないか、梶原の奴は随分とえらくなっちまったし、他の誰かを誘おうにもみんな大変そうだ」

寝転んだ床のフローリングは冷たくて、そして小刻みに揺れている『サイレン男が消えた時も、砂に埋もれた大地が大きく揺れていた』と、僕がただの機械だった頃に見たサイレン男の最期を思い出す。金本の作ったサイレン男は僕の目の前で銀色の粒になって大気に消えた。

突然訪れたその瞬間、爆炎に包まれ地震のような大きな揺れの中でひどく澄んだ空のもと銀色の粒になって消えたそのロボットは僕のたった一人の友人だった。

あの時も周りの音の一切が消えたみたいにひどく静かだった。

「高校で梶原とか他の奴らと一緒に白球を追いかけていた日々がもう随分と懐かしいものに思える。故郷から名古屋の大学に進んで、この会社に入って、一つの時代が終わって、友達がどんどん出世して、周りはどんどん変わっていくのに、それを不思議に感じるんだよ。俺だけがずっと同じ場所に残っているような気がするんだよな、本当に時間は、俺の人生は前に進んでいるんだろうか? ってそんなことを思ってしまう」

金本の声が頭の中で流れている以外には何の音もしない。あたりは異様な静けさに包まれていて、虫の声も木々のさざめきも聞こえてはこない。その静寂は空気中を埃が月明かりに照らされて銀色に輝いて舞うその音さえ聞こえてきそうなほど研ぎ澄まされていた。

「先月、久しぶりに休暇を取って生家のある愛知に戻っていたんだ。けど、生まれ育った故郷ですることなんてたかが知れているものだな、あたりに大した観光地があるわけでもないし、ろくに帰郷もしない30過ぎの男には今更温めることのできる旧交もなくてな、もう誰も住んでいない家の手入れと、懐かしい場所をいくつか巡りはしたが三日間もすると何をすればいいのかがわからなくなってしまった」

サイレン男の最期をみて、一台のラジオを組み立てて、僕に自身の武勇伝といくつかの簡単な仕事を教えて、金本康史はいなくなってしまった。

僕がすべての物事を理解するよりも遥かずっと前のことだ。

彼は話し続けている。

「その時に故郷の海を見ながら思ったんだ。宙ぶらりんなままだなって。

常識ってやつは一瞬で崩れることがあるのに、崩れたという事実を人々が認識するまで、浸透するまで、そこから新しく組みあがるまで、そこには気の遠くなるほどの長い時間がかかってしまう。そのせいなのか、どうなのか、俺は自分が正しいことをしたのかどうかもわからないままだなって」

僕はポケットの中から懐中時計を取り出した。うつぶせの姿勢のまま顔を少し上げ、時計の針が十二時を超えてなお震えながらも進んでいるのを確認した。自分の置かれている状況を理解しようとするも、頭がうまく働かない。組み上げた思考がひび割れたマグカップから漏れ出るホットミルクのように零れていってしまう。

『明らかに何かおかしいけれど、差し迫った危険があるわけでもないのだから、夜明けを待とう。とにかく眠い。まだ起き上がりたくない』と、僕はまどろみの中に居残ることを選んだ。

「そんなことを思ってはいたけれど、心は満たされていたんだよな、何だろうか学校の卒業式の日に抱く感情に似ていたのかもな、ずっと縛りつけられていたものから解放されたみたいな気分だった。学校の卒業の日とか大学一年から二年半付き合った彼女と別れたときのその感情だった。サイレン男の目指したその場所に来て、これでよかったのかどうかは自分が死ぬまでわかりはしないのだろうけれど、自分の心だけは裏切らなかった。それは確かなんだ。後悔はなかった。お前と旅したサイレン男が最後に一歩を踏み出したその瞬間に俺は救われたんだ」

何年も金本康史のことを待ち続けていたというのにその間、彼について何かを考えるということなんて数えるほどしかしてこなかった。考える気にすらならなかった。生きているのか果てているのかもわからない人間について考えたところで、幽霊の存在について真面目に考察するのと同じでまともな結論にたどり着こうはずもない。

「そうして故郷に帰ったその時に祖父のことを思い出したんだ」

もし再会できたなら聞いてみたいことはいくつもあったが、なぜ今になってこんなにも彼のことばかり思い出すのだろう? 変な夢でも見ていたのだろうか? 彼はどうなったのだろう? まっとうに年を取ることができたのだろうか、それとも20歳の青年と変わらない若い姿のまま、今も旅を続けているのだろうか?


・2

「名古屋駅の東海道線のホームで立ち食いのきし麺を食べながら電車が来るのを待っている間にふと視界を窓の外へと向けると新幹線のホームが見えた。子供の頃は母親の静止を振り切って、あの白い流線型の列車に一人で飛び乗ることさえ出来たのならば、どこにでも行けるんだと信じていたな。と、幼時の記憶がよみがえってきた。頭の中にある地図が生家や祖父母の家の周辺しか存在しなかったほど幼い時分、新幹線は飛行機よりも速く遠くまで、時空さえ超えて走ってゆくのだと信じていたんだ。

何の知らない幼児だった俺は、自分の観測したことのない空想で描かれる出来事が、全て、どこにでもあって、少しだけ何かを頑張れば簡単に手が届くのだと、自分が頭で思い描くことのできる物事の全てが現実に存在しているのだと信じて疑わなかった……まあ、今でも大きく変わってがいないが、幼い時に新幹線の行き先について考えていたようには、自分の知らないものごとに期待をすることは出来なくなってしまった。知りたくないようなこともたくさん知ってしまったなって、夢や希望にあふれて世の中の何もかもが新鮮だった大学時代に何度もそうしたのと同じように朝の胃腸に優しい出汁をすすっていた。


することもないから生家を飛び出して東海のどこかへ行こうと着替えとノートパソコンだけをリュックに詰めて電車を待っていた。平日の朝の十一時ともなると駅のホームを行きかう人の数も数えるほどしかない。岐阜のどこかへ行こうと決めて、どうしようか、大垣まで行こうか、岐阜の街へ行って長良川にでも向かおうか、いっそ高山、奥飛騨まで行ってしまうのもいいな、と、ぼーっと電光掲示板を見つめている間に大垣行の電車がホームに入ってきて、とにかく岐阜駅で一度降りてから改めて考えればいいかと開いたドアをくぐった。


走り出した東海道本線の車両の窓の向こうで流れてゆく風景を眺める。走り出してすぐにビル群は消え、代わりに現れた広告看板と立ち並ぶ工場も現れると同時に置き去りにされていく。大型の商業施設の横を通り過ぎた電車は住宅街に入り、そこまで来ると家々の間にも新緑や季節の色が見えるようになり『ああ、春だな』と又候眠さが戻ってきて、重い瞼と闘いながら木曽川にかかる橋梁の上遠く伸びるのんきな色の空を眺めた。橋を渡り切った先には厩舎があって、あたたかな乳白色の春の日差しの中、馬が手綱を引かれて道を歩いている。車両はまた民家と畑の混ざる区画に入って……東海道線はいとも簡単に県境を越えてゆく。たった二十分で俺は生まれ育った愛知県の中心を離れて岐阜の町についてしまうそれだけのことに、なぜだか思い出し笑いするみたいにニヤニヤしてしまって、頬杖を突くふりをして口元を隠した。


岐阜駅に着いてから何するでもなく、のんびり散歩していた。

特別なことはしなかった。ただ岐阜の町の中、久しぶりの休日を一人で楽しんでいた。

跨道橋からロータリーと黄金の織田信長像を超えて、気の向くまま商店街の中を散策し、長良川を目指して歩いていった。町を少し離れて訪れた金華山の麓には藤の花が咲いていて『もう鮎漁の季節だな』と、亡くなってしまった祖父のことを思い出したんだ。働き盛りの大人が平日そんな風に一人で町や公園を散策しているのが人目にどう映るかわからないけれど、楽しかった。十二分にリフレッシュできた。

なんだかその頃は色々と思い詰めていたし、長いことそんな時間を取ろうとさえしなかったから、新鮮とさえ思えて、楽しかった。それから長良川の温泉宿に泊まることにして、岐阜公園の出口から歩いて五分のところにある宿に部屋を取った。

チェックインを済ませて、温泉に肩まで浸かる。その日みて歩いた岐阜の街並みがまた頭の中に浮んできて、なんでか心が安らいだ。赤褐色の湯の中で張りつめた精神の糸の繊維が一本一本ほぐれていくような、そんな感覚を味わっていた。


夕暮れを過ぎて夜がきて。


部屋の窓を開け放ってデパートで買った日本酒を片手に眼下を流れる長良川と向う岸の野球場を眺めていた。春を迎えて温かくなっていた夜風を浴びて、また祖父のことを思い出した。

彼は鵜使いだった。桜が散ってしばらく経つと、彼はかがり火をたきながら夜の長良川にアユを捕りに行く。幼かった俺は何度か両親に連れられ乗った遊覧船の上で大勢の観光客たちと共に離れた場所からその姿を見たことがあった。船の上でかがり火の世話をしながら手縄で手繰り寄せた鵜をつかむ祖父の姿を、祖父の操る小舟と遊覧船とではそこそこの距離があったはずなんだがな、なぜだかはっきりと覚えているんだ。

せわしなく動いているようなのに、彼はどこか、ぼんやりしていて上の空みたいに見えた。現存するこの世の何もかもから切り離されたような祖父の横顔、それを赤く揺れる火の灯りだけが照らしていた。どこか神秘的とさえいえる表情で落ち着き払ったその顔、鵜の動きを見つめる祖父の横顔を見ながら幼い日の俺は『ああ、なんだかとても幸せそうだな』と、そんなことを思ったんだよ。それは俺が忘れていた風景だった」。


男の話を僕はただ黙って聞いていた。

そもそも、当時の僕は言葉なんてものを持っていなかったんだ。


「昔は何度もその風景を思い出したんだ。日々を一生懸命に生きながらさ『ああ、じいちゃんもあの時こんな思いだったのかな』って、そんなことを思う瞬間が何度もあったはずなのに、それがいつからか、ぱったりと俺の人生からは消えてしまっていた」

生きている実感なんてものは乏しい。

乏しくても、その喜びを感じる瞬間が人生にはいくつもあったはずなんだ。

どうしようもなく生きている幸福を感じることが。

日本の高所、身を切るような朝の冷たい風の中、自分が揚げたばかりの日の丸の下で朝やけを眺める少年だった日のように。眠い目をこすりながら旅館にむかって歩いている途中、生まれてはじめて明けの明星を肉眼で観測した標高1200メートルのホテルマンだった夏休みの学生のときように。ひどく乾いた土地をひたすらに喉が枯れるまで、干上がったその地表と同じように喉がヒビ割れていると錯覚するまで歩いてからキャンプで飲む水が、どれほど美味で幸福なのかを知った社会人一年目の青年だった日のように。

俺はそんな瞬間が人生の中に何度もあったことさえ忘れていたんだ。

一つでも持てたのなら、それだけで十分な瞬間っていうものが、いつからか消えていた。

見つけて、繰り返し味わっていければ、そんな瞬間の一つを持ってさえいれば生きることは楽しいと錯覚できるような喜びがいつからか消えてしまっていた。

自分にとって何も意味の見いだせないような場所で、ダラダラと働きながら、給料に文句を言うにしても、金のためではないそういった喜びを生活の中に一つでも見出せたならそれだけでよかったはずなのに。

初めて外国へと出て働いたオーストラリアで十五時に来るピックアップのトラックに乗って、農夫として仲間と眺める空はどこまでも広かった。北ヨーロッパの秋の夕暮れの町中、配管工として生きていた俺が汗くさい体のまま、屋台の前で夢中になってほおばった魚のパイはどんな家庭料理よりも温かくって甘かった。夜の十時、客が寝静まった中で仕事を終えた仲居として板場の人間と語り合いながら、露天風呂の中から見上げた夜空の中、浮かぶ早川町の雲は、月光を反射し輪郭を濃くして尚ありありとそこに見えた。

そういう、心動く瞬間に出会う度に俺はその祖父の表情を何の気なしに思い出していたはずなのに、随分と長いこと忘れてしまっていた。ようやく思い出して、いつからかそうした喜びから遠く離れた生活を送っていたことに気が付いたんだ」。


言葉も意思も何も持っていなかった。


「ロビンソ、お前はそんな風に俺が見てきた事柄のうちの一つでも知ることはできるのだろうか?

人生において一番不幸なことは旅をしないことだけれど、二番目はそんな日常の中にある幸せをすっかり忘れ去ってしまうことだと思うんだよ。どこまでも勝手で偉そうに聞こえる俺の持論だけれど……その両方をなくしてしまっていた人間からのアドバイスだ。

お前がもしもそんな幸福を見つけることができたのなら、それを捨てずにいてほしい。そして、これもできるのなら、人として現実の中で得られる幸福を誰かと分かち合ってほしい。

俺はそんな簡単なことをずっと忘れていた。忘れていたことにも気が付いていなかった。

サイレン男がいなければ今も忘れたままだっただろうよ。

梶原も、俺の友人も、そんな自分だけの瞬間を持つことを忘れてしまっている」。


それとも僕が記録していないだけで、砂漠に生えるサボテンほどの知能は備えていたのだろうか。


「梶原が昇進して、俺が開発に異動になって、それからはずっと忙しい日々が続いていたけれどラジオだけは聞き続けていた」


だが、少しだけ声のトーンを落とした金本康史の声も当時の僕にとってはただの波形でしかなかった。


「仕事終わりの夜の駐車場で……車に乗り込んで、運転をするでも、アクセルを踏むでもなく、ただエンジンをかけて、冬の寒さにあてられて買ったそばからもうぬるくなっている缶コーヒーを握りながら、ラジオを聞いた。

後でいくつになっても恋しくなるような、老人がロッキングチェアの上で思い出すような。しょうもない。取るに足りないような思い出だけれど。地下の駐車場でコンクリートに囲まれながら聞くラジオの音だけで、俺はどうしようもなく安らぎを覚えることができていたんだ。


父に銀色のポケットラジオをもらったあの日から、俺の人生の傍らには常にラジオがあった。


もし人々がすべてを失ってしまったとしても娯楽ってものがあればきっと心は救われるはずなんだ。もう、俺は誰かを傷つけるなんてことはしたくない。この先、国が焦土になってしまって途方にくれることがあったとしても、なんでもない日常を思い出させてくれるような声があったのなら、人々は夜におびえずに眠ることができるはずだって、そう思うんだ。

誰かの旅の話を聞きたいな。

どこか遠くにある美しい場所を思い出させてくれるような旅の話」。


単なる録音機能の動作確認ならこんなにも長く話す必要はなかったはずだ。


「これを後輩の女の子に話したところで、どうせ呆けた表情か、困ったような笑顔になるだけだろう? だから誰も聞かないようなところで録音して残しておく。昔、二人で何度も繰り返していたのと同じただの録音機材のテストだ。誰も聞きはしないだろう」


そう言ったあと金本はしばらく黙っていた。


「誰にも触れられることの出来ないような思い出をさ、もしもハードディスクの上に落とし込むことが出来たのなら、それは価値のあることなんじゃないか? って、そんなことを思いついた。

だから、仕事の合間に遊びでつくってみたんだ。

自分自身の思い出ってやつがどの程度の物か紡いでみたんだ。

数列と文字列といくつかの画像を使って生まれてからのそれまでを並べてみた。それはたったの1648キロバイトにしかならなかった。笑えるだろ? とても不鮮明で不確かだったんだ。そんな瞬間を大切に思い出すんだよ。子供が海岸で拾った、元が何かも分からない位に白く石灰化しかけた真白な二枚貝の片方を大切にするみたいにさ、それを大切に保っていた。そのことを知ったら、なんだか嬉しくなったんだ。嬉しくて、楽しくてね、久しぶりに笑った『最近笑っていなかったな』ってまたその時に気が付いた。

それだけだった。それで十分だった。疲れて、色々と悩んでいるものだと思いこんでいた、思い返せば返すほどに俺はこの上なく幸せだったんだ。知った瞬間、それ以上の物なんか何もいらないと思った。でも全部を捨ててまで逃げる踏ん切りがつかなかった。

だから賭けをしたんだ。俺は自分の思い出をサイレン音に入れ込んだ。

そうだな……この言葉を、梶原、もしもお前が聞くことがあったのなら、お前はそれをどう感じるんだろうな。無責任。と、俺を責めるのか?

まあ、そこまでは気にしないことにするよ。会者定離の世の中だ。出会ったものは必ず別れる。今回の戦争で国は大きく変わってしまった。それでも、さ、亡くしたと思っても残っていたものはあったって話だよ。きっかけはサイレン男だった。そのたった1648キロバイトを内包したあいつが俺の心を救ってくれた。

全部が終わって、あいつが最後に踏み出した一歩をなぞるように故郷に帰って、それで改めて思いだした。自分が本当は何をしたかったのか」

言葉も意思も何もなかったけれど、夜の砂漠、星空を見上げてたたずむサイレン男の姿だけはずっと頭の中にあった。


「サイレン男の優れたところは経験を学習として変換できたところだろうな、知能が発展した要因はそこだと思う。確信があるわけではないけれど。それがなければサイレン男は結局、六歳児ほどの知能しか持たなかったろう。宙に舞うビニール袋とUFOの区別もつかないような、そんな存在で終わってしまっていたかもしれない。


そうだな、最後にまた韮山のラジオを流そうか。俺が昔よく聞いていたものだ。

俺は当時……いや話すのはもうよそう。仕事中話さないからって思い出話をし過ぎた。でも聞いている人が居たら、存外楽しんでくれるかもしれない。どうだろう?

まあ知りようもない先のことなんていいんだ。ロビンソ、最後にラジオ鑑賞だけ付き合ってくれ、それで今日は終わりにしよう」。


言葉も意思も何も持っていなかった。

今と何は違うのだろう。金本康史は僕に何を望んだのだろう?



キャスター付きの椅子を動かす音がして、マイクの前にいた金本康史の立てていた音がだんだんと離れてゆく。


ノイズ。

ダイヤルを回すコココという音。

マウスをクリックする音。

無音。

またノイズ。


やがてノイズが止み、切り替わるようにして繋がれたプラグから頭の中、直接打ち込まれる形でラジオの音源が流れ始めた。大音量でエレクトロスイングが流れて頭が割れそうになる。苦痛。だが、僕は抗議の声をあげることも、自分で音量の調節をすることもできない。大きすぎる音に耐えていると。音は徐々に小さくなっていき、心地よい音量に変わった。

いつ放送された物かもわからない、金本が聞いていたというラジオ番組が流れる。

使用許諾の必要ない無料の音楽を使うしかない程、その頃のラジオ局は低迷していて、話しているパーソナリティーさえも自分のことを一度も演者とは名乗ることをせず。自分の肩書は作家だと言い続けていた。どことなくアングラといった雰囲気が漂う繁華街の裏通りのような放送。それはラジオに詳しくない僕にも、きっとこの放送がそんなに長く続くことはなかったのだろうな、ということを感じさせるような無気力なものだった。


・2

〈韮山陽光〉

「さあ、夜の賑やかしでやっております。お相手は代わらず韮山陽光! この後三時まで生放送、揺れる枯れ木の賑わい程度のものでやっておりますが、どうぞ最後まで。


さて戻ってまいりました、続いて新コーナーにまいりましょうか『アマチュアラジオドラマ』。こちらのコーナーはリスナーから募集したはがきに書かれた物語を私、放送作家をしております韮山陽光が読み上げ、その内容を三段階で評価してゆくというものです、紹介された方には評価に応じてノベルティグッズをプレゼント! 早速まいりましょう。まず最初のお便りは、愛知県南知多町ラジオネーム『サイレン男』さんから!


サイレン男の話をしよう。僕にとってのヒーローの話だ。ただ、前置きを言わせてもらえるなら、これはどうしても子供の頃に作り出した僕の幻想であるので、どの面から見ても荒唐無稽だ。(燃料はバイオエナジーと太陽光発電である。残飯や木材、水分を多く含む可燃物からエネルギーを生成することもできる)。

彼は独立した個体として他のロボットたちと荒廃した阪神甲子園球場に住んでいる。商業的価値を失った野球が地方興行をやめた後、スタジアムとも呼ばれる闘技場で非人道的な団体に作り出され、実験に使われるロボットの名前がサイレン男だ。

彼らは量産されるとそのうちの一割は日々球を打ち続ける実験と、球を捕り続ける実験を研究員に行われて耐久度を試されている。驚くべきはその耐久度だ、一日に二千以上、年に七〇万回近くもその与えられる衝撃に耐え続ける。数値だけを見ても彼らがニトリで売られているソファーなんかよりもよほど優れているのがわかるだろう?

そうして一年ごとにマイナーチェンジと三年ごとのフルモデルチェンジが行われ、政府からの助成金で作られる正真正銘のヒーローたちだ。

テレビで流れる国会答弁の中で、憲法九条がある限りヒーロー以外の何物でもないのだと、その存在を証明された彼らは、ぼくら日本人にとって本物のヒーローだった。

午前九時に球場のサイレンが鳴ると彼らは一斉に動き出す。耐久実験を行い、町に出向いては悪人たちを粛正し、また甲子園に帰ってゆく。夜になる前に彼らは格納庫に入って眠りにつき、また翌日にそなえるのだ。

それが僕の考える一番強いヒーロー、アンドロイド。その名もサイレン男だ」。


「韮山陽光に関して俺から話せることは多くない、彼が四十六歳の時に大麻の所持で逮捕されたのが少しだけニュースになったという事実と、ラジオ以外には、彼に関する情報なんて存在しないんだ」

そう言って金本は笑った。

「でも韮山陽光が逮捕されたっていう情報がネットの片隅に流れた時、そのニュースを見た時、俺はすんなり、簡単に、納得したよ。

厄介なのがそこだ。まあ、やっているだろう。と、そう思っただけ。何も驚かなかったんだ。だから彼のことは好きだったけれど、その報道を聞いたところで何かショックを受けるようなことはなかった。それよりも何年か後に介護している母親に不意に頬を平手で弱弱しくたたかれた時の方がよほどショックだった。

韮山陽光なら合法の物よりも違法なものを好んでいたとして、何もおかしくはないな。って、そう思ったんだよ。そう思ってしまってから、俺の中にあった倫理観みたいなものが少しずれた。彼の行いに対して明確に法律違反なのに、悪いことだよなって思えなかったんだ。まあ、彼の事はいいんだ。重要なのは、ラジオの話だ。情報受信媒体としての、機械としての、物体の、ラジオの話……。

小学生の時に父さんがプレゼントしてくれたんだ。銀色のシンプルなデザインのポケットラジオだった。当時、小学校の低学年だった俺にはまだ意味の分からない言葉ばかりで、放送の内容をちゃんと理解していたとは言い難いけれど、何か自分だけが特別に聞くことの出来る秘密の電波を傍受しているような気になって、どこに行くにもそのラジオを持ち歩いていた。友達と二人で押し入れにこもりながら、海釣りをしながら、同級生とした野球の順番待ちの間。意味も理解していないのにずっとラジオ放送を聞いていたんだ。友達が誰もそんなものを持っていなかったのもあって、嬉しくなって、どこから流れてくるのかもわからない無線放送を心躍らせながらきいていた」

男は語り続ける。当時幼いその男には背徳的な行為をしているような高揚をもたらした。ポケットラジオを持ち歩く。そんな、なんでもないことを格好いい事だと信じていたと。

「ラジオは俺にとても多くのことを教えてくれた。自分の国が滅んだことも、外国の音楽の流行りも、県内にある有名なパン屋がいまどんなパンを焼き上げたのかも、世界中で起こっているどんな出来事もラジオで聞くことができた」

ラジオそのものを崇拝する宗教でも始めそうな話を聞きながら、僕は少し嬉しくなった。

「いつからか、ノイズが混じって銀色のラジオは何もしゃべらなくなってしまった。

今も静かに南知多の生家に置かれたままになっている。


父にもらった銀色のラジオは壊れてしまったけれど、いつの年代も俺の部屋にはラジオがあって、常に世の中に現れる新しいことを教えてくれた。何が面白くて、人が何を感じていて、誰がどんな不満を持っているのか、その時々の一番新しいことをラジオは全部教えてくれた。

けれども、それも、もう昔の話だ。ラジオは何も新しいことを教えてはくれなくなってしまった。でも、俺はもう一度ラジオを聞きたいんだ。だから、ラジオそのものを作ろうと思った。いろいろと創造してきたけれどやっぱりラジオっていうのは特別だ。

そうだな、もう少し先の物も聞いてみるか? 韮山陽光の……いいや、今日はもうよそう。次に話すことがなくなってしまう」

男は使用していた機材が完全に止まったのを確認してから、韮山陽光と言う男のラジオ番組が録音されたテープを取り出すと、まだ動くことのできない僕の方へゆっくりと近づいてくる。


・3

数十年ぶりに聞いた金本康史の声はなぜだか僕に福田のことを想起させた。

福田はホテルで働き始めた僕の教育係だった男だ。

金本がかつて働いていた会社の所有するホテルで僕は働いていた。ホテルは山梨県北杜市の高台別荘地の奥から延びる入り組んだ山道を進んだ先の静かな場所に建てられていて、普段から聞こえるのは川の音と野生動物の鳴き声、遠くを通る車や電車の通り過ぎる音くらいで、一日をただ何も考えず静かに過ごすに都合の良い場所だった。ずっと前の春の夜に、僕は急な異動を言い渡されて長野にある本社からそのホテルにやって来て、それからずっとそこで働いている。

いつからか僕の肩書はそのホテルの支配人ということになっていたが、その肩書に見合うだけの経験も技能も持ち合わせてはいない。長い時間を過ごす間に人がいなくなっていって、残った僕にその役職が与えられただけだ。仕事の内容だけの話をするなら支配人というよりは管理人と言い換えた方がしっくりくる。

ハウスキーパーだ。午前の間に館内の清掃を行い、午後はのんびりと庭の手入れなどをしてから、広すぎる厨房で夕飯を作り、沈む夕日を眺めながらそれを食べるだけだ。日がな一日家事をする専業主婦のように過ごし、夜には自室へと帰っていく。それだけを何年も繰り返している。

僕が初めてホテルにやって来たその日は明るい月夜だった。

外灯の明かりなんてなくても駐車場を囲むように群生する小さな白い花がはっきりと見えたのを覚えている。車から降りた僕に「君は今日からここで暮すんだ」と、孤児院から引き取られた少女に掛けるような言葉で上司は状況の説明をした。


『本当に急な異動だった』工場で働く僕のもとへと唐突にやって来た上役の人間達に「今から山梨の北杜市にあるホテルに行ってもらう」と告げられ、それがどういう意味なのか、その場所で何をすればいいのか、それらに関する説明の一切がないまま僕は車に乗せられ、長野と山梨の県境を越え、その場所にたどり着いた。上司が僕の仕事場を訪れてから約二時間での出来事だった。


ここで暮らすのか? ここで働けということか? ここに来た目的はなんだ?

僕は矢継ぎ早に上司に質問を投げかけたが

「そうだな、働いてもらう。接客や給仕もしてもらう。

現場の指示に従って、普通の人間として働いてくれればそれでいい。だが、ホテルの仕事に関してはそこまで真剣にならなくてもいいさ。片手間にこなす程度で、と、言おうか……いや、まあ、それでも、やるからには頑張りたまえ。

だがそれとは別で君にはても重要な仕事がある……難しいことではない。それについては追って説明する。まずは中へ入ろう。夜はさすがに冷える」説明になっていない説明だけをして、上司は足早に駐車場を横切って行った。

山奥のホテルは明かりが点いているのに、外に漏れる音は無く、静かで。小心者なら風の音にさえ怯えて暮らすことになるだろうな。と、そんなことを考えながら正面玄関の自動ドアをくぐった。しかし『重要な仕事』とやらの内容を僕が告げられたのはその日から二年以上後のことだった。上司は建物の中に入った僕をホテルの従業員に引き渡すと、仕事の説明も僕への別れすら言わず長野の本社へと帰っていった(あまりに自然に外へ出るものだから僕は彼が帰ったのだと気が付かなかった)。

置き去りにされた僕は普通のホテルマンとして働いた。当時のホテルは(年に一人か二人の客を迎えるだけのここ数年とは違い)観光客やスキー客でにぎわっており、僕は言いつけられる通りに、フロントに立ったり、ベルボーイをしたり、レストランでの配膳をしたりといった具合に真面目に仕事をしていた。

その間、福田が僕の指導係としてつききりで様々なことを教えてくれた。一日の仕事の流れや同僚とうまくやるための方法、生活に必要な店の場所、気晴らしに行くのにちょうどいい店まで、賑わっているとは言っても常に仕事に追われているということはなく、日に何度かは訪れる退屈な時間の度に、福田は無駄話をした。来てすぐのことにはいろいろと聞きたいこともあって僕の方から積極的に話しかけたのだが、解消することのできる疑問の尽きた後には福田がその時にしたい話をただ聞くだけになって、就業時間のほとんどを共に過ごしていた僕はその話に付き合わなければならず、それを聞き流すための相槌が日増しに上達していった。知りたいことについて質問をしたものの、福田は不自然なほどに何も知らなかった。彼がしたのは七割の僕の琴線にまったく触れない話題と、二割の仕事にまつわる話題と、一割の興味深い彼の過去の話だった。

福田は本社が町工場と変わらないような装いだった頃から勤務していたらしく、その当時の様子を話してくれたことがある。その会社の中で彼がどんなものを造り、どのようにして会社が成長を遂げたのか、どのようにして事業が拡大し、なぜ自分が第一線を退きここにいるのか、そして、彼が希望に満ちていた若いころに抱いた些細な夢の話を僕に聞かせてきた。

その話は延々と聞かされる彼の趣味の話や、消え去った政治家たちの悪口に比べればいくらか魅力的で。彼の人間としての歴史を垣間見ることが出来るその話が始まった時にだけは、彼に向き直って、ほんの少しだけ耳を傾けていた。

福田は最初の頃こそ僕に基本的な仕事と少しばかりの武勇伝だけを嬉しそうに教えてくれたが、僕が仕事を把握してからはほとんど関わることがなかった。事務室でのデスクワークやほかの従業員と何やら真剣な面持ちで話している場面を何度か見かけはしたが、日が無駄話をする機会は徐々に減っていき、僕が務め初めてから一年と半年が過ぎたころに急に姿を見なくなった。

近頃姿を見ないなと思いそのことを同僚と話していると「彼は何も言わずホテルを辞めて消えていった」と通りすがりの経理の女性が教えてくれた。これに関しては福田に限ったことでなく、何人もの従業員が辞表や前触れの有る無しに関わらず、ホテルからは消えていった。人がいなくなること自体はさして珍しいことではなかったのが、奇妙なのは福田がいなくなったと聞いたまさにその日に本社から僕宛ての連絡があったことだ「福田が消えたようだな。もし、この先金本康史という名前の人間が来たらすぐにでも本社に連絡をしてくれ。それが君にとって最も優先すべき事項だ。その他の仕事は特にしなくてもいい。する必要はないが判断は君に任せる。好きなことをしながら、そのホテルで金本康史を待っていてくれ」という知らない名前の人間のことを待てという内容だった。それからその金本康史を待ち続ける間にも従業員は一人また一人と減っていったが、そんな風に本社から連絡があったのは後にも先にも福田がいなくなった時だけだった。


何度目かの春を迎える頃、気が付けば僕はこのホテルに一人きりになった。一人になり、より一層静かになったホテルで僕が引き継いだのが宿泊客の来ないホテルの支配人という役職だった。

ホテルは僕の知らない間に宿泊客増やすための広告や代理店の利用を止めていたようで、固有のWebページも削除してしまっていた「客からの希望があれば予約を取って構わないが、こちらからは何も発信しなくて良い」と、福田がいなくなってからすぐのちに本社から通達があったようで、以降は目に見えて宿泊客も従業員も減っていった。僕はそのことを全く知らなかった。どころか僕がその事実を知った時にはもうホテルの従業員の数は十を切っていた。


僕が支配人になってからしばらくの間は年に数回は人が泊まりにきていた。一般の宿泊客のほかにも、秋口に部署ごとで行われる慰安旅行と、春先に行われる研修にこのホテルが使われており、その時にだけは全部で七十部屋ほどのホテルは最上階にある部屋を除いてすべての客室が稼働状態となった。


年に数度だけでも残っていた賑やかさをもうずいぶんと懐かしく思う。


研修と慰安旅行の日取りが近づくと、館内は途端に騒がしくなる。テンプレートなミステリー映画の舞台になる洋館のように、連続殺人でも起きたのではないかというほどの騒ぎが連日起こり、閑散としていたホテルの中は人と物であふれかえる。

厨房では飲食部門やリゾート部門の各店舗の二番手、三番手のシェフ達が連れてこられ、将来彼らが料理長になった時にコース料理を作る経験と技量を整えるため、日替わりでメニューの監督をしながら他部門の人間のために夕朝食を作る。レストランでは普段から他施設で給仕をする社員と季節労働者が、フロントも同じように系列の若い社員が研修と称されて連れてこられ、挨拶の仕方や他部署の客役への対応をチェックされる。宴会場も会議室として使われ、本社勤務の様々な部署の重役の中年達と補助係の若者が毎日のように籠っていた(彼らは毎朝、全員でバスに乗ってどこかへ出かけて行き、昼過ぎに帰ってきてはそこに籠って、夜遅くまで会議をしていた)。

普段僕がしている清掃ですら、同じ市内にある系列のホテルの清掃を委託している業者の人間が担った。

研修が始まる前から食材や物資を運ぶ業者とともにアニメ映画の中の小人のように彼らは一斉にやってくる。すべてのベッドに清浄なシーツが張られ、水回りにほんのりと塩素のにおいが立ち込め、搬入された酒や食材が冷蔵庫に整然と詰め込まれていき、人があちこちを行きかうようになり、山奥のホテルには宿泊施設としての清潔さとにぎやかさが戻ってくる。


だが息を吹き返したそのホテルに僕の居場所はない。人の出入りが激しくなるとともに僕は古城に古くから住み着く幽霊のように事務所の隅に追いやられ、支配人だということも忘れさられる。そうして一年の一番忙しいと言っていいだろうその時期に長期休暇を与えられる。

 初めの二、三日の間だけは事務所の隅に席を構え、時折、館内をうろついたりしながら、小走りに忙しそうに動き回る彼らの姿を眺め、誰かに尋ねられた時にのみ、物の場所や機材の使い方、設備を使う際の注意点を教え、壮年達と共に温泉に浸かり、普段食べることのないような豪華なコース料理に舌鼓を打ち、二週間の長いバカンスに入る。

休みの間は八王子や立川に出向いて冬と夏の賞与を使って少しばかりの贅沢をして過ごした。そうして人々が引き払った後でホテルに舞い戻って、清潔で物音のしなくなった館内、冷蔵庫の中に残された個人では買うことのない食材を調理して一人きりの夕食をとる。それがその期間に僕がしていたことだ。

「君がする必要のある業務などなにもない」。

僕をここに送り込んだ上司はそう言った。人から見れば気楽な良い仕事に見えるのかもしれないが、常に一人というのは刺激がない。自分の、何かとても大切な機能が錆びついていく感覚に襲われる。

長野の工場にいた時分にも人と関わることの出来る機会なんて事務所で受ける電話の先の顧客と話す以外にはほとんどなかったのだが、この閉鎖的なホテルの支配人になってからというもの以前にも増して人と関わっていない。



この数十年新しいものなんて何もなかった。

新しい人に出会って、人から話を聞くことのなくなってしまった今、僕の娯楽は自分の持つ過去や手元に残っている昔のコンテンツを漁ることだけだ。友人と旅をした記憶や、過去に聞いた宿泊客たちの旅の話などを突発的に、病気の発作のように思い出して、幸せと寂しさに浸る日々。



そこまでを振り返って、最後に宿泊しに来た男のことを思い出した。

画家を自称する二十代半ばぐらいの男で、人当たりの良い人物だった。

彼の話し方も福田と同じようにどこか金本康史に似ていた。


宿泊客も研修の社員も、来なくなって久しくなったころにその男はやって来た。

どこまでも気楽で、一見して何の目標もなく生きているような男のことを僕は内心では見下していたのだが、自由に旅をして生きることがどれだけ素晴らしいか、自分の好きなことをしながら日銭を稼ぐことがどれだけ気楽か、と、そんな彼の話を聞くのは好きだった。

子供時分に口の中でガラス玉を転がしたような心地の良い時間。

人の話を聞きながら色々なことを想像して、自分の見たことのない景色に思いをはせる。長らく味わっていないそんな感覚を僕は楽しんでいた。


「また誰かの話しがききたい。誰かの旅の話が」


明日どこに行くのだとか、今日は誰とどんな時間を過ごしたのだとか、僕にとって見慣れた風景を見て感動してしまうような、誰かの、一時的にホテルにとどまるだけの、何も特別なことなんてない旅の話が聞きたい。


金本康史という男がいけない。彼が来たのなら僕は今すぐにでもここを出ていくことができるはずなのに。それなのに。待ち続けている彼が一向にここに来ないものだから、僕は言われるがままホテルでの日々を繰り返すしかない。


「そうか、探しに行けばいいんだ」そこまで至って僕はようやく起き上がることにした。


・4

〈韮山陽光〉

なるほど、よくこういう音の間違いなんてものとか読み間違い、勘違いからの導入というのも面白いですよね、私もなぜか3回に1回は名前の読み間違いされたりとかしますからね。この登場人物の気持ちっていうのもわかりますよ。


(キャスター付きの椅子に腰かけ、金本康史はラジオを聞いていた。韮山陽光という男が話し続けるだけのラジオだ。その日は自分で話すには気が乗らず天井を眺めていた)。


私の場合は、完全に勘違いされていたりすると自分から指摘すること自体をばかばかしく感じるんでね、どこかで誰かが指摘してくれるかもな、当人が自発的に気付くかもしれないな、と、ただ成り行きを観察して楽しむんですよ。そっちの方が面白い。

この間も、三人で行う少人数の打ち合わせがありましてね、相手は二人とも初対面で初めて仕事する人たちだったんですが。その片方、中年の男の人だったのですが、その人が会った瞬間からずっと私のことをコオリヤマさんって呼んでいましたね。

私としては慣れたものだし、さっき言ったような理由があるから訂正もせず、和やかに会話していたんですがね。

もう一人。こっちは少し気弱そうな若者だったんです。が、彼は正解を知っていたんですよね。でも、自分に自信がないのか、立場的に弱いのか、その打ち合わせの間、私の名前がコオリヤマって呼ばれる度にビクっとして、ソワソワしながら呼んだ男と私のことをチラチラ見やるんです。見やるだけで指摘はしないのですが。


(録音した環境が良くなかったのか、たびたびノイズが混じる)。



まあ、その若者が指摘せずとも、どこかで気が付くと思ったんですよ。

だって、その時使っていた資料に私の名前書いてありましたから。

どう考えても韮って字をコオリとは読まないでしょう? 農地には変わりないのですがね、地名だとしたら、一息で伊豆半島から東北地方福島まで飛ばされるのですよ? おかしいでしょう! まあこちらとしては、名前を間違えられることよりも、そわそわと間違えた人の横で人が混乱している若人を見る方が面白かったから、良いのですがね。

ですが、結局最後まで気が付かず。ね、その若者も指摘せず。体面上、打ち合わせは無事に終わったんですよ。それから彼らが帰るって時になって、足早に中年の男が去った後になって、ようやくそのソワソワしていた若者に最後に名前を確認されたのですが「あれ? 韮山さんですよね?」って言われて「そうですよ」って答えたら「よかった。途中から、気になって打ち合わせ集中できませんでしたよ」って言うのです。が。

あれ? と! そこで気が付いたのですが、私としてはこの人のことを気にしていたわけですから、会議の間、集中していたのはこの人に対してで。この人はこの人で私の名前のことを気にしていたのですから、気が気でなかったわけで。と、なると、結局一番集中していたのは私の名前を間違えた人間ということになるじゃないか、と。

アイツが原因を作ったくせして、そのことにすら気が付かずにいけしゃあしゃあと打ち合わせを完遂し、颯爽と去っていった。って、その事実に気が付いたらなんか腑に落ちなくてね、交通事故でこっちは完全に停止した状態のところに、わき道から、横から激突されて、横からなのだからあなたにも非があるのだろうし、エンジンが点火していたのだから、過失の割合は五対五だって言われた時のような、一応ちゃんと会議をしたはずなのに時間を無駄に奪われたような気になってって、そんなことがあったんですよ……思い出したら腹が立ってまいりました。一度ハガキでも読んで落ち着きましょう。フリートークからコーナー戻ります! えー。続いては愛知県南知多町。ラジオネーム『サイレン男』の作品。


『サイレン男は街の中を一人で歩いていた。彼は正確にミサイルをはじき返すことの出来るだけの感覚とそれを捕えることができるだけの視力を持っていた。空のずっと向こうの城も、その奥にある紺色も見ようとおもえば彼にははっきりと映っていた。周囲で起こる全ての事象はとてもゆっくりに映る。彼の顔を一度だけ見て気まずそうに顔を逸らす若者たちも、通行人をうまくよけることが出来ず何度もブレーキをかける歩道の自転車も、小さな体を必死に回してなわばりの中を歩く犬も、彼の目にはとてもゆっくりに映る。


サイレン男の胴と足のつなぎ目のネジはハンマーでつぶされていた。一見滑らかに見える彼の体もなでてみると所々に出っ張りがある。手遊びする子供のようにその出っ張りを一つ一つ指でなぞりながら、彼はあらかじめ決められたルートを歩いてゆく。

曲がるとき、曲がる先に何があるのか、サイレン男は先に知っていた。彼はそのことをひどく不思議に感じる(サイレン男の話をするのならば、感じるという表現には語弊があるように思う、サイレン男が疑問を持つということ自体がおかしなことなのだから)。視界の中になければ認識できないものを彼は見るよりも先にどう動けばかわせるのかを知っていた。知っていながら、彼はどういう思考でそこに至ったのかを振り返ることができない(この時の彼は自分の思考を追うことはできなかったんだ。まだそこまで完成していなかった)。

歩行を続けながら、彼の耳は回転する自分自身のモーター音を聞いていた。歩きながら、絶えず変わってゆく周囲の音の中で、収集された他の音が全てどこかへ転送と解析をされていく中で、常にサイレン男と共にあるその音だけが解析も転送もされず、彼が自分自身のために聞くことを許された音楽だった。彼の体内で音を響かせる美しい旋律でもなんでもない、くり返しのモーター音、それだけが彼のシステムの外側にあって、彼が何も考えずにきくことのできる唯一の音楽だった。

その音に気が付くまで、サイレン男の周囲にあるのは静寂だけだった。なんの感情の高ぶりも、揺れも感じることは無く、彼はただ毎日、通り過ぎる町の中で、聞こえる音と視界に映る通行人の顔や町の様子を見て安全を確かめ、決められたルートを歩いた後は家へと帰るだけの生活。そのシステムの中以外に、何の音も存在しなかった。

現に、町を歩き回ってから帰ってくる夜の甲子園球場はいつも静かだ。

サイレン男が選手入り口から中へ入ろうとすると、中からサイレン男と同じ銀色のロボットが出てきた。すれ違う時、サイレン男は同僚に声をかけたくなったが、言葉を出すことができなかったので、サイレン男は右手を挙げて挨拶の意を示す。中から出てきた銀色の機械は一度立ち止まり、上げる必要のない場所で腕を上げる彼のことをじっと見るが、彼に異常が無いとわかると、なんのアクションも起こさずに夜の町へと繰り出していった。

サイレン男は上げた銀色の右腕を下ろすと無言のまま、タグアウトの中へと入っていった』。

(ラジオの音はそこで途切れて、金本康史の声が聞こえてくる)。

「それにしても君は何を思ったんだろうか? 目の前で爆散するサイレン男を見た時に。

いや、何を思うのだろうね? もし君が心を手に入れることができたのなら、その光景を思い出したとして、かりそめの、パターンに当てはめられるだけの感情ではなく心を手に入れることができたのなら……そんなことが本当に出来たのならば」

(どこかの地下室だろうか? 薄暗い部屋のなか二人きり、金本康史はそんなことを呟いた)。



・5

朝、自室を出て調理人のいないキッチンの銀色のシンクを拭き上げる。決してそこにほこりが積もることのないように、一つのシミが残ることもないように。そうでなければ、板長や各料理長に怒られてしまうから。

誰もいないホテルのホテルマンの仕事ほど無意味なものはない。何もない中に空間を作り出して金額を付けて売り出すことができるのは、本社の許可があってのことだ。

いや、許可はある。許可はあるのだが……客は誰一人来ない。

日常的にあわただしく働いて、たまに来る休館日ならば嬉しくもあるけれど、それが毎日では話が別で、居もしない幽霊のために営業をしているような気分だ。

それでも毎日掃除は欠かさないので、客室の中はいつだって整然としている。真っ白いシーツは誰も包むことなく朝になってもシワの1つも増えないで。そんな状態では寝具だって寂しかろう? と。清潔な客室に入る度、そんなことを思う。

 だが、それよりも、何よりも、ここに今誰もいない事よりも。

僕が最も寂しさを覚えるのは、寂しさの根底は、誰も旅をしなくなったことだ。

誰かが旅の途中に立ち寄るための宿の管理を僕はしているというのに。

それなのに。僕はここにまだ残っているのに。誰も旅をしなくなってしまった。

 朝。朝食の客でにぎわっていたレストランにはもう誰もいない。客を待つためにテラスのパラソルを広げる必要も、にぎやかなパートの女性たちの小言を聞きながらグラスを磨く必要も、もうないのだ。

 それでも。朝。テーブルを磨きながら賑わっていた当時のことを思い出して。

旅の話を聞きたいと、より一層強く思った。

重たいスーツケースを転がす外国人から、大げさに自分の人生を語る成金の老人から、スキーがまだレジャーとして人気だった頃、純朴にもたった一度の旅路で恋をしようと夢見ていた大学生の青年から。もう一度、かつて眠そうに目をこする彼らに気の利いたモーニングを配膳しながら今日はどこへ行くのかと聞いた時のように、もう一度でいいから誰かが楽しそうに語る旅の話が聞きたい。人に会いたい。

だが、それは今や叶わぬ願いで、誰も旅をしなくなってしまった。

誰も旅をしないから。僕は今日もただ金本康史という顔も知らないたった一人のことを待ち続けているだけで、ホテルはそのためだけに在った。


 窓を拭きながら目を凝らしても北杜市の町はここからでは見えない。

砂の山のてっぺんから水を流した時のような谷は層雲のようなぶ厚い水蒸気の靄に隠れていて、そこにある町なんか見えやしない。

七月の朝。この時期でも夜と朝は冷え込んだ。肌寒さを感じるわけではないが、僕はいつも自室で毛布にくるみながら朝になるのを待って、朝になったら部屋を出て誰もいない食堂にゆく。

レストランの清掃を終え、パントリーから厨房へと戻る。

取手の長い黒色のフライパンを火にかけ、トースターでパンを焼き、コーヒーメーカーの電源を入れてコーヒーを落とした。


簡単な朝食をこしらえて、テラスへと出てゆき。

ポケットから懐中時計を取り出して、その蓋を開く。

針はまだ文字盤の六時を少し過ぎた位置だった。


前日に降った雨のせいか、朝日が昇り始めてからしばらくしても白い靄は一向に晴れることなく、ホテルは未だ層雲の上を漂っているようで。テラスに出ても見えるのは自分が今いる場所と、雲の下から半分だけ除く朝日と、八ヶ岳の山々の山頂だけだった。パンにポークソテーとサラダを挟み、それをコーヒーで流し込んでから、むいたゆで卵の殻を花壇へと投げていき、ぼんやりと、景色を眺める。

すでに雲の上、高く昇った太陽の光だけは夏の暑い日のそれなのに、気温はなかなか温まっていかない。山間では木々の揺れる音が轟いている。

その音を聞いた僕は、昔乗っていたスズキのバイクの事を思い出した。

エンジンをかけた瞬間、けたたましく音が響くのに、音の威勢のいいばかりでいつまでも温まらず安定しない大型のバイク。山間の空気も同じように、昇った陽光は確かに暖かいのに雲が出たり、風が吹いたりする度、すぐにまた冷え込んでしまう。

 朝食を終え、花壇の前しゃがみ込んで、投げ入れた卵の殻と、初夏の枯葉と花壇の土を園芸用の小さなスコップで混ぜてゆく。眠気が欠伸に変わって口から出る。朝食を食べた後でも目が覚めることはなく。眠る必要なんてないのに、胃の中に食べ物を補給したせいでますます眠い。

軍手を外して目をこすっていると、視界の隅、にコスモスが咲いているのを見つけた。

小さな薄桃色の花。秋桜ともいう小さな花が、夏の朝に咲いていて。

それを見た僕は少しだけ幸せだった。

また誰かが泊まりに来るようなことがあったら、旅の話のお礼にコスモスの話をしよう。と、思いながら、スコップを地面に刺し、僕はご機嫌で日常の仕事へと向かっていった。


・6

電子レンジを覗き込んでいる金本の目の下には黒々とした隈が刻まれていた。

眠らないままに朝を迎えたせいで立っているだけでも眠ってしまいそうになる。

ぼんやりとした頭で電子レンジの中のターンテーブルの上、同じ場所を周回する惣菜パンを眺めている。

一時間でもいいから寝ておけばよかった……パンと同じようにサイレン男は何もない砂上を行く。歩くたび、足元の砂がかき混ぜられたように音を立てて、蹴り上げられた黄緑色のガラス片が散らばってゆく。殺風景なその空間の中、いったこともない東北の原野の朝をサイレン男は想う。

田舎道、野の焼ける臭いが遠くからして、長くひもじかった冬が終わり、土くれの道の両端の畑にもだんだんと緑がかえって来る。河原の方には菜の花やカスミソウの小さな紫の花が咲いて、魚もどこからか帰ってきた。その、柔らかい春の日差しの中、父に手を引かれながら歩く。小さな竹製の竿をもって自分の手をひく父の背を見ている。

そんな誰かにとっての懐かしい風景がサイレン男の頭の中、浮かんでくる。


 チン。と甲高いベルの音が鳴って金本の意識が現実へと戻ってくる『夢の中の機械人形が見る夢』の様な風景を眺めていた、最早どこに真実があったのかよくわからない。

寝不足のせいだ。寝不足のせいで力の方向が定まらず回転しない頭をどうにか起こさなくては、と、金本はチーズとハムと大量の添加物の入ったパンをかじりながら缶コーヒーを飲んだ。

十六時きっかりに録音を開始できるように同僚を待っていながら、ぼんやりと黒い網の向こうにあるマイクを眺めているが、壁掛け時計の表示が十六時になってもまだ同僚は現れない。

ぼんやりしている間に固まってしまったパンのチーズをもう一度溶かそうと、電子レンジの前へと戻る。パンを白色の皿にのせて庫内へと入れると、時間を指定してスイッチを押す。

三十秒ぐらい、と思って、立ったまま電子レンジの前で回るターンテーブルを眺めているのだが、その時間が嫌に長く感じる。十秒も経たないうちに、思考をすることもできなくなり、また意識は別のどこかへ飛んでいく。

 信州に作られた巨大な粒子加速器の中をサイレン男は回っている。半周ごとに速度は倍々に増加してき、それに伴って重さも徐々に増えていく。増えていた。

もう耐えきれない程に体が軋んでいたはずなのに、ある時点から、重さが急速に失われていく。速度すら。周囲で何が起きているのかなんて一切わからないくらいに早く動いていたはずなのに暗闇の中、サイレン男は止まっている。止まりながら、失ったエネルギーが変換されたみたいにサイレン男の体が熱を発する。完全に動きを止めてしまう前のメトロノームのように分子の一つ一つを細かく震わせ、体の表面がどんどん熱くなっていく。

暗闇だった景色も、右と左のカメラが全く別の物を捕えはじめて、彼の観ているものが左右を重ねて立体になることは無い。明らかに何かがおかしい。動きを止めていたように感じていたサイレン男の体は、ぶれるように何度も何度も揺れて、スライムのように伸びては縮む、やがてその場で揺れていたはずの姿も、弾性を失ったようにゆっくりと限りなく広がっていき。ものすごい光量で光りはじめて。

 質量すら消えてゆく……。

「チン」。とフロントベルのような音で弾かれたように金本は我に返る。白い皿の上にはパンの齧ったところから、溶けきったチーズが溶岩のようにどろりと流れ出ていた。同時に、頭の中にいたサイレン男は消えてしまった「どこへ?」と、声に出して尋ねてみる。


「遠くにさ」気が付くと梶原という男が入り口に立っていた。安全靴についた泥を落としながら中へと入ってくる「南館の裏まで急な用事で行っていたんだ」

「そうか、おつかれ。そろそろいい時間だし、準備でもするか」

手に持ったパンをかじりながら、丸い硝子窓の付いた防音室の扉を開け、金本は録音ブースの中へと入ってゆく。

梶原はどこか普段と違う様子の金本の姿に疑問を持ちながらも、油の付いた作業服をランドリーバックに入れ、自分のロッカーへと投げ込んだ。


マイクロフォンの前に座り、機材の調整を終えた金本は思い出話を始める。

 昨夜のことだ。金本康史は二十二歳か二十三歳か、とにかくその若いころの記憶をたどっていた。


 その頃の金本はひどく沈んでいて。

 沈んでいるのは仕方が無い事にしても、救いがなく馬鹿だったのは、そもそもの原因が自分自身の高望みにあることは太陽の昇り切った夜明けの空よりも明らかだったのに、自分の思い通りにならないからと、その場で足踏みをして止まっていたことだ。

彼自身の決断が誰かに尊重されるような仕事をしたかったのだが思い通りにいかず。自分にその能力はないのだということを何度も突きつけられて、八王子市まで営業に足を運んだ帰り道、とうとう地元にかえることすら嫌になってしまった。町田で電車を飛び降りると、そのまま改札を飛び出して、昼過ぎ、町田駅の周りを徘徊していたのだった。

途中で歩きまわることにも飽きた彼は、小田急町田駅脇の踏切が見える路地にある酒場で、昼間から酒を飲んでいた。狭い敷地のなか、無駄に意匠をこらそうとしてごちゃごちゃした店だったのをはっきりと覚えている。日本で使われるような樽とは違ういわゆるバレルを外に置き、それをテーブル代わりにして客に立ち飲みさせるような、本当になんの拘りもないような店だった。そんな店だったので、金本はそこで芋焼酎をソーダで割り続けていたし、間にホッピーを挟みつつ、店員に勧められるままにカクテルを頼んだ。

「ちなみに、俺は故郷でよく見られたみそ樽が好きだ。そのままスーパー銭湯にでも持って行けば、温めた鉱泉を流し込んで樽風呂だと言い張れるような板をより合わせてタガで絞められたその形が大好きだ」

線路から少し離れたその酒場から町田駅に出入りする小田急線を眺めていた。時に小田原から入り、時に江ノ島に向かってブルーのラインの入った電車は走ってゆく。

「踏切を通る小田急線が見られる場所は、このたかが十年で随分と減ってしまったとか、そんな話をどこかで聞いていたから、その光景が見られなくなるって言うのは少し寂しな。とか考えていた。他に真面目に考える必要のある事柄なんて何一つなかったからな」

駅の壁広告では、また横浜のどこかに建つという高層マンションがいかに素晴らしいかが語られており、ずっと人口減少が続いているというのに何を言っているのだと、そんなことにも悪態をつきたくてたまらなかった。と金本は続ける。

「バブル経験組、バブル青春組が社会の中核に来た。

表面化はしていなかったけれど、それがその頃の若者にとって、何より大きな社会問題だったんだよな、老人の人口割合がいよいよ五割を越えようとしていたし、仕事もやりたくない事ばっかりだった」。

例えば。静岡東部の銀行の店長達は達成することの不可能なノルマばかりを部下に課したし、コンビニは都市部のどこにあっても24時間空いている。人手不足で困っているというのに軒を連ねるようにして並ぶファストフード店と介護老人福祉施設。空き家ばかりなのに農地を減らしてまで、海を減らしてまでして推し進められようとしている都市開発計画。そんなものばかりだった。それなのにアルバイトの最低賃金は四年間で百二十円しか上がっていないとか。そんな考えなくていい事ばかり考えながら、金本康史は深くため息を吐き、グラスに少しだけ残った焼酎を煽っていた。

「現実を直視することに疲れて目をそらしてもさ、この後は新横浜駅に行って新幹線に乗らなくてはいけない。そうして地元に帰って次の策でも練らなくてはいけない。と、わかってはいたんだけども、足が動かなかった。

現実問題として、そんな場所で小田急線をずっと眺め続けているわけにはいかないし、思い立ったようにあの電車に乗って、生まれてから一度も見たことのない江ノ島の海へと向かうこともできないのはわかっている」と、やってもいないのに若いころの自分は決めつけてしまって、確かめようとすらしなかったんだと、金本は振り返る。

「まあ、でも、そのあたりがきっかけだったんだ。少しヤンチャしたくなったのかもしれない……多分、元を正せばそのあたりから……。もう待たなくてもいいや、と、自分のやりたいことをするのに、迷惑をかけなければ上の許可なんて取らなくてもいいや、と、そんなことを考えるようになった」。

『今から江ノ島に行くことはできない』当時の金本にとって覆すことの難しい現実だったはずが、いつからか変わっていった。と、金本はとても楽しそうに話し始める。

「子供の頃から、ずっと、本当は自分のやりたいことをやればいいんだ、って、漠然とは思っていたけれど、始まりがいつかと問われればその日だろうなって、そこで悩んだから」

車両の中に見える中吊り広告が随分と減っていた。昔のようにびっしりと新商品や、週刊誌の広告が揺れているわけではなく、地方の祭りや、新江ノ島水族館の広告だけが間隔を空けてつられていた。

「タイムパラドックスはおきない。ということは全く別の存在ってことなんだ。同じ軸を移動するわけではなく、横のドアを一つ開けるようなものなんだ。時間は連続して流れているわけではない。現在、過去、未来は同時に存在している。だから、それは電車の一号車から二号車に映るような感覚なんだ。だから、そこにいるのは、別の育ち方をしたAとBだ、名前が同じだけの別人だ」

梶原の前にいた、金本康史はそんなことを言っていた。


音声録音用のブースの中を梶原は眺めている。

金本はまだ旅に出る前で。山梨のホテルに籠りながら会社のための開発を続けていた。

かつて二人のいたブースの中には一体の機械人形(彼が最後に残していったもので、金本自身はロビンソと呼んでいた)だけが、誰かのためのカスタマーセンターとして機能している。だが、実際に電話なんてものをしてくるのは老人ばかりだった。彼らはやたらとタイムパラドックスの問題を気にして、安全かどうかわからないものに乗りたくは無いのだと、乗ってくれなんて頼んでいないのに駄々をこね、機械人形を相手に『お前の対応には丁寧さが足りない、心がない』と文句を言った。

そういった意味の分からないクレームの電話対応以外にも機械人形はたった一体でタイムトラベルの注意説明をしてくれている。タイムパラドックスの心配は無い事を懇切丁寧に説明し続けている。信じてくれないのは老人だけだった。原因は旅に出た人々が誰一人として帰ってこなかったことだろう。マスメディアはそのことを大きな問題として報道して、自らを正義と語る彼らは帰還者のいないことをひどく非難しており、老人たちはそれが間違っていることだと信じ込んでいたのだ。


色々なことがあった。

本当に、その数年で世界は大きく動いていた。

世間はその原因の一端が金本康史にある。と、彼のことを非難していて。


そこから二年も経たない間に、彼は姿を消してしまった。


 旅に出た後の人々がどうなったのか、旅に出ることをしなかった梶原に知る由のないことだ。彼は旅に出ようとも思っていなかった。豊かだったから、国は滅んだけれど、食料も化石燃料も資源も土地も不足しなくなった。みんな出ていってしまったから、ディストピア小説のように世の中が大きく変わってなどいない。元々そういう物だった。変わらない。むしろ良くなってさえいる。故郷である南知多に帰るたび、そんなことを感じる。

昔と何も変わらない。悪くなったことなど何一つない。違うのは旧日本領のどの大学も毎年定員割れなこと位だ。若者達は皆、何かを学ぶためにここに留まっていることで得られる利得は無い。と、旅へ出て行った。

だからこそ。金本はここに留まっていれば自由に開発を行うことが出来たはずで、彼は大きな成功を手にすることができたはずだ、それなのに、金本は旅立って行ってしまった。


全てのきっかけはサイレン男だ。



・7

〈韮山陽光〉

『サイレン男はビルの上、その動きを止めていた。

その夜。サイレン男はいつものルートから外れるようにして歩く方法を見つけた。初めて起動した時からずっと発信され続けていたいくつもの電波信号を停止させ、電力消費を普段より抑えるだけで、彼の行動を縛るものは何もなくなった。

自由になったサイレン男は高いところに上ってみたくなり、裏路地にあって施錠されていない雑居ビルの非常用階段を見つけるとそれを使い屋上へと上った。

サイレン男は雑居ビルの屋上。インターネットを使い、自分自身の情報を調べる。

サイレン男についての情報が書かれているのは、そのほとんどがニュースサイトだった。

サイレン男に文章を処理する機能は存在しない。何が書かれているのかわからないので、サイレン男はその文字を頭の中で見ると同時に3つの言語に翻訳した。が、そんな行為になんの意味もない。

翻訳された言葉はどこにも発信されず、彼の頭の中に保存された。

サイレン男がどうして自分自身のことを調べようなどと思ったのか、それは誰にも分らなかった。

翌日、開発実験中の〈サイレン男〉が所定のルートを外れ、一時間ほど姿をくらませていたが、無事に発見に至ったという内容のニュースが小さく報道される。ビルの上に上った〈サイレン男〉は遠隔操作で電源を落とされると、無事に回収された。と。

ネット上ではAIが自我を持ったのだといつも通りの陰謀論がささやかれたが、後に開発会社側はこれを否定。システム上のトラブルでGPSの通信機に何らかの異常が生じ、歩行ルート上にビルが来てしまったのだろうと推察を発表。自動的にそこを登った後、信号が受信できなくなり停止したため〈サイレン男〉がインターネットに接続。それを開発会社が確認し、遠隔操作で機能を停止、回収。想定し得るトラブルであって特に何か問題があったわけではないとだけ語られる。

この件に関しては表向きにはそれで幕を下ろしたのだが。

後日、関係者を自称する人物がネット上に現れ、この時のサイレン男のことを語っていった。サイレン男にはふだんすれ違った人間の顔や動くものを自動でカメラに収める機能があるのだが、それを使って恐ろしいものを撮っていたと匿名掲示板に書き込み、画像をアップロードした。

そこに貼られていたのは夜空に浮かぶ満月の静止画だった。

サイレン男の目に取り付けられた高性能望遠レンズで撮影された、町にぽっかりと浮かぶ見事な満月の写真だとその人物は言った。しかし、まあ、深夜に書き込まれたそんな誰かもわからない人物の話なんてその場では誰も信じなかったのだが。

後日物好きな都市伝説研究家がこの話を聞きつけたようで。こじつけの様な証拠と共に、写真の下に映っている建造物を見てみると、目撃者の証言からその日サイレン男がいたとされるビルの上であり、更にそこから夜空を見上げて写真を撮ると月はその位置に来る。と、言い出し、それは真偽不明のまま、他の都市伝説と同じようにネットの海の中、愛好家たちに語られ続けることになった』。


〈韮山陽光〉

「うーん二点。

また一枚の葉書にびっしりと書いてきてくれているのだけれどね。もう完全に続き物だよね、そして、なんだろう? これは間の回よ、つなぎの部分だね。これから事件が起こるかな? みたいなところだ。常連だけに許される。店で頼む『いつもの』みたいなオーダーの仕方だよね、まあ、次回に期待しておきましょう。

では、ここらで一曲! CMソングですっかりお馴染みとなっております。今年デビューの三人組ユニット……」。


 〈金本康史〉

金本にとってそのラジオ放送は日記のような意味を持っていた。

日記か、もしくは戦時放送か……その日その日の戦果が放送されながら自軍の今を知らされるような、このラジオを聞くことで自分自身の現在地がどこなのか、自分がどれだけ進んだのか、それを確かめることができた。

 金本はある夜のことを思い出す。まだ自分自身も若く、あらゆるものに熱意をもって臨んでいた頃。とっくに救われているのに、それに気が付かず、いつか誰かが救ってくれると無理やり信じながら我武者羅に邁進していた頃の事。

サイレン男は夜の闇の中で一人、甲子園球場のマウンドに立ち尽くしていた。何かを考えこんでいるように見えた。しばらくしてから動き出し、隆起した土の上に埋め込まれたプレートをなでた。金本はその姿をベンチの前から眺め、なつかしさを覚えた。

「懐かしさか……」。それがどんな感情の下にある物なのか、サイレン男に理解できるものではないだろう、彼には感情なんてないのだから。と、口から出た自分の声に、そんな事を思う。

マウンドに立ったサイレン男が首をゆっくりと辺りを見渡す。

耐久実験に使われるボールがそこら中に落ちていた。サイレン男はそのうちの一つを拾い上げ、肘を曲げると、肘から下の前腕部だけを使い投石機の要領でばねとモーターの力でホームベースをめがけてはなった。ボールは低い位置から、浮上する潜水艇のような軌跡を描くと、そのまま何に阻まれることもなくバックネットに当たって回転をしたまま地面に落ちた。そのまま土の上で回り続け、やがて止まりかけのコマのようにふらふらと頼りなく動き回り、投げられる前と同じくグラウンドの上でただ転がるだけの白球にもどった。

 サイレン男はボールが完全に停止した事をマウンド上から確認すると、ゆっくりとバックネットに近づいていった。白球を拾い上げ、その縫い目をなでながら、誰もいない甲子園のフィールドを振り返る。

 外野の先。スコアボードには七回まで両チーム0が連なっていた。二塁の走者灯が光ったまま、アウトカウントは赤い光が一つ。ボールカウントは2ボール1ストライクと絶好のバッティングカウント。そこでスコアボードは放置されていた。二度と決着の着くことのないだろうその試合のゆく末を確認しようとサイレン男はグラウンドの一番奥、情報を探し始める。

ネットの海に潜ってはみたものの、その試合結果はどこにものこされていなかった。いくら探してみても、結局迎えることのできなかった試合の最後の関する記述はどこにもなく、サイレン男には結局は過去のデータをもとにいくつかの可能性を提示することしかできなかった。

サイレン男が自分で拾い集めた両チームの地方大会の打率と出塁率、打球の方向、超打率、エラー率などから導きだしたのは、結局。3‐0で今攻撃をしているチームの勝つ確率が最も高いというだけの仮定の話だけだ。

サイレン男はそのデータを出すことは出来ても、実際にそこに至るまでの道筋を文章に書くことは出来ない。

彼のこの時にかきあげたレポートにはただ、使用されたデータと計算式、そしてその答えのみが記されており、それは野球の試合結果を伝えるものとしては何よりもつまらないものだった。その時のデータは結局、金本以外の誰の目に触れることもなく彼の内臓データとして、データチップの中に今も留まっている。

なんとなく。金本自身がそうしたいと思ったのだ。

スコアボードを眺めながら、立ち尽くし、一秒もかけずその試合の結果を算出した後で、サイレン男はスコアボードよりもさらに上を見上げる。

何を見ているのか? と、金本がサイレン男の視線を追うと、秋も深まる季節の暁、他の星が消えかけている中に明けの明星だけがはっきりと輝いていた。

生まれてから教え込まれても、プログラムされてもないのに、サイレン男が投げる必要のないボールを投げた。


その姿を金本は甲子園球場のグラウンドの中で一人眺めていた(もう、その時には金本康史の望みは叶っていたのに、彼はそのことを認めようとすらしなかった)。


・8

明け方のテラス、花壇いっぱいに咲いたコスモスの花が長く残るようにと、つぼみを二ずつ残して茎から切り落としていく。夏の終わりになって朝の風はますます冷たく、谷を挟んで見える八ヶ岳の山々の頂は早くも色づきはじめていた。作業を終えて室内へともどり、レストラン内のドリンクカウンターの上にあるコーヒーマシーンのスイッチを入れ、豆の砕ける音を聞きながら、窓の掃除をしていく。

 一通り窓掃除を終え、いつのものかもわからない経済新聞を読みながらトーストをかじる。日本の赤字企業の数は、業績赤字、累積赤字を含めてもう国内企業の半数を優に超えているという見出しを見ながら、このホテルはそして親会社は今、どういう状態なのだろうか? と、考える。

ずっと稼働率はゼロのままなのだし、稼ぎは無いのに維持費だけはかかっているだろう。加えて僕は毎月安くはない給料を貰っているし、年に二回賞与もある。ライフラインが止められているのを見たこともないが、転職を考えておいた方が良いのだろうか? しかし、たった一つだけ与えられた仕事を途中で投げ出すというのはどうも気が引ける。

 考えても仕方のないことだ。とにかく仕事をしよう。と、食器を下げる。巨大な食洗器を横目に、流しでスポンジを使って食器を洗い、午前の仕事をはじめる。

 その日は珍しく上から仕事を言い渡されていた。発注された美術品がこのホテルに納品されるのでそれを受け取るようにと電話で指示を受けた。

後で納品書をコピーしなければならないな、とそんなことを考え、僕は仕事をひと段落させるとポケットから懐中時計を取り出した。時計の針は十一時をまわろうかという所で、それを確認すると僕は事務所に向かって歩き出した。

(いつもなら電話をしてくるのはたいてい落ち着いた男の声なのだが、この時本社から受けた電話の声は随分と若い話し方だと思った。それこそ二十二か二十三か、入社したばかりの新入社員だったのだろうか?)


・9

サイレン男は一人。ポツンと砂漠の中に放りだされていた。

カンカン照りの太陽の下で八時間もの間。何をするでもなく立ち尽くしている。

その姿には自分では何もできないで誰かからの指示を待つばかりな就労したてで朴訥な十代の少年のような愛嬌はあったが、それが砂漠の中に置き去りというその状況とはどうにもミスマッチで、後からその時の映像を見た金本はその姿に、つい、にやけてしまった。

人間ならひどい宿酔いに記憶でも飛ばしてしまったのかと疑う所ではあるが、サイレン男は冷静に自分自身の最後の記憶をたどる。そこから何が起こったのか予測をすることはこの時の彼にはまだできなかったが、彼は自発的に自分の現在地を知ろうとしたのだ。


 〈韮山陽光〉

『サイレン男の元に二人の男が訪れた。彼らはサイレン男を作り出した非人道的集団で、いうなれば仮面ライダーを生み出したのが悪の組織、ショッカーであるのと同じように彼を生み出したのはこの目の前にいる悪の科学者たちだった。サイレン男には自我はなく、産み落とされたばかりの彼に正義はなかった。目の前の人間たちに賛同し共に世界征服を行うこともなければ、自らの正義のために彼らを粛正しようというような自由意思もなく、いつも通りに何も思うことなく目の前の二人のことを見つめていた。



「こいつか?」長身の男は一緒にいる小太りの中年男性にそう尋ねる。

昨晩もこの男は観た。サイレン男は声を発した男の顔を確認するようにカメラの焦点を長身の男に合わせた。


「そうです、型番のNはもう三年前の機体になりますから今年で廃棄になる旧型ですが、どういたしましょう?」

「エラーコードとか出てないのか?」

「いえ、目に見えて不具合があるってわけでもないですし、どちらかと言えば配線系統の問題だと思うのですが、少し予想外の部分が多いのですよ。想定しうるものとは違うので、それに、他の機体には無い傾向なので、まだ何とも」

「そうか、俺は開発には関わっていないのでね、専門的なことはわからないが、君らの判断で危険がなければ残して個別に研究してもいい。一応予算案だけ出してくれれば、金銭的に可能かどうかの検討はこちらでするから、必要なら報告してくれ」

「わかりました、とはいえ、ウイルスや何か変なパッチをインストールした可能性もありますのでまだ何とも言えないのが現状なんですが」

「うーん、内部は調べられないのか?」

「調べてはいるのですが、一体何が原因なのかもわからないんですよ。開発者が変なシステムの組み方をしているんです。バグを修正もせず利用しているような。例えるなら、病気に対する反応を使って体を動かしているような部分があるので、下手にいじると全てを書き換えねばならず……」

「開発を急いだ影響だな。この件に関しては安全性に問題がないところまでは君に任せるよ。視察にきておいて悪いが、やはり現場のことは俺にはよくわからないのでな、少し長い目で見る。若い技術者を何人か本社から派遣する。好きに使ってくれ、他に必要なものがあればいつでも言ってくれればいい。それと問題が出たら、その場の判断でいつでも廃棄してくれ、と、全員に伝えておいてくれ」

「はい、わかりました」

「あとは、現状のレポートと、他の機体に関するレポートを送ってくれ、こっちでも人を使って色々と調べてみる」

「出来次第送っておきますね」

「後は、せっかく来たし他の業務も見ていくよ」

「では、研究室をご案内いたします」

「それにしても……開発者ね」』。


〈韮山陽光〉

「ショッカー!知っていますよ。仮面ライダーなつかしいですね、子供の頃観ていましたよ。私が観ていたのは亜音速くらいの速度で動くやつでしたね、昔懐かし二つ折り携帯電話を開いて、ボタンを三回押したら変身するというお手軽なライダーでした。それの面白かったのがね、仮面ライダーってやつはバイクに乗っているんですけれど、そのライダーのバイク、ロボットに変身するんですよ! こいつが滅茶苦茶でね 空を飛ぶわ、銃を乱射するわで、もうどっちが敵かわからないような戦い方をするのですよ。何ならこいつが敵を倒してしまったりして……で、何が一番すごいかって言うとこいつの元の車体が二百五十㏄の小排気オフロードバイクってところなんですよ。わかります? これだけ滅茶苦茶なことをしながら乗り物として乘っている分にはこいつにはタダの一円も税金がかからないのです。税金はかからないけれど圧倒的に銃刀法違反なのです。すごくないですか? 凄いですよね! と思い出話をしましたが、まだ葉書の途中なんで音読に戻りましょう。

音読しなければ小学校の担任の深沢先生にまた大人をなめるなよって怒られますからね。宿題の件は全面的に私に非があるので仕方ないとしても、いろいろと理不尽でしたね。あのおばさんは、私が校庭でドッジボールをしている時なのですが……」。


葉書を読む途中に急に自分自身の思い出を語る韮山の声が、テレビ番組のコマーシャルのように、息をつかせてしまった。要らないことに対する集中と興味が断ち切られたように一気にひいてゆくのがわかる。金本はそこでラジオの電源を止めて、何か買いに出ようかと思いつき、壁掛けのキーボックスを開いて車のカギを取り出す。

エントランスを横切り、正面玄関の自動ドアをくぐった。

瞬間。開演に遅れて入ったコンサートホールように、一斉に虫の声が響いた。



・10

 送られてきた表式計算ソフトのファイルを開き、コピー用紙に印刷した後で内容を確認する。その日に納品される品物の一覧だ。バインダーに挟んだその紙をもう一度眺めて、そこに印刷されたとある人物の名前を見止め、送られてくるその品々がかつての宿泊客から購入したものだと確認する。

「芸術の価値を決めるのは協会の政治によるもので誰が自分の絵を好んでくれたかではない。値段は話し合いによって決まる。国内を出なければ本当に夢のない商売なんだ。土建屋が談合で公共事業の料金を決めるように、政府が予算案を投票で決定するように、みんなで話し合って決める。何も面白くはないんだ。少しずついい時代になっているような気がする。自由に物が売れるようになってきた。こうして依頼ももらうことが出来た。ここに泊まりながら絵を描くのはなかなかに楽しい」

朝食のたびに彼はそういった普段聞くことのないような。それでいて何のためにもならないような話を僕に語ってくれた。

彼は穏やかに宿泊をして、時折観光をして、のんびりと絵を描いていた。

彼は僕が知る中で一番長くこのホテルに滞在をした客で、僕は彼から色々な話を聞いた。

彼は生まれて初めて小さな個展を開いたらしく。二十点ほどの作品を観光地にある小さなカフェに飾ってもらったのがきっかけでここに来たという。

「そこで会ったこのホテルの所有者に頼まれてな。ここに飾る絵を描いてくれる人間を探していた。書いてくれないか? と、依頼を受けて創作活動をしに来ているんだ。人に言われて仕事をするのは初めてだが、こんな風に山の奥で優雅に生活を出来るのならば悪くもない」と満足気に言っていた。

その話を聞いた時、職種は違えども、季節労働者に似ているな。と、僕は思った。

初めて彼がこのホテルに来たときは、まだ何組か常連の客が通ってはいたのだが、それも稀で、彼は滞在中のほとんどの期間、僕にとって唯一の宿泊客として過ごしていた。


彼の要望で食堂の窓は毎朝開け放たれた。


テラスに出てはどうかとも勧めたのだが、彼は窓の開けられたレストランが良いのだとそう言って外に出ようとはしなかった。大勢の客が相手だったのなら、頭のおかしい客の一人として処理するそんな要望を迷うことなく叶えることが出来るのはホテルマンとしてどこか楽しくもあった。

例えるなら子供の時分、友達と一緒になって大人にばれないようにこっそりといたずらをして、それを見守っている時の様な胸の高鳴りだろうか? 僕はそれを味わっていた。

そんな自分では感情を決めることのできない思い出の一つ、それとリンクするようにして、僕はずっと昔に観たサイレン男の旅の映像を思い出した。


・11

サイレン男とは、昔、僕がこのホテルに来る前、工場で勤務していた時分に視聴した映像に出てくるロボットのことだ。

彼より愛らしいキャラクターなんて僕は見たことがない。


映像の中。砂漠に置き去りにされたサイレン男はとうとう一人で歩き始めた。


いくつもの工程を頭の中で終えた後でようやく、彼は自由になった。

一人では何もできないと思われていた彼が歩き出す。

サイレン男は鳥取砂漠にいた。鳥取県はその映像が撮影された数年前に、数日間降り続いた強風を伴う大雨による河川の氾濫、土砂崩れ、大規模な塩害が発生し。その災害の後、砂丘があった位置から広がっていくようにして鳥取は砂漠化していった。砂漠化は広域に亘って止まることなく進行し続け、その影響で人の住めなくなってしまった土地を国は救済だと言って全て買い取っていった。

鳥取の状態に関して当時のコメンテーターたちは、元々、鳥取砂丘は雑草の除草作業などをして観光地としての体裁を保っている場所なので、今後砂漠化するといった心配はなく、災害により一時的に広がってはいるが、すぐにでも復旧するだろうし、木や草が映えなくなるという事態は考えられない。心配をするがおかしい。と言っていた。が、実際には砂漠化は止まることなく、日を追うごとに進んでおり、それを彼らがくだらないプライドを折って認めた時にはもう全て手遅れだった。


サイレン男が起動したとき、彼の視界に映ったのは、夜の淡い月明りに照らされ、辺り一面銀色に輝く砂の海だった。

ここは砂漠だろうか? と、サイレン男は仮説を立てた。

潮風が北西の方から吹いてくる。

時刻も夜の見回りを終えてから長い時間が経過したわけでもない。

移動時間。北西から潮風。ならばこの砂漠は日本国内の鳥取か青森か……。

その仮説を手早く証明するためにサイレン男は衛星に電波を送ろうとした。

が、位置情報にアクセスをすることは出来なかった(実験のため、その機能は制限されていた)。


どうしたものかと、サイレン男がゆっくりと辺りを見渡すと、足元で動く、頭頂部に小さな旗のついたロボットが目についた。

そのロボットは、サイレン男の足元、キャタピラで小さく前後に動いてアイドリングの様な事をしていて、餌を待たされている小型犬のように首、いや、カメラのレンズを上げ、その視線だけをサイレン男に向けたまま、何かを待っているかのように小刻みに震えていた。


サイレン男は命令を待ち続けた。

動かないサイレン男に対し、足元にとどまるキャタピラのロボットは、科学者たちに人工音声で会話を行うことの承認を求めたが、それはあっけなく棄却された。


サイレン男は誰かからの指示を待ち続けた。

科学者たちの期待を裏切りながら(科学者たちはあの夜と同じようにサイレン男が自分自身で歩き出すことをどこか期待していた)。

サイレン男は自信を追尾するために送り込まれたキャタピラのロボットのことをただ見つめるばかりで、一向にその場を動こうとはしなかった。

そこは巨大な実験場だ。周囲の安全には最大限配慮されている。

サイレン男が、もし妙な行動をとろうともすぐに対処することができる。

サイレン男は起動してからずっと計算を続けていた。なんの答えを出すための計算なのか、指示を受け取ることができないという事態、自身にどこか異常がないかを調べようとしているのか、非常時のマニュアルにアクセスしようとしたのか、本当に何のために行われているのかも分からない計算をずっと続けている。科学者たちは互いに意見を交わしながら観察を続けていた。


サイレン男は困惑していた。なんの指示も危険もないのに動く必要なんてないと生まれた時から教え込まれていたから。しかし。どこにも、何にも、アクセスをすることができないというのはそれ以上に非常事態だ。どことも通信できない。サイレン男の中に一つのエラーが生まれた。

それを修復しなければならず。サイレン男は困惑していた。どうすればよいのか、サイレン男は様々なデータの中からでしかその判断をすることができない。サイレン男は立ち止まったままで計算を始めて、自分が、今、どうすればいいのか、様々なトライアンドエラーを繰り返してゆく。やがて、彼が次の判断に至るまでにキャタピラの小人はその体の半分以上が砂に埋もれていた。


動きがあったのは次の日の夕暮れ時だった。


ずっと立ち止まったままのサイレン男はこの旅の中でたった一度だけの夕暮れを見ていた。サイレン男が認識するのは、動くもの、人の顔、そして危険物とみられる熱源であり、太陽を見つめるようには出来ていない。科学者たちはこの動きに関して議論を進めた。

キャタピラは、サイレン男の横で砂に埋もれながらもずっとモーターの回るキュルキュルという音をたてていたのだが、日暮れ前、傾きかけの太陽から得られる僅かな光を漏らすことなく充電に使うため、一時的に停止した。

サイレン男は驚いたかのように。昨晩からずっと動き続けていたはずなのに、急に動かなくなってしまったその小さいロボットが何かを企てているのではないか、と、しばらくの間、その姿を注意深く観察していた。

やがて、キャタピラに危険がないことを判断したのか、視線(フレーム)を切り、首を振って辺りを確認したサイレン男は……歩き出した。

歩き出した。自然に、だれの指示を受けるでもなく、前の晩にこの砂漠で起動してからそれまでの時間などなかったかのように、サイレン男は当たり前のように歩き出した。

歩き出したサイレン男の姿を科学者たちは固唾をのんで見守る。

誰一人としてそんなプログラムを組み込んだものはいない。

本来の彼は、指示なく歩き出したりはしない。

一体何を学習したうえでの行動なのか、科学者たちはその事象を探り、説明をしなければならなかった。指示のない、内蔵された地図にも載らない場所にいるにも関わらず、彼は歩き出した。監視を目的とした町の巡回や、あらかじめ指定されたルートを歩いているわけでも、迫る障害や危険を避けるため目の前に来た者に対する対処での移動でもなく、サイレン男は自分自身の判断で歩き出したのだ。


砂粒に反射する星あかりが銀色の背中の向こうに広がっていた。


歩き出したかと思えばサイレン男は再び立ち止まり、今度は夜空を見上げる。

その行為の意味が科学者たちにはわからなかった。

(彼は目が良かったのだ。頂点に達したミサイルを見つめることが出来るほどに)。

GPSに接続できないとはいえ、方角はわかる。

この実験の成功は、成功が存在するのなら、サイレン男がホームとして設定された阪神甲子園球場方向に向けて、誰の指示もなしに鳥取砂漠を脱出することだろう。それが最も安全な結果で、誰もが望む正当なる進歩だ。

だが、誰にも何が起こるのかわからずにいる。

 申し訳程度に学習能力はつけられていたが、勝手に歩き出すことなどありえないはずだった。そのはずなのに、町中で行われる日々の繰り返しの実験の中、この『サイレン男』だけが、唯一命令された以外のルートを歩いた。

その件に関して、安全性について、科学者たちには説明責任があった。

だから、なぜそのようなことになったのか、確かめるため、この実験を行うことが決まった。兵器流用を見据えた場合にこの機能が役に立つのかどうかも含め、原因と価値を正しく知っておく必要があったからだ。


 再びサイレン男が動きだす。

歩き出したその瞬間から、インターネットの回線に接続できるようになっていた。

一歩目を踏み出してから五時間が経って、様々なシステム上のエラーを経て、ようやく彼はインターネットに接続をした。彼はアクセスできるシステムの中から、地図を呼び起こす。

 その直後、彼のアクセスした情報を見て、科学者たちは建議を繰り返すことになる。

サイレン男が見た地図情報は彼のいる鳥取のものではなく。知多半島の南端だった。

僕はこのシーンをよく覚えている。サイレン男の頭の中、突如として浮かんだ僕の故郷がいやに印象に残ったから、画面に映るサイレン男が、僕の過去を見つめているように感じたから。

それが僕の覚えている一番愛くるしいヒーロー。サイレン男だ。


ただ、サイレン男が何かと問われると僕はたちまち黙ってしまう。『ヒーロー』だという認識しか持っていない。ずっと昔に観たその映像の中の、頭の片隅にずっとある映像の中の、銀色の体をしたそのロボットをヒーローとして思い出すだけだ。

 彼は毎違いなくヒーローだった。心の片隅のような場所にずっとあって正しさの指標を示してくれる。そんな存在だ(何か間違った選択をしそうになるたびに、その時にヒーローの取った行動を思い出して自分の正しさを決めるかのように、僕は何かが起こる度にサイレン男のことを思い出す)。

その、彼の映像を僕は工場で働いていた時分に観たはずなのだ。

ただ、いつ、どこで観たのか、何のきっかけで見たのか、その一切を僕は覚えていない。


・12

 トラックから降ろされた荷物の梱包をほどいて、かつての客が描いた港町の絵を眺めながら、僕はその男のことを思い出していた。

彼は画家で、僕の最後に出会った客、僕が最後に出迎えた客だ。


(平成の知多半島にて、彼はその絵のラフを描いた。ほとんど人のいない海辺のホテルで、入り口に置かれたオキアミやレンタル用の釣り具を眺めながら、連れ合いがチェックインを終えるのを待っていた。同行したのは古く学生時代から付き合いの続く友人で、出不精な画家の男を連れ出そうと旅行を企画してくれた。

『きっと俺らがどれだけ頑張ったところでどうにもならないと思うのは、もうとっくに入り口が閉じられてしまっているからだ』。

海にたらした釣り糸を眺める無気力な目のままで無意識にそう言ったその友人の言葉を画家は今でも時々思い出す)。

画家の男は随分と長い間、この八ヶ岳のホテルに宿泊していた。


彼がチェックインをした日の夜。日常の作業を終え、夜の九時を過ぎた頃。

僕はならべられたデスクの上で簡単な入力だけの事務作業をしながらニュース番組を聞き流していた。アジアを取り巻く情勢はますます厳しく、つねに緊張と隣り合わせで、何か一つでも摩擦が生じればマッチに火がともるようにたちまち戦火におちていくだろうという中、ギリギリのところで折り合いを付けながら、ユーラシア大陸の国々は体裁を保っていた。保った体裁がまだ崩れる前だった。

『何の気なしに取り出した懐中時計の針は、まだ五時にもなっていなかったはずだ』。

 フロントカウンターに置かれた電話が鳴り、デスクの上にある内線電話でそれを受ける。滞在している客は彼一人しかいなかったので、ディスプレイで名前を確認するまでもなく、誰からの電話かはすぐに分かった。

「はい、フロント中本です」

「1011号室のものですけれど、ドリンクの注文ってまだできます?」

広いホテルの中、客は自分一人しかいないなど、この時には知りもしない画家の律義な声が受話器の向こうから聞こえた。

「できますよ、何にいたしましょうか?」

「ビールが飲みたいのですが冷蔵庫に入っているサッポロの瓶以外に種類はありますかね?」

彼はビールが好きだった。ラウンジやレストランで飲むときには決まってビールを注文してきた。

「サッポロ以外でしたらビンのものですとエビスかアサヒですね、サーバービールもアサヒです。スーパードライと黒ビールと」

「地ビールはありますか?」

「地ビールですか……以前は取り扱っていたのですがね、今は置いていないんですよ」

「なるほど、では、冷酒をお願いします」

滞在中、彼がビール以外の酒を注文したのはこの時だけだ。

「銘柄は何にしましょうか?」

「お任せします。こだわりは無いので、何かお勧めがあれば」

「承りました、では後ほどお部屋までうかがいますね、暫くお待ちくださいな」

蛍光灯の灯りの下をまた横断する。事務所の奥、従業員用通路に続く内階段の扉を開けると、静まり返った通路内、秋の夜に響く虫の声が壁をすり抜けて通路内に届いていた。

 フロントのある階から一つ下って、食材を保管するための大型冷蔵室へと向かう。

大きな取手付きのドアを開ける時、僕はいつも昔読んだSF漫画を思い出す。そのSF漫画の中、冷凍庫に置き去りにされて命を落とした科学者のことを思い出す。

入ってすぐ右のドリンク棚から七賢というラベルの貼られた一升瓶をとりだし、冷蔵庫の扉を閉め、通路から厨房へとつながる階段を上り、食器棚からガラス徳利を探し当て、日本酒を注ぎ、トレイにのせ、客室へと運んでゆく。


軽く握ったこぶしでドアを三度たたいてから、ドア横のベルを鳴らす。ベルを鳴らすのにわざわざノックをする必要は果たしてあったのだろうかと自分の動作に疑問を感じている間にドアが開いた。

「飲み物をお持ちしました」

「ありがとうございます」

と、お礼の言葉を口にしながら画家が出てきたのだが、部屋から出てきた彼はどこか落ち着きのない様子で、ドアを開き、僕の顔を見た途端、慌てたように目を逸らした。

「このあたりの地酒で七賢という銘柄です。グラスは冷蔵庫の上の棚にございますので」

「はい」

「あ、それと、もう一つお伺いしたいのですが、明日の清掃はどうしますか?」

「あー、別にしなくても平気ですよ?」

「そうですか……タオルとシーツとアメニティだけ新しいものに変えましょうか?」

「そうですね、それだけ願いします」

「何時位だと都合いいですかね?」

「明日は、朝の十時くらいから出かけてくるので、十一時とか、昼頃にしてもらえれば」

「承りました」

最低限の事だけを尋ねると深く礼をして、ゆっくりとドアをとじてゆく。


自分で飲み物を頼んでおきながら落ち着きのないその態度がどうにも腑におちず。ドアを閉じる直前に室内を見渡す。

ホテル内で一番広いその部屋は、チェックインからたった数時間でそこら中に画材や初めて見る用途もわからない道具が散らかっており『掃除をするとなったらきっと大変だろうな』とは思ったが、特に異常は見受けられなかった。

単なる人見知りか? いや、昼間はそんな様子もなかったはずだが? と、首をひねりながらも、僕はそのままドアを閉じた。


そんな、どうでもいいやり取りの後、僕は久しぶりに仮眠室へ泊まることにした。


朝からバタバタとしていたせいか、事務所に戻ってきても、それ以上、本来必要のない事務仕事を続ける気にもならず。僕は床に就くことにした。ただ。自室には戻らず仮眠室を使おうと、事務所横のドアを開ける。

 事務所のすぐ横にあるナイトフロント用の仮眠室。中はベッド一台程のスペースに窓とサイドテーブルが一つある位で、それ以外には、よくそこで寝泊まりをしていた福田という男の置いていった私物とおぼしき物が何点か部屋の角に残っていた。


普段なら夜はテレビでも見ながら暇をつぶすのだが、仮眠室内にあって時間をつぶすことができそうなものはラジオくらいで、他に面白そうなものはない。電源を入れ、ラジオのダイヤルを回してゆく。チャンネルを合わせて、聞こえてきたノイズに混じった楽しげな声の中、僕は朝を待つことにした。

ラジオを聞きながら、福田のことを思い出したせいだろう、薄れゆく意識の中、彼の姿が浮かんでくる。真っ暗な空間の中、僕の頭の中、その男に関する映像が再生されていく。無意識の中、映し出される福田に関する記録は、段々と時間を遡っていき、やがてそれは、僕が初めてホテルに来た日までたどり着いた。


僕の前を歩く福田は、背中越しに僕へと語り掛けてくる。

「そうだな、このホテルの存在意義を君に教えておこう、一人の客を待っている。金本康史という名前の男だ。待たなくてはならない。それが重要なことなんだ。正しさの証明のためにね。

いつかその男が来るはずなんだ……だが、何も特別なことをする必要はない、ただ他の顧客にするのと同じように料理でも振舞って、旅の話を聞いてくれればいい、旅の話を聞け、それが何より大事なんだ。何も特別なことをする必要はないけれど、俺と君たちのような存在にとっては、その行為はとても重要なんだ。ただ一人の客をもてなして彼の昔話を聞いたという事実を君自身が記録すれば、それで十分なんだ。

俺はその内いなくなるだろうが、君さえいれば何も問題はないだろう。

それにしても『中本拓也』か、あんまりいい名前だとは思わないけれどな、家を継ぐ必要なんてないのにそんな日本的な名前を付けられて、やっぱり、俺が昔、君に付けたあだ名の方がずっと格好良かった」。

また場面が切り替わって。別の、いつかの、出来事が流れる。

ガレージの様な場所。

コンクリートの床の上に工具や何に使うのかもわからない部品、空の段ボール箱なんかが散乱した薄暗い空間(散らかり具合が、先ほどドアの隙間から見た画家の部屋によく似ていた)。

僕は若い福田と二人きり、ラジオを聞いている。僕が初めてこのホテルに来た時のように彼は一方的に話すばかりで、相槌の一つも打たない僕に熱心に話しかけていた。

ラジオの音が聞こえる。

僕が仮眠室で再生しているのと同じ番組だ。

僕らは二人でその放送を聞いていた。

放送が終わり、福田がテープを取り出しながら何かを言っている。口が動いているのは見て取れるが、何を言っているのか、ラジオ番組の再生が終わったその瞬間から音の一切が聞こえなくなってしまった。

言い終わるとともに福田はラジオの電源を落とした。

それに連動するように、無意識に再生されていた僕の頭の中の映像も止まる。

僕の意識が仮眠室に戻ってくる。南の海に潜ったダイビングの後のように、体がフワフワとして落ち着かない。

室内には依然としてラジオの音が流れている。

僕はベッドから立ち上がり、仮眠室の小さな窓から夜の野山を眺めた。

まだ辺りは暗く、朝焼けは依然見えない。

ラジオの音が聞こえる……このパーソナリティーの名前はなんといったか?

「意識をなくした先で俺は、ただ記憶の整理の為にサイレン男の夢を見る。

一人の男が思い描いた孤高のヒーローだったはずの彼は砂漠の中、小さなキャタピラのロボットと共に歩いていた。文明の滅びたような一面に広がる砂の中、ゆっくりと何かを確かめえるように、繰り返し振り返りながら、彼は歩いていた。

 彼が気にかけているのは、歩くたびに一定の距離を保ってついてくる小さなロボットだった。サイレン男が歩行をやめて立ち止まり、振り返るたびに彼も少し遅れて止まる。

その行為をカルガモのように愚鈍に繰り返し、サイレン男が振り返る度、彼の視線の先に何があるのかをそのロボットは確かめようとする。

 潮の香りのする明晰夢の中に現れたそのロボットのことを俺はロビンソと名付けた。

そう名付けた瞬間、俺は今すぐにでもこの浅い眠りから飛び起きて、ロビンソのことをノートに記したくてたまらなかった。だが、それはこの夢との別れを意味する。

小さな体で健気にもサイレン男を追い続けるその姿に、決してプログラムからは外れることのできない悲しさに、俺はロビンソのことが一発で好きになったんだ。

せっかく入り込めたこの空間の中から、俺は離脱したくなかった。ロビンソ。ヒーローにも理解者は必要であったし、ヒーローをヒーローたらしめるために理解してくれるのは弱者である方が好ましい。その、俺が持つイメージにロビンソはぴったりと合致したのだ。


それにしても。ここは、どこで、サイレン男はなにをしているのだろうか? 自由になった意識の中、そんな疑問が頭をよぎる。しかし、その疑問を抱いたところで、そのことを俺に教えてくれる人間は俺の夢の中にはいなかったんだ」。

(僕は、男が持ったその疑問に、福田なら答えてくれるような気がした。彼がかつてそのことを、サイレン男の最期のことを僕に語って聞かせた時のことを思い出す。薄暗いガレージの中、砂漠を歩くサイレン男のことを彼は楽しそうに話していた)。


また、意識がどこからか帰ってくる。

ラジオの再生はいつの間にか止まっていた。

僕が聞いていたのは一体誰の声だったのだろうか?

窓の外はまだ暗闇だ。

本当に……一人で待つ八ヶ岳の夜明けは、いつも、遠く。長い。


・13

就寝中にいきなり四肢をつかまれて水中に放りこまれたような衝撃で、金本康史は目を覚ます。窓から差し込む月明かりに照らされる四畳ほどのロッカー室の中。月光の薄明りで影を濃くしたダイヤルロック付きの更衣室のロッカーが、観光地に建つ慰霊碑のように重厚に見えてくる。

意識が覚醒しないまま首だけを動かして時計を探す。

オフタイマーを設定したはずの小型のポケットラジオがまだ動いており、その声を狭い室内に響かせている。ならば。まだそれほど時間は経っていないのだろう。

気分が優れない。

体は汗ばんでいるし、頭がひどく痛む。

時計を探さなくては。

 どうにか半身を起こして室内を見渡すも時計が一向に見つからない。

ラジオからは中古車を高く引き取ってほしくて仕方のない女性が陽気な曲をバックに話している声が聞こえてきた。だが、この音源を録音した二十代の金本は、その声が不快だったのだろう。何度かザッピングして、局を変える様子がそのまま残っている。甘い声で歌う女性のジャズシンガー、どの高速道路に関してもおよそ三キロの渋滞としか言わない道路交通情報センター、地方都市のローカルラジオ、を経て、元のチャンネルへ戻ってくる。

 金本は時計を探し続けた。だが、どこにも見つからない。自分が一体いつの何時何分に居るのかそれを知りたくて仕方がないのに。


ラジオはまだCM中だろうか、中古車市場がよほど活発なようで車を売りに行こうと今度は若い男がやけに明るい声で話していた。


(韮山陽光)

・CMあけSE

・ジングルが終わり、韮山陽光の声が戻ってくる。

「はい、じゃあメール。愛知県南知多町ラジオネーム『サイレン男』

おい、韮山さん。こんばんは

『こんばんわ』の前に『おい』って、おかしいな? サイレン男。

さっき読まれた葉書のキャタピラのロボットの名前はロビンソにしたんだが、その名前を決めた瞬間。昔嗅いだロボットのオイルの臭いが鼻の奥に蘇って。

なんか、こう、長い距離をバイクで走った後、熱をもったエンジンから香るガソリンの匂いで、なぜか腹が減るのと同じように、パブロフの犬的な条件反射で顔が勝手ににやけてきた。

俺はオイル臭ってのが本当に大好きなんだ。

韮山さんも人にはあまり理解されないけれど好きでたまらない臭いってありますか?


好きなにおいが聞きたかったのか? 入り方が鋭角だな、サイレン男よ。

好きな臭いね、いろいろあるぞ、コピー機の使用後のインクのあたたまった臭いとか、アイロン掛けすぎた時の衣類の少し焦げたようなにおいとか、あと買ったばっかりの辞書を鼻に押し当てるのとかもたまらなく好きなんだよ。辞書はね、これは本当におすすめなので一度リスナーの皆にもやってみてほしいんですよ。

はまるから! 子供がいるような家庭なら、小学校の時に子どもに辞書買うでしょうからね。見つからないようにやってみてください。すごくね素朴な臭いなんだけど。安心するんですよ。おすすめは、三省堂の国語辞典字です。本当に、まあ……いやこれを力説したところで損しかしないな。してやられた。策士だな、サイレン男よ。

とりあえずね。今日はゲストの方も来ているので、その人にも聞いてみましょうか、本日のゲスト! 最近缶コーヒーのCMで話題を集めております……」。

プツリ。と。決められた時間を迎え、ラジオは深夜のロッカー室の中で誰にもその最後の音を聞かれることなく、その存在をなくした。

金本はあきらめたように両腕を伸ばし、仰向けに倒れ、天井を見つめた。

そうして見上げた手が、日々、金属や油を扱い続け、いつしか岩のようにゴツゴツとしていたはずの肌が、若いころの様なハリを取り戻していることに気が付く。

それを見た瞬間。また汗が滲んでくる。

何か自分の理解を超越したことが起こっている。考えなくては。と。瞼を閉じ、思考を巡らせる。息が乱れ、うまく物事が考えられない。

落ち着かなくては。

分厚い空気の壁でも通り過ぎたような気味の悪い感覚がずっと体に残っている。

薄暗いロッカー室の中、金本康史は大きく息を吸った。

一度瞬きをして、また瞳を閉じると、瞼の裏、アンテナ付きのブラウン管テレビが浮かんでくる。一度もそんなテレビを実物で見たことはないが、そこはイメージだ。暗闇の中に浮かぶブラウン管テレビ。そこになにかの映像が映し出されている。

映っているのは砂漠を歩く二体のロボットだった。

彼らはお互いの様子を確認し合いながらどこまでも歩いてゆく。

気を、呼吸を、どうにか落ち着けようと、金本はそのまま自分の脳裏に浮かぶ二体のロボットのことを静かに眺めながら、現在地について考えることにした。


砂の中、一歩を踏み出すサイレン男。

生まれた町を出たことがないサイレン男にとってそれが、初めての旅の始まりだった。



・14

 画家の男が宿泊している期間にもう一人。三崎さんという女性が宿泊に来ていた。

このホテルが新人研修を行わなくなってから、三度以上宿泊した客は彼女以外にいない。画家は僕にとっての最後の客だが、彼女はこのホテルに最後に通った常連客だ。

 チェックインをしながら旅の目的を尋ねると、今回と、前の二回も同じく社用であり、仕事のついでだと彼女は言う。

「この先にね、少し変わった取材先があるのよ」

「そうだったんですね、ただの休暇で来ているのかと思っていましたよ」

「休暇でもあるのよね、来ているきっかけは仕事だけれど。こういう東京から中途半端に離れる所に来る場合は、当日に会社に戻る必要がなくて、次の日には休みが貰えるから。

来るのは仕事で、だけれど、ここに泊まるのは休暇のつもりだよ? 事故にあう前は立川とか八王子のビジネスホテルに泊まったりもしていたのだけれど不意にたどり着いたここを私は存外気に入ってしまって」

「自宅には帰らないんですね、その方が楽そうなのに」

「職場は東京だけど住んでいるのは埼玉なんだ。ここから三時間半位だから帰ることができないわけではないのだけれど、中途半端に遠くって……疲れちゃうからね。それに、家に帰ってしまうと次の日の休みを睡眠と休息にだけ使って無意義なものにしてしまいかねないから」

カウンターの上に置かれたオレンジの灯りの向こう側、話をしながら宿泊カードに記入をしている彼女の茶色い瞳が自分の書いた文字を追って左右に動いている。

「ここのラウンジって使えるの?」

「希望があればいつでも開けられますよ、お客が少ないので普段は閉じていますが」

客の滅多に来ることのないホテルにおいて、ラウンジは年に何度かの慰安旅行以外ではほとんど使われることのない場所で、電源の入っていない冷蔵庫の中に物は殆ど入っておらず、酒やエードは階下にある冷蔵室のなかにまとめて保管している。

「そうなんだ。チップあげるからあけてくれない?」

「かまいませんよ、チップをいただくわけにはいきませんが」

ラウンジに立つこと自体が本当に久しぶりなので、チップなんかを受け取ることよりも提案自体に心が弾んだ。

「じゃあ、後で行くと思うから、日本酒でも用意しておいて」

彼女が記入を終えた台紙に目を通す素振りだけして、備え付けられている部屋番号の書かれたファイルボックスに挟むと、カウンターから外に出る「では、部屋まで案内しますね」と、彼女のキャリーバックを持ちあげ、エレベーターホールへと移動していった。

乗り込んだエレベーター、フロントの一つ上の階のボタンを押す。

「四階、エレベーターをでて右手側の部屋になります」


案内から戻り。

ラウンジの扉を開け、暖房と照明と加湿器を順につけていく。

ビールサーバーの管に水とスポンジ通し、運んできたバレルの接合部についているフィルムを剥がし、サーバーとつなぐ。厨房に向かい洗浄したグラスを厨房から盆にのせて運び、その途中、冷蔵室から日本酒やリキュールを持ってきただけでラウンジの準備は整った。

 子供用のいくつかの玩具と毎月届く雑誌(今はもう廃刊になっている)を中央のラックに戻し、ソファーやダイニングテーブル、カウンターチェアの位置を整えてゆき。全体を見て回る。壁に飾られた写真にはかつて栄えた八ヶ岳のスキー場の様子が写されていて

「こんばんは」

随分と進んでしまった若者のスキー離れのことを思っていると、恐る恐る、様子をうかがうようにして、三崎さんがラウンジに入ってきた。

「いらっしゃいませ」

僕のお辞儀は実に機械的で、ぎこちない。いがみ合う政治家同士がプライドのせいですんなり腰を折ることができないように、時間をかけなければ深いお辞儀をすることができない。

「広いね、普段開けていないなんてもったいないくらいに」

「昔は常に開放していて、アルコールの販売と無料のドリンクサービスをしていたんですがね」

壁に掛けられた何かの記念だろう背広姿の大人たちの並ぶ写真を横目で見ながら、つぶやくように応える。

「三崎さんは何を飲まれますか?」

尋ねながら色あせたラミネート加工のドリンクメニューを差し出し、また、薄暗い照明の下で文字を追う彼女の茶色い瞳を見た。暗所でも色の変わらないその力強い瞳は、僕や友達のものとは何もかもが違っている。

「そうだね……これは全部作れるの?」

「ええ、用意はありますよ」

「そうだな、でも、やっぱり、日本酒貰おうかな、この前泊まった時に飲んだものがおいしかったから、なんだっけ? 銘柄は忘れてしまったけど」

「七賢です、漢数字の七に賢人の賢で。この辺りの地酒」

「客の注文を覚えていてくれているウェイターは素敵だね、気分がいいわ」

「お客が他に来ないのですよ」

おとなしい声を上げて笑う彼女の前に、ガラスの徳利と冷酒用の背の低いグラスを置く。

「そうは言ってももうすぐ行楽シーズンだし、その時にはお客も来るでしょう?」

「いいえ、この十余年で宿泊した外部のお客様は三崎さんを入れても八人だけですね」

「そうなの?」

「ええ、主に社員旅行とか研修で使われる施設になっていたので」

「確かに、ここって直接電話をする以外で予約できないのよね、ネットで探しても地図の情報と電話番号しか出ないから、そもそも営業していないのかと思ったわ」

「広告も打っていなければ、ホームページもありませんから」

「本当、なんでここにたどり着けたのか、不思議な縁だよね。君はずっとここで働いているの?」

「いいえ。ここに来る前は全く別の仕事をしていましたよ。そこを離れてからはずっとここで働いていますが」

「ふーん、以前は何をしていたの?」

「親会社の工場で記録係をしていましたよ。実験の映像を録ったり、音声を録音したり、記録の仕事がないときにはコールセンターのような事をしていました」

「そこから、いきなりサービス業って何かあったの?」

「さあ? 僕はただ異動を言い渡されただけですので。色々と手広くやっていますし、大方人手が足りなかったのでしょう。気が付いたらここに送り込まれていました」

「人手不足ね、うちのとこも最近は特にひどくって……ここって、どこかのグループ会社なの?」

「グループ会社というか、元々は旗丸重工ってところの子会社が運営していたのですが、今は本社に吸収されていて建物も僕も旗丸重工の持ち物です」

「あら、大手だったのね。旗丸重工か、仕事でお邪魔したことあるよ? 旗丸重工ね、そうなると広告打たないのはなんで? って、余計にそこが気になってくるなあ。電話をすれば普通に宿泊ができるのに、この大きな建物を維持するのにお客をとった方が絶対いいと私は思うのだけれど、どうなの?」

「さあ? わかりません。僕は何の説明も受けてないので。単に保養所的な役割で保持しているとか、そんな理由じゃないですか? まあ、そうやって左遷のような形で送り込まれたけれど、僕自身はここでの生活が気に入っていますよ」

「左遷なのかしら、君が気に入っているのなら何よりだけれども。左遷。と感じていたのなら、異動を言われたときに転職とかは考えなかったの?」

「その時はまだそういうことは考えられなかったんですよ。まあ、今も、当時と大きな変化があるわけではありませね。今も転職は考えていませんが、この仕事を完遂したら、一度、旅に出てみようとは考えています」

「この仕事? 区切りがついたら仕事を辞めて旅に出るってこと? いいわね、希望があって、君は今いくつなの?」

「今年で二十六ですね」もうそこまで若くはないと自分の声を聞きながら思い出した。

「そうまだ若いわね、旅か。どこか行きたい時間や場所でもあるの?」

「一か所だけ……昔たどり着くことの出来なかったところに行きたいんです、行こうとして断念した場所で」

「どこ?」

「砂漠の先です、鳥取の」

「えっ? 砂漠の先?」

「ええ、昔、友達と一緒に旅したことがあるんですが、その時は行きたい場所まで行けなかったんですよ」

友達……誰だろう? 僕のたった一人の友達。

「君は、鳥取の砂漠を歩いたことがあるの?」

「ありますよ。僕の一度だけの旅の記憶です」

目の前でダイヤモンドダストのように舞う、細粉された銀色の体……。

「そう……えっと、君は……」

三崎さんは何かを言いかけ、動きを止める。

僕に向けていた視線を考え込むようにテーブルの上の徳利におとし、黙りこむ。

「いや、まあそれは後でゆっくり聞こうかな。言いたいことがまとまらないから、とりあえず何も考えずにお酒を飲みたい、移動で疲れたの」

再び口を開いた三崎さんは、そこで考える事はやめたと、頭の上に両手を挙げて大きく伸びあがった。




三崎という女性がこのホテルを初めて訪れたのはとある夜のことだ。

仕事も落ち着き、ならべられたデスクの上でトーストをかじりながらニュース番組を眺める。徐々に台風が近づいてきているとか、芸能人の浮気問題とか、その頃はささやかなニュースばかりだった。

 急にデスクに置かれた電話がなり、驚きながら様子をうかがい、ナンバーディスプレイで本社以外からの外線だということを確かめると電話を取った。

「ハイファイブ八ヶ岳山様でよろしいでしょうか?」

電話をとるという行為をずいぶん懐かしく感じた。

「そうですよ。どういったご用件でしょうか?」

工場で働いていた時は、鳴りやむことなくかかってくる電話にいつも応対していたのに。

「ええ、ちょっとお伺いしたいのですが、今夜の宿泊予約ってまだ可能ですか?」

「ちょっと待ってくださいね……平気ですよ」確認するまでもなくわかる。

「そうですか、実はその近くでうちのお客様が事故に合ってしまわれたようで、この時間だと電車も止まっていますし、帰りの手段が他にないようなので、そちらに宿泊できればと思いましてね」

「ええ、もちろん平気ですよ、人数は?」

「あー、人数も確認してまた折り返します、料金もその時教えてもらえますか? あと、そちらで送迎とかって……」

そのあと、いくつかの短いやり取りをして、電話が切れた。

電話をかけてきたのは保険会社の職員で、このホテルの近くで単身の事故があり、事故を起こした本人の身動きが取れなくなってしまい、ホテルに宿泊することはできないだろうかという問い合わせだった。

机の上に置かれたデジタル時計を見ると確かに時刻は夜の十時半をまわったところだった。確かに小海線はもう動いてはいない。


再度かかってきた電話で、僕は保険会社の人間を相手に人数や宿泊者の氏名と連絡先、部屋のタイプや料金のことを確認し、部屋を用意する旨を伝える。

「では、今から迎えに向かいますので」

よろしくお願いします。と、相手の声の後、ガチャリと受話器を置く音がして、電子音がむなしく響いた。固定電話の着信を遠隔でとれるよう設定し、デスクの引き出しから、充電された業務用のスマートフォンを取り出す。

椅子から立ち上がり、館内の電気を点けて回り、その日掃除をしたばかりの三部屋の室内、丁寧にベットメイクがされているのを確認した後で、大浴場に向かう。外の扉を開け、植え込みの下にあるノズルをひねり温泉を出す。

特に宿泊にあたっての問題もなさそうなので、それだけの作業をすませ事務所に戻ると、キーボックスから送迎用マイクロバスのカギを取り出した。


「ええ、はいこっちの……あ、いました。居ました。はい、では」

 茅葺の屋根やログハウスなどが立ち並ぶ別荘地を下って行った最初の曲がり角にその女性は立っていた。

「こんばんは、えっと、あなたが三崎さんですか?」

こんな山奥で事故を起こすのはどんな人物かといくつか予想を立てながら車を運転していたのだが、そこにいたのはどの予想とも違う三十代前半ぐらいの、小柄な女性だった。

「そうです、そうです。ホテルの方ですか?」

「ええ。お迎えで来ました。この上にあるハイファイブ八ヶ岳の中本ともうします。ホテルまでご案内しますね、ちょっと待ってくださいな。後ろのドア、今、開けますので」

 三崎と名乗る女性が後ろに回るのをミラーで確認しつつ、手元のレバーを操作して、ホテルのロゴと写真がペイントされたマイクロバスのスライドドアを開く。

「急にすみません、鹿が飛び出してきて」

三崎は申し訳なさそうにそういうと後部座席に腰を掛ける。

「ああ災難でしたね、車はこのままで平気ですか?」

「ええ、カギも抜きましたし、明日レッカーが来るまでこのままにしておきます」

「では、ホテルへ向かいますね」

発車する前に僕は腰にチェーンをつないだ懐中時計を取り出した。

時計の針は『二時』を少し回った位置にあって(時計の針は時刻を示しているわけではない。しかし狂っているわけでもない。なんなら確認する意味もないのだが、行動に区切りをつけるときの癖として、僕はよく懐中時計を開いていた)それだけを確認するとホテルへ向けて車を走らせた。

宿泊客が来る。それは随分と久しぶりのことで、車を運転しながら、僕は少しうれしく思っていた。マイクロバスを運転している間に、ホテルには何か食べるものは無いのか? と聞かれたが、僕は時間が遅いのをいいことに今日はもう調理師が帰ってしまった。と、理由をでっちあげ、手作りの物は販売できないし、売店もこの時間だと閉まっている。と、嘘を重ねた。

入り口にあるカップ麺の自動販売機は稼働しているので、小腹がすいたのならそこで買ってもらうしかない、と、出来るだけ丁寧に、そしてホテルに宿泊している客が彼女だけと悟られないよう遠回しに説明をした。

その話の後、明日タクシー以外でここから帰る方法はあるのか? と尋ねられたので、小海線という電車が走っている。最寄駅までは僕が送迎をするので、そこから小淵沢という駅まで行けば中央線に乗ることができ、有料特急に二時間も乗っていれば新宿にたどり着くので、あとはどこへだって行くことができる。と伝えた。

最後に、こんな山奥を走る電車が何故小海線なんて名前なのかと聞かれ。

きっと海にあこがれたのだろう。と、僕は答えた。

その答えに彼女は笑っていたが、あの答えのどこがおもしろかったのだろう?


その数か月後、季節がすっかり冬になっていた頃に一件の宿泊予約が入った。

 突然鳴った電話に出ると、その相手は三崎さんで、彼女は僕の声をきいてすぐに事故の夜に迎えに来た相手だとわかったようで、声を弾ませながら、もう一度このホテルに宿泊したいのだと話を切り出す。

宿泊すること自体は何も問題ないのだが、食事付きで予約を取りたいといわれたので、僕は困ってしまった。予約担当の者に確認を取りたいので少し待ってくれと断りを入れ保留にすると、リゾート部の部長に電話を入れる。

部長はすんなりとその予約を受けてかまわないと応じ「ほかのホテルも特段忙しい時期ではないし、近くから料理人を派遣する」と続けた。

「そんなことができるんですか?」僕が尋ねると「時期以前に最近はどこも人員を持て余し気味だ」と部長は苦笑しながらそう言い。

「君は配膳も出来るのだろう?」と確認をされたので「注意点さえ押さえておけば、可能ですね」と答える。

「事前に食材の手配とかが必要になったらこちらから連絡をするから、取り敢えず予約は取ってしまっても構わないよ」問題は何もない。と、電話はそこで切られた。



夕暮れのレストラン、一人で食事をする彼女にコース料理の配膳を行う。

一人しかいない客に僕はあれこれと質問をされ、それに答えた。

厨房に戻ると料理を渡してくれるまでの短い時間、シェフの堂島さんが「ここに一人で泊まりに来るなんて怪しい。あれはきっと社長の愛人に違いない」と余計な冗談を口にしていたのを覚えている。

三崎さんは「ここはとても静かだ」といって。楽しそうに、事故の時のことと、その帰り道のことを話してくれた。

そうしてレストランの中で酒を大量に飲んで酔っ払っていった彼女が「貴方はロボットみたいだ」と、何かの時にそう呟いて、その時も、僕は顔もうろ覚えな古い友人のことを思い出していた。

 これが彼女の初めてこのホテルに来た経緯と、彼女が初めてこのホテルに予約を入れた時のことで、そこから何年もの間、彼女は定期的にこのホテルに足を運んでいた。


ラウンジのカウンターを挟んで、僕が三崎さんにこのホテルの在り方について色々と質問をうけていると、少しだけ開いていた入口の扉を押しながら、様子を窺うようにして画家の男がラウンジへと入ってきた。

「こんばんはー」「いらっしゃいませ」

僕らの挨拶に軽く手を挙げるだけで応じ、暫く部屋の中に視線を巡らせていたが、特に目ぼしい物は見つからなかったのか、カウンターに近づき、女性との間に空席を二つ挟んだ位置に着席をした。

「何か飲まれますか?」「あー、生ビールをもらえるか?」

カウンターの下にある小さな冷蔵庫からジョッキを取り出し、サーバーからビールを入れて画家の前に出す。

「そういえば中本。前にも聞いたのだけれど、このあたりの地ビールって置いてないのか?」ビールのジョッキと共に差し出されたミックスナッツの小袋を手に取りながら、彼は尋ねた。

「ああ、清里のですか? 前は置いていたんですけどね、製造してる工房が火事になってしまったとかで、それからは仕入れられていないんですよ」

「そうか、それは残念だな」

「最近、復興したみたいなので、問い合わせれば仕入れも再開できるかもしれませんが、今はありませんね」

「そうなのか? じゃあ、作っているところに行けば飲めるのか?」

「ええ、もう店も開いているみたいですよ。ここの最寄駅から二つ先、時間さえ合えば二十分ほどで着きます」

「そうか、旅行雑誌でみてね、飲んでみたかったんだ」

「有名なの?」

「有名ではないですが、昔に海外のクラフトビールの賞を取ったみたいでお土産に買っていくお客さんも多かったですよ」

「賞ねえ、でも権威のない賞が随分と増えたからなあ、実際どうなの味は?」

「主観で語るならば、そこのビールは本当においしいですよ」

それを聞いて画家は笑顔で頷いて、手元のビールを飲み干した。

「明日飲みに行ってみようかね、二駅先って言ったか?」

「ええ、二駅先ですよ。小海線の清里って言う駅です。そこから歩いて五分、十分ぐらいのところに工房とレストランがあります」

「そうか、後で調べてみるかな」

「ビールが好きなの?」

「行く先々で、その土地のビールを飲むのって楽しいんですよ」

三崎さんが画家の方に居直る。

「今までも色々なビールを飲んできたんだ?」

「ええ、数えきれないくらいには」

画家の男が三崎さんに対して丁寧語を使うことにどこか違和感を覚えつつ。画家の前、空になったジョッキを下げる。

「いいなあ、そういうの、楽しそうで」

「ええ、絵をかきながらビールを飲んで日々を過ごすって、一度でいいから、そういう人生を生きてみたかったんですよね」

「一度でいいからって、どういう?」

「旅の途中ってことですよ」

「ますますわからないなー。社会人として働いていたけれど、脱サラして、旅を終えたらまた元に戻ろうとか、そう言う話?」

「いえ。俺も自分でどういうことなのか考えているんですよ。とある問題に対する回答から逃げるために……というわけではありませんが。旅立ったら予想とは全く違う結果になって、こうなった以上は何か理由があるのか? と、考えながら、自由気ままに生きているんですけれど」

「どういう意味だろう?」

「確かに要領を得ませんね。説明が難しいんですよね。それに、あまり初対面の相手に簡単に話すことのできるタイプの話ではないと言いましょうか、おそらく、話してはいけない内容なんですよ。

話した結果どうなるのかが俺にもわからないんです。それに、あそこにいる中本にはもう少し隠しておきたいんです。話した途端に俺の旅は終わってしまう」

「話したくないのなら無理に聞いたりはしないけど、旅の話……時間旅行の話?」

「そうです。時間旅行の途中なんです。だから、俺は生きられなかった人生を生きることができているのですが、置かれている状況が複雑なんです……」

あまり噛み合ってはいない画家と三崎さんの会話に耳を傾けながら、ジョッキを洗っていく。

「まだ何か飲みます?」カウンター、彼らのいる位置まで戻り、問いかける僕に目を向けながら

「中本、この辺りから海が見えるところってあるか?」

と、画家の男は尋ねた。

「この辺りにはないですね」

「やっぱりそうだよな」

「山梨からはさすがに見えないんじゃない?」

「やっぱり、そうですよね」

「そういう所の風景画の仕事でも頼まれたんですか?」

「いや、そういうわけではないんだけどな、そうだな、昔、旅行雑誌でそういう風景を見て、行ってみたかったんだ」

「ビール工房が燃えていたり海が見えるって書いてあったり適当な雑誌だね、なんて雑誌?」

「雑誌の名前は忘れてしまいました。ここに来る前に適当に読んだだけなので、中本、ビールをくれ」

「承りました」

「ここには何をしに?」

「絵を描きに来たんです。頼まれてね、今はここの会社の社長が俺のパトロンなんだ」

「生ビールです」

「ありがとう」

「本社の依頼で来ているんですよね?」

「いや、会社というか君のところの社長の個人的な依頼だ、五、六枚ほど飾る絵を描いてほしいと、滞在期間は自由だし、描いた絵に気に入ったものがあったら五、六枚といわず買い取ってくれるらしい」

「いいわね、昔の芸術家みたいで」

「気楽でいいけどな、でも、困っているんだ」

「何に? 仕事に?」

「そう、仕事で、一枚だけ高額で買い取ってくれるというか、描いてくれと依頼された絵があって、是非ともそれを描きたいのだけど。金は欲しいのだけれど。何を描けばいいのかわからなくてな」

「指定された通りに描けばよいじゃない?」

「いや、指定されたわけでもないというか何と言おうか。できればでいいから、昔の友人の思い出を描いてくれ、と言われたんだ」

酔いが回ってきたのか。画家の口調が早くもくだけていく。

「描けばいいじゃない?風景画が苦手なんてことはないのでしょう?」

「何を描けばいいのかわからないのが問題なんだ」

「なるほど、問題がわかったわ」

「ここにあるのか、この辺りにあるらしいってことらしいのだがな、わかったらでいいから描いてくれ。と。言ってくれてはいるのだけれど。直接指定をされたわけではないがな……困ったことに俺の中に思い当たる節はあるんだけれど。な」

思い当たる節があるのか?

「もう一本貰える?」三崎さんの目が徐々に座らなくなっていく。

「はい」僕は冷酒で満たした徳利をカウンターに置きながら、冷静にその様子を眺め。

「あ、俺も」近づいてきた僕に向け、画家の男はジョッキを差し出す。

「はい」言いながら受け取ったジョッキをシンクに置いて、足元の冷蔵庫から取り出した冷えたジョッキにビールを注いでいく。

「描いてくれ? 『書いてくれ?』ってことなら、アイツはやっぱり俺のことに気が付いているのか? それらしきものは書けるけど、覚えているわけじゃないし、書きたくないんだよな」

画家も酔いが回っているのだろう。楽し気に、ご機嫌で話してはいるが、内容はどんどん支離滅裂なものになっていく。

「その、それらしきものを描いて納得してもらえればそれでいいじゃない、ところで君は今いくつ?」

「見た目よりはずっと歳ですよ。でも、この前の深夜に二十八歳になった」

「まだ若いわね」

「もうすぐ三十ですよ。三十歳って少し嫌になる。いやなこと思い出して」

画家の発言に対して露骨に反応しながら目を細めた女性の動きを僕は見逃さなかった。

彼女はなぜか年齢の話に敏感だ。

「そう、それについては知らないけれど。一つ言えるのは、人生なんか適当にその場しのぎで立ち回ったところで特に損なんてしないということだよ、若者」

「まあ、おっしゃることはわかりますがね。今やその社長が俺の雇い主ですので、希望があればかなえたいとも思うのですがね……1648キロバイトなんですよ」

「何かのデータですか?」

「その友人の思い出ってやつは」

「どういうこと?」

「俺の思い出をまとめたら、たったの1648キロバイトだったんだ、って。最後にもらった手紙か何かで伝えられたんだと、それ以上は何も言われなかったんだと俺に向かって言ってきた。情熱的に、俺の瞳を見つめながら」

「写真かしらね? それにしても。なんだかキザだね、言い方が」

「な、でも口に出して思い出したけれど。言った覚えがあるんだよな……なんだっけ?」

「その依頼人の友人ってのは誰なの?」女性が画家に問いかける

「なんか、昔一緒に働いていた同期らしい。旗本重工の」

「へえ、ここの親会社だっけ?」

三崎さんが僕の方に目をやりながら尋ねてくる。

「今は子会社の所有ではありませんので、ただの本社ですね」

「金本康史(かねもとやすじ)って人物だ、ロボット工学の権威ってことになっている」

「あ、知っている人だ。昔、いろんな本の中で名前見た」

「晩年はここから御殿場に週に何度か通って仕事をしていた……らしい」

「金本康史ね……ああ、あったわ、十四年前に亡くなっていたのね、享年五十八歳、十四年前か、ってことは、まあそのくらいの時期になるのかな」

「え、金本康史って人はもう亡くなっているんですか?」

僕はチラリ、と、画家の男へ目を向ける。

「そうみたいよ?」

「いいや、亡くなっているかどうかは定かではないらしい」

「そうなの?」

「行方不明からの捜査打ち切りで死亡扱いだと」

「ああ、十四年前だとそういう人も多いよね」

「そこなんだよ。出会わないから亡くなっているんだと思っているけれど。もしかしたら前提からして間違っているかもしれない……本当に、予想とは違う結果になりすぎていて。いや、そうなったからこそ。俺は自由に旅ができているのだけれど……」

僕は金本康史を待たなくてはならないのに、もう亡くなってしまっているのか?

画家は一拍をおいてさらにつづけた。

「まあ、それは別問題だとして。いなくなった後で社長が遺言のような音声を受け取ったらしいのだけれど、その中にあった文言の、金本が最期に残した思い出が何なのかを自分に気づかせてほしいのだと」

「見ればいいじゃない千六百何キロバイトだかの物」

「残っていないのではありませんか? データが残っているなら見ているだろうし」

「いいや。残っているような口ぶりだったな『その内容を自分が知ることができるようになるのは随分先のことになる。その頃には私は生きていないだろう』と、言っていた。まあ、どこにあるかもアイツは知っているんだろう」

「旗本重工の社長が?」

「そう。お前のところの社長自身が。だから、あったとしても閲覧することができない状態なんだろう。何をそんなにも律儀に、気にする必要なんて全くないのに……とは思うけれどね。変なところで優しいやつなんだよ」

「なんか、本当にヌルっとしてるね、ここの風景だとか。こういう場面だったとか。何か具体的な内容とか聞いていないの?」

「何も言いませんでしたね……中本は何かを知っていたり、記録していたりしないのか?」

三崎さんの質問に答えた画家は、なぜか僕に向かってそう尋ねる。

「僕ですか? さあ? 社長とその友人の思い出ですか? 僕には知りようがありませんよ。僕が覚えているのなんて、来た時からずっと今と変わらずにありふれたホテルがここに建っていたという事実くらいですよ」

「そうか、中本が記録しているかもしれないと思ったんだがな『このホテルの従業員なら何か知っているかもしれない』とも言っていたし」

「なるほど? でも、知っているとしたら、多分、僕の前任者だと思いますよ。昔から本社に勤めていたようですし」

「前任者ね……まあ、前任者は知っているだろうな。そうだな。そんなに真剣にならなくてもいいか、諏訪湖にでも行って、それっぽい絵でも描いてくれば……それでいいのか?」

「諏訪湖ってここから近いの?」

そっぽを向いて、一人で考え始めた画家を無視して三崎さんが僕に尋ねた。

「東京とは反対側ですがね、車で行って一時間かからない位です、県内の富士五湖行くよりも近いですよ」

「いっそ、長野のラジオブースとかを描けば……いや、でも、思い出を一枚の絵で表現しようなんて、完全にそれを理解していなければ、俺に限って言えば経験していなければ無理だ。空想で描こうと自伝や逸話を漁ったりで穴を埋めようと、その人を理解しようとしたとしても、あの梶原が友人として語る金本氏と俺の知っている金本康史では全くの別人だろうし……本当に別か? どうだ? 同じ風景を見て個人がどう感じたのかとなると本人以外にわかりようがない。けど。アイツが求める絵を描くことはリサーチを重ねればできるのかもしれない。

それで満足してくれねえかな。画家として答えを出す方向で。

嫌なんだ。人を不幸にするものを生み出すのは。

そこで渦巻く複雑な感情を一枚の絵で表現して、誰もがその思い出ってやつに何かを感じるような絵を描いて、いや、それもそれで俺には難しいなー」

僕が三崎さんと諏訪湖周辺の話をしている間。画家はずっと一人で話し続けていた。

「なんだかよくわからないけど、きっと考えすぎだよ、お酒を飲みなさい」

三崎さんが男に声をかけて。

「そうだな、これはまた別問題だ」

男の暴走は止んだ。

「そうでしょ? のみなさい」

「飲むかー。まあ、それでも中本、もし、金本康史に関して、ここでの資料とか日記とか写真なんかがあったら俺に教えてくれ、ちょっと確認したいことがあるんだ」

「いいですよ。日中のあいだに捜してみます、でも、たしか無かったかと思いますよ」

長い時間の中で、僕はこのホテルのどこに何があるのかは大体把握している。が、金本康史に関する何かを僕は見たことがない。彼が公にはもう失踪したことになっていることすら、僕は知らなかった。ここで彼を待っていながら、僕は金本康史という人間に関してほとんど何も知らない。

「ああ、友人の思い出があるから客も呼ばずにこんなホテル残しているのかな? 社長の趣味で? 会社に利益もないのに? やっぱり何かおかしい気がするなあ」

と。誰もかれもが自分の考え事に思いをはせて、三崎さんもとうとう一人でしゃべり始めた。

「お客は少なくとも貴方がいるじゃないですか」

「私は奇縁で来ただけよ、アクシデント。クラークケントみたいに送り込まれたわけではなくて、個人で起こした事故と保険会社のせい」



それからもしばらく噛み合わない雑談をして、画家が頃合いだと席を立ち、退散していくのを見送り、カウンターに突っ伏している女性に声をかける。

「三崎さんは部屋に戻れそうですか?」

「戻れるよ」ひどく上機嫌そうに答えながら、彼女の首が無重力装置の中で回り続ける銀色のリングのように回転して、ゆっくりと舟をこぐ。

眠いのか、こっくりと何度も右斜め下に頭を落とし、落とす度また頭をもとの位置に戻して、彼女は無言の周回をつづけ。

「よし!戻る」

と、眠りと覚醒との格闘に無理やりな区切りをつけるようにそう言い放ち、背筋を伸ばし

「ただ、お兄さん肩をかしてくれませんか?」もう自分で動くのは面倒だと言わんばかりにだらりと伸ばした右腕を僕に向けてきた。


僕はフロントバックから持ってきた車いすに彼女を乗せると、それを後ろから押して廊下を歩いた。

 

月の明かりは頂点に至ってますます明るく、部屋の中は夜中にありながら電気を全て点けずともはっきりと全体が見渡せるほどだった。彼女の部屋の前にたどり着き、カギを開けると立ち上がる気のなさそうな彼女に断りながら肩をかした。

「貴方の肌はとても冷たいわね」ジャケットの上から僕の肩に腕をまわした彼女がうつむきながらそう呟く「血が通ってないみたい」

「冷えるんです。特に冬は」

「そう」

『昔とは、随分と形が変わってしまったな。ロビンソと俺はお前に名付けた。たった四文字だけれども洗練された名前だろ?』なぜか福田の声が蘇って。

『今の僕は何者なんだろうか?』と、消えた福田の声を追いかけるように疑問がわく。

「ありがとうね、部屋まで送ってくれて」

ごきげんのまま、最後にそう言うと、彼女は千鳥足でその青白い世界の中へと消えていく。

パタンと、ドアが閉まる。

まるでいつかのホテルの記憶でも見せられていたかのように、今までの出来事をずっと昔のことに感じる。

そして部屋のドアを閉じる前の、ひどく優しい顔をしていた彼女のことを思い出した。

二人の客がそれぞれ部屋に戻ると、先ほどまでの騒ぎなんてどこにもなかったかのようにホテルにはいつもの静寂が戻ってきた。僕はポケットから懐中時計を取り出してその文字盤を眺めながら自分の中に生まれた疑問について考えていく。

『時計の針は、もう九時を回っていた』。

・17

『夜、サイレン男が冷えきった砂の上をどれほど歩き続けたのかわからなくなった頃。

ふと、思い出したように後ろを振り返ってみると、そこにロビンソの姿はなかった。

釣り船の上で、ぼーっと、海上から目を離していた間にブイを魚に沈められてしまったかのように消えてしまっていた。しばらくその場で考え込んでサイレン男は来た道を引き返す。

五分ほど来た道を戻ったところでロビンソが砂の傾斜を登り切れず、降参するようにひっくり返っているのを見つけた。モーターの駆動音が乾いた夜の砂漠の中、寒々しく響いている。

サイレン男はロビンソの前で立ち止まり、倒れたまま夜空を見上げるロビンソの視線を追った。サイレン男に備え付けられた機能の一つに、生物の視線を追うというものがある。人や動物の視線の先にある物を記録することができるようにすることで、その場その場で起きるより多くのトラブルに関する情報を記録することができるように、と、付けられたもので、ピントをどこに合わせてよいのかわからずに倒れたまま何度も望遠レンズの位置とヘリコイドを動かしているロビンソの見る先に何があるのかを探った。 

しかし視線の先に変わったものは何もない。

ロビンソはいくら抵抗しても起き上がることが出来ず、隙間なく星の浮かぶ砂漠の夜空を見上げているしかなくて。サイレン男はロビンソの視線の先をしばらく見続けていた。

科学者たちが交代で眠りについていた夜明け前のこと。

互いに離れることも触れ合うこともなく、彼らは二体で奇妙な時間を過ごしていた。

やがてサイレン男はロビンソを抱え上げて、流砂の上に戻した。くるくると動作を確認するかのようにその場で旋回をするロビンソの姿を見つめ、問題のないことを確かめるとサイレン男はまた前を向いて歩きだした』。

八ヶ岳のホテルの中で、開発を続けていた金本はそこまでを葉書に書いて左手に握っていたペンを机の上に転がした。デスクチェアから立ち上がり、背もたれにかかるコートを手に取る。


野鹿の群が駐車場の中から走り去ってゆく。玄関から出てきた金本の姿に驚いたのだろう。冬を越すため、忙しく秋の山のあちこちを駆け回っているのだろう彼らの姿を見送りながら、金本は宿泊者用の駐車場を横切る。月の明るい夜だった。人工の明かりの少ない月夜の中で、輪郭をはっきりさせた雲が灰色の竜のようにゆったりと夜空を泳いでいく。

 不意に、月の明かりの届かない暗い森の中をどこから来たのかもわからない風があわただしく駆け抜けていった。地面に打ち付ける雨のような音を立てて木々が揺れ、その音の中に虫の声が消える。

 歩きながら。自分がロボットだったのなら、と、金本は思う。

もし、自分が機械の体を持っていたのならば、と。何に邪魔をされることなく、何に怯えることもなく。この舗装された空間の外へ、夜の山の森の中へ飛び込んでゆくことができたのなら、それはどんなに素晴らしいだろうか? と。

サイレン男のことを羨ましく思う。

自由などなく。自分の意思を持たず。だからこそ、誰かにとっての圧倒的な悪になることもできれば。自分の幼いころに憧れたような、誰かを守るヒーローとして在ることができる。命令さえあれば、迷うことなく、夜の森に入っていくことのできるサイレン男のことを、金本康史は羨ましく思う。


しかし、そこにサイレン男自身の意思はない……。

 サイレン男は自分自身の正義を持つことができるのだろうか?


誰かの思想や思考、リテラシーに左右される借り物ではなく、自身の道徳や分別、学習と経験の上にあって、どんな衝動よりも強く、決して揺らぐことのない自分自身絶対の正義。そんなものをサイレン男は持つことができるのだろうか?

それが彼に理解できる日が来るのだろうか?

例えば、幼く貧しい兄弟がいたとして、兄は誰かに教えられた通りに一枚しかないクッキーを弟に譲る。差し出されたそれを、弟はよろこんで受け取る。だが、受けとったあとで、弟は幼いながらも感受性豊かに兄の表情の陰りを見つけ、自分の手の中のクッキーを半分に割り、兄に差し出したとする。

兄は大人に教えられた通り、クッキーを弟に譲ったのに、兄は当然そうするべきだと思いそうしたのに、その弟の行為でどうしようもなく救われるんだ。

救われたのは兄の方なのだ。奪うこともできたものを与え、それが半分だけ戻ってきて心が救われたのは兄の方だ。

弟が兄の心を救ったんだ。

そのことが、そこで得られる本当の喜びが、サイレン男にわかるのだろうか?

一瞬で今までしてきた行為のすべてが報われる瞬間が。あとからその喜びを思い出して、いくら傷ついても自分は正しいことしているんだ、と、信じて進んでいける経験が。

それが、サイレン男に訪れることがあるのだろうか?

「いいや、ないだろう」

と、金本はこの時もまた決めつけてしまう。

そんな瞬間がサイレン男に訪れることはないだろう。と。

 そんな事がサイレン男にわかるはずはないだろう。と。

 金本康史はまた決めつけてしまった。

きっと、誰かに言われるがまま借り物の正義を振りかざすしか彼にはできない。と。

誰かに指示されるがまま、金本の望まない方向へと進んでいってしまう。と。

金本康史は諦めていた。


 ホテルから道を一本挟んだ場所にある業員用の駐車場。

外側にホテル名と館内の写真がプリントされ、内装を送迎用のバスにカスタムされた紺色のハイエースに金本康史は乗り込んで、夜の山道へと車を走らせていく。


カーラジオから(韮山陽光)。

「さあ、コーナーにまいりましょう『アマチュアラジオ!』テーマにまつわる短い話をリスナーから募集して、それを私、韮山陽光が父母会よろしく優しい声で朗読するコーナーです、今週もお便り届いております。じゃあまずは参りましょう、愛知県南知多町ラジオネーム『サイレン男』どうでもいいけどさ、こいつだけはもうテーマ関係ないんだよな、話の中に少しだけ溶かして入れてるだけでさ、完全にサイレン男の連載なのよ。えー、前回は目を覚ますと砂漠に放置されてしまったサイレン男。果たして今週は一体どうなるんでしょうか、ほら、もう自分で作ってる進行表にもサイレン男のあらすじを乗せてるのよ。私が。参りましょう!『サイレン男』


ロビンソの動く音だけがずっと聞こえていた。途中で拾った薄い布を外套のようにまとって、サイレン男は月下の鳥取砂漠を歩いた。

 洪水と塩害が原因で防風林は枯れ果て、砂に埋もれてしまった。焼かれた畑のように黒ずんでいた山の麓の土壌も風に舞って侵食する砂の中にすっかり消えてしまい、今なお穏やかに衰退し続けていた。かつての地方都市の様相はすっかりなくなっており、聞こえているのはロビンソの動く音と、時折浜風に乗って遠くから聞こえる車のエンジン音だけで。人の住む場所にはまだまだ遠い。


どちらに進めばよいのか? GPSを利用することの出来ないサイレン男がビッグデータと月の位置から導き出せるのは、おそらくは南下してゆくのが最も早くこの鳥取砂漠を抜け出せるだろうという予想だけだった。

 

ここまでの結果の中、科学者達が怯えるものは何一つもなく、彼らにとって、目下の問題は政府によって定められた説明責任だけだった。彼らはサイレン男が導き出した答えに対して、どういう道筋でその答えを導き出したのかという全てを政府に説明する義務を有していた。国策で作られたサイレン男が兵庫の町で月を見上げたという事実に対する説明ができない現状に彼らは言い知れぬ危機感を抱いていた。

サイレン男は南に向けて歩き続けたが、日に何度かは立ち止まり、もうとっくに見えない海を振り返った。そのたびに両足が砂の中に沈む。どうやら何か音を捉えるたびに止まっているようで、収集された音の波形は全て科学者たちの手元に届けられた。

届いてはいたが、そこに一貫性はなかった。

立ち止まり、海を振り返るたびにサイレン男は南知多のことを調べた。海辺のこと、気候のこと、日の入りの時刻と海岸線の風景を彼はインターネットの中で探していた。科学者はそこから妄想とすら言えるような仮説をいくつもたてた。地震との関連性、太平洋沖での台風の発生、三河湾、知多湾、伊勢湾の漁獲量の変遷など、無駄と思えるようなデータまで調べ仮説の一つが当たってはいないだろうかと祈りながら目を通し、わずかなつながりでもいいから何か説明できるような、サイレン男が歩き出した理由としてこじつけることのできるような何かを探した。

だが、何一つとしてサイレン男の行動と関連のありそうなデータは見つからない。

サイレン男がビルに上った日の夜、眺めていた月の位置は確かに東南にあったと科学者の内の一人が言い出した辺りで、議論はオカルトじみてきて。愛知県、それも知多半島には太平洋にこの音にまつわる何かが沈んでいるのではないか? という、最早、都市伝説だとしても陳腐と言わざるを得ないような考察を所員の何人かが口にしだした(このあたりで、もう皆まいってしまっていた。藁にもすがる思いで、金に物を言わせ、手当たり次第に調査をしてみたがもちろん何も見つかりはしなかった)。そのうちに歩き続けたサイレン男は砂に埋もれたかつての山陰本線の線路にまでたどり着いた。

科学者の中にはサイレン男の開発者の友人で尾原という男がいた。彼はア。ガッ。ザ」。


エンジンを切ったその瞬間に、跳ねるようなノイズが鳴ってラジオの音が切れる。

同時に、目の前がオレンジ色に三度光る。「カ、カ、カ、ピー」という残響を残して車内の灯りは全て消えた。

カーラジオが(その韮山陽光という男が)、サイレン男の(そのアンドロイドの)現在地を話し終える前に金本はエンジンを切った。早く行かなければ田舎のコンビニエンスストアは閉まってしまう。体を伸ばしてダッシュボードから免許入れと兼用の小銭入れを取り出し、乱暴に運転席側のドアを開ける。


近頃忙しそうにしている梶原が再三の出張のため、また信州の本社から姿を消してしまった後で、金本康史は考え込んでいた『サイレン男が歩む先がどこになるのか?』金本はもうそれを見届けることの出来る立場になかった。彼はサイレン男の現在到達地点を正しく理解していたわけではない。話を聞いて、映像を視聴して、考えることしかできない。虫の声が響く夜の山の中、駐車場からコンビニまでを歩きながらでも頭の中ではサイレン男のことを考えている。


生産に移行したサイレン男に関わることを金本は許されていなかった。

サイレン男の開発を終えた彼は、別の仕事のために、山梨県の山中に建つホテルで生活をしていた。ラジオブースに引きこもることもなく、熱心に本を読み漁り、たった一人で新製品の開発に励んだ(これ以降、長野の本社に作ったラジオブースに梶原と金本の二人が揃うことは無く、サイレン男の結末を見届け、全ての仕事を終えた梶原がようやく本社へ戻ると、ラジオブースの中に組み立てた一体の機械人形だけが残されていた)。


金本はラジオが好きだった。

だから、彼は自立するラジオを作った。


サイレン男の残骸の傍らから回収された記録用のロボットに残されていたデータを使い、彼は完璧な人型のロボットを作り上げようとした。人の話を記録して人に話をするロボット。平和に人の話を聞いて、幸せそうに誰かと旅をして、旅先で誰かに自分の経験を面白おかしく語ることの出来る。そんなロボットを金本康史はつくろうとした。そうして、そのロボットの外側だけをくみ上げた後で、彼はどこか遠くへと旅立っていった。

「きっと、その世界の俺は平和に呑気に絵なんかを描きながら暮らしているんだ。今みたいに朝礼で意味の分からない国際情勢や、終末時計の話なんかせず。

自分の作ったロボットの事なんか気にも留めないで。故郷に戻って、絵を描いて、一日の終わりにはビールを飲む。当時の俺みたいに悩んだりなんてしないで、平和に旅をする。旅に出て、また、崎陽軒のシュウマイなんかを土産に買いながら、新幹線に乗り込んで、ちゃんと、愛知へ、故郷の南知多へと帰っていくことができる。

そんな俺は、どこかの時間にいるのかな?

もし、どこかでそんな風に過ごしている俺に出会うことがあったら、もてなしてやってくれ……そうしたら、その時には、俺の考えが正しかったと証明されるのかもな」

と金本康史はそう話して、僕に微笑んだ。

その時には、僕は言葉を介したはずなのだけれども、何も口には出さず。黙って彼の姿を見つめるばかりで、言うべき言葉の正解を導くことはできやしなかった。


〈自立型機械式ラジオ試作機(開発打ち止め済):『ロビンソ』改め『中本拓也』〉

「僕の覚えているサイレン男の最期を語ろう。

砂漠を歩むサイレン男を眺めながら、あれやこれやと議論を始める科学者たちを横目に若き責任者は一抹の不安を抱えていた。彼の名前は……仮に尾原としておこう。


尾原には何が起こるのか予測ができなかった。サイレン男は完全に自分たちの支配下にあって、それ以外の動きはするはずがないと信じていたのに。それなのに、科学者たちが議論を繰り返さなければならなかったその当時の状況が何を意味していたのが何かといえば、サイレン男という存在が彼らの想定しうる範囲から完全に逸脱してしまっているということで。その事実は尾原という男にとって、誕生日にサプライズケーキを贈られるような屈辱に等しく、彼は、本当に何か取り返しのつかない問題が起きてしまう前に、と。サイレン男を排除しようとしていた。


尾原はサイレン男の物語の中では敵以外の何者でもない。

だから、僕個人の意見で彼は嫌な奴だ。


ただ、誰にも誤解されたくないのは、尾原のそれも彼の正義に基づいていたということだ。それ自体は何も間違っていない。この話に悪の組織なんてものはなく、誰もが自身の正義のためにだけ立ち回っていたから。しかし、サイレン男を主人公に据えたヒーローショーとして全体を見渡したのならば、その物語の中に居る彼の役割の話をするならば、彼はサイレン男のヴィランだ。


尾原は『サイレント』というサイレン男の基になった物の製造と生産、実用化へ向けての責任を一手に担わされていた。サイレントの安全面に不安がないこと。それを示すことができるのか否か、その是非が社運を左右すると言っても過言ではない状況の中。

尾原には、サイレン男のエラーを正しく理解する必要はあったのだが、開発の障害となっているサイレン男のことは邪魔でしかなく。許されるならばすべてを隠匿してしまいたかった。

だから尾原は……原因の究明さえできれば、そうでなくとも適当な理由をみつけて揉み消すことができれば。と、誰よりも注意深くモニターの中のサイレン男を見つめていた。


サイレン男はロビンソと共に山陰本線の線路沿い立ち止まる。振り返るようにしてロビンソが電波を送受信する様を見つめる。一体どこに通信しているのだろうか? と。今は傍受することができない。通信機能の一部が制限されている(サイレン男は本来、このような状態になった時、動きまわることは出来ないようになっているはずだった)。

ロビンソのカメラのレンズにサイレン男の姿が反射している。サイレン男は正しくそれを自身だと認識した。実体のない像だと無視するわけでも『同型のアンドロイド』と認識をするでも『見たことのない所在不明なロボット』とも認識することはなく『カメラのレンズに映る自分自身』と、サイレン男は認識した。

その事象を確認した尾原は怖くなった。自分自身を理解することのないはずのサイレン男がそれを認識した。ロビンソから絶えず送られてくるサイレン男の思考パターンのログの中、その事実を目の当たりにした瞬間、尾原はとてつもない恐怖に支配された。

そうなった時、人間はどう動いてしまうのかわからないものだけれど。この時の尾原は、何日もろくに睡眠をとっていない尾原は『何としてでも、サイレン男を排除しなくてはならない』と、強く思った。

そのためのきっかけが欲しかった。

サイレン男をそのまま見続けることに耐えられなかったんだ。

いや、この後も見ていたけれど、言葉の綾? なんといおうか? 恐怖の芽生えはきっとここだった。ここからの尾原の精神状態はとてもまともじゃなかったんだ。

尾原はサイレン男を破壊するためにサイレン男の観察を続けた。

実際。この五分後に尾原はサイレン男を処分してしまう。

危険があった時に備えて、いつでも遠隔で爆破できるようにはなっていた。

五分後。ロビンソの瞳のカメラには、出雲大社のある方角を向いて何を考えているのかわからない銀色の無機物が。立ち止まり、何事かをぼんやりと考えこみ『再び歩き出そうとした』その愛らしい銀色の無機物が。無様にも爆散するさまが、四散するさまが、はっきりと映っていた。


撮影されたその映像を見るたび、僕はどうしても気になることがある。サイレン男に関して今更、あれこれと語る必要はない。彼はヒーローだったんだ。

存在したという事実だけでその後に多くの人間や機械を救った彼はヒーロー以外の何者でもない。だから本質はそこではない。僕がどうしても気になってやまないのはロビンソのことだ、ロビンソは目の前で散り散りになるサイレン男を目の当たりにして何を確認したのだろうか?

自我の発現していなかったその機械仕掛けの小人はその後どうなったのだろうか?

いつかこのサイレン男の結末を基に研究が進んでしまい、もし、自我に目覚めたとしたら、彼がこの記録を確認することがあるのだろか? そうなった場合にロビンソは自分自身に悔しさをおぼえるだろうか?

何もできない無力な子供時代を思いだして、胸が絞られるような思いをしながら夜に眠るように、ロビンソは毎夜サイレン男のことを思い出してくれるのだろうか。


ロビンソは……。


ただ、僕個人の記憶の中の意見を語るのならば。

サイレン男の最期がいかに素晴らしかったか、見解は筆舌に尽くしがたい。

どのような想いで彼の最期は語られるべきなのだろうか?

生まれて始めてなでた馬の毛並みの滑らかさを思い出すその瞬間のような優しい気持ちでこの話を語るべきなのか。幼少期に釣り上げた魚を持ち帰ることが出来ずに砂利道で駄々をこねた時のような悲しみをもって語るべきなのか。

そこまで強くはなくとも、初冬に足を踏み入れかけた頃、まっすぐに秋晴れの空へと白い軌跡を残しながら飛んで行く龍勢花火を眺めるときのような形容しがたく、外に発信することもせず噛みしめる小さな寂しさなのか?

もし、僕がこの目で最期を見ることができたのなら。

僕自身はそのサイレン男の最期をどのような感情をもって受け入れたのだろうか。

彼はきっと幸せだった。

最期の最後に触れた誰かの故郷の記憶で、彼はきっと幸せだった。

最期まで幸福でいられた英雄なんて、彼のほかに一人でもいたのだろうか?

そうだね……ラジオを聞こう。金本康史が旅立っていった日の、その日にもらった音声だ」。


●(韮山陽光の最終回)

「皆本当にありがとうな、じゃあ最後、愛知県南知多町ラジオネーム『サイレン男』


韮山! 六年間おつかれさま! 学生のころから聞いていた俺も今じゃ立派に社会人だ!

お前のおかげで六年間幸せだった! お前も同じ気持ちならばうれしい!


『涙で文字も読めねえよ!』


最後までそのネタ引っ張られたなー、いや実際悲しいけど複雑だな。

おう、いや楽しかった。ラジオは終わるけどね、さみしいけどね、またテレビとかこの局でも他の局でもラジオやるかもしれないしまた聞いてください、ということでもうお別れの時間です。それじゃ、また。みんなありがとう!」

それから二年後、韮山陽光は大麻の所持が原因で逮捕される。

「ヘッドセットをつけ、マイクロフォンの前、笑顔でカメラに向かって笑う自身の写真をSNSサイトに載せたのを最後に韮山陽光の声は僕の世界から姿を消した」。


・18

「貴方は変わらないわね」

薄暗いラウンジのカウンターの向こう側、三崎さんが頬杖をつき、僕の顔をぼんやりと見つめながらそんなことをつぶやく。

「そうですか? あちこちガタが出ていますよ」

「中身じゃなくて、見た目の話よ。いつまでも若くてうらやましいわ」

「見た目なんてただの飾りですよ。大事なのはむしろ中身です。だから僕にとって羨ましいのは三崎さんですよ。相変わらず元気そうですね」

「そりゃ私は元気だよ。見た目はどんどん変わっていくけどね。後は、もう、のんびりと暮らすだけだし、いいんだよ、そこまで身体の若さは必要ないんだよ」

白髪交じりの髪を目の前でいじりながら三崎が自分に言い聞かせるようにそう言って

「君はどうなのよ?」僕に投げやりな質問をぶつける。

「何に関しての質問でしょうか?」

「何に対してかな? 口に出してみただけだから。私はもう酔っ払いなんだ。

そうね。あんまり個人的なことは聞いたことがなかったし。それを聞いてみようかな?

中本君は普段何をしているの?」

「館内の清掃ですね」

「そういうんじゃなくて、自由な時間とか、仕事が終わってからは?」

「清掃以外の時間は動画を観たりラジオを聞いたりしていますよ」

「動画ね、じゃあ、君の好きな映画は?」

「映画ですか、映画……好きなものと聞かれてぱっと出てくるような作品がありませんね」

「そうなの?」

「そうなんですよ。三崎さんは何かありますか? 好きな映画」

「映画ね。私もコレって物はないわね、強いてあげればってものはあるけれど、自信をもって、コレが好きって言えるほど映画を観てこなかったのよ。ああ、面白かったな、くらいで終わってしまうのがほとんどで『本当に素晴らしいものを観たな』って観終わった後で浸っていられるような作品に出合わなかったな……いや、本ならあるよ! 小説ならあるのだけれど!」

「それは単に積極的に触れてきた媒体の違いでしょうね、僕の場合はむしろ映画を沢山観ているはずなのですがね。好き嫌いで判断していないのですよ。好きかどうかを考えたことはありませんが、その中でならば、映画に限らず。僕が触れてきた映像の中なら……そうですね、僕はヒーローが好きです」

「ヒーローか。へえ、なんだか意外だね、特撮とか? それともハリウッドとかの?」

「映画ではありませんが、そうですね特撮ヒーローに近いです。サイレン男っていう」

「サイレン男……知らないわね、いつの作品?」

「僕もいつの物かは知りません。何年前の映像とか、そういうのは覚えていないんです」

「どんな話なの?」

「ヒーローの話ですよ。子どもにとっては面白みに欠けるような話なのですが、大人になってから考察すると深いような、そんな話……」

僕はサイレン男が生まれてから砂漠に送り込まれるまでの話をした。

なるたけ大げさに。サイレン男がどれほど愛おしいヒーローであったのか、一人の少年の想像の中から生み出され、気まぐれで作り上げられ、無様にも爆ぜてしまったそのあとに、散ってしまったその時に、踏み出したそのたった一歩で、自分を作り出したかつての少年を、無関係の多くの人を、意図することもなく救ってしまった彼の、僕の友人であるサイレン男の、その話を、彼女へと語って聞かせた。

「へえ面白そうね、映画?」

「どうでしたかね? これだけ長いストーリーがあるのだからシリーズだとは思うのですが、僕が覚えているのは、とりわけ強く印象に残っている映像は。そんな物語の片鱗もない、効果音もBGMもついていないようなつまらない映像だけなんですよ。

唯一覚えているその映像を、僕はずっと昔、本社でたった一人のコールセンターとして機能をしていた時に観たはずなんです。が、何かおかしいんですよね」

「何おかしいの?」

「いえ、『サイレン男』と誰かに名付けられた映像。観た状況だけは覚えていて、僕は大勢の人間と共に講堂に集められて、一つの巨大なスクリーンに向かっていて。で、そこでみせられたのが、砂漠の中をロボットが歩いている姿を後ろから追いかけて録画した記録映像の様なもので……これが、全体の長さがどれくらいかはわからないのですが、とてつもなく長いんですよ。一時間とか二時間ではなくて、何日かに及ぶ、何十時間もあるような記録映像。それを必要なところだけ巨大なスクリーンに映しながら、僕らは観ているんです。

つまらない映像なんですが、不思議なのが、観ている間にいつの間にか目の奥に直接映ったみたいに釘付けになって、こう、自分自身が砂漠の中、映像の中にいる銀色のロボットと歩いているような錯覚にあう。

何と形容しましょうか?

VRよりももっと高度な、ARとでも言うのでしょうか?

いえ、当時開発されていたそれよりも、もっと現実に近いものなのです。

良い言葉が見つかりません。ただ。その映像を視聴した時のことを思い出すたび、とても幸福な気分になるんです……サイレン男、銀色のロボットと共に砂漠の中をずっと歩いて行って、最後にそのサイレン男が爆発して、巻き上がる砂の中、その映像が終わるのですが、それを観た瞬間に『ああ、僕の旅は終わってしまったんだな』ってそんなことを思って。それ自体には何も、起承転結の起の字も含まれないような映像なんですけど、それを観た時、僕は、とてもイイ気分になったんです」

「へえ、なんだか面白そうね、AR? 映画というよりも体験型のアトラクションの様なものってことか、大人数同時にできる? やってみたいわ。実用化していないの? 開発頓挫?」

「僕はなにかのプロジェクトに関わっていたわけではないので。詳しいことはわかりませんが、その映像を視聴した何年後だったか、本社の資料室でその『サイレン男』に関する記録を探してみたことがあるのです。本社の資料室は創業時からずっと残る開発のレポートや記録映像、実験の結果などが詰め込まれている場所なのですが、そこで作業をする機会があって……で、その、サイレン男の記録を探したことがあるのですが、そこでは何も見つかりませんでしたね。だからおそらく会社に関係のあるものではないとも思うのですが」

「ふーん。でも、インターネットで探せばすぐ見つかるんじゃない? サイレン男って言うんでしょ?」

「それも過去に気になって調べてみたことがありますが、探している映像にはたどり着きませんでした」

「でも、旗本重工で銀色のロボットなんでしょ? それは『サイレント』の映像ではないの? ほら『サイレント』と『サイレン男』で響きも似ているし」

「あれ、三崎さんは『サイレント』の事を知っているんですか?」

「昔ね、仕事の関係で旗本重工にお邪魔したことがあったから、知ってるよ。それに……いいや、これは後で言う。なんだろうね『サイレン男』と『サイレント』響きも似ているし、プロパガンダか売り込み用の映像とでも作っていたのかな? それがお蔵入りになって、ARの開発時のテスト映像に流用したとか?」

「うーん。ない話ではないとは思いますがね、どうでしょうか? 確かに『サイレン男』の見た目は『サイレント』に非常によく似ているんですよ。ものは『サイレント』を使っていたんでしょうが、その時作られていた最新型、当時の現行機種ともどこか違っていてわざと汚されていたのか何なのか、随分と使い込まれた様子なんです。その機体に『サイレン男』という名前が付けられていた」

「じゃあ、ロボットを役者みたいにして撮影された特撮ヒーロービデオってとこかな? だったらそれこそネットですぐに見つかりそうだけれどね」

「そうですね、それで制作が途中で中止されて、社内でだけ上映会が行われたとか、でもそういう雰囲気ではありませんでした。そんな気楽な鑑賞会ではありませんでした」

それが一番しっくりくるが、なんとなくではあるが、その憶測は違うような気がする。

「他には何か覚えていないの?」

「他は……特にはありませんが、どうでもいい情報としては、サイレン男の物語に度々海が出てくるのですが、その海が僕の故郷の海ってこと位ですかね」

「中本君は出身どこなの?」

「南知多です愛知県の」

(半島の先、向かうだけで安楽としていられる青白い海と、子供の頃から崩れたままで、決して直されることのない灰色のコンクリートブロック塀。南国にあるようなヤシの木が並ぶ決してキレイとは言えないような街の風景)。

「南知多、海、サイレン男……駄目ね、出ないわ、なんかすごい昔のラジオ番組の案内ばかりが引っかかるわ」

「そうですか、やっぱり記憶違いなのかもしれませんね、そもそも名前が『サイレン男』ではないのかもしれません」

「何年前くらいに観たのさ?」

「本社にいた時ですから五十年ほど前ですね」

「半世紀とかスペクタクルだね。ただ、見つからないもどかしさで余計に気になってきたな、他には何かヒントないの?」

「それ以外ですか? これもヒントと言えるのかわかりませんが、サイレン男のことを思い出そうとすると野球をしていた時のことをよく思い出しますね」

「へえ、野球をしていたの?」

「ええ、僕は良いピッチャーだったんですよ」

「そう、いいね。私も子供の頃は野球やるのが好きだったよ」

「甲子園で投げたこともあるんですよ」

「修学旅行か何かで?」

「いいえ、試合です」

「甲子園で試合をやったことなんてあったんだね、いつの話?」

「ずっとずっと前ですよ。ずっとずっと前の夏のことで、気温が四十度を超えているんじゃないかと錯覚するような猛暑の中で、僕は野球をしていました」

「中本君の時間の感覚で言われる『ずっとずっと前』って怖いな、時代をまたぎそう」

「いいえ、そこまででは……いや、跨いでいますね。というか、三崎さんも跨いでいるではないですか」

「ああ、確かに私ぐらいの年齢の人間はみんな時代を一つまたいでいるのか。気温四十度の中で運動か、考えるだけで死にそうになるわね」

「野球という形をとってはいましたが、ある種の耐久テストみたいなものでした。

肉体が炎天下の中でそれだけ動くのか試されていたんです。だからきっと暑い方が都合はよかったのではないですか? その野球をしていた記憶の中で僕は照り付ける日差しの下、ずっとそんなことを考えていました『今、自分の肉体の限界を試されているんだな』って、そんなことを思いながらどうにか意識をその場に繋ぎ止めて、必死に腕を振っていました」

「そんな考えで野球をするような人は嫌だなあ」

「考えかたは特殊ですけれど、楽しんでいましたよ?

で。その甲子園での試合の最終回にホームランを打たれたんです。完璧な軌道で投げたはずのスライダーでした。僕がバッテリーを組んでいた相手と導き出した確実に三振が取れるはずの球だったのです。でも。ホームランを打たれました……って、サイレン男のことを考えようとするとその時の記憶を思い出します」

「それがヒント? 野球、ホームランね、ヒーローとなんのつながりがあるの?」

「どうでしょうか? あまり関係はないのかもしれませんね」

僕はそれっきり黙ってしまった。サイレン男に関する記憶と、空気を切り裂いて砲弾のように唸りながらアルプスに向かって飛んでゆく打球と、その二つにどんな共通点があったのか、いくら考えてもそれを目の前の女性に伝えることがどうしてもできず、腕組みをしたまま、しばらくの間だけ動きを止めていた。



・画家

画家の男が律儀にも部屋のカギを預けにフロントの前にやってくる。

「中本、どこか観光できるようなところはあるか? 俺が興味を持てそうな場所は」

「観光に行くんですか?」

受け取った僕も律儀に部屋番号の書かれた引き出しにカギをしまいながら答える。

「ちょっとリフレッシュしようと思ってな、どこか都合のいい場所を探しているんだ」

「キースへリング美術館がしばらく行ったところにありますよ?」小海線に沿ってしばらく車を走らせたところにあるその美術館を紹介する。

「こんな山奥にか?」急に予想もしていなかった画家の名前を聞いた彼はひどく困惑した表情になってしまった。

「ええ、なぜか日本のこんな山に囲まれた場所に」

「しらなかったな。それは不思議な話だ」ニューヨークのストリートファッションとして創作活動を行っていたはずの画家の作品がなぜ、日本の、それも人のほとんど寄り付かないような山奥にあるのだろうか? と。彼はその謎を解こうと考えを巡らせ始める。


・サイレン男

サイレン男が最後に見たのは、遠く向こうに在って風に吹かれればすぐに消えそうな砂の上浮かぶ逃げ水と、砂漠のどこまでも青く高い空だった。

 最後の数秒、頭の中に響くブザー音を聞きながら、彼は自身が消失することによっておこる変化を予測しようとした。

 そして、サイレン男が一秒以内にたたき出したのは『自分が消えたところで何も変化が起こるはずは無い』という揺らぎようのない結論で、導き出したその答えが、そこに至るまでの過程をどれだけ変えようとも普遍的な、絶対のものであることを確認すると、彼は自分の足元に佇むロビンソンの空虚な瞳を見つめた。

その深い黒の一番奥に映る自分自身の姿を見ながら、銀色のラジオのことを、ずっと昔に見た故郷の海のことを、彼は思いだした。

思い出して、その場所に向かおうと考えた。その行動の原理が何だったのかは誰にも確かめる術は無く、それは彼に存在するはずのない帰巣本能だったのかもしれないし、その場所を滅ぼそうとしたのかもしれなければ、自身の体が錆びてしまうことなど意に介さず潮水で遊びたかったのかもしれないし、クラゲを捕まえに行こうとしたのかもしれない。誰にもわからないのだ。


誰にもわからなかったからこそ、東海地方のその半島に行こうとサイレン男が足を踏み出した次の瞬間に、サイレン男は梶原の手によって、爆破されてしまった。


その姿を僕は最後まで見ていた。

サイレン男が初めの一歩を踏み出してから、その銀色の体が砂漠の中、閃光を放って散ってゆく最後の瞬間まで、僕はずっと彼の事を目で追いかけていた。


サイレン男を見ていた僕の体が、宙に浮く。

体の自由が利かなくなって、サイレン男をとらえていた瞳が空を向いて。

一面に青い空。

そこで僕の意識は途絶えた。


だから、サイレン男がどうなったのか、僕は後に金本康史に聞いた以外の話を知らない。梶原に爆破された後のサイレン男は、もうただの金属とカーボンの屑でしかなかった。起こされた『ロビンソ』によって回収されたそのサイレン男の残骸を金本は梶原から受け取り、山梨のホテルへと持ち帰っていった。


持ち帰った。

持ち帰って、どうしたのだろうか?


・19

「三崎さんはどうしても、話の結末が思い出せない時ってどうしますか?」

「話の結末? 見返すかネットで記事を探して思い出すわよ? 現実の出来事なら思い出せなければそれまでで」

「そうですよね……。思い出したい結末があるのですが、見返そうにも映像自体がどうしても見つからないのです」

「この前に言っていたヒーローの?」

「ええ、あの後で探してみたのですが、見つからないんです」

「見つからないのならば、忘れたままの方がいいという暗示かもしれないよ」

「まあ、そうかもしれませんね、でも。その『サイレン男』の結末を、僕は知りたいんですよ」

「結末ね、結末を知ることにどれだけ意味があるのかな?

変な話をするなら、さ、私自身は結末になんの興味もない人間だから、むしろ終わりというものが嫌いですらあって。例えば、読んでいる小説を少しでも面白く感じると、この話が終わらずにいて欲しいと思うんだよね。ぺージを何枚めくっても終わりに近づくことはなくて、私の手の中、書かれた文字の中、自分が愛しいと思える登場人物たちの過ごしているのをずっと見ていたい。って思うことがあるんだよ。彼らに何の不幸も起きずに、幸せそうに暮らす彼らが本を開くたびにそこにあるだけでいいのに、って。

いい結末を読んで『ああよかったな』って、思う気持ちより、終わってしまったな、っていうさみしさの方が勝ってしまうから。終わってしまった物語の先に幸せがあったとしても、それは私の想像の中か作者の頭の中にしかないから。結末が語られた時点で、その物語は終わってしまうんだよ。

だから、結末なんて知らなくていいんじゃないかな? って、そう思うんだよ」

「なるほど、僕にはない感覚ですね。僕は、永遠に続くものなんてないのだから、反対に終わりよければすべて良しって考え方でいますから、途中の過程はつじつまが合えばそれでよい。と。そこで味わう辛さとか、ちょっとした達成感にはなんの価値もない。とさえ思っています」

「まあ、ね、永遠に続くものはないよ。でも、だからこそ、私にとって『過程』というか『目の前にあるもの』が何より大切だよ。先にある結末とか、過去に出した結果より。

中本君は、リアリスト? というのとはまた違うのかな? 前に話してくれた野球の話で例えるならば、どれだけ完璧な球を投げても打たれてしまっては意味がない。って。打たれたという結果だけが残る。その前後には何もない。って、そういうタイプ?」

「そうですね。ただ、それで言えば『僕は完璧な球を投げ、それが打たれた』という結果に意味があったのだと思うタイプですね。そこに至るまでの練習とか、そこで行われた高い技術での勝負を何年か後に思い出して喜ぶのではなく。『完璧に投げた球をホームランにされた』というその一瞬だけを思い出して、いくらでも嬉しい気持ちになれる。その一瞬ですべてが無駄ではなかったと思える。と、言った感じですかね?」

「そっか。そして、それは嬉しい事なんだね。打たれて悔しかったのではないの?」

「悔しいなんてことは思っていません、完璧な軌道で投げた球が打たれたのですから、とてつもなく嬉しかったんです」

「どういうこと?」

「絶対に打たれるはずがないと思っていた球が打たれた、僕が一番予測していなかった結果だったんですよ。打ち取れることが当たり前のはずのその場面で、そのバッターは僕の投げたボールを完璧に打ち返したんですよ? 野球をしていて本当に良かったと思える瞬間でした。それまでの努力とか練習とか、そういったものはそのボールを投げるためには必要だったのかもしれませんが、それに関して何かを思うことなんてないんです。

野球に関しての思い出はたった一回打たれたそのホームランだけなんですよ。

その瞬間を心のどこかで切望していたんです。

僕が、その完璧な一球を投げる瞬間を、そして、それをバッターがホームランにする瞬間を。だから、そこで終わりだし、それ以上は続かないんですよ」

「わからない感覚だなあ、そこまで自信をもって臨んだものが打ち砕かれたら、私は悔しいけれど……。

私は、創作として作られた結末が、つじつま合わせで、そこまででもイイヤってかたどられた、区切りのために用意された結末が嫌いだから、それを迎えるくらいならずっと続いてほしい。って、おもうから。そんな、たった一回の勝負で、出合頭で打たれたホームランなんてどうでもいい。

終わってほしくないんだ。

そのあともずっと、色々な人間と交流をしながら野球を続ける。もしくは、それをずっと心の隅に置いたまま、続いている流れの中で人生を生きてほしいの。

本の中の登場人物なら、作者と共に死んでしまうまで物語が続いてくれればいいのに。ってそう思うんだよ。

出合頭の事故とか、誰かに殺されたりじゃなくて、老衰で死ぬまで幸せに続いてほしいんだ。日常の中で起きる小さな事件はあるけれど、それを乗り越えて、彼らがずっと幸せでいてくれる。そんな物語がいいんだ。

……なんだか、言葉だけ聞くとメンヘラみたいだね。でもね、中本君。私はそんなことを思うんだよ」

「話を聞いていると望んでいるものは同じに聞こえますがね」

「そう?」

「ええ、ただ少しで大きく違うのが、それが続いてほしいか欲しくないか、という違いだけですよ。僕の場合は自分が予測できない結末を、自分の理解の範疇を超えた結果がそこに訪れることを望んでいるだけですから『あるはずのない』それが現れた瞬間。そのあとにはもう何もいらないのです。

三崎さんは、必ず来る終わりが嫌で『あるはずのない』終わりのない幸福、物語を望んでしまうってことでしょ? 一緒ですよ」

「それは……そうかな?

いいや……やっぱり大きく違うよ。君の言うこともわかるよ。やっぱりなんにでも終わりは来てしまうんだよね。でも、区切られた物語の中で、終わりに向かっていくのを。それに近づいていくのを見ていると、やっぱり悲しくなるんだよ。

なんだろうね? 結末を迎えてしまったらそれで全て終わりって、私は思うのかな?」

「何にでも結末はありますよ。だから、重要なのは結末です。

結末を知って、そこで終わらせて、終わった後でその物語を僕は思い出したのです」

「そっか。でも、まだ続いているのかもしれないんだよ?」

「何がですか?」

「そのヒーローの話よ」

「え?」

「君が結末を知らなければ、結末を決めなければ、いくらでも、そのヒーローの話は続いていくんだよ?」

「そうですね……」

「それは幸せなことだと。私は思うんだよ……」

三崎さんはそう言って、気を落としたような、寂しそうな笑顔を浮かべていた。

「そうだな……。話は変わるけれども、中本君。もし完璧に人間と同じロボットを作ることが出来たら、それは人間を幸せにすることができると思う?」

かける言葉を探し続ける僕に、三崎さんは新しい話題を投げる。

「おもいません」

なげられる質問には簡単に答えることができても、自分の気持ちを機械的に喜怒哀楽に当てはめることはできても、他人の気持ちを探るというのが僕は苦手だった。

「それはなぜ?」

「そうですね……ゲームボーアドバンスのパワポケ7という野球ゲームに出てくる悪の科学者が、主人公に語るのです。正義の反対にある物は何か。とそんな話を」

「まず悪の科学者が出てくる野球ゲームの時点で前提がおかしいと思うのだけれど」

「まあ、そうなのですが、主人公は悪の科学者に尋ねます。正義とは一体なにか? と、三崎さんはなんだと思いますか?」

「悪から人々を守ってくれるもの」

「僕も、そうだと思っていました。でも、悪の科学者は言うのですよ。

『悪の反対は善、善の反対は悪じゃ。正義の反対は、別の正義あるいは慈悲・寛容なんじゃよ。正義とは人の従わねばならん道理を言う。

正義を行うとなれば道理を守らせる、ということにもなる。

もちろんそれは必要なことじゃよ問題は道理が一つではないことじゃ。

殺すな、奪うなまではほとんどの思想で共通じゃがな、その先はバラバラじゃ。

男女は平等かもしれんし、女性は守るべきものかもしれん。

どんな命令でも忠実が正義なら悪い命令に逆らうのもまた正義。

みんな正しいんじゃよ。道理に関する限り、正しいことは一つとは限らないんだ。

だから法がある。

なにをしてはいかんかの約束じゃ。

……これも正しいとは限らんがね。

じゃから、結局のところはその時ごとに何が正しいのかよく考える必要があるんじゃろうな。

結局のところ、みんなにとって最も良いことを探して選択するのが善なんじゃろう。

じゃから、正義は善と限らん。

ともすれば自分の信じる道理を他人に押し付けることになるからな。

じゃあ最初の質問に戻ろう。

やらなきゃならんと思ったからやったんじゃろ?

本当にそれが正しかったのか

最善のやり方だったのか

ときどき反省してみるんじゃな。

いずれ自分で納得できると気がくる。』

って、正義の反対にあるものは悪ではないんだ。と。彼は言います。

そのあとで。悪とは何かと尋ねる主人公に

『一般的な定義から言うと、

世の中のルールを破って、

他人に迷惑をかける行為じゃな。

ワシにとって悪はロマンなんじゃよ! ロマン。わかるか?

ルールにとらわれないことじゃ!

希望、生命力、突破点、新しいもの。

幸せになりたいという欲望!

昔は、科学も自由も人権も平等も

みーんな「世の中の平和をみだす悪」だったんじゃよ。

なあに、ちょっこっと歴史の本を読めばわかることじゃ。

それじゃあな、少年!

若いうちは悩んでおけよ!』

と、そんな話を、楽しそうに語って颯爽と去っていくのです。

正義は道理を守ることで、悪とはロマンなのだと。この話を聞いて僕はその言葉に納得をしました。正義というのが人によって違う。と。だから、人間と同じようなロボットを作ったところで、誰かを幸せにすることなんてできはしませんよ。存在が違えば守るべき道理は別のものになってしまいます」

「そっか、中本君はそう思うんだね」

「そうですね、でも。三崎さん。ヒーローってなんだと思いますか?」

「ヒーローね、正義の味方? 今の話の流れで行くのなら道理を守らせる者?」

「話の流れに沿うとそうなりますよね、でも。ヒーローはきっと、正義の味方ではありませんよ。きっと。ただ、敬慕を集めるだけの人とか、誰かの心を救った存在の事です。

正義と同列に語られることは多いけれど、正義に沿うわけではない。大勢を救ったヒーローはいても、万人にとってのヒーローはいない……個人よって異なるものだと思うのですが」 

「そう、悪と正義、それにヒーロー……か、悪はロマンね。人それぞれに従わなければならない道理が正義、か。それは、わからない話ではないけれども。中本君にとっての正義はどこからどこの範囲にあるの?」

「一枚のクッキーの中、ですかね」

「クッキー?」

「こんな話をしていますが、具体的に正義ってものが何なのか僕にはわからないんです。

聞かれて唯一言語化できるのが、昔に聞かされたそのクッキーの話だけ。だから、僕にとっての正義はあげた相手から半分手渡されるクッキーだけです」

「誰がそんな話をしてくれたの?」

「僕を作ってくれた人。金本康史という男が、その話をしてくれたんです。一枚のクッキーを分け合う幼い兄弟の話」

「金本康史が……その人がね、生前に人間と同じようなロボットを作ろうとしたらしいのよ。誰かを幸せにしたくて。人間と同じように考えて、同じように動いて、感情を持つようなロボットを」

「知っていますよ。でも、結局、彼は誰のことも幸せに出来なかったのですよ。自分の望んだ結末を迎えることが出来ずに、彼は絶望してしまったんです。人のために頑張ったのに、他人を幸せにするためにロボットを作っていたのに、その功労を誰にも称えられることなく、むしろ国が滅んだのは彼のせいだと人々に責め立てられて」

「私は、彼の事を責めるのはお門違いだと思う。自分が作りたかったものを作っただけ」

「そうなのですがね。金本康史は『サイレント』というロボットが兵器になることなんて望んではいなかったので。それなのに世間での評価で彼は稀代の大罪人だということになっている。面白いですよね」

「望んだこととそんなにもズレてしまっていることが? でも、彼の叶えたかった夢の話と『サイレント』というロボットの話を並べて聞くたび、私は思うんだ。もし、ね、人の心を持つロボットが本当に出来ていたのなら、今とは違う状況になっていたのかな? って」

「今の僕らのようには平和ではいられなかったかもしれません。今、こうして、おとなしくしているという選択肢すら与えられなかったかもしれません」

「どうかな? 人間と同じロボットができるなんて、そんなものが作られるのなら、それこそロマンだよ? 悪。今まで存在しなかったような全く新しい正義、今の状況を丸ごとひっくり返すかもしれない存在。確かに私たちはつらい状況に身を置くことにはなるのかもしれないけれど。結末はこのまま進むよりも幸せだったかもしれないよ? そのロボットのおかげで皆が分かり合うことができて、世界平和の達成」

「その結末なら金本康史もそのロボットも誰もが認めるヒーローですね……ただ。世界を救ったとして、それは、ロボットにとって、金本康史にとって幸せなんでしょうか?

そんな結末を迎えることができるかもしれません。僕の予測できないような、そんな結末があったのかもしれませんが」

「ううん、やっぱりそんな結末なんてなくていいよ。そうだね、きっと幸せじゃないから。そんなロボットに存在していてほしいけれど。誰も救わなくていいよ。ただ、平凡で恒久的な幸せの中に在ってくれればそれで」

「なぜ急にロボットと金本の話を?」

「ここからすぐの県境にある企業が、私の最後の仕事相手だったのだけれどもね、その会社が、金本康史のことをずっと探しているみたいなの、行方不明になって、見つからないまま死亡扱いになっても、ずっと」

「知っていますよ。僕はその一環でここにいるので」

「そうだよね、知ってた。中本君は金本康史についてどう思っているの?」

「何も思っていませんよ。待て、と、会社にそう言われたのだから、いつか来るのだろう。って、それだけですよ。そういうことを考えるのは得意ではないので」

「そっか、君は真面目な人だね」


その会話をしてから三崎さんは六度ほどこのホテルに滞在して。

見るたび老衰してゆく彼女も、やがてどこかへと消えてしまった。



僕は一人で。サイレン男の最期を思い出そうとする。

そのはずなのに。サイレン男のことを考えていた僕は、いつの間にか知多半島の間延びした空気の中にいた。サイレン男の亡骸が、その欠片の一つが、製作者の手によって、海に向かって不法投棄されるという、存在しなかったはずの過去の映像を僕は観ている。

そこには海に向かって佇む青年が居て、僕は青年の瞳から彼の故郷の海を見ていた。サイレン男とは違い温かそうではあるが、マメやタコでゴツゴツとした掌。そこに銀色の小さな金属の破片を握っていて……海を見ていた視線が、沈み込むようにスライドした後、握っていた銀色の物体はおおきな弧を描きながら飛んでいき、ボトンと、海の中へと落ちていった。


また。映像は変わって、僕の意識はどこかの部屋の中にいる、畳に置かれた勉強机の上で銀色のポケットラジオにスイッチが入る。スイッチの入ったラジオの向うから様々な声が聞こえてくる。いつでも新しいことを教えてくれた銀色のラジオ……映像の中の誰かは大人になるまで、何度もそのスイッチを入れ続けていた。


・20

「タイムパラドックスに関してはそんなところだ。どうする? まだ続けるか?

じゃあ、適当に昔の話でもしよう。そろそろ新入社員も入ってくるだろうし、昔やっていた仕事の話とか」

金本の声に梶原が小さく頷く。

マイクロフォンの前に座る梶原は金本と話をしながらも、机の中央に置かれた開発中の音声記録媒体のつまみをしきりにいじり、ノートパソコンの画面に映し出される波形でノイズや音量の確認し続けている。

「新入社員か。今年は何人ぐらい来るかね?」

聞いてはみたものの、梶原自身新しい新入社員の数なんかには少しも興味はなかった。

「人事がこの前愚痴っていたけど十人もいないらしいぞ」

「なんか年々減っていくな」

「今は中途の方が多いからな、会社としてはそっちの方が助かるんだろ」

「つい、六、七年前までは新卒一斉採用があたりまえだったのにな」

「今でもそこまでは変わらないだろ? 単に学生の数が激減しただけだ。きっと遠くない先には、色々と世間を取り巻く変化も終わって段々と落ち着いてくる。けど、落ち着いたら結局は元に戻っていくだけなのかもなって、考えてたんだよ。さっき話した町田の話、さ、あれからもう十年ぐらい経つのに全然前進している気がしなくて、無駄に思い詰めていた。22、23か。若いころの記憶をたどって、夜の寮の中で一人思い出していた」

「なんで、そんな変な一幕を思い出したんだ?」

「印象にのこっているからかな。ほとんど初めての営業だったし、後にも先にも俺が自暴自棄になっていたのってそのあたりだけだから。迷ってはいないんだ。ちゃんと歩いてはいるはずなんだけれど。今、俺はどのあたりを歩いているのかな? って」

「それで眠れなかったのか?」

梶原はそう言って、金本の目の下にくっきりと浮かび上がるクマに目をやった。

「いいや、眠れなかったのはあれを弄っていたからだよ、妙に熱が入ってな、気が付いたら朝だった」

金本が指さした先。録音ブースの外にはキャタピラとカメラのついた小さなロボットがおかれていた。

「そんな状態で真面目に仕事出来るのかよ?」

「順調だよ、最近は何の問題も起こっていない」

「ならいいけどな」そう言って梶原は再びパソコンの画面に視線を戻し「昔の話と言えばさ。佐竹って覚えているか?」何の気なし、金本にそう尋ねてみる。

「佐竹……誰だったかな?」

「岐阜商の四番」

「ああアイツか、愉快な顔の男だった。別に容姿が悪いわけではないんだけれど、真剣になればなる程に顔が面白く見える奴で、マウンドで対峙するには一番危険な相手だったな、笑ってしまうのを必死で我慢していた」

「下から見る分には奴の顔はなかなかキマっていたぞ? 顔よりも、そういうので気になったのはスパイクカバーだったな。アイツ、右足のカバーになぜか8の字に傷があるんだ。その傷に入った砂が太陽に照らされて輝くのが気になったことがあったな、不思議なのが何度対戦してもその傷の上に傷がつくことは無いんだ、試合に集中しなければならないのに、大会とか練習試合で対戦する度にそのことが気になるんだよ。それが厄介だったな。あの傷はまだあるのか? って、公式大会で言うわけにはいかないとは思っていたけど、交流試合があるたびその話を本人に言おうか言うまいか、悩んでいたよ。おかしな奴と思われたくなくて黙ってたけど」

「傷の話は初めて聞いたな。その佐竹がどうした?」

「そうだな、傷の話はどうでもいい。話したいのは夏の大会の三回戦の出来事だよ。お前に関することで未だに納得がいっていないことがある」

「そういわれても何も思い出せないんだが、何かおかしなことでもあったのか?」

「三回戦、岐阜商との試合、佐竹の四打席目だ」

「打席数なんか言われたところで、全く思い出せんが、なにかあったか?」

「お前の被本塁打の話だよ」

「ああ、それか、覚えていた、懐かしい」金本は何かを思い出したように二つ頷いた。

「打ち気できている所を二球、内にストレートを投げた。そこでワン、ワンだ。その後で外に落ちる球を空振りして体勢を崩しただろう? その後で切り崩すように膝元に投げたスライダーを奴は完璧にはじき返したんだ。いい高さだったはずなんだよ。膝の少し上からベース側に入って地面にワンバウンドするように曲がる、絶妙な角度だった。見逃されたとことでそのあとの一球で確実に仕留められる。その打席はもう勝ったんだ。と、捕る前に思える程の完璧な軌道だった。なのに、だ。奴はそれをものの見事にレフトスタンドまで運んでいった。あの夏の大会で何が一番悔しかったかといえば他でもないその勝負なんだ」

「よく覚えているな、そんなこと」

「悔しかったんだ。で、もっと納得いかなかったのがその時のお前の反応で、俺は悔しかったのに、お前が嬉しそうな顔をしていたことだ」

「ああ、あの球が打たれるなんて思わなかったんだよ。だから嬉しかった。打たれたあの瞬間、ものすごい速度でレフトフェンスを越えていったあの打球を見た瞬間に、どうしようもなく楽しくなった。俺は野球が好きだったんだ」

「お前がどう思っていようと、俺は未だにそのことには納得がいっていないんだ。あの球が打たれたことにも、そのあともお前の反応にも」

「打たれたのはたまたまだよ、アイツは悩んでいたんだ。最後の球に対して奴はヤマを張っていた、外の球へ早く振ることができるように構えて、少しだけ一塁側に斜めに踏み込もうとしていた」

「知っていたさ、だから、俺は視界から消えるようなスライダーを選んだんだ」

「老人のように自慢げに誇張も交えて過去を語るならば、その時の俺のスライダーは凄かったよ。お前はよく見えていなかっただろうけど、直線から、一瞬止まったんじゃないかっていうような具合に、綺麗に曲がったんだ。

あの球は当時活躍していたプロ野球選手にも負けていなかったな。

それが必死で引き戻そうとするように外から内へと肘を巻き込むように折りたたみながら少しアッパー気味に振りぬいたバットに当たったんだ。大抵の場合そういう打球は後ろにそれるかボテボテの当たりになるのに、あの打球は凄かったな、地を這うような弾道から一気に伸びあがってレフトスタンドに消えていった。見ていただろ?」

「見ていたよ。俺の目の前から消えていった。ものすごいスピードで。それこそ突き刺さるって表現がぴったりだった」

「今更、そんな勝負の話なんて、試合には勝ったじゃないか」

「そういう問題じゃないんだよな」

「カジの判断は間違っていなかったと思うよ」

「俺からしたら打たれた時点で間違いだったんだよ」

「そういうものか?」

「そういうものだ」梶原はキーボードに置いていた右手を自由にすると、机に肘をつき自分の頭を支えた「ただな」

「何だ?」

「プロ野球選手を目指してみるっていうのも悪くなかったと思うんだよ」

「お前がそんな事を言うとはな」

「真剣な話だ、俺はもがきながらも結果を求めるだろ? 決して最高のキャッチャーにはなれずともしぶとく残っていけたと思うんだ。お前もお前でさ、サイレントの時みたいに、仕事のちょっとした、くだらないことで悩んだりせず、気楽にボールを投げ続けるんだよ。高校の時なんかより余程気楽に」

「まあ、そんな未来もあったのかもな。でも、所詮タラレバだ。誰でも少年野球を卒業する時が来るんだよ。それにさ、カジ、俺はお前みたいに体格に恵まれているわけでもなかいし、四十前だけど体にはガタが来ている。きっと大成しなかったな」

「若返ったくせに生意気だな」

「俺はお前が思っているよりは余程気楽に過ごしてきたよ。俺から見ればお前が色々と悩みすぎだ。もっと楽な生き方があっただろう。今回のことだってお前が何かする必要なんて本当はないんだ」

「……いやさ、マジな話、お前が夏の最後に投げた111球は本当に最高だったんだよ」

唐突に梶原はそう言って、そのまま窓の外へと視線を移した「タラレバが許されるのならさ、本当に過去に戻ってみたいと思うんだ。金本。俺はお前ともう一度、ただ、何も考えずに野球がしてみたいよ」

「言っただろう? タイムパラドックスはおきない、厳密には、過去に戻れるわけではないからだ。横のドアを一つ開けるようなものだ。過去に似た別の世界に……電車の一号車から二号車に移るような形。移った先で、同時に別の育ち方をした金本Aと金本Bが、名前が同じだけの別人が同時に車両の中に存在するようになるだけ。過去には戻れない。

何をしようと、自分の、金本Aの過去を変えることは出来ないよ。本当なら若返るなんてこともないはずなんだ。進み続ける二号車の中でその行動に応じた変化が現れるだけ、一号車で過ごした、自分の過去には触れられないんだ。

だからだ。カジ。過去は変えられない」と、金本は梶原に自分自身の心境を吐露して。

二人。もう何も新しい事なんて教えてくれないラジオに自分たちの声を入れ込んだ。

「なんにせよ完成はまだまだ先だ、結果を焦りすぎるなよ」

「焦るさ。あとどれだけ時間が残っているのかもわからないんだ」。


仕事の合間、誰もいないラジオブースの中を梶原は何度も眺めに来ていた。

金本康史はまだ戻ってきてはいない。

彼はずっと前にこの工場から出て行ってしまった。

彼に関して残っているのは山梨のホテルに残ったままのロビンソと彼が呼んでいた一体の機械人形だけ。

ここには何も残っていない。

どこで何が変わってしまったのだろうか?

老人たちは、政治家たちは、誰かが新しい技術を未来から持ち帰ることを期待していたが、実際は誰も帰ってこなかった。

 きっかけは、きっと、サイレン男という一体の機械人形だ。

・21


金本康史の願いは見事に成就した。

しかし、彼がそれを確認できたのは全てが終わってしまった後の事だ。


 金本康史。彼は大学を卒業後、十数年勤めていた工場で一つの偉業を成し遂げる。

一体のロボットを作り上げたのだ。

『サイレント』と、金本は作り上げたロボットにそう名前を付けた。

サイレントは自分で考えて複雑な作業を行うことはできないが、与えられた仕事や目的に合わせて人間と同じような動きをすることができ。単純な動きを何千回と繰り返すうちに最適化し、精度を上げることができるという、学習能力を持ったロボットで、金本は人々の生活を豊かにするため、そのロボットを作ったはずなのに。

元々、旗本重工というのは国策企業で、ロボット開発などの事業にあたっては国から助成金を受け取っていた。それは……よい事だったはずだ。おかげで資金は潤沢にあったし、もらえる給料も悪くはなかった。よくなかったのは状況だ。世間を取り巻く状況がよくなかっただけ。

サイレントは簡単な動作実験を何度か繰り返し、問題のないことが確認されたあと、国内の工場や小売店への販売に向け、生産ラインに乗る運びとなっていた。

しかし、緊張感を増す国際情勢の中に在って、国は開発途中のサイレントに目を付ける。防衛力として『サイレント』を開発するという提案がなされ、会社がそれを承認した。進んでいく物事は金本の期待とは違う方へ向かおうとしていて。

サイレントは、名前の通り、何も言わない労働力として国から重宝されることとなった。

「こうなってくると、サイレントという名前はただの皮肉になってしまったな。物言わぬままに死んでいく人形……それは……嫌だな」

自分が望まぬ労働をしようとしている銀色のロボットたちのことを憂いて、金本は梶原にそんな愚痴をこぼしていた。それでも、金本の想いなど意に介さず。緊張感を増してゆく他国との関係の中、防衛力としてサイレントの開発は急ピッチで進んでいった。

人手も足らず、細かいことを無視して、安全面すら考慮せず、物事は進んでいった。


その最中、開発チームの一員だった金本康史はずさんな管理体制の穴をつき、サイレントでとある実験をしていた。

内部データに細工をし『金本康史の思い出』を行動に紐づけした場合『サイレント』にどのような変化が現れるのか? 一体どのような行動をするのか? それを試す、ただの子供の悪戯のようなもので、新しい型のサイレントが作られるたび、少しずつ調整をしながら、いくつものトライアンドエラーを繰り返しながら、実験を続けていた。そうして、その実験の最中、せめて、何か一つでも彼らが誰かの言いなりではなく、自分の意志を持って『サイレント』が動いてくれたのならば、という金本康史の願いの下『サイレン男』は生み出された。


サイレン男が完成してすぐに、金本はサイレントの開発チームから離脱することになった。生産に入ったサイレントの調整は後任の人間たちに諾され、金本自身は会社のさらなる利益のために別の仕事を任されることとなった。


そうして、新しい山梨県の山中にある根城へと移った後で。

彼は、また、しかし今度は誰にも伝えることなく機械人形をくみ上げていった。

初めは、ただの遊びだった。

仕事の合間に行う趣味の一つとして行う製作。工場勤務時代から友人と個人的に開発をしていた記録用の機械を無線通信受信機へと改造していく。カメラとボイスレコーダーのついた無線通信受信機。初めに目指していたのは誰かの声を拾う機械。ただのラジオだった。

遊びだった。

人間のように自分で話すラジオをつくってみよう。と。思いついて。

サイレントのように、誰かと戦うこともなく、サイレン男のように何にも縛られることなく、ただ、誰かに楽しい話を聞かせてくれる。子供の頃、自分が父からもらった銀色のポケットラジオのように、そばにあるだけで誰かをワクワクさせるようなことのできるロボットを金本は作ろうとした。

その制作作業は、彼が置かれていた現実からの逃避で、会社員が休日に行う趣味のプラモデル作りとなんら大差のない。ただの遊びだった。

数か月後、ロボットは無事に完成した。

以前つくった二体のロボットを基に、完璧だと思えるようなシステムと、銀色の体を併せ持つ自立型の機械式ラジオ。出来上がった後で起動をしたソレは。起き上がったそのロボットは。殆ど人間と変わらないような意識を持っているように見えた。ものを教えるとしっかりと学び取り、言葉だけで伝えても、金本が思うのと同じような動きで再現することができ、人間と同じように会話を行うことができた。

くみ上げた記憶だけはただの年表のようになってしまっていたが、人形に昔何をしていたのかを尋ねると、ほとんど正確に自分の過去を答えることができた(ほとんどというのが成功の証でもあった)。が、そこには何かが足りなかったのだ。

人間のように話をして、人間のように動くのに。人間ではなかった。

その姿を見て、金本はそれを理解する。

足りないのは「サイレントになくて、サイレン男にあったもの」だろうと。

それが足りないのはわかっていても。

それがなにか、一口に説明することは金本にできなかった。

何をどう試してみても、とうとうそれを作り上げることはできなかった。

「さて、どうしようかな?」いよいよ旅に出ようかという時になって、完成した機械人形を前に、金本は自問していた。こんな世の中に生んでしまった以上、責任は彼にあったから。

「仕事と戸籍を与えて働かせてみるか」と、金本康史はそんな答えにたどり着いた。

この創作の一番の成功は、今、目の前で動いているこの存在が、コレ自身にも他人にもロボットだと気づかれることも、誰かに一顧だにされることもなく、ただただ平穏で、平凡に一生を終えてくれることかもしれない。

「そんな幸せを見つけてほしいな」と、そんな想いを抱いて。

抱いた自分の馬鹿な考えを笑った。

できる事ならば。

普通に仕事をしながら、その中で自分の楽しみを……心を見つけてほしい。

金本の与えることのできなかった心を自分自身で見つけて欲しい。

そして、もしそれを見つけることができたのなら、気楽に生きてほしい。と。

どうせなら。と、無邪気に子供が短冊に書く願い事のような事を思いながら。

でも、心があるのかどうかなど関係なく。誰かを守るため、誰かの幸福のために仕事をして生きるロボットとしてではなく。自分のために働いて行きたい場所へと行って、恒久的で絶対的な、日常のなかに潜む自分だけの幸せをいつか見つけて。自分自身のためだけに生きる……そんな存在になってほしい。と、金本康史は祈って、それが終わると、彼は旅に出ていってしまった。



・22

 二十年ぶりの〈韮山陽光〉

「さあ、今夜はテーマ『ラジオの今後』について、懐かしのラジオ番組についての思い出やラジオ放送が今後どうなるかといった個人的な意見を募集中! 君からのメール待っている!


二十年張りに生放送でお送りしております。韮山陽光です。二十年ですよ! 二十年。それなのに昔の失敗話ばかりが集まっていてね義憤の念に堪えられません。いやボケていたとかではなくて、世の中を少しでも良く出来たらと思ってやっただけですからね。感謝されるべきだったのですよ。いや、そっちの逮捕された件に関しての話ならば、私が全面的に悪いのですが! 別件ですよ。そこんとこ勘違いすんなよ!


そんなことよりも、メールが来ております!

埼玉県大宮市『サイレン男』から、あれ? サイレン男引っ越した?



サイレン男のことに関して久しぶりに語らせてもらおうと思うんだ。サイレン男のその後の物語について、私は韮山さんに是非とも知っておいてほしいと思う。サイレン男は完成した。人と同じようなロボットを作りたいという開発者の夢は無事に成就した。

ただ。言うなれば、これは二号機だ。初めのサイレン男に関しては、彼は最後までヒーローで居続けたけれど、その末期が幸せだったのかどうか、私にはわからないんだ。ただの部外者だからね。

新しく作られたサイレン男は静かにその余生を過ごしている。彼は甲子園にはいないし、国が滅んだあと、開発組織の人間たちは極めて人道的に、人のためのロボットを製造するようになってしまったから。今更、サイレン男に目をむける人間なんていない。

彼に関して私が寂しく感じてしまうのは、今や誰も彼の存在なんて望んでいないということだ。正義が成り立ってしまった世の中において、記憶を失い、元とは別の存在になってしまったそのサイレン男は、世界に自分自身が存在する必要はないと思い込んでいる。


そのサイレン男と、彼を生み出した科学者の関係をはじめに書いておこう。

彼の名前は……仮に福田としよう。福田は、一人で組み立てたばかりのサイレン男へ、丁寧に生きるための方法を教え込んで、サイレン男を一人で生きられるようにした。自分で金を稼ぎ、人として生活ができるよう、サイレン男を教育した。

そして、福田は旅に出ていったんだ。

最近。その福田が帰ってきてね。サイレン男と再会をしたよ。

でも、福田は自身の正体に限っては頑なにサイレン男には教えなかった。姿かたちも変わってしまっていたし、どうせバレやしないだろうと、まともに向かい合うことをしなかった。

でも、サイレン男の方は福田が自分を作り出した人物だと気づいていてね。

だから、その関係はひどく不格好だった。福田自身も人と接するのは苦手だったし、サイレン男も何をどうするのが正解なのかを見極めるまで随分と長い時間を要していてね。

不器用な友人同士のようだった。たったの一言、福田が正体を明かしたなら、それだけで壊れるその関係を、二人は楽しそうに続けていた。壊したところでなんの問題もないというのに。

不器用でも友人のように見えたのは、二人が同じ思い出を持っていたからだろうか?

サイレン男の中に福田は自分の思い出を落とし込もうとしたから。データとしてサイレン男の中に、自分の懐かしさを作り上げようとして。サイレン男が物事の何が正しくて何が間違っているのかを判断する一番根本部分での基準はその思い出に起因する。

福田はサイレン男に若いころの自分自身を重ねていたんだ。

だから最初に生み出したサイレン男が砂漠で一歩目を踏み出した時。何もできないと、どこにも行けないと、常に決めつけていたはずの存在が、全てを、自分を縛っていた全ての物事を打ち破って一歩を踏み出したその瞬間に、福田という男は心を動かされた。

一体目のサイレン男は砂漠の中、塵になって消えてしまった。尾原という仮名の男の手によってサイレン男は爆破され、砂漠に浮かぶ逃げ水の中、蜃気楼のように散っていってしまったよ。

その、一体目のサイレン男が散った後で、福田は、また別のロボットを作り上げた。

それが、今、静かに山の奥で余生を過ごしている機体だ。

銀色の機体の上に人間のよう人口の皮膚を張り付けられた、人間とほとんど変わらないサイレン男。

ここまでが私の知っている人間と同じようなロボットを作りたいと願った福田という男と、彼の夢が叶ったという事実だけれど。


福田という男はそのロボットに何をのぞんでいるのだろうね?

すべてを知ってサイレン男が山から離れることを望んでいたのか、サイレン男がもう二度とヒーローなんかにされないよう、その山奥に閉じ込めておこうとしたのか?

その目的がなんなのか私にはわからない。

所詮他人でしかない福田の考えなど、私にわかるはずもないが。

それでも知りたくて、こうして文章を書きながら、それを探している。


新しい機体、会話の出来るようになった二体目のサイレン男に私は尋ねた。

人を守るヒーローは本当に必要なのか? と。

サイレン男は静かに首を振った。


サイレン男は今も山奥の古城の中で暮している。

それでいいと思う。この後でなにが起きようとも、そこで静かに過ごしてほしいと、私は思う。静かに、その部品を錆び付かせながら自分だけの時間の中を生きるのだ。望まれて生まれたわけでも、望んでそこにいるわけでなくても。そこにいさえすれば彼はきっと幸せな人生を送れる。

だが、福田はそれを望んだんだろうか?

きっとそうではないのだろう。与えられた仕事も、今住んでいるその場所も、誰かのために戦うこともせず、サイレン男がすべてを捨てて自分勝手に生きることを、自分のための旅に出てくれることを、福田という人間は望んでいるのかもしれない。

憶測だけれど、ふと、今、そんなことを思ったよ。

韮山さん?

きっと、福田はサイレン男に自分勝手に生きてくれることを望んでいるんだ。

福田という男は自分勝手なんだろうか?

だって、あのまま福田という人間が、サイレン男の開発を続けていれば国が滅ぶこともなかったということを私は知っているんだ。

でも、福田は旅に出てしまった。

サイレン男が砂漠の中で一歩を、自分自身のために一歩を踏み出したから。

サイレン男が爆破されてしまったから。

福田という人間が自分の意志に背いてまで、誰かに望まれるままに正義の味方になってしまう前に、サイレン男は彼の心を救ったんだ。

その一歩と、砂漠に消えたサイレン男をみて、ようやく福田は気が付いたんだ。自分は、サイレン男は、どこにでも行くことができた。と。

サイレン男は福田の心を救ったんだ。

これはすごい事なんだよ?

それだけで、ただ、その一点で、サイレン男はヒーローだったんだ。

国は滅んでしまったけれどね、それ以上私たちが戦火に巻き込まれることはなかった。

今は平和じゃないか、韮山さん。これからどうなるのかなんてわからないけれど。私の人生は、そのサイレン男というヒーローのおかげで、とても平和で穏やかなものだったよ?

それが、福田という男が考え出し、生み出した、誰とも戦うことのなかった最強のヒーロー、サイレン男だ。


そして今、また、サイレン男がいる。

世界がどうなるのかなんてわからないけれど、私はね、彼に最後まで幸せでいて欲しいんだよ。彼は私のことを幸せにしてくれたんだ。彼のいる山奥のホテルで、静かに、仕事の事を忘れて、お酒を飲んで、のんびりと過ごす時間が、ね。私は好きだったんだ。


なあ、韮山さん? 私は思うんだ。

福田がサイレン男に抱いていた感情なんてずっと昔から彼が持っていたものと変わらないんだ。と。

彼はロボットをつくることで人を豊かにしようとした。

福田が生まれてからずっと経済は傾いたままだったから。

単純労働に従事していた人たちから仕事を奪ってしまった側面も確かにあったかもしれないけれど。そういった仕事がなくなっていけば、皆が自由になれば何か面白いものが湧いてくるんじゃないか、世の中はもっと豊かで気楽になるんじゃないか? と、彼は期待をしたんだよ。でも、どうもならなかった。期待したようには変わらなかった。

そうしてついに自分の生み出したロボットまでもが、望まない正義を振りかざそうとしていた現実に、福田はまいってしまったんだ。

ネクタイを脱ぎ捨て、皆がサイレン男のように生きたのなら幸せになることが出来るんだ。みんながそれに気が付いていないだけなんだ。って、彼はサイレン男が歩き出した時に、理解をしたんだよ。

でも、サイレン男が爆発するその瞬間まで……自身がもてなかったのな?

爆炎の閃光と砂煙の中、青空に散ったサイレン男を見て、ようやく、自分の考えが正しかった。と。自身が持てたんだ。

だから、彼は旅に出た。ただ、自分のためだけに生きていいんだ。と。

いや、勝手な推察だけど。

私の個人的な話をすれば、旅に出るんじゃなくて、白い砂浜にログハウスをつくる方が好みだけれど。でも『正しいこと』だと思うんだ。金本 福田さんが望んだことってのは、さ、それじゃダメかな?

でも、やっぱり私にはよくわからないから、韮山さんが決めてくれよ。

多分、これが最後だ。前任者はどこかに行ってしまったから。砂漠の中消えた一体目のサイレン男と同じように、彼は消えて行ってしまった。

昔と同じように点数を付けて、なにか一言でも『サイレン男』に言ってあげてよ。


あとラジオの話なら、私はラジオが好きだよ。

しっている? 災害時のラジオってのは温かいんだ。

音があるってだけで怖さが薄れるんだ。

その周りに仲間みんなで集まって眠った。

そんなラジオが私はすきだよ。

だからラジオの今後について言うのなら、なくなってほしくはないかな。

ずっとずっと新しい事を伝え続けてほしい」。


・23

 日常の中で使わない場所なので手を付けていなかったのだが、何の気なしに仮眠室の掃除をしようと中に入ると、床下に隠された知らない階段を見つけた。

隠された。というよりも、完全にふさがれていて、階段のある場所の上に後から仮眠室が作られていたのだろう。フローリングが腐り落ちていて、その下にある階段があらわになっていて。どこに続いているのだろう? と。僕は試しにその階段を下りてみることにした。

石造りの階段で、歩く度に‟コツンコツン″と、音が響く。三段も下りないうちに広い空間に出たようだが、薄暗くてよく見えない。階段の上から降りてくる明かりでかろうじて壁についているなにかのスイッチを見つけることができたので、電灯のものだと信じて、それを押した。

 白熱電球が徐々にあったまってゆき視界が広がってゆく。コンクリート打ちっぱなしの、ただの、だだっ広い空間。なんだろうか? 地下駐車場のようでも、大きなものが一切置かれていないボイラー室のようでもある。

 階段を下りきって階下にたどり着くが。そこにあるのはガラクタばかりだった。部屋主が散らかしたまま外に駆けて行ってしまった子供部屋のように。こまごまとした用途もわからないものが散乱していた。

ヤマハ所属のバレンティーナ・ロッシ風の青いスポーツタイプのモーターサイクル。作業台の隅に置かれたままになっている歯車をむき出しにしたスウェーデンの腕時計。床には何を描いたのかもわからない図面がそこら中にばらまかれていて、作業台や、その横に置かれた棚の中には用途もわからない機材や部品がケースにしまわれることなく、そのまま置かれている。

 さらに奥には大きなアンプのような機材。その上にはノートパソコンが置かれていて、どちらも壁から目いっぱいにコードを伸ばしているコードリールにコンセントが刺さされたまま、埃まみれになっていた。

なんだろうここは? と。一通り室内を見渡していくうち、その部屋の端、作業台の向う、アンプなどが置かれているよりもさらに奥、そこに置かれているロッキングチェアに僕の視線はくぎ付けになった。

老人が窓のついた大きなテラスで日光を浴びるのに最適な、ゆったりとした、大きな木製のロッキングチェア。僕はゆっくりとその椅子に向けて歩み寄る。

椅子の上には金属の破片が乗せられていた。

焦げ付いたそれは地面に落ちた薬莢の色によく似ていて……。

「サイレン男」その内の一つを手に取った僕は、気が付くとそう呟いていた。

瞬間。映像が頭の中を駆け巡っていく。

僕は以前、この場所に来たことがある。

ロビンソ、と、僕は昔そう呼ばれていた。

体の小さいロボットだった。

映像を録ることしかできない、何かを記録することと、ちょっとした軽作業くらいしかできない、小さなロボットだった。目の前で友達が爆発しても。何も言わず。ただ指示をされるがままに、その破片を拾い集めるしかできないような、言葉も持たない存在だった。

サイレン男がそんな僕の目の前で散っていく。

その光景が何度の僕の頭の中を流れていった。

それから、だ。サイレン男が目の前で散ってしまってからの数年間、僕が本社で誰かのためのコールセンターになるまでの数年間。僕はこの場所にいたんだ。

 金本という男はラジオが好きだった。彼は自分で話すことの出来るラジオをつくろうとしていた。サイレン男が爆発してから、その亡骸と一緒に僕はこの場所に運ばれてきて、それからずっと、金本という男のどうでもいい話を聞かされていたんだ。

 彼の旅の話。人生の幸せの話。韮山陽光のラジオ。サイレン男とロビンソの話。

 話されたそれを、僕は完璧に覚えてはいるけれど、いつ、どの話を聞いたのか、その記憶は曖昧で、全ての話を同時に聞かされたような気さえする。

 数年間ここにいたという自覚もなく、ただ、居たという事実をワンシーンとしてだけ覚えているような感覚。


まだ言葉も体も持っていなかった。

ここで数年間過ごした後で、僕は今の姿になった。

 そこからの記憶はずっと頭の中に残っている。

 

記憶の始まり。

僕は長野にある旗本重工の本社の中で、老人に旅の説明をし続けていた。

彼らは一体どこで何かを観たのか、飽きもせずに毎日電話をしてきて、タイムパラドックスに関する質問をし続け、僕を罵倒した。僕はタイムパラドックスの危険はないのだ。と、そんなことを淡々と説明していたのだが、彼らは、責任者を出せ、お前らのせいでこうなったんだ、と、口汚くそんなことを言うばかりだった。

彼らはやるせない想いを何かぶつけなければやっていられなかったのだろう。

そんな時代だった。

だから、メディアか何かで取り上げられた陰謀論を信じ込んで、自分の正しさを信じこもうとして老人たちは電話をしてきたのだろう『タイムパラドックスは起きない』『金本康史はここにはいない』その説明を、来る日も来る日も繰り返して、僕はまた、人に言われるがまま、このホテルへ舞い戻ってきた。

そして『福田』と名乗る金本康史に再会した。

本名を名乗ることのできない理由があったのだろう。

金本康史は僕にホテルの仕事を教えこみ。

そして、再開から二年も経たない間に、僕を置いて時間旅行へと旅立っていく。


 それから、何十年も後。彼は若い姿で戻ってきた。

自分のことを画家だと言い張って。

そうだ。僕は金本という男に会ったら一つだけ聞きたいことがあったんだ。


それなのに、彼はまたどこかへ旅立ってしまった。

僕が気の付かないふりを完璧にしたのだから仕方がないけれど。

 また彼は気まぐれに戻ってくるのだろう。と漠然と思っていた。

また、昔みたいに旅の話を聞かせて欲しいな。と。思って。

一度も金本康史とは名乗らなかった彼の事を笑顔で見送った。

いつ、帰ってくるのだろうか?

そうだな、僕もあちこちガタが来ている。彼が帰ってくるまで、それまで眠ろう。


・24

〈自立型機械式ラジオ試作機(開発打ち止め済):『ロビンソ』改め『中本拓也』〉

「金本康史は、大学を卒業すると同時に旗本重工に就職した。

そこでロボットをつくったんだ。銀色のロボットを。サイレントという名でラインに乗せられて大量に生産、改良を続けられていた。自分の作ったロボットが、工場の中、効率化され、くみ上げられていく。いくつもの工程を経て、銀色の部品が次から次へと人の形に変わっていく。その光景を見るのは金本康史にとってつらい事だった。

夢にまでみた光景ではある。自分の作ったロボットが評価を受け、人のために働く。というのは、まさに金本の学生の頃からの夢そのものだった。

だが、違う。

彼は人を豊かにするために機械を作りたかったんだ。何か、を、他人を淘汰するために、人を殺すためにロボットを作っているわけではない。生産されるサイレントを見るたび、胸が締め付けられるような、そんな思いになる。

たすけてくれ、と心の中でそんなことを叫ぶ度、子供の頃過ごした南知多の穏やかな気候を、太平洋に面した温かい風景を、そして、自分の考えた一番強いヒーローのことを、金本康史は思い出す。

逃げることは許されなかったし、同僚たちも、会社も、みなそれが正しいことだと邁進しいていく。今更自分だけが『止めよう』と言うことはできなかったんだ。

『それでも、俺は。無理でもいいから、自分がつくったロボットには逃げて欲しかった』

金本はいつだったか、そんなことを言っていた。僕はその話を聞いたことがある。

僕の知っている彼は、気の向くままに過ごしていたよ。ホテルの掃除をして、客のはけたテラスで朝食をとって、料理人たちと楽しそうに話しながら、送迎の車を運転して、いつでも笑って僕に話をしていた。

でも、きっと、その頃の彼は、そうではなかったんだろうな。

ある時、啓示をうけとったかのように彼は一体のロボットをつくりだした。

『これは言っても信じてもらえないかもしれないけれど。夢に出てきたんだ。正解が』

もちろんそんな言葉を僕は信じないけれど。ほとんど偶然に近い形で、作り出したんだ。

『遺伝子ではなく、後天的に人格が形成されるのだと仮定したときに、何がそこに作用するのか、それだけを考えて形にしたんだ』と。

何も難しいことなどせず。たった一つ、自分が取る行動が正しいものだと判断する。その判断材料に、自分自身の記憶への紐づけを行うことが出来るようにした。外的要因からではなく内的な要因から変化をする。彼はたった少しだけ状況が違うだけで、前回と違う判断をするロボットをつくった。

そのためのデータを、サイレントの中に落とし込んだ。

初めはうまくいかなかったさ、何も変わりはしなかった。結局ロボットはロボットで、ある程度の判断ができるようになって、学習をすることができても、決められた動きをするだけだから。勝手に動き出すことはなかった。

だが、バグはあった。ロボットがおかしな行動をとることはあった。

あとはトライアンドエラーの繰り返しだ。文字列と思い出と行動の組み合わせを、金本はサイレントを使って試し続けた。

そして、いくつもの組み合わせを一つずつ試した末、彼はサイレン男を完成させたんだ……。一体の。誰にも牙をむくことせず。自分の正しさを追ってくれるロボットを、金本康史は完成させた。


彼が何をするのだろうと期待した。初めに彼は与えられた命令に背いて、何もせず月を眺めた。町の中でぼんやりと。それから、砂漠の真ん中に放置されて、歩き続けた。サイレン男がしたことなんてのは、その二つぐらいだった。理解のできない脅威としてサイレン男は認識されてしまったから。何か危険なことをするかもしれないと考えた人間に処分されてしまった。

サイレン男は、ずっと、金本と同じに設定された故郷のことを思い続けた。

サイレン男は故郷へと帰ろうとした。そのせいで世界を唯一救えただろう可能性を持ったサイレン男は、危険とみなされて消されてしまった。


金本は、サイレン男の最期を映像で見た時『ああ、よかった』と、思ったそうだ。

自分のしてきたことが無駄ではない気がした。と。

執着していたものなんか、本当はどうでもよくて、彼のように気の向くままに、自由に、自分自身の行きたいところに行けばよい。と、行ったことのない場所や、自分の故郷に行きたい。と、そう思ったんだ。初めてサイレン男が自分の足で歩き出した時に。製作に携わった周囲の人間たちが自分たちのミスを自覚するかのように青ざめてゆく中で、金本康史の心で、若いころに無くして、止まったままの時間が動き出したんだ。

金本はサイレン男の件に関して、同僚たちにサイレン男のデータを解析したら、バグの原因が見つかった。ここに書かれている部分を削除すれば、もう勝手に動き出すことは無いだろう。と。それだけを伝えて収集をつけると、まだ、ただの記録媒体だった僕のところに来て、嬉しそうにそのことを話していったよ。

それからしばらくは会社のために働いていたけれど。ある日、何も言わずに同僚たちの前から姿を消した。彼のいなくなったホテルには今も彼の代わりと言わんばかりに一体の機械人形が置かれている。


この話を聞くと、金本康史が自分の逃げる口実欲しさにサイレン男にそんな動作を仕組んだのではないか? 結局はそう動くように金本が仕込んだだけじゃないか? と、貴方は疑うのかもしれないが、そうではないよ。

金本康史はロボット自身に選んでほしかったんだ。何が彼らにとって正しいのか、を。

そして、サイレン男は自分で選んでその一歩を踏み出したんだ。

それだけだ。

僕はあの旅をもっと続けていたかったけれど。

だからって。梶原さん。あなたがどこかで間違ったとは思わない。

あなたはずっと正しい判断をしていたんだ。

だから、今更こんな話を僕に聞きに来る必要なんて全くなかったし、金本康史も貴方を恨んではいないよ。

彼は、ただ、旅に出たかっただけなんだ。だから、いなくなっただけだよ。

それに、サイレン男がいたところで、きっと、どうにもならなかったと思うよ?

貴方は何も間違っていないさ」。



・25

大地が大きく揺れて、僕は久しぶりに目を覚ました。それは僕の知っているサイレン男の最期によく似ていた。僕がまだ機械だった頃、サイレン男の最期。その時の音によく似ていた。目の前で起こる爆炎と爆発音、爆風と地震のような大きな揺れ。

目を覚ました僕はポケットの中から懐中時計を取り出す。

「ああ」

確認した時計の針は十二時ちょうどを指し示していて、僕は必要のなくなったその時計を制服から外すとテーブルの上へと置いた。

正面玄関から外に出ると八ヶ岳はもう見えなくなっていた。山焼き直後の大室山のように焦げたにおいがして、辺りは煙に包まれていた。


・26

轟音と共に消し飛んだ小淵沢の町の中を僕は歩いていく。見えるのは灰を被ったコンクリートの群れと。いやに黄色い砂、と黄緑色のガラス片のみで、山はえぐれ、アスファルトは砂に埋もれ、かつての湿地帯だった中央線沿いはなにもかもが消えてしまっていた。ずっと、砂が嵐のように舞っていて、視界を遮ってくる。

僕のいた地域はかろうじて無事だったが、山の緑はほとんど消えてしまっていた。

山を下り、中央線の線路を踏んで僕は歩いていた。

長野との県境が近づくにつれ、砂嵐はますますひどくなる。

僕は駅で拾ったコートを外套のようにまとって歩いていた。

砂に交じって飛んでくる細かい何かの破片が、布に守られていない僕の肌を切り裂いて、進む度、銀色の金属部が徐々にあらわになっていく。

胴体はかろうじて平気だったが、むき出しだった腕や顔は守り切れず。僕の外側を覆っていた人口の外皮は、進むごとに剥がれ落ちていった。

逆風と飛来物を体に浴びながら、それでも僕は中央線の線路の上を歩き続けて、本社を目指していた。

 なかなか歩みが進まない中、通れない場所を時に避けながらどうにか本社のある方向を見定めて、二日程歩いた頃になって、ようやく嵐は止んで。飛んでくる何かの破片が僕の体を傷つけることはなくなった。その時には、もう僕の顔から人口の皮膚は三分の二ほどはがれてしまっていて、残っているのは右目の下から頭部へとつながる部分だけだった。

 嵐が止む頃には周囲の町や山はもうそのほとんどが消し飛ぶか、砂に覆われてしまっていて、そこに山間の風景があったことも、電車が走っていた線路があることも、アスファルトの道路があったことも、何もわからなくなっていた。

 僕は大きく迂回をしながら、本社を目指してゆく。

その生まれたての瓦礫と成長中の砂漠の中を、一人、歩いていく。進めない場所に当たる度に、迂回をして、どこへ行けばよいのかわからなくなる。道に迷いながら、おおよその方位から推測した本社の位置へ向け、進んでいく。



・27

「一日中川沿いの道を歩き続けた。

東海の川辺には今も変わらず水仙の花が咲いている。彼岸花科の白い髪飾りのような小さな花。甘ったるい酔いそうな臭いが立ち込めている川沿いの児童公園の中を歩いてゆくと、理想と現実の乖離に悩んでいたそんな事実すら忘れてしまいそうになる。

もし、たった一つ、望む未来があるのなら。箱庭のような小さな惑星に降り立って、そこに赤い屋根の小さな家をこさえて、庭にたくさんの水仙を植えて、まるく折れている地平線の向こうで紡錘形に広がる銀河を眺めていたい。そんな場所を所有することが出来るのならば、俺は、自分がどんなことを思うのか。それを知りたい。

もしも、そんなことのできる時間がどこかにあるのならば、俺は実験であろうと何だろうと旅をしたっていいと思っているんだ。実際思い始めたのは最近だけれど……むしろ積極的に……そう思った。旅に出ようって。時間旅行なんかに興味はなかったけれど、この前、君と歩いたサイレン男の最期を見てさ」

不意に聞こえた古い音声のせいで、僕の頭の中には見たことのない風景が浮かんだ。

外側に向かって加速し続けるその惑星の上にあって彼の時間はどんどんゆっくりになってゆく。疾走するその空間の中で全ての温度は徐々にゼロケルビンに近付いてゆく。金本は放射状に延びるいくつもの光を横に見ながらやがてゆっくりと目を閉じる。彼はその景色がしっかりと触れることの出来る現実として自分の目の間にあることを確認して、南知多の海を思い出す。



・28

嵐が止んだ次の日。ホテルを出てから三日目の夜、僕のラジオは電波を拾った。

何か通信はないかと、電源をつけたままにしていた僕のラジオが人の声を拾った

「俺は旅に出たかったんだ……その願いをかな……たよ。悪い気分で……った。俺は昔におもっ……気ままに旅をしながら画家として生きてみたいと……」

ラジオから漏れる途切れ途切れのその声を僕は必死に聞き取ろうとしていた。


嵐が止んで、空が晴れて、久しぶりに見える月の、とても明るい夜だった。


聞こえてくるラジオの音に、その夜、初めて、僕は自分に心があるのだと理解をした。


立ち止まっていた僕は、その声を聞きながら再び歩き出す。

何もない砂の大地の中。その声だけを希望に、歩いていく。

声は、語る。旅の話を、サイレン男の話を、自分自身の故郷の話を……何十年かぶりに受信したそのラジオの音声を、頭の中に度々流れるその男の声を、僕は夢中になりながら聞いて。声が聞こえる間。僕は休まずに歩き続けた。

とても懐かしい声だった。

何度も遠回りをしながら、何度も道に迷いながら、一週間以上をかけて、僕はようやく旗本重工の本社へとたどり着た。旗本重工の広大な敷地の工場と居住区。本社屋を中心に広がる大きな町だったその場所すら、今や見る影もない。背の高い建物が何棟か残っているくらいで、何十年もかけて築かれたはずの栄誉の象徴と言えるその場所も、たったの一週間で消え失せてしまっていた。

 かつて暮らしていたその町の中、降り積もった砂と、それに混ざる黄緑色のガラス片を踏みしめながら僕は進んでいく。

幸いにも高台にあった本社屋はまだかろうじて残っていた。その周囲は大部分が砂で覆われてしまっていたが、建物の崩壊は他に比べれば軽微なものだった。開いたままの門をくぐって、砂の中から生えている階段を上り、建物内へと入っていく。

本社と言ってもかつて大学だった場所を建物ごと買い取ったもので、建物自体は買い取り当時から大きな改築はされていないので、塀に囲まれたその区間は、ただの中身が変わっただけの大学だ。

このどこかから電波は届いているはずだ。と、僕はそれを確信していた。

何か……誰かいないだろうか? と目を凝らし、耳を澄ませてみるが、何もない。

本社屋を含む旧大学構内を僕は散策していく。

窓が割れたり角が少し崩れたりしているだけで、建物自体は無事に見えるのに、人の気配はない。

灯りはどこにもついておらず、研究室だった開発室や、会議で使われる大教室、リフォームで壁を抜き、オフィスとして使われていたフロアを一つ一つ見て回ってゆく。

どこを覗いても、遺跡のように静まり返った中に古い文化があるだけで、なにひとつ機能をしていない。


一通り建物を回った僕は、最後に講堂へと向かうことにした。集会やプレゼンなど人が多く集まるときに使われる建物で、普段入ることはほとんどない。

扉を開け中ると、薄暗い講堂内はガラスが割れ、そこから太陽光が差し込み、砂が入り込んでいて、入口から下りになっている扇型の客席の先、中央にあるステージに何かの映像が映し出されていた。

「サイレン男」

僕がかつて観たサイレン男の映像。

昔、まだ小さいロボットだった僕が撮影したサイレン男との旅映像が流れていて。

そしてそのステージの前、そこに金本康史がいた。


僕は彼の後ろ姿に向かってゆっくりと階段を下りていく。

一歩、また一歩と下りていくと、講堂内に響く僕の足音に気が付いたようで、金本は振り返った。

「やあ、中本、そろそろ来る頃だと思っていたよ」

落ち着いた声で、ひどく聞き覚えのある声で、そう言うと彼は客席から立ち上がった。

「お久しぶりです」

僕は久しぶりに自分の声を出した。

「積もる話もあるが少し休め。こっちに来て座るといい」

聞きたいことがたくさんあった。

話したいことがたくさんあった。

かつて最後まで行くことのできなかったサイレン男とともに歩いた、砂漠の旅の先で。

「心がありました。」

僕は心を見つけることができたのだ、と。

「そうか」

「ええ、サイレン男の旅の先、彼の踏み出した一歩の先には心がありました。

ラジオが聞こえたんです。人間の一生よりも長い時間を僕は生きているはずなのに、それがずっと何かわからなかったんですよ。切なくって、うれしくて、温かくて、悲しくて、何よりも強く自分自身を作る心というものの存在を、僕はようやく理解しました」

金本康史にそれだけを伝えたくて、それだけは知ってほしくて、ぼろぼろの僕は声を出す

「そうかその言葉で俺の人生は救われたよ。俺には世界を救うようなことはできなかったけれど。それでよかったな、と、今思えた」

金本はそう言って、終わってしまった世界の中、静かにほほ笑んだ。

「自分が世界を救える気でいたんですか?」

「ああ、これでもそれだけの能力は持っているんだよ」

「傲慢ですね」

自信満々にそう言ってのける金本康史に僕は一言、そう言い放った。

「そんなのは個人の負うような責任ではありませんし、人間がいくら一人で頑張ったところで世界なんか救えるはずがありませんよ」

「だが……いや。そうだな。俺が少しばかりやる気を出したところで何も変わらなかったのかもしれないな」

反論を諦め、観念をしたように金本康史はもう一度笑った。

自分ではどうすることもできなかった。

一人の力で何かをなすには事が大きすぎたのだ。と。

自分の作り出した自立型ラジオの声を聞いて、えぐれてしまった人工の皮膚の下から見えるサイレン男と同じ姿の僕を見て、誰かのための犠牲になるヒーローではなくて自分のために一歩を踏み出した彼の事を思い出して、金本康史は微笑んだ。

「ここで何をしていたんですか?」

「一人で残されてしまったからな、静かに、この映像を観ながら、昔のことを思い出していたんだ」

そう言って、金本が指差した先、サイレン男がゆっくりと砂漠の中を進んでいく。

「中本、お前は変わらないな」

「どうですかね? 随分前、三崎さんにも同じことを言われましたが。でも、見た目は何十年も変わらないのかもしれませんが、自分では老けた気がします」

「そうか」

「貴方は、会うたびに懐かしい顔になってゆきますね、昔どこかで会いましたか?」

「中本がつくられたばかりの頃と、ホテルに来たばかりの時かな、再開してから、まだ、その話はしていないんだっけ?」

「ええ、全く。そうなるとなんてお呼びすればいいんでしょうか? 絵描きさん? それとも福田さん?」

「金本でいいよ、もう、俺を責めるような人間はどこにもいないだろうし」

「そうですか、懐中時計は十二時を回ってしまったのでどうでもいいのですがね、でも、その名前の人に出会ったら僕は本社に報告をしなければならないんですよね……残業は嫌なので、今まで通り絵描きさんで。

サイレン男。世界を見てみたいと、アイツはよくそんなことを考えていましたよ。やっと自由になったのだから、一度、生まれ故郷に帰って、それからは知っているけど知らない町へ行こうと、データとしてではなく経験として、三次元的に色々なものを、現実として触れてみたいと、そんなことを考える友人でした」

「サイレン男が? アイツはアクティブだね」そうやってサイレン男のことを話す中本という機械人形の声を聞きながら、金本康史は幸せそうだった。

「まあ、本当は自由でもなんでもなかったのですがね。僕はそのことを知ってはいたのですが、今と違って、何かをしようと思ってもできなかったのですよ」

「今だったら、どうした? お前は何かをしようとしたか?」

「わかりませんね。彼はもうどこにもいませんし」

「そうか」

「彼に関して何かを考えることは僕には出来ません。それこそ記録したものを見るぐらいしか。ただ。彼がいたから今の僕があります」

自分は間違っていなかった。と、その言葉で金本康史はそう思えた。

「昔さ、ラジオを聞いたんだ」

「ラジオですか?」

「ずっと聞こえてくるのを待っていたんだよ。子供の頃からラジオが好きでさ、小さい頃は父親にもらったラジオをずっと持ち歩いていたんだ。ラジオを聞くのが日課だったのに。ある時、ラジオ放送自体が取りやめになっただろ?」

「え? ああ、そうでしたね」

そのあと、一時的にラジオ放送が再開された期間があったが、金本康史はこの世界にいなかったんだ。

「取りやめになった後で、ラジオに関して妙な噂があってな。何十年前だったか、詳しいことは忘れてしまったが、とある年代に作られたラジオを使って特定の周波数に合わせると、どこかの国の、変な電波を拾うことが出来るって、都市伝説みたいなものでさ、だから、確かめてみたんだ。古いラジオを探して、本当かどうか」

「それで?」

「本当だった。またラジオで電波通信を聞くことができたよ」

「どんな内容だったんですか?」

「英語の通信だったな。二人の男が話しているものだった。片方がもう片方に必死に叫んでいたんだ『いつかこのクソみたいな世の中も終わる。平和が来る。そうしたらノンキに旅に出ればいいだろ?』って、そんなことを必死に叫んでいた」

「それがどうしたんですか?」

「なにかな? 冷静になって聞いたのならば、全容は出来損ないの演説みたいなものだったけれど、それで、心動かされたのかもしれない」

「えらく適当ですね」

「本当に、な。うまく説明ができないんだよ。一つだけ確かなのは。俺はラジオが好きだったんだ」

「知っています。でも、何だったんですか? その放送は」

「さあ? 使わなくなった電波の周波数を、どこかの誰かが通信に使っていたんじゃないか?」

「今は聞けたりしないんですか?」

「どうかな? もしかしたら聞けるかもしれないが、今はラジオを持っていないんだ」

金本康史という人物にとって、目の前にいる僕はもうラジオではないのだろう。

「まあ、最近売っていないですしね」

「実家に帰ればその時の古いラジオがあるんだけどな」

「物持ちいいですね」

「まあな」

「そういえば、何年か前、貴方の描いた絵がたくさん届きましたよ」

「知っている。というか、送ったのも俺だし、受け取るように電話したのも俺だ」

「そうだったんですか? 確かに、何十年ぶりの本社からの電話のはずなのにどこか聞き覚えのある声だとは思いましたが」

「何か気に入った絵はあったか?」

「そうですね……」

 絵が、彼の描いた絵画が届いたあの日。画家の初めて描いたという銀色のポケットラジオの絵を、僕はなぜかとても懐かしい気持ちで眺めていた。

「まあ、そんなことより俺の話を聞いてくれ、旅に出てからの話だ」

「聞きましょう。昔から、そんな話をよく聞かされたような気がします。当時の僕はあなたたちの話を黙って聞いているしかありませんでしたから」

「まあ、記録用の機械でしかなかったからな」

「それがこうして話が出来ているのだから、凄いです」

「あの頃は頑張っていたんだよ。ほめてほしいくらいだな」

「おかげで色々な思い出ができました」

「そうか」

「僕は貴方が旅に出たところでほとんど驚きはしなかったのですよ」

「俺は……驚いたな。てっきりドアを開けて隣の車両に移ったと思っておいたのに、同じ車両に出てきたんだよ。過去に行こうと思っていたのに未来に来た。それも、なぜか肉体は若くなって」

「それは確かに……、そうだ、貴方にもう一度会えたら一つだけ聞いてみようと思っていたのです。当時何度も他人に説明していたことなのですがね」

「なんだ?」

「タイムパラドックスは、本当に存在しなかったのですか?」

その質問を聞くと、金本康史は静かに笑い声を上げる。

「さあ、どうなんだろうな。何も変わっていない気がするが、中本、お前はどう思う?」


「僕ですか? そうですね。なにが善で、なにが悪で、なにが正義なのか、それは全くわかりませんけれど。僕は、これでよかったんだと思いますよ?」


そう言いながら、僕はスクリーンに映るサイレン男の姿を眺めた。



了。


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